月闇の扉

瑞原チヒロ

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番外編

言の葉朽ちて、――4

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 リシェルドの元へやってきた原稿の買いつけ人――
 クーノの父、シーヴァル・アノンはその若さでかなりの実績をあげてきた人間だ。というのも、彼は命を張って都市から出てはあちこちに向かい――作家の卵を探し出すという、他の人間ならとてもやらないことをすすんでやる。
 おかげで、こんな辺境の地に住むリシェルド・パーカーさえも見つけ出すという幸運を得られたのだ。
「調子はどうだ、リシェルド」
 とシーヴァルは開口一番言った。
 いつものことなのでリシェルドは苦笑するに留め、
「もう少しで一作書きあがります……クーノにはお会いになられたんですか?」
「宿は先に取るものだからな」
 ならもう会ってきたということだ。あの旅人たちとも。一悶着あっただろうか。リシェルドは父と仲の悪いクーノや、あの泰然とした旅人の少年を思う。
 あの宿代わりの家に、これだけの人数を入れる余裕はあったかな。リシェルドはそんな心配をした。
 シーヴァルは遠慮なく客用の椅子に座ると、
「今度はどんな話だ」
 と瞳を輝かせて尋ねてくる。
 彼は編集者でもあり、一番のリシェルドのファンとも言えた。
「旅人の話です」
 リシェルドは紅茶を用意しながら告げる。おお、とシーヴァルが手を叩く。
「もしやあの、宿にいた旅人たちから着想を得たか?」
「ええ、まあ」
「さすがだ。ネタになるものは逃さないな」
 心から賞賛されているのは分かっているが、何となく皮肉だ。リシェルドは内心苦笑しながら、お湯を沸かした。
 旅人の話。
 旅人と出会った作家の話。
 正直、リシェルドとしても初めてだったのだ。彼目当てで命をかけてこの村に来る人間は今までにも少なからずいたが、こんなにもするっと心に滑り込んでくる旅人はいなかった。
 いや――
 “旅人”と冠される存在が初めてだったかもしれない。
 それまでは、お金持ちの道楽や、熱心な本のファンによる、一時的な熱による来訪だったから。
 シグリィの言葉ひとつひとつが、とても胸に染みる。こんな感覚は、初めてシーヴァルが彼の元へやってきたとき以来だ。
 リシェルドは、今書いている話が傑作になる予感がしていた。
 いつだって、自分の作品には満足していない。けれど、滅多にない満足できる作品ができそうな気がしていた。
(……僕の相棒の心まで、開かせた子だからな)
 整った面立ちの少年を脳裏に思い描き、リシェルドは自然と笑みを浮かべた。
 それを盗み見ていたらしい、
「リシェルド。その様子なら今回も調子がいいようだな」
 シーヴァルは上機嫌で言う。
「ええ、まあ……アノンさん、護衛の皆さんは?」
「いつもの婆さんちで一杯やってるんじゃないか」
「ああ、ジュディさんのうちで」
 果実酒を造るのが得意な老女ジュディの家では、年中薫り高い酒が飲める。シーヴァルはリシェルドの家で紅茶を飲むのが好きだが、護衛の男たちは酒の方が好きらしい。
 というより、シーヴァルは単にリシェルドの仕事ぶりを確認したいだけなのだろうが。
「それにしてもだな、リシェルド――」
 リシェルドが出した紅茶を飲みながら、シーヴァルは上機嫌な中に不穏な空気を織り交ぜながらしゃべり始める。
「俺の前では原稿を書けないってのは、どういうことなんだ? 毎度毎度。俺は早く原稿をあげてほしいんだがな」
「すみません」
「俺は命をかけてこの村に来てるんだぞ。その辺分かってくれ」
「分かっているつもりです」
 言いながら、リシェルドは胸に痛みを感じる。――本当に自分は、分かっているだろうか。この大陸を渡ってくるという危険。命をかけてまで自分の原稿を取りにきてくれているという事実。
 応えるには、原稿を書くしかない。
 ――だが、シーヴァルの前で言の葉を使うわけにはいかない。
 言の葉の樹は繊細なのだ。樹が心を開いている状態でなければ、葉はその力を発揮しない。
 つまるところ、リシェルドは本当に、シーヴァルの前では“書けない”のだった。
 シーヴァルは青龍の《印》を持つ者だ。しかしだからと言って、言の葉の樹の心を開かせるには至らなかった。娘とは――何かが決定的に違う。
 かく言うリシェルドも……
 シーヴァルの前ではまだ身構えてしまう自分を知っている。
 この心を、相棒は敏感に感じ取ってしまうのだろうか。
「リシェルド」
 ティーカップを空にしたシーヴァルが、おもむろに「座れ」と言った。
 リシェルドはきゅっと神経が引き締まるような感覚に襲われる。そうだ、この緊張感。こんな感覚でいては相棒と心が通わず、小説など書けはしない。
 ゆっくりと椅子に座った。シーヴァルと向かい合うように。
 シーヴァルはテーブルに両手をのせる。じっくりとサフラン色の作家の瞳を見つめ、
