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第四章
未来に向かって(1)
出張から、二週間が過ぎようという金曜日。
時刻は午後七時半。
忘年会に出席する大学生やサラリーマンの群れ、クリスマスのイルミネーションの下で肩を寄せ合う恋人たち。世の中は明日から三連休とあって、繁華街は大いににぎわっている。
彩は、由香に誘われて、例の飲食店でマスターの手料理を御馳走になっていた。さびれた商店街の狭間にあるマスターの店は、世の雑踏から切り離されたように静かだ。マスターの料理が空腹を存分に満たし、暖色の間接照明と会話を妨げない音量の軽快なジャズが、一週間働き抜いた心を解きほぐしてくれる。
「ねぇ、彩」
和牛のステーキを赤ワインで流し込み、由香が彩に鋭い視線を向けた。
それまではいつものように、職場では口にできない仕事の話や明日の暮らしにはなんの役にも立たない世間話で笑っていたのに、一体どうしたというのだろう。
彩が、クリームパスタをもぐもぐと咀嚼しながら「ん?」と目を大きくすると、由香が「藤崎君」と声を潜める。
どきっとした。
彩は、仁寿とのことを誰にも話していない。職場でそういう目を向けられるのは、仁寿のためによくないと考えたからだ。しかし、由香は姉妹のように育った幼馴染みで、心から信頼できる親友だ。だから、彩には由香に隠し事をするつもりは一切ないのだが、話を切り出すきっかけがなくて現在に至る。
「おととい、研修医会で藤崎君に会ったんだけどさ」
「う、うん」
「彼、すごく肌ツヤがよかった」
ゴホッ。彩は、思わずクリームソースを喉に引っ掛ける。
「あれは絶対、イイコトあったね」
「肌のお手入れをしてるんじゃないの? ほら、今は男の人もメイクとかする時代だし」
「違う、そういうのじゃないのよ。なんていうの、内面から溢れる輝きって感じ?」
仁寿の顔を思い浮かべた彩は、なんだかおかしくなって笑いをこらえきれなくなった。
「それでさ、彼にとって肌ツヤがよくなるくらいイイコトってなんだろうと考えてみたわけ」
「由香、面白い」
「こら、彩。笑ってるけど、彩でしょ。さては、とうとう落ちたな?」
――うっ、鋭い。さすが、由香。でも、肌ツヤがよくなるほどイイコトなのだろうか。
彩は、笑いながら白状するように頷く。
「そっか、よかった」
心底安心したように、由香が嬉しそうな笑みをこぼす。
由香は、早くに病気で母親を亡くしている。それは二人が中学二年生の冬、新年を迎える間際だった。明るくて気丈な由香が、立ち直れないくらい悲しみに打ちひしがれて、当時の彩は掛ける言葉もなくただ傍にいるしかできなかった。
幼少期から家族ぐるみのつき合いがあり、彩と由香はお互いの性格と気心を十分過ぎるほど知り尽くしている。由香にとって、そっと寄り添ってくれる彩の存在が一番の緩衝材だった。
仕事で父親の帰りが遅い日、由香は廣崎家で夕食をいただき、お風呂にも入れてもらった。まるで家族のようにあたたかく接してくれた彩の両親と彩に、由香は今も言葉にできないほどの感謝の念を抱いている。二人の絆は、他人という言葉が不適切なほど強くて深い。
「ごめんね、由香。言わなきゃって思ってたけど、なかなか言い出すタイミングがなくて」
「だと思って、今日誘ったの」
「ありがとう」
「こっちこそ。藤崎君の肌ツヤの謎が解けてスッキリした。彩の表情も明るいし、うん。藤崎君なら、彩を任せてもよい」
「なに、そのお父さんみたいなセリフ」
声を立てて笑う彩に、由香が「彩は笑顔が似合うよ」と片目を瞑ってみせた。
「おかわり、いる?」
厨房から、マスターが酒瓶を手に尋ねる。ちょうど、二人のグラスが空になったところだった。
「ううん、今日はこれで」
由香が、マスターに笑顔で返事をする。会計を済ませて店を出ると、空には綺羅星が輝いていた。
「由香。今日は誘ってくれて、本当にありがとう」
「美味しかったね」
「うん。それに、すごく楽しかった」
「また来ようね」
「うん、今度は魚介がいいな」
「魚介かぁ、いいね。マスターのパエリア、絶対おいしいと思う」
大人二人が並んで歩くには狭い路地を進みながら、日付未定の約束をする。街の喧騒にまぎれて駅まで歩き、二人は駅前のロータリーで別れた。由香は、これから医師同士の飲み会に参加するらしい。
時間を確認して、彩は人通りの邪魔にならない場所へ移動すると、母親に電話をかけた。いつもメッセージだけのやり取りばかりだから、声を聞くのは久しぶりだ。
「もしもし、お母さん?」
『めずらしいわね、彩が電話してくるなんて。もう仕事終わったの?』
「うん。今ね、由香と夜ご飯食べて来たところ」
『そう。由香ちゃん、変わりない?』
「相変わらず。仕事、頑張ってるよ」
『ならよかったわ。彩も、体を壊さないようにしなさいよ』
「ありがとう。お母さんこそ、元気にしてる? お父さんは?」
『こっちは二人とも元気よ』
「そっか。年末年始ね、今年はお正月の出勤がないから帰れそうなんだけど……。大事な話もあるし」
『あら。それじゃあ、帰って来なさいよ。お父さんが喜ぶわ。ずっと彩に会いたがっているもの』
「二十九日の仕事が終わったら、その足で帰るね。そっちに着くの、多分、夜九時過ぎると思う」
『二十九日ね。ご飯を用意して待っているから、気をつけて帰って来なさいね』
電話を切り、ロータリーでタクシーに乗る。仁寿は今日、研修先の忘年会に呼ばれているそうだ。二次会には行かずに帰ると言っていたから、会えるのは午後九時を過ぎたころだろうか。
タクシーが発車したところで「帰ったよ」と仁寿からメッセージが来て、あと三十分くらいで着くと返す。連休を、一緒に過ごす約束をしているのだ。
仁寿は総合病院の救急科研修に戻り、彩のほうも仕事に追われて、出張後一度も会えずにいる。その代わり、夜に電話で話すようになった。お互いに忙しいから、そんなに長い時間は話さない。しかし、仁寿の声を聞くだけで、彩はその日のストレスがリセットされるような気がしていた。
出張先での夜のような時間もいい。そして、顔を合わせない間にゆっくりと関係が親密になっていく感じも、お互いを信頼する気持ちが強くなる気がして安心できる。
彩は、アパートの駐車場にタクシーを待たせて用意していた荷物を取ると、仁寿のマンションへ向かった。
渡されていた合鍵を使ってエントランスを通り、エレベーターで八階に上がる。玄関のドアの前で、インターホンを押すか少し悩んでシリンダーキーを鍵穴に差し込んだ。
「こんばんは」
ドアを開けて、中をうかがう。玄関の電気がついたので、彩は中に入ってドアを閉めた。
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