女神の心臓(休載中)

瑞原チヒロ

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第二話 記憶は水鏡に映して

第二章 3

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「“背く者”を襲った……? この馬鹿ども……っ!」
 聞くなり、男は声を荒らげた。
「そもそも見知らぬ他人を襲うとはどういう了見だ! お前ら、行動力の意味を履き違えるな……!」
 目の前の青年たちはすっかりしょげかえっている。三人とも普段なら言われっぱなしになるほど気弱な人間ではないのだが、さすがに今回の失敗はこたえたようだ。
 男が町長の屋敷から自宅に戻る途中のことだった。何やら妙なうめき声が聞こえると不審に思って横の路地に入ったところで、彼は仰天した。よく知った若者三人が、縄でぐるぐる巻きにされた状態で地面に転がされ、放置されていたのだ。
 それはゼーレ“町長派”と呼ばれる一派の若者連中だった。最近では精霊保護協会の動きに注視するため、『水鏡の洞窟』への偵察を言いつけておいた面々だ。
 急いで知り合いを呼んで治療院へ運び込んだ。三人の顔色が相当悪かったので不安に思ったのだが、怪我は軽傷と言えた。治療院に泊まる必要はなく、そのまま男の自宅に連れてくることができたほどだ。
 だったら何でそんなに憔悴しているんだ――と問い詰めてみれば、返ってきた内容に、男のほうがよほど深刻な頭痛を感じるはめになったのだが。
「すいませんナズカさん……」
 もっとも痩せぎすの男がぼそぼそと詫びの言葉を吐く。
「―――」
 もはや怒鳴る気力もない。ナズカと呼ばれた男は、どさりと椅子に身を沈めて頭を抱える。反動で椅子がすぐ後ろのテーブルにぶつかり、卓上のものがガチャンと乱雑な音を立てた。中に液体の入ったフラスコやらビーカーやら試験管やら――『取扱い注意』の貼り紙でもしたほうがよさそうな卓だが、男がそれを気にした様子はない。
 見かけだけで言えば、顔色の悪い三人の若者以上に軟弱な体型の男である。比較的長身だが、痩せている上に猫背なので威圧感はまるでない。普段からあまり櫛を入れていないであろう寝ぐせの多い黒髪には、ちらほらと若白髪が混じっている。ゼーレではごく一般的な服の上に、着古したよれよれの白衣。全体的に特別汚らしいわけではないが、たいていの人間なら「もっと外見に気を遣ったら」と言いたくなるような男だ。
 ただしそう言ったところで素直にそれを改めそうな男だとは、誰一人思わないだろう。
 椅子に座ったまま、抱えていた頭をゆっくりと上げる。
 若者たちに向ける目。常時睡眠不足を訴えているかのような濃いくまの上にある茶の瞳は、強く気難しい光を宿していた。
「――それで。アークはそのあとどうしたんだ? お前らに何か言い残していったか」
「は、はあ。『とりあえず邪魔すんな、二度はないぞ』と。……そ、それと」
「なんだ?」
「……『下のモンをちゃんとしつけろ、上の駄目さがみっともない』……と」
「………」
 ため息をついて、ナズカは首を振る。
「反論の余地なし、か。むしろ『駄目な上』として感謝すべきところだな」
「と、とんでもないです! ナズカさんのせいじゃ――」
 慌てて否定しようとする若者を適当な手振りで黙らせ、ナズカは顎に手をやった。
「まあその言いぶりなら深刻にアークの怒りを買ったわけじゃなさそうだな。元々奴は、精霊に干渉しない限り他人に興味を持たないと聞いている……お前たち、洞窟の精霊に手を出したわけじゃないんだな?」
「あ、当たり前です。洞窟に入るような馬鹿なことは――」
「……知らん人間を襲うのも同じくらい『馬鹿なこと』だがな。まあいいそれよりも」
 疲れの色濃い視線が確かめるように三人の若者の上を滑った。腑に落ちない――そう言いたげに顔をしかめて。
「イグズはどうした。お前たち、一緒じゃなかったのか。洞窟に行くときは必ず連れて行けと言っておいたはずだが」
