9 / 23
第二章 自然の国
3
しおりを挟む
「あり、がと、ございます」
片言のレイネンドランド語で言いながら、アンゼリスカは笑顔で行き倒れた(フリの)先の家でふるまわれた料理をたいらげた。
元々レイネンドランドに住んでいたことのあるアンゼリスカである。好き嫌いなどない。懐かしい味だ、などと思いながら、一方で「久しぶりに食事にありついた」というような演技も忘れない。涙をにじませ、ぐすっと鼻をすする。ちょっとした役者だ。
「たんと食べてくださいね」
共用語のレイネンドランド語で親切に親娘が世話をしてくれる。
帰る時には何かしら手伝いをしてから出て行かなくては、とアンゼリスカは決めた。
もちろん、この親娘から情報を得ることも忘れない。
「私、レイネンドランド、田舎、出てきた。戦、ない、聞いた。仕事、探して」
「あらまあ」
ふんわりした印象の母親が、ぱんと手を叩いた。
「それならうちで農業の手伝いでもする? 裏が田んぼになっているのよ」
「私、力仕事、できる」
「んー。今は薪割りの季節じゃないしねえ……」
「穀物運びは?」
「あ、仕入れもやってくれると嬉しいわ」
親につられて娘もはしゃぐ。そんな二人をアンゼリスカは微笑ましく見ていた。
――ここには父親の気配がしない。
自分と同じだ。母子家庭で……育つ。
(……任務から少し離れてしまうが、これも縁だ)
思う存分手伝ってから行こう。彼は改めて心に決めた。
それから三日間は何も起こらなかった。力仕事をしつつ、苗木を植える。剣を持たない仕事が続く。
その最中に、親娘から情報を引き出す。
「ええ、この国には戦が起こらないの。どうしてか分かる?」
「王様がね、護ってくださるからなのよ!」
「王様は不思議な力をお持ちでね、その力で国民を護ってくださるの」
「………」
そう、ですか、と答えながら、アンゼリスカは内心気を引き締める。
国王に何か力がある。
国王というのは象徴的なものかもしれない。ひょっとしたら国全体のことだろうか。
王族のことだろうか。
そこのところは、一般人には分からないようだ。近所の井戸端会議に参加してみても、皆似たようなことしか言わない。
アンゼリスカは井戸端会議によって、他の家にも顔見知りができた。他の家にも手伝いに行って、皆に感謝された。
「あ、ありが、とう、ありが、とう」
片言のレイネンドランド語を直さないようにしながら、もっといい情報はないかと行動範囲を広げる。
分かることはたくさんあった。かつてこの国に住んでいた頃――若さやその余裕もなかったこともあり、目に見えていなかったものが、今はよく分かる。
さすが学業大国だけあって、学校という設備はしっかりと整っていた。
国府長官がレイネンドランドとの友好条約を結びたがるのはこの辺りだろう。学業の技術を盗みたいのだ。
ただ、レイネンドランドはティエラと違い海沿いの上に山に囲まれている。隣接している国が少ない分、言語学に関してのみはティエラの方が長けている。
――ティエラはどう見られている?
