月闇の扉

瑞原チヒロ

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第二章 誰がための罪。

35 遡行

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 ふと、気づく。人間の魂を現世に留める?
 そんな技が、ラナーニャの身近にはある。
(≪魂留め≫……?)
 シレジアで伝統的に行われるおまじないだ。おまじないだが、現実的な効果もある。死んだ人間の魂を留める効果などは、さすがに聞いたことがないが。
 同じような術が、シレジア以外でも行われているのだろうか?
(もし同じような術なら……核とか、術の元になっているものを破壊しなくては、解除できない)
 あの魔女の核が見つからないのか。ラナーニャはぐっと唾を呑み込む。
 落ち着け、と自分に言い聞かせる。大丈夫、落ち着け。絶望するな。
(カミルとオルヴァさんは、脱出することができたんだ)
 それならシグリィだって脱け出せるはずだ。思い出せ、カミルたちはどうやって脱出できたのだったか――
 そのことを思い出して、ラナーニャは唇を噛む。
(――あのときは地租四神の朱雀が)
 朱雀神が、像から現れカミルたちを救ってくれたのだった。
 しかし像はもうない。あのときクルッカ跡地の中に放り込んでしまった。今、探すために踏み込むのは危険だ。
(朱雀様)
 炎と、森と、シグリィの幻影が繰り返しラナーニャの視界に浮かんでは消える。
 ――もう一度朱雀様にすがったなら、神は応えてくれるのだろうか?
(人はそんなに簡単に神にすがっていいものなのだろうか)
 それは以前からラナーニャが抱いていた疑問だった。彼女が《印》なき子どもだったからかもしれない。人々が神に祈り、願うのは許されることなのかが、彼女にはどうしても分からなかったのだ。
 そもそも……
 地租四神は、人間を許しているのだろうか。
 考えれば考えるほど分からない。否――
(違う。私は恐いんだ)
 神の怒りに触れるのが恐い。自分は父が崩御した日、イリス神に対してすでに不敬を働いている。
 あの罪さえ赦される気がしていないというのに、これ以上の冒涜はしたくない。
 神々とは関係のない方法で事をおさめられるなら――
(……私にそれができるのか?)
 《印》なき、力なき自分。武器をもって“迷い子”と戦うことこそできても、決して強いわけでもなく。
 加護のない自分の肉体の限界を知っている。元々、“迷い子”と戦おうとすることの方が無謀で。
 まして相手は強力な――狂乱の魔術師だというのなら。
(シグリィ)
 ラナーニャはまなこに映る光景をじっと見つめる。燃える森に、重なるかの少年の姿。
 ――もしも彼が自力で戻ってこられなかったなら。
 思えば心が芯から冷えた。恐ろしくてたまらなかった。知り合って間もないというのに、ラナーニャはすでに彼に依存していた。母国でリーディナにすがっていたように、今は少年一人にすがっていた。
 死なないようにすると、生き延びると、約束したのは彼だ。
 彼がいなくては――自分が生きるためのしるべを、また失ってしまう。
 それはどうしようもなく利己的な理由。自分は結局生きたいのか、死にたいのか、それさえも分からないのに。
 ひとつだけ分かっているのは――シグリィたち三人とともにいれば、自分はまだ生きられる、それだけ。
 だから、
(祈る)
 胸の前で手を組む。目を閉じる。
 地租四神朱雀に、全身全霊をかけて、願う。
 それは己の脆弱さの象徴。他人にすがるしか方法を知らない彼女の、唯一の”できること”。
 たとえ誰かに軽蔑されても、もうどうでも良かった。
 彼さえ無事に戻ってきてくれるなら……どうでも良かった。




 場面が変わり、薄暗くなった。
(家の中……か)
 シグリィは誰かの中にいる。誰かの目を通して、ドアの陰から家の外を見ている。
 森の広場に二人の人物がいた。ワイズと、マリア。
 切り株に腰かけて、二人、仲むつまじく笑い合っている。
 そう――“よそもの”の隣で――
 生き神たる少女は、まさしく若い娘そのものの顔で微笑んでいる。
 ――シグリィが宿る体の内側に、ごうとした炎が燃え上がった。
 怒りと、疑問。なぜ、と。この体は何度もつぶやいた。なぜ、あんな男に。なぜ、マリアは。
 それは永遠に解けない謎。そしてこの村の運命を狂わせたかもしれない謎……