 ぎくりと若者たちが体を強張らせた。
 ナズカは不審をあらわにして目をすがめた。どういうことかと更に詰問しようと口を開きかけた、そのとき。
 鈍い音とともに、家が揺れた。
 外から壁に何かを叩き付けられたかのような揺れだ。ナズカは咄嗟に立ち上がり、衝撃のあった方向を見た。窓。見えるのは街灯が灯り始めた夕方の街並み。天気が悪いことを除けばいつも通りのゼーレの風景――いや、
「……っ、イグズ!?」
 見覚えのある姿を目にしてナズカはそちら側に駆け寄った。締め切っていた窓を開けると、凶暴な冬の冷気が顔を痛打した。思わず目を閉じてから、それどころじゃないと無理やり視界を開くと、体中に傷を持った男がゆらりゆらりとゆっくりとした足取りでこちらへ歩いてくるのが見えた。いつもは腰にある大剣を肩にかつぎ、ナズカを目にすると気楽そうなしぐさで「よう」と顎をしゃくる。
「そーいやそこはお前さんの家だったな。悪かったな、あんまり聞き分けがないもんだからついぶっ飛ばしちまった」
「なに……?」
 横からうめき声。ナズカがその声の元を探ると、家の壁にべったりと張り付いた見知らぬ男の体が、今まさにずるずると地面に沈もうとしていた。背は低いが屈強な男と言えるだろう。腰に剣の鞘も見える――ただし剣本体は見えなかったが。
 訳が分からず、ナズカは説明を求めてイグズを睨みつける。イグズはひょいと肩をすくめた。
「そいつぁ傭兵の一人さ。いつもなら酒場でたむろってるんだが……どうも悪い噂を聞いたんでね、かるーく問い詰めてやったら暴れやがった。ま、説得するのぁ面倒くさいんで黙らせてやることにしたのさ」
「悪い噂……? 何の話だ?」
 ゼーレの裏酒場は傭兵と呼ばれる流れ者の集う場所だ。第三国――“その他”の国から、仕事を求めてやってきた力自慢たちの。
 ゼーレの街上層部はしばしば彼らを利用する。イグズにしても、ナズカたち町長派が酒場で見つけたのだ。
「副町長殿は、よっぽど町長殿が邪魔らしくてな。裏でこそこそと細工をするのに、俺たちみたいなのを利用する気らしい」
 イグズが面白そうにくつくつと笑う。
 わざわざ“俺たち”と言ったのは、一級の皮肉だ。
「………」
 ナズカは地面にくずおれた傭兵を見下ろした。完全に気を失っている――体つきだけを見るなら、当然ナズカや一般人である町長派の人間が戦って勝てる相手には見えない。こんな男たちを使って企むことなどろくなことではない。
「あと五人ほど動いてたんだが、とりあえず全員のしてやった。これで計画が頓挫するかどうかは俺は知らんが、引き延ばすことくらいはできるだろうさ」
 イグズはあくまで呑気な口調だ。
 実際問題、傭兵など代わりはいくらでもいる。ひとまず雇われた連中を全員行動不能にしたところでどれほどのダメージになるのか甚だ心もとないものの、知らぬままでいるよりずっといい。ナズカはため息をついた。
「……礼を言う」
「なあに、これが最後だからな」
 イグズは肩から大剣を下ろした。男の身長の半分を超える長大な剣は、まるでその重さを感じさせない動きでひらりと翻り、巨漢の腰におさまった。
「最後……?」
 訝しむナズカの声に、イグズはにいっと唇の片端を上げた。
「悪ぃがお前さんらとはここで終わりだ。ちょうど都合よく俺の目的が果たせたんでな。ここまでの金もいらねえってことで、まあ堪忍してくれや」
「ま、待て! どういうことだ……!」
 ナズカは窓から身を乗り出した。冷え込んだ空気が彼の体をとらえ、ぞくりと背筋に悪寒が走った――あるいはそれは、唐突に降ってきた嫌な予感から来るものだったのだろうか。
 イグズは平気な顔で露出した肌をさらしながら、独り言のように朗々と言葉を紡ぐ。
「アークってやつは精霊に関わりのない場所では何故か姿を見つけられないってぇことだったからな。協会につく気はなかった俺にゃあ見つけられねえかもしれねえと思ってたんだが……案外簡単に会えたぜ。奴はこれからしばらくあの洞窟周辺にいるんだろう。それが分かれば十分さ」
