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第四章 邂逅
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その日から、シャールは急激に快復に向かった。
「精神から来ていたのだな」
自分でそう思い、彼女は苦笑する。
負けてはいられない。
アンゼリスカを見つけ出し、そしてレイネンドランドの本当の思惑を探り当てる。
レイサルは懲りもせず毎日顔を見せる。そして、威嚇するシャールを見ては愉快そうに笑うのだ。
今だけだ、敗北者のふりをしているのも今だけ。
――レイネンドランドへ来てから十五日目。シャールはベッドから下り、軽い運動もできるようになった。
そんなシャールの元へ、こちらも毎日欠かさず様子を見に来る青年が一人。
「シャール様。順調な回復何よりですね」
フレデリックは眼鏡の奥の空色の瞳を、頼もしそうに微笑ませていた。
「フレッド」
シャールは青年の顔を見て、にっと笑う。
『かわいい女の子は見つかったか?』
レイネンドランド共用語で話しかけてやると、眼鏡の青年はこちらもにやりと笑い、
『レイネンドランドの女性はおおらかで素敵ですね』
と中々流暢に返してきた。
あはっとシャールは快活に笑う。
「アンゼは言語学者だ。アンゼを見つけたら自慢できるぐらいになっておかなくてはならんぞ」
「そうですねえ」
フレデリックは窓の外を見る。
シャールの部屋の窓からは、みずみずしく茂った植物庭園が見える。
そこから視線を上げると、海。そして横を見ると、高い高い山脈が見通せた。
「山……」
フレデリックはつぶやいた。「この国は、山がまだまだ未開発のようですね」
「うん? うん。鉱山としての可能性はかなりのようだな」
「鉱山……」
「城の南東は海だが、それ以外の方角は全体が山だ。確か南のグレファンド王国は宝石の産地だから、南の山は宝石が出る可能性が高いだろうし」
フレデリックはふとシャールの方を見て、
「シャール様は宝石にはあまり興味がないようですが……これからはそうもいきませんよ。何しろそれほど遠くない未来の王妃ですからね」
と言った。
シャールの思考能力は、その瞬間だけやけにゆっくりとしていた。側近の言った言葉を理解するのにかなりの時間を要した彼女は、やがて目を大きく見張って、
「何を言っているのだお前は!」
と叱りつけた。「私はティエラ人で、ティエラの次期国王はエディレイド兄上だ。私が王妃になるなどありえないだろうが」
「違いますよ。レイネンドランドの王妃でしょう」
――あまりにも意外な言葉に、少女はしばし言葉を失った。
「フレッド……お前、本気でそんなことを言っているのか?」
「本気も何も。もう決定していることではないですか」
フレデリックは大仰に肩をすくめる。
シャールはかっとなった。
「馬鹿者! レイネンドランドの言いなりになるわけにはいかぬということはよく分かっているだろう……! あの王子は信用ならぬ、私は結婚などしない!」
「ご婚約の儀は黄の二十日でしたね。あと二十一日です」
今日は橙黄の白ですからね、とフレデリックは部屋にかけられていた、ティエラから持ち込んだティエラ暦を見やる。
ふん、とシャールは鼻を鳴らす。
「仮に婚約の儀には間に合わなくても、私は諦めぬ。アンゼを見つけ出し、レイネンドランドの真意を探り出し、必ずこの話を破談にする」
「無理ですよ。もうレイネンドランドはもちろん、ティエラにも広がった話です」
「訂正はいくらでもきく」
「突然破談になどしたら、国民の不安をあおることはよくお分かりでしょう」
フレデリックは王女に歩み寄った。
ゆっくり、少女の両肩に手を置いて、
「姫。よくお考えください。このままご結婚なさった方がどれだけいいか。……あのティエラでどれほど息苦しい思いをしたか、忘れたわけではないでしょう」
「フレ……フレッド……?」
「レイネンドランドでなら解放されます。あなたは紡石という束縛から解放されるんです」
