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第一話 其れは幼き心の傍らに
第一章 其れは森が見つめる光ー3
しおりを挟む突然、踏み出した足元でつむじ風が巻き起こった。
「わっ――!」
アリムは足を引っ込めた。
渦巻く風は、落ち葉や小枝、小石さえも空中に放り上げて、それからすぐに消滅した。――アリムの目の高さまで跳んだ小石が、とん、と地面に落ちる。
「びっくりした……」
胸に手をあてて、彼はほっと息をついた。
見下ろした先に、螺旋状の跡を残して落ち葉が散らばっていた。
「何だったんだろ……?」
首をかしげて呟く。
彼を包む常緑樹の森は、何事もなかったかのように静まり返っている。
しかし、アリムは気づいていた。
――風が……吹いていた。とても軽く。
じっとしていなければ感じられないほど軽い風。
「………」
アリムは頬をかいた。童顔とも言えるその顔立ちに、困ったように眉根を寄せてみたりして。
「なんか……今朝からおかしい……?」
今朝、と言っても、起きてからしばらくは今までどおりだった。目が覚めて、ベッドから下りて、冷たい水で顔を洗って、食事を作って、それから朝食……
変わりない朝。母を亡くして以来ひとりで続けてきた朝。
――おかしかったのは、「水を汲みに出なきゃ」と考えてからだ。
まず水汲みのための桶が、突然壊れた。弾けるように。
桶がなくては水が汲めないので、仕方なく彼はその場で容器を作り直した。――その程度のことはもう朝飯前だ。
次には着替えようと思った服が、とつぜん家に吹き込んだ風に飛ばされて、暖炉の灰の中につっこんだ。
仕方なくアリムは他の服で外に出ることにした。――森の中に出ると服がすぐに汚れたり傷ついたりするため、できる限り丈夫な服一着で間に合わせるようにしていたのだが。
そして今。
外に出ようと家から一歩踏み出したところで――つむじ風。
「……行くなってこと?」
アリムは呟いた。
それは問い。けれど彼のまわりには誰もいない。それは彼自身、よく知っていること――
それでも彼は、言葉を続けた。
「そんなこと言ってもさ……水、なくなっちゃたから。さっきの服も洗わないといけないし……。しばらく水汲みに行けてなかったからさ。仕方ないよ」
ここ数日、実は彼は寝込んでいた。ずいぶん久しぶりの病気だった。かろうじて自分で水分をとることはできていたが、外に出て水を汲みにいくのは避けていたのだ。
「ひょっとして心配してくれてるのかな。大丈夫、ぼくはもう治ったから――」
話し続ける彼のまわりに、人はいない。動物もいない。
けれど代わりに――風が少し強くなって、彼の頬に触れた。
彼はひとり、にっこり笑ってみせた。
「大丈夫だから」
風はおさまらない。冷えた感触が頬を撫で続ける。アリムの言葉に納得したような気配はまったくなかったが、かと言って反論があるわけではなかった。そう、言葉など――まったく聞こえない。
「―――」
ふとそのことを思い知らされたような気がして、アリムはうつむいた。
――何が見えるわけでもない。
――何が聞こえるわけでもない。
それでも……
『――感じることを、忘れないで――』
「……うん、お母さん……」
記憶の中の母に、アリムはうなずいてみせる。
返ってくるのは母の、ほっとした微笑……
「いるんだよ……ね。精霊……」
――ぼくはひとりじゃないんだ。
心の中で言い聞かせて、
それから彼は、振り向いて自分の家を見上げた。
「じゃあぼくは行ってくるから。家をよろしくね、みんな」
そうして歩き出す少年――
不安気に吹いた強い風が一筋、彼の薄い茶の髪をくしゃりと乱していった。
森の全貌を、知っているわけではなかった。
(――この森って、本当に終わりがないのかな?)
十数年もこの森に住みながら、アリムは今でも思うことがある。
“端”ならば、あることを知っている。何故なら彼はしばしば森を出て、近くの街に行くことがある。森の中だけでは得られない食料のためだ。それは母がいるころからで――そして母がいなくなってからは、勉強も兼ねて。
それでも街にいる時間は、森にいる時間より格段に少ない。彼にとって森は家そのものなのだ。
そんな彼でも、この森の“終わり”には疑問を感じていた。
街に出て初めて知った“地図”というものにさえ、この森は全貌不明と記されている。今まで誰も―森のすべてを知ろうとしたことはない。
否、知ろうとしてもそれを実現できなかったのだ。
(――ぼくだってね)
惑わしの森。街ではそんな風にも呼ばれていた。街の人間にはあまり印象よく思われてはいないようだったが、おかげでこの森に近づく人間自体が少なくて、それはそれでまあいいかと思うアリムである。
いつもどおりの道を、水を求めて歩く。
アリムが幼いころに死んでしまった父が道をならしてくれたらしく、歩くのに不自由することはない。もっとも森の中の道なき道を渡ることなどアリムには朝飯前だったが。
水は、彼の住む小屋から歩いて十分ほどのところにある川でしか手に入らなかった。
とてもいい水質の、それなりに幅のある川。
森は広く豊かなのに水源はそれだけなのだ。それもこの森の謎のひとつと街では言われていた。
アリムはこの森の正体を知らない。
知らないからと言って、何か困るわけではまったくない。
それでも時々、無性に知りたくなることがある。
(……“精霊”たちなら、知っているのかな……?)
――水の音が聞こえる。
アリムは視線をあげた。川はすでに目に映るほど近い。自然、少年の歩みが速くなる。
そこだけ世界が開けたかのように、木々の途切れている場所が近づいてくる。
けれど、さらにほとりまでたどりついたところで――
アリムはふと、足をとめた。
川は、いつも通りそこにあった。道を遮るようにして。川の向こう側とこちら側のほとりを、森の中でもひときわ頑強な木々が守っている。そもそもアリムの家族が小屋を川の近くに作らなかったのはこの辺りの木はとても切り倒せなかったからだ。少なくともアリムはそう聞いている。
巨木たちの間を、川は穏やかに流れる。
その向こう岸に――
見慣れない人影があった。
否、見慣れないと感じたのは一瞬のこと。
アリムと同じ茶色の長い髪。線の細い体。白い肌。瞳の色こそ見えなかったが、顔は分かった。優しい顔立ちの女性。“見慣れた”。
アリムは凍りついた。
「おかあさ――」
向こう岸の女が微笑んだ。
その瞳に――暗い輝きが走る。そして、
ふいに女は優雅に腕を振り上げた。
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