井戸端会議でそれとなく話を持ち上げてみる。
「この国、どこと、仲、いい?」
「そうねえ、やっぱり戦争がない国ね。ティエラじゃないかしら」
「ティエラ」
「でも私はあの国怖いわあ、だって妙な力持ってるんでしょう? 外交で生活してる割に偉そうだって言うわよ。それもこれも、その力のせいだって」
「………」
アンゼリスカは胸中でつぶやく。――それは、ティエラ人の誇りだからだ。
いくら外国の力を借りなくては生活できない国でも、紡石生成の誇りだけは失ってはいけない。人の心の象徴。
そしてその力を持つ我々は、決して他の国に屈してはいけない。それは心が折れることだから。
吐息がこぼれる。
「疲れたの?」
「いえ」
アンゼリスカは首を振り、話題を変えた。
「この国、王子、もういい 歳、聞いた。結婚するか?」
「ああ! なあに、どこでそんな情報手に入れちゃったのよう」
ぱんぱんと背中を叩かれた。ご婦人方はこういう話題が大好きだ。
「王子のご結婚、決まったのよ」
「え」
驚いたように目を見張ってみせる。
「それがねえ、偶然かしら。今言ったティエラの姫様が相手なのよね」
――レイネンドランドではすでに国民にも知れ渡っているのか――
アンゼリスカは危機感を感じる。今さら、止められない話だというのか。
「何でも美しい姫様だそうよ。そうよねえ、この国の次期王妃様だもの、誇れる方でないと」
でも、とその女性は頬に繊手を当てた。
「……あの、妙な力を持ってるティエラの姫様でしょう? やっぱり変な力持ってるのかしら。いやねえ、国が乱れたらどうしましょう。怖いわ」
「………」
アンゼリスカはどかっと水の入った桶を地面に置いた。飛び跳ねた水に驚いて、女性は飛びのいた。
「……ごめん、なさい」
「あら、いいけど……」
「私、家、戻る」
あらそう、と女性は軽く笑って手を振った。アンゼリスカは頭を下げて桶を持ち上げ、歩き出した。
と――
視線の先、世話になっている家の前でなぜか人だかりが出来ている。
「アンジリーという名の男がいるのはこの家か!」と、人の輪の中から男の怒鳴り声が聞こえてきた。
自分の偽名だ。アンゼリスカが急いで人ごみをかきわけると、そこには兵士がいた。その手でアンゼリスカが世話になっている家の娘をつかみあげながら。
「ア――アンジリーが何をしたっていうの!」
気丈な娘はそれでも負けずにアンゼリスカをかばおうとする。
アンゼリスカは駆け寄った。
「もう、いい。兵隊、さん? 私、行けば、いい?」
「……その片言。間違いないな。来い!」
乱暴に娘の胸倉を投げ捨てて、兵士は身を翻す。
アンゼリスカは尻餅をついてしまった娘を起き上がらせて、
「その、私、だい、じょう、ぶ」
「――大丈夫じゃないわよ! 城からの兵士のくせして、何なのあの乱暴さ!?」
気をつけて帰ってきてね――娘は言った。
アンゼリスカは微笑んで、こくりとうなずいた。
「遅いぞ!」
慌てて兵士に追いつくと、早々に兵士に怒鳴られた。
「その、どこへ」
「城だ」
「――なぜ」
アンゼリスカは冷静に考える。城に呼ばれた? まさか正体がバレたか。
――レイネンドランドの王城は、ティエラと同じほどの大きさだ。国土の差を考えると小さいとも言える。コンパクトに必要なものだけをまとめたという感じだ。
けれど城の中は鮮やかだった。植物がふんだんに飾られ、絵画や彫刻も壁をにぎわす。芸術の城だ、とアンゼリスカは思う。
兵士はまず、自分の上官らしき人間に挨拶をし、アンゼリスカを上官に渡した。
「ふん。お前が噂の者か」
レイネンドランド共用語――
アンゼリスカが何も言わずにいると、上官は兵士の一人に「陛下に伝えてこい」と命令した後、じろじろとアンゼリスカを見た。
「おい。身につけているもの全部出せ」
アンゼリスカは大人しく従った。
もちろん武器は装備していない。体術には自信があるが、危険には違いない。
(いざとなったら――)
その〝いざ〟をいかに作らないように行動するか。それがスパイの力量だ。
やがて、兵士が戻ってきて上官に何かを耳打ちすると、上官は乱暴にアンゼリスカの腕を握り、「来い!」と引っ張った。