国民にも聞いてきました――と青年は言った。
「レイネンドランドの国民は、ティエラの紡石という能力を不気味がっている。そうである以上、レイサル王子を始めとするレイネンドランドの王族も、むやみに紡石(ピエトラ)の話を出したりしませんよ。いい話じゃないですか」
シャールは――
フレデリックの手を、払った。
そして、青年の空色の瞳を見つめた。……哀れみをこめた瞳で。
「もしやお前……お前も、紡石に束縛されていたのか?」
「………」
フレデリックは黙り込んだ。それを見て、王女は言葉を重ねる。
「なぜだ? なぜそうも気弱になった? 私はお前と初めて出会ったときの、お前の堂々とした姿を忘れていない。お前はそんなに弱くなかったはずだ」
「これは……随分とかいかぶられたものだ」
青年の唇が、引きつったような笑みを浮かべる。
「私は昔から弱いんですよ、姫。シャール様。あなたほど……強くはない」
低く囁かれた言葉は、なぜか鋭い矢のようにシャールの胸に突き刺さって。
「わ――私も、強くなど――」
しどろもどろに応えようとした少女を見て、青年は笑った。高らかに笑った。
それは明らかに、自嘲する笑い声で。
彼の心の闇の淵が一瞬、かいま見えた気がして、シャールはぶるっと震えた。
これほど近くにいたのに。
今までかけらも――気づかなかった。彼がその胸に飼っていたかよわく鳴く猫に。
やがて、ぴたりと笑い声がやむ。
空色の瞳から、感情が抜け落ちる。初めて見る、顔――
「あなたは、この国の王妃になるべきだ」
強く、押し付けるように言葉は放たれる。
その重さにどうしうようもない圧力を感じながら、それでもシャールは側近の言葉にうなずかなかった。
「いやだ、私はティエラの王女だ」
「そう言っていられるのも今のうちです」
言い捨てて、フレデリックは身を翻した。そのままドアの外へ姿を消す。
乱暴に閉められたドアの音が、二人の絆を断ち切った気がした。
シャールの胸が焼け付く痛みを訴える。
消えた後姿。
この国につれてきた、たった一人の側近。
アンゼリスカを見つけ出すために力を合わせられると信じていた存在。
そして、この縁組の不可解さをともに調べてくれると信じていた存在――
それが今、失われた。彼女は激しく頭を振った。金の髪が乱れる。からみついて顔に貼りつき、視界の邪魔をする。
「アンゼ……」
苦しい呼吸とともに口に出したのは、何より近しい側近の名だった。
アンゼリスカはどこだ? どこにいる?
ああ、独りにしないでくれ――!
――わたしのかわいい姫……
ふと――耳元で誰かが囁いたような気がして、シャールははっと窓の外を見た。
鳥の影が、行き過ぎていった。
「―――!」
窓に駆け寄り、邪魔な髪をよけて景色を見渡す。遠くに鳥の群れがいる。しかし今通り過ぎていくような距離には、何もいない。
「わたしの、かわいい、姫……」
その言葉を口の中で繰り返す。
奇跡としか言いようがなかったあの瞬間。
ティエラがしゃべったあの忘れられない刻。声。響き。
そうこの言葉は、ティエラがくれた言葉――
シャールは視線を上げた。
眼差しは強かった。――一人だと、嘆いている場合ではない。
自分がやるべきことはまだまだある。
たとえ一人でも――
信じたものを証明するために、行動することをやめてはいけない。
ドアがノックされた。
「シャール。入るよ」
それは兄の声。
やらなければならないことが目の前に迫ってきた。シャールは、ぴんと背筋を伸ばした。
「もう完全に起きても大丈夫なんだな」
妹の姿を見て、エディレイドは嬉しそうに微笑んだ。
「兄上」
シャールは兄にソファをすすめ、「話がある」と切り出した。
「なんだい? 怖い顔をしているな」
「真面目な顔と言ってくれ。兄上、レイサル王子とはどれほど仲がよいのだ?」
エディレイドは不思議そうな顔をした。
「レイサルには、留学時代の三年間ずっと世話になったし、今でも文のやりとりをしていると言ったろう? 親友と言ってもいいくらいだよ」