「……今日は、改めて話をしにきた」
「何をですか?」
 反射的に、訊き返していた。
 シーヴァルはにやりと笑って、
「何度も言わせる気か?」
「………」
「何度でも言ってやろう。カーノンヴァルに出て来い、リシェルド」
 噛んで含めるように、シーヴァルはその言葉を紡ぐ。
 カーノンヴァル――都市中央部にまで、出て来い。
 今まで何度聞いたことだろう。そのたびに断ってきた。
 当たり前だ、自分は――ここから離れては小説が書けない。
 首を振って、
「無理です」
「なぜだ?」
「僕はこの村じゃないと小説が書けない。何度もそう言っているじゃないですか」
「それはなぜだ」
「環境の問題です」
 僕には都市は合いません――と、リシェルドはごまかした。
 きっと自分には都市は合わないと思っているのも本音ではあるのだけれど。
「確かに、お前は田舎の作家がよく似合いだ」
 シーヴァルは言った。「だがな、こっちの身にもなってくれ」
「アノンさん――」
「私は昔から、カーノンヴァルの街より外に出て、作家の卵を探してきた。しかしお前のように、外に据え置いているのは他にいない。皆都市に連れ帰っているんだ。そうでなくては――自分の命が危ないのでな」
 何度目か分からないその言葉。自分の命が危ない。
 命をかけて、ここまで来ている。
 ――分かっている。分かっているけど。
「すみません……無理なんです」
 深く、頭を下げた。
 自分は相棒の力なしでは小説など書けやしない。彼が小説を書き始めたのは、相棒の力を知ったときからだった。
 言の葉の樹。あの樹がそう呼ばれるものだと知ったのは、祖父が教えてくれたからだ。
 祖父はこの村の風土記を記していた。あの樹の葉で。
 人に隠れて行っていたことだったが、ある日偶然リシェルドは祖父がその作業をしているところを見てしまった。
 祖父は責めなかった。普段から、リシェルドがあの樹に慣れ親しんでいることを知っていたからだろう。木登りもした。けれどあの樹はお前が自分を構うのを嫌がっていないぞと祖父は言った。
 両親は、“迷い子”に喰われて死んでしまっていた。自分は祖父と二人暮らしだった。
 祖父の言葉は絶対。
 だから、祖父の教えてくれたことを疑うなんてことは幼いリシェルドの頭にはなく。
 ――“リシェルド”というのは、本当は祖父の名だ。言の葉の樹のことを教えてくれた祖父が、すべての始まりだったから。
 シーヴァルはふんと鼻を鳴らした。
「クーノのような子供が、ずっとこの田舎暮らしでいることも、お前は享受できるというのか。責任を取れると?」
「クーノは……」
「あれの母がどれだけ心配しているか、想像したことがあるか?」
「―――」
 クーノの母。宿屋の従業員をしていると聞いた。今のクーノのベッドメイク、料理の腕などは全部母親ゆずりだ。
 母が心配している――
「クーノとて母と会えないのは辛いだろう。あれは母親っこだからな。口には出さんだろうが」
「……母親っこ」
 自分がおじいちゃんっこであったことを思う。
 もし自分がクーノの年齢のとき。祖父と引き離されて、遠いところで暮らすことになっていたら。
 リシェルドは唇を噛んだ。
 胸が鋭い痛みを訴える。何本もの刃を刺されているような。
 けれど、答えはひとつしかないのだ。
「すみません……無理なんです」
 頭を下げたまま、苦しい声を吐き出した。
 膝の上に置いた手が、きつく拳に握られた。シーヴァルのため。クーノのため。どれだけ言われようとも。
 ……相棒の傍を、離れるわけにはいかない。
「そうか」
 シーヴァルは大きく嘆息した。
 不安に思ってそろそろと顔を上げると、意外にもシーヴァルは笑っていた。
「お前の頑固さには頭が下がる」
「アノンさん……」
「いい作品を仕上げてくれよ」
 シーヴァルは立ち上がった。そして、
「私も一杯やってくる。また夜に様子を見にくるからな」
 と言うと、軽く手を振ってリシェルドの小屋から出て行った。
 リシェルドは深く息を吐く。緊張の糸が切れて、全身が緩む。
 ふと窓から春の風が吹き込んできて、彼の頬を撫でた。慰めるように――
「……すみません、アノンさん。クーノ……」
 罪悪感とともにつぶやいた。
 命と人生をかけて、彼ら親娘は自分に尽くしてくれている。
 ――いい話を書かなくては。
 大きく深呼吸をし、瞼を閉じた。思い出すのは、旅人三人組。その中央にいる、黒髪の少年。
 彼との会話。彼のまとう雰囲気を感じ取り……
 それを、原稿用紙に描き出す。
 リシェルドは立ち上がった。颯爽と作業台に向かい、机の前に座ると、言の葉を手に用意する。
 しゅっ
 白い原稿用紙の上に走る、緑の葉。
 そして浮き上がる黒い文字。
 心の文字。
「……相棒。僕も心を解放するから」
 だから、受け止めてくれ――
 しゅっ しゅっ しゅっ
 緑の葉が、白い紙の上を走り続ける――
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