再びアンゼリスカは大人しく従った。
やがて彼らがたどりついたのは、とてもとても大きな扉――
両側にいた兵士が上官に敬礼をし、そして二人の力でごごごと扉を開ける。
――真っ赤な絨毯が見えた。
金色に縁取られた絨毯だ。
それがまっすぐに進んでおり、その先に。
玉座があった。
レイネンドランドの王はもう老年のはずだ、とアンゼリスカは思い出す。次期国王レイサルやその妹レイチェルは子供ではなく孫だ。
三つの玉座。中央に座っているのが、白ひげをはやしたその国王だろう。向かって右側にいるのは王妃、向かって左側にいるのは――王子、レイサル。
森の緑の髪に、同じ色彩の瞳。深みのあるその視線は、穏やかにも鋭くも見える。
そして国王の傍らに立っているのは宰相か。
国王の前まで進んで行き、上官兵士は膝をついた。アンゼリスカは慌てて後を追った、という様子を作りながら真似をして膝を折った。
「陛下。お待たせしました――こちらが、例の者でございます」
「うむ……そのようじゃな」
国王はしわにうずもれた赤い瞳でアンゼリスカを見つめている。
アンゼリスカは目を合わせたくなくてとっさに目をそらす――フリをした。
次に口を開いたのは、国王ではなく宰相だった。
「おぬし、アンジリーと申すか。フルネームは」
「……アンジリー・ミストと、申し、ます」
「アンジリー・ミスト。もう嘘をつく必要はない」
小太りの宰相は偉そうに胸を張った。
「おぬしの正体がただの田舎者ではないことはすでにバレておるからな」
「―――」
どこでバレた? とアンゼリスカは首をひねった。それに答えるかのように、
「おぬしは西の関所でどこかの国の言語を話したという。だが街中では片言のレイネンドランドの田舎なまりであったそうではないか。下らん細工だ、はよう正体を現せ」
「………」
あ、あれのことか。
アンゼリスカは納得して、心の中でぽんと手を打った。
関所では、レイネンドランドに来たことがないことを強調するためにあえてやったことだったが、しかしバレるのが遅かったものだ。
焦った様子を作り、「は、ははあ」とレイネンドランド共用語をなめらかに使い、
「申し訳ございません。わたくし、実は言語学者でありまして……色々な言語を集めておりました。その一環として私の田舎なまりが共用語の方々にどれほど通じるかの実験をしておりまして」
「最初に外国語を使ったのはなぜじゃ?」
「最初に声をかけてくださった兵士様が、西部なまりでいらしたので、西部にあるブルネンタインの言語が通じるかどうか試させていただいたのです。ひらにお許しください」
「ふむ……」
宰相があごを撫でる。
「よいではないですの」
王妃が扇を開いた。くすくすと扇の奥で笑いながら、
「熱心な学生であることは間違いなさそうなのでしょう? 先ほど没収した身の回りのもので」
――アンゼリスカの身につけていたもの。携帯辞書。メモ。色んな言語での走り書き。誰かに見つかった時に、言語学者だと確実に名乗れるようにするために用意していたもの。
「逆にこういう学業に熱心な方は受け入れるのが我がレイネンドランドの国の方針ではなくて? あなた」
王妃が国王に声を送る。
国王は重々しくうなずいた。
「そうだ……我が国は学問を大切にし、それゆえに他国からも侵入されなかった」
――きた、と心に緊張が走る。
謎に思っていたことが今、明かされるかもしれない。
「他国に侵害されないためには、もっともっと学士を増やすことが肝要だ……のう、レイサル」
「まったくもってその通りです、陛下」
応えたレイサル殿下は、学友のエディレイドよりも体格がよく、体術等もこなしていそうだ。
国王はにこやかに見えなくもない表情でアンゼリスカを見やり、
「……言語学者。今まであまりいなかった。必要すぎるほど必要だというのにな」
深みのある声は、ゆったりとアンゼリスカの耳に染みこんでくる。
「学士よ。その学業への熱意を買い、特別にこの城の本を読むことを許そう。代わりに我が国に言語学というものを教えてくれ」
「―――! 本当でございますか!」
アンゼリスカは本気で驚いた。まさかこんな展開になるとは!