「……では、兄上にはとても言いにくい言葉となるが」
シャールは努めて冷静に、兄の蜜色の瞳を見つめた。
「私は、レイサル王子を信じることに反対だ」
「……何だって?」
「この結婚により、二つの国は王権両立状態となると兄上はおっしゃったが、レイサル王子は言った。王権両立とは違う、どちらかがどちらかを支えればいいと」
かの王子の言葉を思い出しながら、ゆっくりと口にする。
「これは、兄上のお考えとは違うのではないか? これではまるで、どちらかの国がどちらかの国に吸収されるかのような考えだ。レイサル王子はそのつもりでいる。兄上とは、違う」
「……何を馬鹿なことを」
エディレイドの目から光が消える。
「本当だ」
シャールはうなずいてみせた。「私は、王子自身の口から聞いた」
エディレイドの手が、膝の上で拳に握られた。やがて、それがぶるぶると震えだす。
「そんな、馬鹿な」
視線は妹からそれ、そのまま下へ落ちる。信じられないと言いたげな声がもれた。
「兄上には何と言っているか知らないが――私は、あの王子を信じられない。だから、結婚もする気になれない。兄上」
「―――!」
エディレイドは勢いよく立ち上がった。そしてつかつかとドアへ向かいノブをつかむ。
「どこへ行かれるのだ!」
シャールは立ち上がった。
「レイサルと話してくる」
振り向かないまま、押し殺した声が聞こえた。
「待ってくれ、私も行く……!」
「来るな!」
「行く!」
エディレイドはいらいらしたようにドアを開け、「衛兵!」とレイネンドランド語で怒鳴った。
「誰か! 妹を部屋に閉じ込めろ!」
信じられない、荒々しい言葉と態度だった。
部屋から出なかったシャールは知らなかったのだが、どうやらこの辺りはティエラの客人にあてがわれた部屋が集まっているらしい。護衛のために立っていたレイネンドランドの兵士たちが、突然の怒声に驚き、とっさに動けず固まっている。
たまたま先ほど出ていったばかりだったフレデリックが、まだ近くにいた。
「殿下? シャール様まで。どうなさったんですか」
早足でやってくると、険しい顔のエディレイドとそれにすがりつこうとするシャールの顔を見比べる。
「カシュア副隊長。シャールを部屋に閉じ込めろ」
「は……?」
「レイサル王子の元へ行かれるなら私も行く、兄上! 一人では丸め込まれる!」
「お前は僕を馬鹿にしているのか……!」
シャールは頭を振って、兄の腕にしがみつく。エディレイドはそれを振り切って、足早に歩き出した。フレデリックは困ったように動けずにいる。それをいいことに、シャールは兄の後を追う。
「シャール様!」
結局フレデリックも後を追ってくる形となった。だが理由が分かっていない彼は、シャールを連れ戻そうという気はないようだ。
ざわつくレイネンドランドの兵士たちの視線をよそに回廊を進み、曲がって曲がって、やがてたどりつく部屋。
茶色のドアが目の前に迫った。木彫り細工の装飾の細かい、いかにも貴賓室じみているドア。
エディレイドはそのドアを乱暴にノックした。シャールはその後ろで息をつめて見守り、そのまた後ろに、集まってくるレイネンドランドの兵士たちを追い払うフレデリックが。
部屋の中から、「誰だ」と声がした。――レイサルの声だ。
「レイサル。僕だ」
「エディ? 入れ」
鍵はかかっていなかったらしい。エディレイドはドアを開けた。立ち上がって迎える態勢でいたレイサルは、エディレイドだけではなくシャールやフレデリックまでいることに目を丸くしたようだった。
「何だ、兄妹揃って?」
「シャールは邪魔をしにきただけだ。……レイサル、尋ねたいことがある」
「何だ?」
エディレイドはレイサルに向かって歩く。シャールも遠慮なく部屋に入り込んだ。フレデリックは迷ったようだったが、
「失礼致します」
と自分も足を踏み入れ、ドアを内側から閉めた。
エディレイドは、レイサルをまっすぐに見つめた。
「僕たちは約束したはずだな? ティエラとレイネンドランドが縁組による友好条約でつながったら、王権両立で二つの王族を並び立たせると」