 ――そうして村はその日を迎える。



 森が燃える。音を立てて、樹が崩れ落ちる。
 動物たちの逃げ惑うわめき声が聞こえる。
 魔女はそのとき、命からがら燃える小屋から這い出たところだった。地べたに這いずり、ありったけの力を込め、叫ぶ。
「ワイズ!」
 シグリィはそれを空から見下ろす。今度は、魔女の中ではなかった。……魔女の強すぎる感情が、異質なシグリィという存在を内側まで忍び込ませなかったのかもしれない。
「ワイズ……!!!」
 人が動く。何人もの男たちがいる。村人ではない者たち。よそもの。
 一様に武装して、あちこちの小屋の様子を確認している。
 崩れない小屋を破壊しているのも、彼らだった。そして。
 ――その中心となって、指揮をとっている男は。
「よくも……」
 発する言葉全てが呪い。体中が痛くてたまらぬはずなのに、魔女は信じられない力で立ち上がり、その男をにらみつける。毒を視線に含ませられるのなら、彼女は全世界の毒物を集めたいと願っただろう。
「よくも裏切った……ワイズ!」
 人の声が聞こえる。すべてはもはや、動き回る傭兵たちの声でしかなく。
 村人の声は……ない。
 ワイズ・オストレムは魔女と対峙する。決して頭を下げることはない、だが――陰りのある瞳で。
 ただ黙って、魔女を見つめ返している。
「マリアを……あの子をどうしたの」
 魔女の声がかすれた。何よりも聞きたいことだったに違いない。何よりも聞きたくないことだったに違いない。
 ワイズが、重い唇を開く。
「……最初に、殺した。あの子だけは……私がこの手で」
「――ッ」
 絶叫が空気をつんざく。轟音を立てる森さえも一瞬、静かになった気がするほど。
 ああ……よくも。よくもよくもよくも……!
 呪いの言葉は術となり、鎖となって、憎い男に絡みつこうとする。
 男は抗わない。自らの罪を認めるように、呪鎖に巻かれていく。
 男は、かすかにつぶやいた。
 ――あの子を生かしておくのは恐かった、と。

 呪いの鎖は終わることなく伸びていく。
 男の首を、胸を、腹を締め付け憎しみをねじ込んでいく。
 あと少し長く魔女が生きながらえていれば、それは確実にワイズ・オストレムという男を殺していたはずだ。だが――
 魔女は力尽きた。誰よりも力に満ちた『オッファーの村』最後の人物は、そこで息絶えてしまった。

 シグリィは空から見ていた。
 倒れた魔女の傍らに、ワイズはひざまずいた。脈を確かめ、開いたままだった瞼をそっと下ろす。
 そうしてそのとき、
 男は初めてこうべを垂れた。



 ……死しても力を残す。それが朱雀の術者。
 なぜならその力の根本は心、そのものなのだから――

 憎しみは残った。後悔も。魔女の呪いだけが、クルッカの土地に染みつき離れられなくなった。
 近寄る者全てを呪った。陰惨な彼女の記憶に引きずり込み、何度も何度も繰り返しては、人々の精神を狂わせていく。
 森が復活することはなかった。それはひょっとしたら、魔女の悲しい記憶を繰り返させないためだったのか……

 シグリィはめまぐるしく移り変わっていく景色の中を渡り進んでいく。
 暴風雨のように荒れ狂う魔女の精神、その中央を目指していく。



 何十年もの間、魔女の心は同じことを繰り返し続けた。しだいに土地には誰も寄りつかなくなった。それでも呪い続けた。
 憎い相手がどこにいるのか分からない。それでも呪い続けた。
 あまりに永いときが流れ、魔女の心は疲弊した。すり切れ、徐々に力の総量を失っていく。それでも呪い続けた。心の核だけは、衰えなかった。
 そして……
 百年と何十年、経って。
 ようやくこの土地を、訪れた者たち。

「……なるほど」
 荒野と化したこの地に立ち、その若者は愉快そうにつぶやいた。
「噂通り、『生命のない土地』だ」
 足下の小石を踏む。もう何十年と人の足に出会ったことのなかった石は、蹴飛ばされて虚しく転がっていく。
 太陽が明るすぎるほど照った暑い日だった。若者も他の者たちも日よけの帽子や布をかぶり、顔が陰になっていてよく見えない。
(誰だ?)
 シグリィが思うのと同時、魔女の呪いが発動する。
 引きずりこまれたのは、件の若者ではなかった。その周辺を守るようにしていた、白虎の傭兵たちだ。
 いつものように魔女の夢の中へ引きずり込まれ姿を消す。残された数人が驚愕の声を上げ、騒ぎ出す。
「落ち着きなさい。どうやら何かしらの呪いがこの地にあるようだ」
 冷静にそう言ったのはやはりその若者――
 相変わらず顔は見えないが、声と体格からすると二十歳そこそこだろうか。見た目は学者然としている。
 眼鏡を押し上げ、こんな状況だというのに羊皮紙を取り出して、若者は記録を取り始めた。
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