暁の姫

瑞原チヒロ

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第四章 邂逅

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 シャールにあてがわれた部屋は、客室の中でも一等質のいい南側の部屋。
 目を覚ましたとき、まず天蓋が目に入って、シャールはぼんやりとそこに施された紋様を見つめていた。
 天蓋布は淡い緑と青の織物。目に優しくて心地よい。
 体が重い。マットレスに沈んでいきそうだ。
 こんなところで力尽きている場合ではないのに……
 自分の弱さを責めながら、そのまましばらく一人きりの時間を過ごしていると、ドアをノックする音が聞こえた。
 声を出す気になれなかった。ノックをした人物は、返答を待たずにドアを開けた。
「姫。失礼します」
 レイサルの声だ――
 自然、体が緊張する。足音は絨毯で消されているが、シャールも訓練された人間だ、気配ぐらい分かる。近づいてくる、ベッドへまっすぐと。
「開きますよ」
 と声がかかり、天蓋布がしゃっと開いた。
 腕にタオルをかけ、銀のトレイに吸い飲みを載せたレイサルが立っていた。シャールと視線が合うと、表情を和らげ、
「ああ、目が覚めたんですね。よかった」
 トレイを枕元に置き、ベッドの端に腰かける。
 シャールは声を出そうと試みた。一度目は失敗した。喉が渇いて引きつっている。
「薬湯です、姫」
 レイサルは腕をシャールの首の下に入れて頭を高くさせると、吸い飲みを彼女の桃色の唇に寄せた。
 すっと差し込まれてくる吸い口。流れ込んできた熱い液体。
 薬湯など飲むのは久しぶりで、シャールはその苦さにけほけほとむせた。
 吸い飲みの中身がすべてなくなると、レイサルはそれをトレイに戻し、彼女の頭を枕に落ち着けた。それからタオルで少女の顔を優しく拭く。
 熱い液体が喉を通っていく。潤していく。シャールは開き気味だった唇を動かした。
「……王子……」
 声が、出た。
 レイサルが嬉しそうに微笑む。
「何ですか、姫」
 いたずらっぽく尋ねてくる。意味もなく呼んだのは分かっているだろうに。
 シャールは体を起こそうとして、断念した。まるで自分のものではないかのように、精神と体が切り離されているような感覚。
 吐息。自分はこんなに弱かったかと、改めて思う。
「無理はなさらなくていいんですよ、姫」
 レイサルは手を伸ばし、指先でシャールの頬をすっとなでた。
「エディと違って、貴女はここへ静養に来られたんだ。ゆっくりお休みなさい」
「……そうは、いきません……」
 アンゼリスカを見つけ出さないと――
 レイサルには聞こえない心の声で強く思うと、レイサルは指先でシャールの頬に触れたまま、
「ああ、鳥を探しに行きたいのですか? エディに聞きました、貴女は鳥をとても愛していると。この国で探したい鳥がいるのでしょう」
 まるで見当違いのことを言う。
 エディレイドも余計なことを言ったものだ。再び息をつくと、「大分お疲れのようだ」とレイサルは彼女の前髪を指先でよけた。
 愛おしいものを愛でるような手つき――
「早く元気になるためにも、今は休まれることをおすすめしますよ。貴女方ティエラの客人の歓迎晩餐会は、貴女が元気になってから催すことにしています。早くお元気になってください、私の美しい婚約者」
「レイサル王子」
 思わず名を呼んだ。
 レイサルは、覆いかぶさるようにして顔を寄せてきた。
「……噂には聞いておりましたが、本当にお美しい姫君だ、貴女は。私は果報者ですよ――」
 耳元で囁き、顔を離す。
 青年王子の掌が、少女の頬を包み込む。露の浮かんだ真珠のような肌をひとしきり愛撫した後、彼は立ち上がった。
「また来ます、姫。よくお眠りになってください」
 タオルと吸い飲みの載ったトレイを手に身を引き、天蓋布を閉める――
 気配が、遠ざかっていく。ドアを開け、出て行く王子。
 ――どっと、体中から汗が噴き出した。
 押し付けられていた緊張感が解けた反動だった。
「……本気か、あの王子……」
 まさか。うかつに言葉を信じてはいけない。
 まだ信用できない。いや、今後信用できることなどあるのだろうか――
 気がつくと、腕が動かせるようになっていた。薬湯が効いてきたのだろうか。
 持ち上がった腕。手で頬をなでる。愛撫された頬はなぜか熱い。
 かっと胸の奥が熱くなったのは、薬湯のせいか?
「……馬鹿な、何を考えているんだ私は」
 自分を叱咤し、頬を指でぴんと弾いた。
 それから彼女はゆっくり息を吐き、目を閉じた。アンゼリスカの安否が気になるが、こんなざまでは何もできない。
 今は休もう。――大切な人を、捜すだけの力を取り戻すために。