「ああ、その通りだ――」
「嘘だ!」
シャールは怒鳴った。
レイサルが眉間にしわを寄せて少女を見た。
構わず前に出て、彼女はレイサルに迫る。
「言っていたではないですか。どちらかがどちらかを支えるのだと。それはつまり、どちらかの王族がどちらかの王族を吸収するのと同じことだ、そうでしょうレイサル王子?」
少女の眼差しの強さは、王子にどう映ったのだろうか。
「……ああ、病身の相手だと思って気をゆるめたのがまずかったかな」
レイサルは唇に笑みを形作る。
「本当にそんなことを言ったのか、レイサル……!」
エディレイドが声を上げた。
「僕との約束を、反故にするつもりだったのか!」
そんな彼を、レイサルは冷ややかな目で見た。
「……普通、自分の国が有利になるように話を進めるものだ。違うか? エディ」
「レイサル……!」
「今までの条約内容ではどれだけティエラが有利だったか。そんなものを本気で許すと思っていたのか?」
エディレイドの蜜色の瞳が怒りで燃えた。彼は奥歯をきしらせた。
「僕が留学していた時代から、二人で話し合っていた夢だったのに……!」
「甘いなエディ。お前は確かに私の親友だが」
今は――
「……レイネンドランドという国の王子と、ティエラという国の王子なんだよ、エディレイド。その立場の重さ、分からないわけがあるまい?」
「………!」
レイサルはティエラの兄妹の間を抜け、ドアの前にいたフレデリックを押しのけてドアを開けると、「衛兵!」と声高らかに呼んだ。
「ティエラの客人を、それぞれ部屋にお連れしろ」
兵士たちが動き出した。
「レイサル、話はまだ終わっていない……!」
エディレイドがかみつきそうな声を出した。
「もう終わりだ」
レイサルは手を振った。兵士たちに向かって、「力ずくでも部屋に戻せ、そして部屋から出すな」と言いつける。
兵士たちは従順だった。エディレイドとシャールに迫り来る。
「―――!」
シャールは兵士の手を払った。「フレッド、兄上を護れ!」
フレデリックは、エディレイドを捕まえた兵士の手首をつかんでひねる。手は簡単にはずれた。しかし兵士たちの攻勢はやまない。腹に向かって飛んできた拳を半身をそらしてかわし、シャールは肘を兵士の鳩尾に打ち込んだ。
エディレイドに群がる兵士たちは、フレデリックがのきなみ気絶させていく。エディレイドは肉体派ではない。あいにくと、訓練された兵士が相手では勝負にならないのだ。
シャールの体は、病み上がりとは思えないほど軽快に動いた。まるで今までたまっていたものが爆発したかのように、手が、足が、思い通りに動く。
シャールとフレデリックは日頃の訓練を体現してみせた。兵士の急所をピンポイントで狙い、少ない手数で倒していく。
レイサルはそれを、腕を組んで見つめていた。唇が愉快そうに吊りあがっている。シャールはそれを訝った。
やがて、その余裕の理由は知れた。
「……何の騒ぎだ」
重厚感のある声が、廊下に響いた。
兵士たちははっと動きをとめ、敬礼した。
しまった。シャールは唇を噛む。
――そこに、レイネンドランド国王が、たくさんの側近をともなって立っていた。
廊下に倒れている兵士たちを眺めた王は、凍るように冷たい声を出す。
「レイサル。会議に顔を出さないから何が起こっているかと思ったら――何の騒ぎじゃ」
「見ての通りですよ、陛下」
「……客人が暴れているように見えるのだが?」
「そう見えるなら、そうなのでしょう」
いたずらな返答だった。国王は、ふむ、と深く息をついた。
「ティエラの客人。あなた方は大切な客人だが――こんな乱暴を働いていいと思っているのかね」
「乱暴なのは――!」
「すまないが我が国は平和主義なのだ。このようなことをされては黙っておれん」
国王の眼差しは怜悧な刃。
その前では、さしものシャールも、エディレイドも何も言えず。
――ティエラの王族二人は、部屋に軟禁。
フレデリックおよびエディレイド親衛隊は投獄。