王妃もうなずいている。宰相が渋い顔をしているが、王がこう言っている以上反対もできないし反論もないのだろう。
アンゼリスカは深く頭を下げた。満足げに、国王は何度もうなずいていた。
レイサルだけが静かに場を見守っていた。
片言のレイネンドランド語で言いながら、アンゼリスカは笑顔で行き倒れた(フリの)先の家でふるまわれた料理をたいらげた。
元々レイネンドランドに住んでいたことのあるアンゼリスカである。好き嫌いなどない。懐かしい味だ、などと思いながら、一方で「久しぶりに食事にありついた」というような演技も忘れない。涙をにじませ、ぐすっと鼻をすする。ちょっとした役者だ。
「たんと食べてくださいね」
共用語のレイネンドランド語で親切に親娘が世話をしてくれる。
帰る時には何かしら手伝いをしてから出て行かなくては、とアンゼリスカは決めた。
もちろん、この親娘から情報を得ることも忘れない。
「私、レイネンドランド、田舎、出てきた。戦、ない、聞いた。仕事、探して」
「あらまあ」
ふんわりした印象の母親が、ぱんと手を叩いた。
「それならうちで農業の手伝いでもする? 裏が田んぼになっているのよ」
「私、力仕事、できる」
「んー。今は薪割りの季節じゃないしねえ……」
「穀物運びは?」
「あ、仕入れもやってくれると嬉しいわ」
親につられて娘もはしゃぐ。そんな二人をアンゼリスカは微笑ましく見ていた。
――ここには父親の気配がしない。
自分と同じだ。母子家庭で……育つ。
(……任務から少し離れてしまうが、これも縁だ)
思う存分手伝ってから行こう。彼は改めて心に決めた。
それから三日間は何も起こらなかった。力仕事をしつつ、苗木を植える。剣を持たない仕事が続く。
その最中に、親娘から情報を引き出す。
「ええ、この国には戦が起こらないの。どうしてか分かる?」
「王様がね、護ってくださるからなのよ!」
「王様は不思議な力をお持ちでね、その力で国民を護ってくださるの」
「………」
そう、ですか、と答えながら、アンゼリスカは内心気を引き締める。
国王に何か力がある。
国王というのは象徴的なものかもしれない。ひょっとしたら国全体のことだろうか。
王族のことだろうか。
そこのところは、一般人には分からないようだ。近所の井戸端会議に参加してみても、皆似たようなことしか言わない。
アンゼリスカは井戸端会議によって、他の家にも顔見知りができた。他の家にも手伝いに行って、皆に感謝された。
「あ、ありが、とう、ありが、とう」
片言のレイネンドランド語を直さないようにしながら、もっといい情報はないかと行動範囲を広げる。
分かることはたくさんあった。かつてこの国に住んでいた頃――若さやその余裕もなかったこともあり、目に見えていなかったものが、今はよく分かる。
さすが学業大国だけあって、学校という設備はしっかりと整っていた。
国府長官がレイネンドランドとの友好条約を結びたがるのはこの辺りだろう。学業の技術を盗みたいのだ。
ただ、レイネンドランドはティエラと違い海沿いの上に山に囲まれている。隣接している国が少ない分、言語学に関してのみはティエラの方が長けている。
――ティエラはどう見られている?
井戸端会議でそれとなく話を持ち上げてみる。
「この国、どこと、仲、いい?」
「そうねえ、やっぱり戦争がない国ね。ティエラじゃないかしら」
「ティエラ」
「でも私はあの国怖いわあ、だって妙な力持ってるんでしょう? 外交で生活してる割に偉そうだって言うわよ。それもこれも、その力のせいだって」
「………」
アンゼリスカは胸中でつぶやく。――それは、ティエラ人の誇りだからだ。
いくら外国の力を借りなくては生活できない国でも、紡石生成の誇りだけは失ってはいけない。人の心の象徴。
そしてその力を持つ我々は、決して他の国に屈してはいけない。それは心が折れることだから。
吐息がこぼれる。
「疲れたの?」
「いえ」
アンゼリスカは首を振り、話題を変えた。
「この国、王子、もういい 歳、聞いた。結婚するか?」
「ああ! なあに、どこでそんな情報手に入れちゃったのよう」
ぱんぱんと背中を叩かれた。ご婦人方はこういう話題が大好きだ。
「王子のご結婚、決まったのよ」
「え」
驚いたように目を見張ってみせる。
「それがねえ、偶然かしら。今言ったティエラの姫様が相手なのよね」
――レイネンドランドではすでに国民にも知れ渡っているのか――
アンゼリスカは危機感を感じる。今さら、止められない話だというのか。
「何でも美しい姫様だそうよ。そうよねえ、この国の次期王妃様だもの、誇れる方でないと」