 それから六日間。
 使用人がかわるがわるシャールの部屋を訪れては、汗を拭き、薬湯を飲ませ、軽い食事をさせ、服を着替えさせとかいがいしく世話をした。
 フレデリックは毎日顔を見せた。
「早く元気になれるといいですね」
 微笑む空色の瞳を見るたび、シャールは空が恋しくなった。
「俺はまだレイネンドランド語が不自由でしてね、苦労してますよ」
「かわいい女の子に声がかけられないからだろう」
「さすがよく分かっていらっしゃる。なので、この国では珍しい、言語学に通じている学士に学んでいます」
「……かわいい女の子か?」
「いやーこれがかっぷくのいい夫人で。あと十年若かったらなあ」
「とりあえずアンゼが見つかったら今のセリフを伝えておくぞ」
「刺されるのでやめてください」
 エディレイドは一回だけ訪れた。
「すまないシャール。……少し、忙しくて」
「構わない、兄上」
 実際には気になる。兄が行っているのは、他ならぬ自分の婚約の儀の準備のはずだから。
 しかしシャールの気分はふさぎがちで、回復はままならない。
 七日目にしてようやく、彼女は上体を起こせるようになった。
「大分回復されましたね、姫」
 嬉しそうに言ったのは、レイサルだった。彼は頻繁にシャールの元に訪れる。
 いつものようにベッドの端に腰かけ、手を伸ばしてシャールの頬に触れる。
 思わず顔を引いた。――考えてみれば、今まで避けなかったことの方がおかしいのだ。
「王子。淑女の肌に軽々しく触れてはなりませんよ?」
 冗談めかして言うと、レイサルはおかしそうに笑った。
「いいではないですか、貴女は私の婚約者だ」
「……まだ、婚約の儀は執り行われておりません」
「儀式の準備は順調に行われていますよ」
 ふいにレイサルの森の色の瞳が、まっすぐとシャールを見つめる。
 その視線から逃れられなくて、シャールは鼓動が早くなるのを感じる。
 負けるな。――呑まれてはいけない。
 ゆっくり、呼吸をして。
「王子」
 口を開いた。
「兄からうかがいました。……レイネンドランドとティエラで、王権両立を目指そう、と……」
「ああ、その話ですか」
 レイサルは興味がなさそうに、軽く手を振った。
「王権両立、というほどのことでもありませんよ。簡単なことです。どちらかがどちらかを支えればいい」
「―――」
 シャールは夕陽の瞳に警戒心をみなぎらせる。それは、
 エディレイドの言っている『王権両立』とは、意味合いが違うのではないか――?
 視線に気づいたのか、レイサルはおかしそうにシャールを見る。
「何か、不満そうですね?」
「……いえ……」
「貴女は正直な姫だ」
 はははっと軽く笑って、それからふいに、真顔になる。
 再び――視線が絡まった。
 森の緑は強く猛々しく、そして危険な光を帯びて。
「……断言しよう。シャールコーラル姫。この世で私ほど、貴女を愛せる男はいない」
「―――」
 青年の両の掌が、少女の顔を包み込む。
 ひとしきり頬を愛撫した後、レイサルはシャールをベッドに押し倒した。
 シャールは逃れられなかった。心も、体も。
 顔が寄せられる。息がかかるほどに――そして王子の唇は額に、目尻に、頬に、口付けを落とす。
 やがて唇同士が重なりそうになったとき、
「王子!」
 シャールは渾身の力で声を吐き出した。
 レイサルの動きが止まった。
 一気に体に力が舞い戻った。シャールは全力で青年の体を押しのけた。
「やれやれ」
 レイサルは体を起こし、苦笑した。「ここは大人しくしておくところですよ姫。ですが――」
 この方が貴女らしい――
 不敵な笑みが、彼の顔に浮かぶ。
 シャールは腕の力で強引に上体を起こし、レイサルをにらみつけた。
 レイサルは声を上げて笑った。
「元気が出たようで何より。早く回復してください、私の美しい花嫁」
「花嫁になどならない!」
 大声を出すと、レイサルはさらに笑った。愉快そうに。心底、面白がっているかのように。
 やはりこの男は、信用できない――!
「怖い目だ。今日は退散するかな」
 不敵な王子は立ち上がる。最後に軽く少女を一瞥、そしてドアの方へと歩いていく。
 その背中に向けて、シャールは声を放った。
「必ずその真意を知ってみせる! 必ずだ!」
 レイサルの足がぴたりと止まり――
 その肩が軽く揺れた。
 そのまま、振り返りもせずに、王子はドアの外へと消えた。
「―――」
 シャールは荒い息をつく。全身の力を使い果たしたような気がした。
 枕元に常備されていたタオルで顔を拭い、ベッドに体を沈める。
 エディレイドに言わなくては。あの王子は信用できない。信用してはいけない。
 惑わされてはいけない――
 天蓋の紋様をにらみつける夕陽の瞳に、消えかかっていた生気の光が戻りつつあった。
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