レイサルの、勝ち誇った笑みが見えたような気がした。
「精神から来ていたのだな」
自分でそう思い、彼女は苦笑する。
負けてはいられない。
アンゼリスカを見つけ出し、そしてレイネンドランドの本当の思惑を探り当てる。
レイサルは懲りもせず毎日顔を見せる。そして、威嚇するシャールを見ては愉快そうに笑うのだ。
今だけだ、敗北者のふりをしているのも今だけ。
――レイネンドランドへ来てから十五日目。シャールはベッドから下り、軽い運動もできるようになった。
そんなシャールの元へ、こちらも毎日欠かさず様子を見に来る青年が一人。
「シャール様。順調な回復何よりですね」
フレデリックは眼鏡の奥の空色の瞳を、頼もしそうに微笑ませていた。
「フレッド」
シャールは青年の顔を見て、にっと笑う。
『かわいい女の子は見つかったか?』
レイネンドランド共用語で話しかけてやると、眼鏡の青年はこちらもにやりと笑い、
『レイネンドランドの女性はおおらかで素敵ですね』
と中々流暢に返してきた。
あはっとシャールは快活に笑う。
「アンゼは言語学者だ。アンゼを見つけたら自慢できるぐらいになっておかなくてはならんぞ」
「そうですねえ」
フレデリックは窓の外を見る。
シャールの部屋の窓からは、みずみずしく茂った植物庭園が見える。
そこから視線を上げると、海。そして横を見ると、高い高い山脈が見通せた。
「山……」
フレデリックはつぶやいた。「この国は、山がまだまだ未開発のようですね」
「うん? うん。鉱山としての可能性はかなりのようだな」
「鉱山……」
「城の南東は海だが、それ以外の方角は全体が山だ。確か南のグレファンド王国は宝石の産地だから、南の山は宝石が出る可能性が高いだろうし」
フレデリックはふとシャールの方を見て、
「シャール様は宝石にはあまり興味がないようですが……これからはそうもいきませんよ。何しろそれほど遠くない未来の王妃ですからね」
と言った。
シャールの思考能力は、その瞬間だけやけにゆっくりとしていた。側近の言った言葉を理解するのにかなりの時間を要した彼女は、やがて目を大きく見張って、
「何を言っているのだお前は!」
と叱りつけた。「私はティエラ人で、ティエラの次期国王はエディレイド兄上だ。私が王妃になるなどありえないだろうが」
「違いますよ。レイネンドランドの王妃でしょう」
――あまりにも意外な言葉に、少女はしばし言葉を失った。
「フレッド……お前、本気でそんなことを言っているのか?」
「本気も何も。もう決定していることではないですか」
フレデリックは大仰に肩をすくめる。
シャールはかっとなった。
「馬鹿者! レイネンドランドの言いなりになるわけにはいかぬということはよく分かっているだろう……! あの王子は信用ならぬ、私は結婚などしない!」
「ご婚約の儀は黄の二十日でしたね。あと二十一日です」
今日は橙黄の白ですからね、とフレデリックは部屋にかけられていた、ティエラから持ち込んだティエラ暦を見やる。
ふん、とシャールは鼻を鳴らす。
「仮に婚約の儀には間に合わなくても、私は諦めぬ。アンゼを見つけ出し、レイネンドランドの真意を探り出し、必ずこの話を破談にする」
「無理ですよ。もうレイネンドランドはもちろん、ティエラにも広がった話です」
「訂正はいくらでもきく」
「突然破談になどしたら、国民の不安をあおることはよくお分かりでしょう」
フレデリックは王女に歩み寄った。
ゆっくり、少女の両肩に手を置いて、
「姫。よくお考えください。このままご結婚なさった方がどれだけいいか。……あのティエラでどれほど息苦しい思いをしたか、忘れたわけではないでしょう」
「フレ……フレッド……?」
「レイネンドランドでなら解放されます。あなたは紡石という束縛から解放されるんです」
国民にも聞いてきました――と青年は言った。
「レイネンドランドの国民は、ティエラの紡石という能力を不気味がっている。そうである以上、レイサル王子を始めとするレイネンドランドの王族も、むやみに紡石(ピエトラ)の話を出したりしませんよ。いい話じゃないですか」
