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第一章
心のキズと新たな出会い(2)
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東京の私立大学の工学部を卒業して、働きはじめたばかりの四月中旬。その日は土曜日だった。
医局の窓からは、春らしい青空と満開の明媚な桜並木が見える。今日は絶好の花見日和だと、朝のローカルニュースで言っていた。
「ふじさき、じん……、じゅ?」
「はい、藤崎仁寿です」
「……じんじゅさん」
彩は、吐息のように小さな声で医学生の名前を反芻しながら、机上の名簿に赤ボールペンでチェックを入れる。
彩が就職したのは、故郷の県庁所在地にある市中病院だ。
他に就職先がなかったわけではない。東京で設計事務所に入って、七月に一級建築士の国家試験を受けるつもりでいた。
しかし、それを断念して故郷に戻ったのには理由がある。生来健康だった父親が仕事中に倒れて、救急車で運ばれたと母親から連絡があったからだ。
将来、父親が経営する設計事務所を継ぐために一生懸命仕事に打ち込もうと意気込んでいた矢先、大学卒業を間近にひかえた二月の出来事だった。
幸いにも大事には至らず、父親には後遺症などもない。しかし、しばらくは入院が必要な状態だという。一人娘の彩は、父親が心配で、内定をもらっていた設計事務所に事情を話し、慌ただしく故郷に引きあげたのだった。
実家は、県庁所在地から車で片道一時間ちょっとの距離にある。決して近くはないが、背に腹は代えられない。地方の、しかも春先に残っている就職口に贅沢は言えず、やっと採用してもらえたのがこの病院だった。
彩が配属されたのは、医局秘書課。勉強してきた建築とはまったく関係のない仕事で、右も左も分からず必死に業務を覚える毎日だ。
「めずらしい名前だって、よく言われます」
医学生が自分の名前について補足する。彩は顔をあげて、まじまじとその医学生を見た。少しクセのある短い黒髪。二重の目が、愛嬌たっぷりに黒く輝いている。
薄い水色の襟付きのシャツにベージュのチノパンが彼の雰囲気と細身の長身にマッチしていて、まるで雑誌から出てきた読者モデルさんみたいだ。
臨床実習と卒業後の研修先の検討をかねて、わざわざ県を二つまたいで病院の見学に来てくれたらしい。彼はこの春、二年に進級したばかりの十九歳。まだ先なのに、就職活動についても考えている、意欲的な学生だと上司から聞いている。
「ひろさき、あやさん」
ふいに名前を呼ばれて驚く。彩は、自分の胸元にさがっている名札に一瞬目をくれた。名札には役職名と、氏名が漢字で印字されている。
「それほどめずらしい名前でありませんけど、よく間違われます」
彩がほほえむと、今度は医学生が驚いた顔をした。
「えっ?」
「わたしの名前、あやじゃなくていろって読むんです。今日は、遠いところお越しいただいてありがとうございます。よろしくお願いしますね、藤崎さん」
仁寿を医局内に案内しながら、手荷物を預かる。
この日は病棟の見学に加えて、循環器専門の若い医師が症例を提示して疾患について講義するというので、他にも数名の医学生が来ていた。しかし、県外から参加しているのは仁寿だけで、他は県下の学生ばかりだ。
「F大の藤崎さんです。藤崎さん、こちらがK大の竹内さんで……」
彩は、先に席についていた医学生たちに仁寿を紹介して、人数分のお茶とお菓子をテーブルに並べる。社交的な性格らしく、仁寿は初対面の学生たちとすぐに打ち解けた様子だった。
医局秘書課に在籍している事務員は四人だが、土曜日の午後に勤務するのは内二人だけ。今日は、上司と彩しかいない。ちょうど午前外来の診察を終えた年配の外科医が医局に戻って来たので、急いで熱い緑茶を用意する。
この仕事を長く続ける気はない。
就職する際に、勤務時間は朝の八時半から夕方五時半までだと説明を受けた。しかし、定時が存在したのは最初の一週間ほどで、実際には夜八時過ぎまで残業する日が多い。
帰宅するのは九時過ぎ。それから手抜き料理で夜ご飯を済ませて、お風呂に入って、洗濯して。翌日の仕事に差し支えないように、睡眠もちゃんと取らなくてはならない。就寝までのわずかな時間で、彩は建築士の試験に向けて勉強に励んだ。
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