でも、とその女性は頬に繊手を当てた。
「……あの、妙な力を持ってるティエラの姫様でしょう? やっぱり変な力持ってるのかしら。いやねえ、国が乱れたらどうしましょう。怖いわ」
「………」
アンゼリスカはどかっと水の入った桶を地面に置いた。飛び跳ねた水に驚いて、女性は飛びのいた。
「……ごめん、なさい」
「あら、いいけど……」
「私、家、戻る」
あらそう、と女性は軽く笑って手を振った。アンゼリスカは頭を下げて桶を持ち上げ、歩き出した。
と――
視線の先、世話になっている家の前でなぜか人だかりが出来ている。
「アンジリーという名の男がいるのはこの家か!」と、人の輪の中から男の怒鳴り声が聞こえてきた。
自分の偽名だ。アンゼリスカが急いで人ごみをかきわけると、そこには兵士がいた。その手でアンゼリスカが世話になっている家の娘をつかみあげながら。
「ア――アンジリーが何をしたっていうの!」
気丈な娘はそれでも負けずにアンゼリスカをかばおうとする。
アンゼリスカは駆け寄った。
「もう、いい。兵隊、さん? 私、行けば、いい?」
「……その片言。間違いないな。来い!」
乱暴に娘の胸倉を投げ捨てて、兵士は身を翻す。
アンゼリスカは尻餅をついてしまった娘を起き上がらせて、
「その、私、だい、じょう、ぶ」
「――大丈夫じゃないわよ! 城からの兵士のくせして、何なのあの乱暴さ!?」
気をつけて帰ってきてね――娘は言った。
アンゼリスカは微笑んで、こくりとうなずいた。
「遅いぞ!」
慌てて兵士に追いつくと、早々に兵士に怒鳴られた。
「その、どこへ」
「城だ」
「――なぜ」
アンゼリスカは冷静に考える。城に呼ばれた? まさか正体がバレたか。
――レイネンドランドの王城は、ティエラと同じほどの大きさだ。国土の差を考えると小さいとも言える。コンパクトに必要なものだけをまとめたという感じだ。
けれど城の中は鮮やかだった。植物がふんだんに飾られ、絵画や彫刻も壁をにぎわす。芸術の城だ、とアンゼリスカは思う。
兵士はまず、自分の上官らしき人間に挨拶をし、アンゼリスカを上官に渡した。
「ふん。お前が噂の者か」
レイネンドランド共用語――
アンゼリスカが何も言わずにいると、上官は兵士の一人に「陛下に伝えてこい」と命令した後、じろじろとアンゼリスカを見た。
「おい。身につけているもの全部出せ」
アンゼリスカは大人しく従った。
もちろん武器は装備していない。体術には自信があるが、危険には違いない。
(いざとなったら――)
その〝いざ〟をいかに作らないように行動するか。それがスパイの力量だ。
やがて、兵士が戻ってきて上官に何かを耳打ちすると、上官は乱暴にアンゼリスカの腕を握り、「来い!」と引っ張った。
再びアンゼリスカは大人しく従った。
やがて彼らがたどりついたのは、とてもとても大きな扉――
両側にいた兵士が上官に敬礼をし、そして二人の力でごごごと扉を開ける。
――真っ赤な絨毯が見えた。
金色に縁取られた絨毯だ。
それがまっすぐに進んでおり、その先に。
玉座があった。
レイネンドランドの王はもう老年のはずだ、とアンゼリスカは思い出す。次期国王レイサルやその妹レイチェルは子供ではなく孫だ。
三つの玉座。中央に座っているのが、白ひげをはやしたその国王だろう。向かって右側にいるのは王妃、向かって左側にいるのは――王子、レイサル。
森の緑の髪に、同じ色彩の瞳。深みのあるその視線は、穏やかにも鋭くも見える。
そして国王の傍らに立っているのは宰相か。
国王の前まで進んで行き、上官兵士は膝をついた。アンゼリスカは慌てて後を追った、という様子を作りながら真似をして膝を折った。
「陛下。お待たせしました――こちらが、例の者でございます」
「うむ……そのようじゃな」
国王はしわにうずもれた赤い瞳でアンゼリスカを見つめている。
アンゼリスカは目を合わせたくなくてとっさに目をそらす――フリをした。
次に口を開いたのは、国王ではなく宰相だった。
「おぬし、アンジリーと申すか。フルネームは」
「……アンジリー・ミストと、申し、ます」
「アンジリー・ミスト。もう嘘をつく必要はない」
小太りの宰相は偉そうに胸を張った。
「おぬしの正体がただの田舎者ではないことはすでにバレておるからな」
「―――」
どこでバレた? とアンゼリスカは首をひねった。それに答えるかのように、
「おぬしは西の関所でどこかの国の言語を話したという。だが街中では片言のレイネンドランドの田舎なまりであったそうではないか。下らん細工だ、はよう正体を現せ」
「………」
あ、あれのことか。