 じゃあな、とイグズは片手をひょいと上げた。
 背中を向けようとするその巨体に、ナズカは声で追いすがった。
「待て! お前に今抜けられると困る……! せめて契約の期間だけでも、」
「まあまあ、代わりに傭兵なんざいくらでもいるだろうよ。何しろ俺たちは“その他”の出だ――」
 肩越しにナズカを一瞥して、創傷の傭兵は言った。
「お前さんが声をかけりゃあ無下にもできんさ。仲間にゃ優しい、それが俺たちだ」
「っ」
「頑張れよ、ナズカさんよ」
 それきり何も言わず、巨漢の背中が遠ざかっていく。
 ナズカは無言でそれを見送った。窓縁を掴んだ両手に、知らず知らず力がこもった。
 ふいに凍えるような風が吹き、痛み混じりの寒さを感じて目を閉じる。唐突な展開に頭が混乱していた。暗転した視界がぐるぐる回転しているような錯覚を覚える。
 自分が急な出来事に強くないことを、ナズカは自覚していた。
 ――情けないと叱咤しながら奮い立たせてくれる声が、以前ならすぐそばにあったのだが。
「な、ナズカさん」
 室内で往生していた若者たちの困ったような呼び声が、背後から聞こえた。
「ああ……」
 ナズカはようやく目を開けた。
 ふと窓の外で失神している傭兵のことを思い出し一瞥する。死んではいないだろう、このまま捕縛して副町長の企みとやらを吐かせるか。相手が相手だ、言うことを聞かないのなら多少乱暴なことも――そこまで考えかけたナズカの思考は、しかしすぐに消滅した。
 いつの間にやら、傭兵の傍らにもうひとつの存在が現れていた。幼い子供ほどの背丈しかないずんぐりむっくりとした小人。
「地精(ヒューレ)……」
 それはナズカの家の近くに棲む地精だった。動かない傭兵を前にして、おろおろと眉尻を下げている。短くぽっちゃりした両手に根のついた草を持っていた。雑草と言ってもいいようなよくある草だが、簡単な擦り傷切り傷の応急処置に使える薬草でもあった。
 それをぎゅっと握りしめたまま、地精は助けを求めるように、窓のナズカを見上げる。
 つぶらな瞳が一心にこちらを見つめている。
「―――」
 途端にたった今まで傭兵を縛り上げて吐かせようと思っていた気持ちが萎えた。ナズカは小さく舌打ちした。
「……お前たち、まずはこいつの介抱だ」
 窓の外の傭兵を示しながら、室内の若者たちに言いつける。
「は、はい。計画内容を吐かせるんですね?」
「……いいから部屋に入れろ」
 それだけ返答をし、ナズカは窓の外に手を伸ばした。地精に向かって。
 小人は顔をぱあっと顔を輝かせ、薬草をナズカの手に渡してくる。
「ありがとう……」
 ナズカは呟くようにそう言いながら、そっと目をそらした。地精の顔を見続けていることができなかった。
 ――この地精はおそらく、傭兵が目を覚ますまでここに居続ける。一度気にしたことを忘れないのが精霊だ。
 そして、元気になったと知れば嬉しそうに笑うだろう。まるで病気の家族の快復を見たかのような顔で。
 別に地精とこの傭兵が知り合いだというわけではないはずだ。知り合いの可能性もあるが、精霊の性質を思えばそこは重要ではない。精霊は、特に地精霊は、血はもちろん争いごとが極端に嫌いなのだ――
 この精霊の笑顔を受け流して、傭兵を締め上げることが自分にできるか……?
「………」
 頭がガンガンと痛みを訴える。自分を嫌悪したときに決まって起きる痛みだ。
 ナズカは自嘲の笑みを浮かべた。
「ナズカさん? 大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ」
 寒いな、とナズカは言った。
「窓、閉めるぞ」
 ちらりと見やった地精は、期待をその瞳に明るく宿していた。
 ナズカは黙って、窓を閉めた。
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