シャールは――
フレデリックの手を、払った。
そして、青年の空色の瞳を見つめた。……哀れみをこめた瞳で。
「もしやお前……お前も、紡石に束縛されていたのか?」
「………」
フレデリックは黙り込んだ。それを見て、王女は言葉を重ねる。
「なぜだ? なぜそうも気弱になった? 私はお前と初めて出会ったときの、お前の堂々とした姿を忘れていない。お前はそんなに弱くなかったはずだ」
「これは……随分とかいかぶられたものだ」
青年の唇が、引きつったような笑みを浮かべる。
「私は昔から弱いんですよ、姫。シャール様。あなたほど……強くはない」
低く囁かれた言葉は、なぜか鋭い矢のようにシャールの胸に突き刺さって。
「わ――私も、強くなど――」
しどろもどろに応えようとした少女を見て、青年は笑った。高らかに笑った。
それは明らかに、自嘲する笑い声で。
彼の心の闇の淵が一瞬、かいま見えた気がして、シャールはぶるっと震えた。
これほど近くにいたのに。
今までかけらも――気づかなかった。彼がその胸に飼っていたかよわく鳴く猫に。
やがて、ぴたりと笑い声がやむ。
空色の瞳から、感情が抜け落ちる。初めて見る、顔――
「あなたは、この国の王妃になるべきだ」
強く、押し付けるように言葉は放たれる。
その重さにどうしうようもない圧力を感じながら、それでもシャールは側近の言葉にうなずかなかった。
「いやだ、私はティエラの王女だ」
「そう言っていられるのも今のうちです」
言い捨てて、フレデリックは身を翻した。そのままドアの外へ姿を消す。
乱暴に閉められたドアの音が、二人の絆を断ち切った気がした。
シャールの胸が焼け付く痛みを訴える。
消えた後姿。
この国につれてきた、たった一人の側近。
アンゼリスカを見つけ出すために力を合わせられると信じていた存在。
そして、この縁組の不可解さをともに調べてくれると信じていた存在――
それが今、失われた。彼女は激しく頭を振った。金の髪が乱れる。からみついて顔に貼りつき、視界の邪魔をする。
「アンゼ……」
苦しい呼吸とともに口に出したのは、何より近しい側近の名だった。
アンゼリスカはどこだ? どこにいる?
ああ、独りにしないでくれ――!
――わたしのかわいい姫……
ふと――耳元で誰かが囁いたような気がして、シャールははっと窓の外を見た。
鳥の影が、行き過ぎていった。
「―――!」
窓に駆け寄り、邪魔な髪をよけて景色を見渡す。遠くに鳥の群れがいる。しかし今通り過ぎていくような距離には、何もいない。
「わたしの、かわいい、姫……」
その言葉を口の中で繰り返す。
奇跡としか言いようがなかったあの瞬間。
ティエラがしゃべったあの忘れられない刻。声。響き。
そうこの言葉は、ティエラがくれた言葉――
シャールは視線を上げた。
眼差しは強かった。――一人だと、嘆いている場合ではない。
自分がやるべきことはまだまだある。
たとえ一人でも――
信じたものを証明するために、行動することをやめてはいけない。
ドアがノックされた。
「シャール。入るよ」
それは兄の声。
やらなければならないことが目の前に迫ってきた。シャールは、ぴんと背筋を伸ばした。
「もう完全に起きても大丈夫なんだな」
妹の姿を見て、エディレイドは嬉しそうに微笑んだ。
「兄上」
シャールは兄にソファをすすめ、「話がある」と切り出した。
「なんだい? 怖い顔をしているな」
「真面目な顔と言ってくれ。兄上、レイサル王子とはどれほど仲がよいのだ?」
エディレイドは不思議そうな顔をした。
「レイサルには、留学時代の三年間ずっと世話になったし、今でも文のやりとりをしていると言ったろう? 親友と言ってもいいくらいだよ」
「……では、兄上にはとても言いにくい言葉となるが」
シャールは努めて冷静に、兄の蜜色の瞳を見つめた。
「私は、レイサル王子を信じることに反対だ」
「……何だって?」
「この結婚により、二つの国は王権両立状態となると兄上はおっしゃったが、レイサル王子は言った。王権両立とは違う、どちらかがどちらかを支えればいいと」
かの王子の言葉を思い出しながら、ゆっくりと口にする。
「これは、兄上のお考えとは違うのではないか? これではまるで、どちらかの国がどちらかの国に吸収されるかのような考えだ。レイサル王子はそのつもりでいる。兄上とは、違う」
「……何を馬鹿なことを」
エディレイドの目から光が消える。
「本当だ」
シャールはうなずいてみせた。「私は、王子自身の口から聞いた」
エディレイドの手が、膝の上で拳に握られた。やがて、それがぶるぶると震えだす。
「そんな、馬鹿な」
視線は妹からそれ、そのまま下へ落ちる。信じられないと言いたげな声がもれた。
「兄上には何と言っているか知らないが――私は、あの王子を信じられない。だから、結婚もする気になれない。兄上」
「―――!」
エディレイドは勢いよく立ち上がった。そしてつかつかとドアへ向かいノブをつかむ。
「どこへ行かれるのだ!」
シャールは立ち上がった。
「レイサルと話してくる」
振り向かないまま、押し殺した声が聞こえた。
「待ってくれ、私も行く……!」
「来るな!」
「行く!」
エディレイドはいらいらしたようにドアを開け、「衛兵!」とレイネンドランド語で怒鳴った。
「誰か! 妹を部屋に閉じ込めろ!」
信じられない、荒々しい言葉と態度だった。
部屋から出なかったシャールは知らなかったのだが、どうやらこの辺りはティエラの客人にあてがわれた部屋が集まっているらしい。護衛のために立っていたレイネンドランドの兵士たちが、突然の怒声に驚き、とっさに動けず固まっている。
たまたま先ほど出ていったばかりだったフレデリックが、まだ近くにいた。
「殿下? シャール様まで。どうなさったんですか」
早足でやってくると、険しい顔のエディレイドとそれにすがりつこうとするシャールの顔を見比べる。
「カシュア副隊長。シャールを部屋に閉じ込めろ」
「は……?」
「レイサル王子の元へ行かれるなら私も行く、兄上! 一人では丸め込まれる!」
「お前は僕を馬鹿にしているのか……!」
シャールは頭を振って、兄の腕にしがみつく。エディレイドはそれを振り切って、足早に歩き出した。フレデリックは困ったように動けずにいる。それをいいことに、シャールは兄の後を追う。
「シャール様!」
結局フレデリックも後を追ってくる形となった。だが理由が分かっていない彼は、シャールを連れ戻そうという気はないようだ。
ざわつくレイネンドランドの兵士たちの視線をよそに回廊を進み、曲がって曲がって、やがてたどりつく部屋。
茶色のドアが目の前に迫った。木彫り細工の装飾の細かい、いかにも貴賓室じみているドア。
エディレイドはそのドアを乱暴にノックした。シャールはその後ろで息をつめて見守り、そのまた後ろに、集まってくるレイネンドランドの兵士たちを追い払うフレデリックが。
部屋の中から、「誰だ」と声がした。――レイサルの声だ。
「レイサル。僕だ」
「エディ? 入れ」
鍵はかかっていなかったらしい。エディレイドはドアを開けた。立ち上がって迎える態勢でいたレイサルは、エディレイドだけではなくシャールやフレデリックまでいることに目を丸くしたようだった。
「何だ、兄妹揃って?」
「シャールは邪魔をしにきただけだ。……レイサル、尋ねたいことがある」
「何だ?」
エディレイドはレイサルに向かって歩く。シャールも遠慮なく部屋に入り込んだ。フレデリックは迷ったようだったが、
「失礼致します」
と自分も足を踏み入れ、ドアを内側から閉めた。
エディレイドは、レイサルをまっすぐに見つめた。
「僕たちは約束したはずだな? ティエラとレイネンドランドが縁組による友好条約でつながったら、王権両立で二つの王族を並び立たせると」
「ああ、その通りだ――」
「嘘だ!」
シャールは怒鳴った。
レイサルが眉間にしわを寄せて少女を見た。
構わず前に出て、彼女はレイサルに迫る。
「言っていたではないですか。どちらかがどちらかを支えるのだと。それはつまり、どちらかの王族がどちらかの王族を吸収するのと同じことだ、そうでしょうレイサル王子?」
少女の眼差しの強さは、王子にどう映ったのだろうか。
「……ああ、病身の相手だと思って気をゆるめたのがまずかったかな」
レイサルは唇に笑みを形作る。
「本当にそんなことを言ったのか、レイサル……!」
エディレイドが声を上げた。
「僕との約束を、反故にするつもりだったのか!」
そんな彼を、レイサルは冷ややかな目で見た。
「……普通、自分の国が有利になるように話を進めるものだ。違うか? エディ」
「レイサル……!」
「今までの条約内容ではどれだけティエラが有利だったか。そんなものを本気で許すと思っていたのか?」
エディレイドの蜜色の瞳が怒りで燃えた。彼は奥歯をきしらせた。
「僕が留学していた時代から、二人で話し合っていた夢だったのに……!」
「甘いなエディ。お前は確かに私の親友だが」
今は――
「……レイネンドランドという国の王子と、ティエラという国の王子なんだよ、エディレイド。その立場の重さ、分からないわけがあるまい?」
「………!」
レイサルはティエラの兄妹の間を抜け、ドアの前にいたフレデリックを押しのけてドアを開けると、「衛兵!」と声高らかに呼んだ。
「ティエラの客人を、それぞれ部屋にお連れしろ」
兵士たちが動き出した。
「レイサル、話はまだ終わっていない……!」
エディレイドがかみつきそうな声を出した。
「もう終わりだ」
レイサルは手を振った。兵士たちに向かって、「力ずくでも部屋に戻せ、そして部屋から出すな」と言いつける。
兵士たちは従順だった。エディレイドとシャールに迫り来る。
「―――!」
シャールは兵士の手を払った。「フレッド、兄上を護れ!」
フレデリックは、エディレイドを捕まえた兵士の手首をつかんでひねる。手は簡単にはずれた。しかし兵士たちの攻勢はやまない。腹に向かって飛んできた拳を半身をそらしてかわし、シャールは肘を兵士の鳩尾に打ち込んだ。
エディレイドに群がる兵士たちは、フレデリックがのきなみ気絶させていく。エディレイドは肉体派ではない。あいにくと、訓練された兵士が相手では勝負にならないのだ。
シャールの体は、病み上がりとは思えないほど軽快に動いた。まるで今までたまっていたものが爆発したかのように、手が、足が、思い通りに動く。
シャールとフレデリックは日頃の訓練を体現してみせた。兵士の急所をピンポイントで狙い、少ない手数で倒していく。
レイサルはそれを、腕を組んで見つめていた。唇が愉快そうに吊りあがっている。シャールはそれを訝った。
やがて、その余裕の理由は知れた。
「……何の騒ぎだ」
重厚感のある声が、廊下に響いた。
兵士たちははっと動きをとめ、敬礼した。
しまった。シャールは唇を噛む。
――そこに、レイネンドランド国王が、たくさんの側近をともなって立っていた。
廊下に倒れている兵士たちを眺めた王は、凍るように冷たい声を出す。
「レイサル。会議に顔を出さないから何が起こっているかと思ったら――何の騒ぎじゃ」
「見ての通りですよ、陛下」
「……客人が暴れているように見えるのだが?」
「そう見えるなら、そうなのでしょう」
いたずらな返答だった。国王は、ふむ、と深く息をついた。
「ティエラの客人。あなた方は大切な客人だが――こんな乱暴を働いていいと思っているのかね」
「乱暴なのは――!」
「すまないが我が国は平和主義なのだ。このようなことをされては黙っておれん」
国王の眼差しは怜悧な刃。
その前では、さしものシャールも、エディレイドも何も言えず。
――ティエラの王族二人は、部屋に軟禁。
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レイサルの、勝ち誇った笑みが見えたような気がした。
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