アンゼリスカは納得して、心の中でぽんと手を打った。
関所では、レイネンドランドに来たことがないことを強調するためにあえてやったことだったが、しかしバレるのが遅かったものだ。
焦った様子を作り、「は、ははあ」とレイネンドランド共用語をなめらかに使い、
「申し訳ございません。わたくし、実は言語学者でありまして……色々な言語を集めておりました。その一環として私の田舎なまりが共用語の方々にどれほど通じるかの実験をしておりまして」
「最初に外国語を使ったのはなぜじゃ?」
「最初に声をかけてくださった兵士様が、西部なまりでいらしたので、西部にあるブルネンタインの言語が通じるかどうか試させていただいたのです。ひらにお許しください」
「ふむ……」
宰相があごを撫でる。
「よいではないですの」
王妃が扇を開いた。くすくすと扇の奥で笑いながら、
「熱心な学生であることは間違いなさそうなのでしょう? 先ほど没収した身の回りのもので」
――アンゼリスカの身につけていたもの。携帯辞書。メモ。色んな言語での走り書き。誰かに見つかった時に、言語学者だと確実に名乗れるようにするために用意していたもの。
「逆にこういう学業に熱心な方は受け入れるのが我がレイネンドランドの国の方針ではなくて? あなた」
王妃が国王に声を送る。
国王は重々しくうなずいた。
「そうだ……我が国は学問を大切にし、それゆえに他国からも侵入されなかった」
――きた、と心に緊張が走る。
謎に思っていたことが今、明かされるかもしれない。
「他国に侵害されないためには、もっともっと学士を増やすことが肝要だ……のう、レイサル」
「まったくもってその通りです、陛下」
応えたレイサル殿下は、学友のエディレイドよりも体格がよく、体術等もこなしていそうだ。
国王はにこやかに見えなくもない表情でアンゼリスカを見やり、
「……言語学者。今まであまりいなかった。必要すぎるほど必要だというのにな」
深みのある声は、ゆったりとアンゼリスカの耳に染みこんでくる。
「学士よ。その学業への熱意を買い、特別にこの城の本を読むことを許そう。代わりに我が国に言語学というものを教えてくれ」
「―――! 本当でございますか!」
アンゼリスカは本気で驚いた。まさかこんな展開になるとは!
王妃もうなずいている。宰相が渋い顔をしているが、王がこう言っている以上反対もできないし反論もないのだろう。
アンゼリスカは深く頭を下げた。満足げに、国王は何度もうなずいていた。
レイサルだけが静かに場を見守っていた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
英雄一家は国を去る【一話完結】
青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。
- - - - - - - - - - - - -
ただいま後日談の加筆を計画中です。
2025/06/22
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
悪役令嬢になるのも面倒なので、冒険にでかけます
綾月百花
ファンタジー
リリーには幼い頃に決められた王子の婚約者がいたが、その婚約者の誕生日パーティーで婚約者はミーネと入場し挨拶して歩きファーストダンスまで踊る始末。国王と王妃に謝られ、贈り物も準備されていると宥められるが、その贈り物のドレスまでミーネが着ていた。リリーは怒ってワインボトルを持ち、美しいドレスをワイン色に染め上げるが、ミーネもリリーのドレスの裾を踏みつけ、ワインボトルからボトボトと頭から濡らされた。相手は子爵令嬢、リリーは伯爵令嬢、位の違いに国王も黙ってはいられない。婚約者はそれでも、リリーの肩を持たず、リリーは国王に婚約破棄をして欲しいと直訴する。それ受け入れられ、リリーは清々した。婚約破棄が完全に決まった後、リリーは深夜に家を飛び出し笛を吹く。会いたかったビエントに会えた。過ごすうちもっと好きになる。必死で練習した飛行魔法とささやかな攻撃魔法を身につけ、リリーは今度は自分からビエントに会いに行こうと家出をして旅を始めた。旅の途中の魔物の森で魔物に襲われ、リリーは自分の未熟さに気付き、国営の騎士団に入り、魔物狩りを始めた。最終目的はダンジョンの攻略。悪役令嬢と魔物退治、ダンジョン攻略等を混ぜてみました。メインはリリーが王妃になるまでのシンデレラストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる