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第二話 記憶は水鏡に映して
第二章 4
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4
「アークさん――」
淡い色彩のその青年の姿を見たとき、アリムはにわかに緊張した。
体をアークに向けたまま、そっとルクレを盗み見る。ベッドの上で、ルクレはきょとんとしていた。どうやらアークの顔を知っているわけではないらしい。
アークは何に頓着する様子もなくベッドの傍までくると、興味深そうにルクレをまじまじと見た。
そして挨拶もないまま開口一番、
「なるほど、協会っぽいな。しかも教師っぽい。お前教師?」
「はあ、あの――」
ルクレは困惑顔のまま、説明を求めるようにアリムに視線を送ってくる。
アリムはためらった。アーク――“背く者”。精霊保護協会では忌み語のようなものだと聞いている。存在自体が禁忌だと。もっともこのことはアリムが協会の人間から聞いたことではなく、逆にこのひと月でトリバーに教えられたことだ。フロリデもどうやらそれを知っているらしい。
たった一人の人間に対して組織ぐるみでそういう態度を取るなど大げさすぎると思うのだけれど、実際アークは森の一件において確かに協会の妨害を成していた。
れっきとした協会員のルクレに、目の前にいるのがそのアーク本人だと、軽々しく言ってしまっていいのだろうか。
――トリバー青年はさっさと「アークの連れだ」と言ってしまっていたけれど。
そんなアリムの迷いに気づいているのかいないのか、アークはふむふむと顎に手をやってうなずいた。
「お前が『水鏡の洞窟』の調査員なわけだな。なるほど分かった」
そしてその手を下ろし、すっと目を細め――
彼のまとう軽い空気が一瞬にして切り替わる。彼と過ごしているとしばしば見ることができるものだった。それを見るたびアリムは思う。――まるで精霊のように、大地に馴染む気配だと。
何だか彼が遠い存在に思える瞬間。手を伸ばしても触れられないかのような切なさをはらんで、心が惹かれてやまない。
そんな見惚れてしまいそうな空気を漂わせたまま、彼は。
「お前、協会に潰されるぞ」
そう、言った。
ルクレがさっと顔色を変えた。今までにない反応だった――正面から悪しざまに言ったトリバーにさえ目立った反応はしなかった彼女が、初めてその萌木色の瞳を強い感情に揺らした。
それはおそらく、憤り。
「何を――何を根拠にそんなことを仰るんですか? 支部長様も教師長様も、今回の調査の重要性は丁寧に教えてくださいましたし、私も納得しました。それに今回の調査に危険はありません。事実、私は怪我ひとつしていません」
言い返す口調が硬い。湧き立つものを必死でこらえているような。
しかしアークは物腰を変えず、わずかに頭を振った。
「お前自身にどう見えていようが関係ない。お前を犠牲にする気があれば、協会は全力で目隠しをするだろうからな。つまりこの調査が実際どんなものかに関して言えば、お前自身が一番アテにならない」
ルクレの顔が凍りつく。アリムは思わず声を上げた。
「アークさん、そんなの言いすぎです! ルクレさんは真面目に洞窟の調査をなさってるんですよ! 実態を調査しなきゃ保護もできないから……!」
青年はアリムを見て目をしばたいた。
何を言ってるんだお前。そんなことを言いたげな目を。
途端に今の自分の言葉の意味が閃いて、アリムは絶句した。なぜ協会をかばっているのだろう――?
「……っその、こ、根拠が、ただの調査なのに犠牲とか、その、意味が――」
しどろもどろの言葉が漏れる。
そして、ますます混乱の渦に呑みこまれた。
意味が分からないのは自分の言動だ。いくらこの数時間、ルクレからいかに彼女が真面目に協会員として活動してきたかを聞かされていたからって――
アークはうーんと困ったように視線を天上に飛ばす。
「――根拠っつーか。『水鏡の洞窟』は昔から『人が入ると狂う』って言われてる場所だからな。そんな場所にこんな若い子放りこんでどうするんだっていう」
「その噂なら存じています」
ルクレが言った。
背筋が伸び、凛としている。どうやら落ちつきを取り戻したらしい。
「知っている上で調査を承諾しました。人が狂うというなら、なおさら調査が必要です。それに一人きりで入っているわけでもありません、調査員は他にもいます。危険がないというのは物理的な危険という意味で、その言い伝えに関することなら重々注意するよう言われています。調査員には私よりずっとベテランの方も含まれていますし、何かあっても対処は十分できます。それから私は十七歳です」
「……ああ、ゼーレじゃ一人前扱いだっけ」
思い出したようにぽんと手に拳を打ちつけ、アークは「うん。それについては謝っとく」と軽く頭を下げる。
「それは謝るけど、それ以外は訂正しない。その調査はろくなもんじゃない。早めに辞退することをおすすめする」
「――ですから、言い伝えはあくまで言い伝えで、具体例はありません。あなたは何を根拠にそんなに危険だと仰るのですか?」
「カン」
即答。
アリムはますます絶句し、ルクレはきっとアークを睨みつけた。
「そんな曖昧なもので私どもの行動を否定なさるのでしたら、嫌いな相手への子供の悪口と大差ありません。ふざけないでください」
「うんまあ、俺協会嫌いだし。大嫌いだし。この世で一番ってくらい嫌いだし。あ、嫌いなもん自体は他にもあるけどな。機嫌が悪いとすぐメシ抜きって言いだすうちの相棒とか」
「……まともにお聞きするに値しません」
ルクレはそう言って、初めてアークから視線を外した。「そもそもお名前も伺ってませんし。通りすがりの戯言と思うことにします」
「俺の名前なんざ覚えたところであんたの人生には役に立たんから名乗るつもりもないけど。だって仲良くなる予定もないし。どうしても調査は続けるつもりか?」
「当然です」
アークはため息とともに呟いた。初めて、不機嫌そうな響きをもって。
「……しょーがねえなあ」
巻き込まれるのは防いでやりたかったんだけどな――と、ルクレには聞こえないほどの小さな、小さな声で――
それ以上のやりとりもなく、アークはさっさと部屋から出ていってしまった。
「―――」
アリムは脱力しそうになる体を何とかふるい起こした。
「ルクレさん、大丈夫ですか」
ベッドに向ける声がかすかに震えている。自分で分かる。
何に怯えている? ルクレの怒りだろうか。違う、自分の内側に湧き起こった何かが――恐い。
ルクレはアリムを見て、弱々しく微笑んだ。
「大丈夫ですアリムさん。……ごめんなさい、アリムさんのご友人ですよね?」
「友人――友人、というか」
――アークさんです、とぽつりと。
ルクレは大きく目を見張った。
「アークさん――あの方が? まあ――」
しばし絶句し、考え込むように視線を伏せる。
「あの方が……そうですか……」
吐息。
納得したような、またどことなく失望したかのような響きに、アリムはいたたまれなくなった。
やがて、「ごめんなさいアリムさん」とルクレは改めて顔をアリムに向けた。
「私……疲れてきてしまったみたいで。もうお休みさせていただくことにします。本当にありがとう」
「あ――あ、はい、お休みなさい」
慌てるアリムに、ルクレはほんのりと微笑んだ。まるでアリム自身には敵意はまるでないのだと言うように。
窓の外でリズムを打つ雨音が、ひときわ大きく彼の耳を打った。
ルクレを残して部屋を出たアリムは、ドアの前でうつむいた。
「アリム、どうしたんだい」
カウンターに腰かけた女店主が怪訝そうな顔をする。
その隣の椅子にはトリバーが、いつものように本を手にした姿で座っていた。それから――
「アークならもう出てったよ」
視線をさまよわせかけたアリムに、フロリデが先回りして教えてくれる。
「そう――ですか」
アリムはぐっと唾を飲み込んだ。
胸の奥に苦い思いが沈んでいる。今まで感じたことのない何かが、自分の内にある。そのことに戸惑い、そして失望する。
その凝りの名前は、はっきりと分かっていたから。
トリバーが、本しか映さないはずの目をこちらに向けたのが見えた。
「……あのバカが何か言ったな」
「えっ」
「アークは何を言った。あのバカは」
本を閉じ、真顔でアリムを見る。
「―――」
アリムはアークとルクレの会話の内容を、ためらいがちにトリバーとフロリデに話した。
あの会話をなぞればますます自分の中の凝りが固くなる。それに気づかないふりをして、できるだけ明るい声で説明する。
アリムの話が終わると、トリバーはがっくりとカウンターに突っ伏した。
「バカが……本当に、うまく立ち回ることをいい加減覚えやがれっ……俺が迷惑だ……!」
フロリデも軽く腕を組んで苦笑している。
アリムは思い切って問いを投げた。
「あ、あの。アークさんはいったいどうしてあんなことを言うんでしょうか……?」
何か根拠が、と言いかけたアリムに、突っ伏したままの青年が顔を上げないまま面倒くさそうに片手を振った。
「いいや。根拠なんかないさ……どうせただのカンだ」
「そんな」
「アレは協会に不信感がある。まあそこから来るんだろうな」
「だったら……!」
心の中の凝りが訴える。声を上げようとしたアリムの前で、ゆっくりとトリバーが体を起こす。眠たそうな目が、苦々しそうに店内をにらんでいる。
「だが……困ったことに、アレのカンは外れたことがない。不信感から来ていようが何してようが、な。そもそも、アレは物事に不信を持つこと自体が稀だから――つまり、アレにそういった感情を持たれた時点で、その対象は相当やばい」
そしてチラとアリムを見やり、
「お前から目から見ても、結局協会はまともじゃなかっただろう?」
「………」
ほんのひと月前の経験が、アリムの脳裏にじっとりと滲むように湧いた。
アリムはうつむいた。
「……協会が森にしたことは、許せないんです」
「だろうな」
「でも――ルクレさんの好意を退けるのは、それとは別問題のような気がして」
そうだ。どんなに心の中で否定しようとしても無理だ。自分は――ルクレを拒絶できない。
あの朗らかな眼差しを、疑うことができない。
「その。協会の全部が悪いわけじゃないんじゃないかって、どうしても思うんです。だって僕には、ルクレさんが悪い人にはどうしても見えない……!」
両の手が、自然と拳に握られていた。
掌ににじむ汗は、あまりにも自分で言っていることが不確定であることへの、不安の表れに違いなかった。
無理やり開いた手を見下ろす。森で暮らしていた時分、決して頼りないとは思わなかった自分の両手が、今はこんなにも弱弱しい。
「――アークさんのことは信じています。でも、さっきのアークさんの言葉にはどうしても……賛同できないんです。それが――」
それが、恐い。
アリムはそう呟いた。
しん、と空気が静まり返った。雑然とした店内にはひどく似合わない静寂が、アリムに精霊を見ることができなかった時代の森の暮らしを思い出させる。
一人ぼっちではないと自分に言い聞かせながら、一方で独りぼっちだとしか思えなかったあの日々――
もう一度あんな日々の中を味わいたくないと、心が悲鳴を上げている。アークと仲たがいすることが恐ろしい。精霊の血を引く異質な自分が深く悩まずに毎日を過ごせるのは、精霊を中心にして生きているあの青年がいるからに他ならなかったから――
アークに反感を持ってしまった。この気持ちをどうしたらいいのか、それが分からない。
そして。
「僕はルクレさんに……どういう態度を取ったらいいんでしょうか」
さあな、とトリバーは興味がなさそうにも見える声音で言った。
「好きにしたらいいんじゃないのか」
「……まったく分からないんです。自分が何を望んでいるのかも」
緑の髪の青年は、深く嘆息した。
椅子ごとアリムのほうへ直り、不機嫌な目をアリムに向ける。
半眼になった青い瞳が、初めてアリムをまともに見てくれたような気がした。
「今のうちに言っとくがな、アリム。お前、俺やあのバカに言うことをすべての基本にしようとするな。別に俺らと違う考えを持ったって何も問題はないんだ」
「―――」
「お前はお前で答えを選び取れ。あのバカはこれからも協会憎しで動くだろうし、俺は俺で協会に好意的にはなれない。だがそんなことはお前にとってどうでもいいことのはずだ――俺たちの言うことなんざ、選択肢のひとつにすぎん。無数にある選択肢のうちのひとつでしかな。いいか」
トリバーは、一文字一文字を明確に空気に描き出すかのように、紡ぐ。
「――悩むことを恐れるな、アリム。悩んでいるのは正常な証拠だ。一番恐ろしいのは、何の疑いもなく他人の考えで動いていることだと知れ」
アリムが無言で見返す青い瞳。
このひと月、新しい知識をアリムに教えようとするたび、決まって彼はこんな目をした。そう――知識、だ。“生きていくために利用するための道具”。
そうは言っても、とトリバーは疲れたように背もたれに身を預け、
「アークと喧嘩をするのが怖いってのは分からんでもない。アレに一度嫌われたら絶望的だと、そう思っているんだろう?」
「………」
「それはアイツも悪いがな。だが、よく思い出せ――まさか俺が、アレと全く考え方を異にしないで今までやってきたと思うか? アレと同じ考え方をしていると思われることは、むしろ俺の人生最大の汚辱に等しいが」
ぶっとフロリデが噴き出す。
こんな真面目な会話の最中でなければ、きっとアリムも笑っていたに違いなかった。
肩を震わせる女店主をうるさそうに横目で見やってから、トリバーは淡々と続けた。
「お前がそうやってアークとの関係を不安がるのは、まだあいつのことをよく知らないからだ。これからいくらでも、どうにでもできることだ――そしてそれは、あの協会の女についても同じことだ」
あの女と話したいなら話せ、と。
トリバーはそう言った。
「い、いいんですか」
「お前がそれを無駄にしないならな」
それで話は終わりだと言いたげに、緑の髪の青年は手を振った。
「ひとまず今日はここでやめておけ。お前は働きすぎだ――体力が万全でないときに陥る思考はあてにならん。まずは休むことだな」
それきり彼はカウンターに体を向け、再び本を開く。
読書姿勢に入った青年を見つめるアリムの心に、彼の言葉が何度も響き渡った。
――悩むことを恐れるな。
(僕は……)
腑に落ちない何かはまだ残っている。生まれてしまった様々な初めての感情は、やっぱりアリムの手に余るとしか言えない。けれど。
また会話をしようとアリムは思った。知りたいと思った――ルクレのことも、そしてアークのことも同じくらいに。
「アークさん――」
淡い色彩のその青年の姿を見たとき、アリムはにわかに緊張した。
体をアークに向けたまま、そっとルクレを盗み見る。ベッドの上で、ルクレはきょとんとしていた。どうやらアークの顔を知っているわけではないらしい。
アークは何に頓着する様子もなくベッドの傍までくると、興味深そうにルクレをまじまじと見た。
そして挨拶もないまま開口一番、
「なるほど、協会っぽいな。しかも教師っぽい。お前教師?」
「はあ、あの――」
ルクレは困惑顔のまま、説明を求めるようにアリムに視線を送ってくる。
アリムはためらった。アーク――“背く者”。精霊保護協会では忌み語のようなものだと聞いている。存在自体が禁忌だと。もっともこのことはアリムが協会の人間から聞いたことではなく、逆にこのひと月でトリバーに教えられたことだ。フロリデもどうやらそれを知っているらしい。
たった一人の人間に対して組織ぐるみでそういう態度を取るなど大げさすぎると思うのだけれど、実際アークは森の一件において確かに協会の妨害を成していた。
れっきとした協会員のルクレに、目の前にいるのがそのアーク本人だと、軽々しく言ってしまっていいのだろうか。
――トリバー青年はさっさと「アークの連れだ」と言ってしまっていたけれど。
そんなアリムの迷いに気づいているのかいないのか、アークはふむふむと顎に手をやってうなずいた。
「お前が『水鏡の洞窟』の調査員なわけだな。なるほど分かった」
そしてその手を下ろし、すっと目を細め――
彼のまとう軽い空気が一瞬にして切り替わる。彼と過ごしているとしばしば見ることができるものだった。それを見るたびアリムは思う。――まるで精霊のように、大地に馴染む気配だと。
何だか彼が遠い存在に思える瞬間。手を伸ばしても触れられないかのような切なさをはらんで、心が惹かれてやまない。
そんな見惚れてしまいそうな空気を漂わせたまま、彼は。
「お前、協会に潰されるぞ」
そう、言った。
ルクレがさっと顔色を変えた。今までにない反応だった――正面から悪しざまに言ったトリバーにさえ目立った反応はしなかった彼女が、初めてその萌木色の瞳を強い感情に揺らした。
それはおそらく、憤り。
「何を――何を根拠にそんなことを仰るんですか? 支部長様も教師長様も、今回の調査の重要性は丁寧に教えてくださいましたし、私も納得しました。それに今回の調査に危険はありません。事実、私は怪我ひとつしていません」
言い返す口調が硬い。湧き立つものを必死でこらえているような。
しかしアークは物腰を変えず、わずかに頭を振った。
「お前自身にどう見えていようが関係ない。お前を犠牲にする気があれば、協会は全力で目隠しをするだろうからな。つまりこの調査が実際どんなものかに関して言えば、お前自身が一番アテにならない」
ルクレの顔が凍りつく。アリムは思わず声を上げた。
「アークさん、そんなの言いすぎです! ルクレさんは真面目に洞窟の調査をなさってるんですよ! 実態を調査しなきゃ保護もできないから……!」
青年はアリムを見て目をしばたいた。
何を言ってるんだお前。そんなことを言いたげな目を。
途端に今の自分の言葉の意味が閃いて、アリムは絶句した。なぜ協会をかばっているのだろう――?
「……っその、こ、根拠が、ただの調査なのに犠牲とか、その、意味が――」
しどろもどろの言葉が漏れる。
そして、ますます混乱の渦に呑みこまれた。
意味が分からないのは自分の言動だ。いくらこの数時間、ルクレからいかに彼女が真面目に協会員として活動してきたかを聞かされていたからって――
アークはうーんと困ったように視線を天上に飛ばす。
「――根拠っつーか。『水鏡の洞窟』は昔から『人が入ると狂う』って言われてる場所だからな。そんな場所にこんな若い子放りこんでどうするんだっていう」
「その噂なら存じています」
ルクレが言った。
背筋が伸び、凛としている。どうやら落ちつきを取り戻したらしい。
「知っている上で調査を承諾しました。人が狂うというなら、なおさら調査が必要です。それに一人きりで入っているわけでもありません、調査員は他にもいます。危険がないというのは物理的な危険という意味で、その言い伝えに関することなら重々注意するよう言われています。調査員には私よりずっとベテランの方も含まれていますし、何かあっても対処は十分できます。それから私は十七歳です」
「……ああ、ゼーレじゃ一人前扱いだっけ」
思い出したようにぽんと手に拳を打ちつけ、アークは「うん。それについては謝っとく」と軽く頭を下げる。
「それは謝るけど、それ以外は訂正しない。その調査はろくなもんじゃない。早めに辞退することをおすすめする」
「――ですから、言い伝えはあくまで言い伝えで、具体例はありません。あなたは何を根拠にそんなに危険だと仰るのですか?」
「カン」
即答。
アリムはますます絶句し、ルクレはきっとアークを睨みつけた。
「そんな曖昧なもので私どもの行動を否定なさるのでしたら、嫌いな相手への子供の悪口と大差ありません。ふざけないでください」
「うんまあ、俺協会嫌いだし。大嫌いだし。この世で一番ってくらい嫌いだし。あ、嫌いなもん自体は他にもあるけどな。機嫌が悪いとすぐメシ抜きって言いだすうちの相棒とか」
「……まともにお聞きするに値しません」
ルクレはそう言って、初めてアークから視線を外した。「そもそもお名前も伺ってませんし。通りすがりの戯言と思うことにします」
「俺の名前なんざ覚えたところであんたの人生には役に立たんから名乗るつもりもないけど。だって仲良くなる予定もないし。どうしても調査は続けるつもりか?」
「当然です」
アークはため息とともに呟いた。初めて、不機嫌そうな響きをもって。
「……しょーがねえなあ」
巻き込まれるのは防いでやりたかったんだけどな――と、ルクレには聞こえないほどの小さな、小さな声で――
それ以上のやりとりもなく、アークはさっさと部屋から出ていってしまった。
「―――」
アリムは脱力しそうになる体を何とかふるい起こした。
「ルクレさん、大丈夫ですか」
ベッドに向ける声がかすかに震えている。自分で分かる。
何に怯えている? ルクレの怒りだろうか。違う、自分の内側に湧き起こった何かが――恐い。
ルクレはアリムを見て、弱々しく微笑んだ。
「大丈夫ですアリムさん。……ごめんなさい、アリムさんのご友人ですよね?」
「友人――友人、というか」
――アークさんです、とぽつりと。
ルクレは大きく目を見張った。
「アークさん――あの方が? まあ――」
しばし絶句し、考え込むように視線を伏せる。
「あの方が……そうですか……」
吐息。
納得したような、またどことなく失望したかのような響きに、アリムはいたたまれなくなった。
やがて、「ごめんなさいアリムさん」とルクレは改めて顔をアリムに向けた。
「私……疲れてきてしまったみたいで。もうお休みさせていただくことにします。本当にありがとう」
「あ――あ、はい、お休みなさい」
慌てるアリムに、ルクレはほんのりと微笑んだ。まるでアリム自身には敵意はまるでないのだと言うように。
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ルクレを残して部屋を出たアリムは、ドアの前でうつむいた。
「アリム、どうしたんだい」
カウンターに腰かけた女店主が怪訝そうな顔をする。
その隣の椅子にはトリバーが、いつものように本を手にした姿で座っていた。それから――
「アークならもう出てったよ」
視線をさまよわせかけたアリムに、フロリデが先回りして教えてくれる。
「そう――ですか」
アリムはぐっと唾を飲み込んだ。
胸の奥に苦い思いが沈んでいる。今まで感じたことのない何かが、自分の内にある。そのことに戸惑い、そして失望する。
その凝りの名前は、はっきりと分かっていたから。
トリバーが、本しか映さないはずの目をこちらに向けたのが見えた。
「……あのバカが何か言ったな」
「えっ」
「アークは何を言った。あのバカは」
本を閉じ、真顔でアリムを見る。
「―――」
アリムはアークとルクレの会話の内容を、ためらいがちにトリバーとフロリデに話した。
あの会話をなぞればますます自分の中の凝りが固くなる。それに気づかないふりをして、できるだけ明るい声で説明する。
アリムの話が終わると、トリバーはがっくりとカウンターに突っ伏した。
「バカが……本当に、うまく立ち回ることをいい加減覚えやがれっ……俺が迷惑だ……!」
フロリデも軽く腕を組んで苦笑している。
アリムは思い切って問いを投げた。
「あ、あの。アークさんはいったいどうしてあんなことを言うんでしょうか……?」
何か根拠が、と言いかけたアリムに、突っ伏したままの青年が顔を上げないまま面倒くさそうに片手を振った。
「いいや。根拠なんかないさ……どうせただのカンだ」
「そんな」
「アレは協会に不信感がある。まあそこから来るんだろうな」
「だったら……!」
心の中の凝りが訴える。声を上げようとしたアリムの前で、ゆっくりとトリバーが体を起こす。眠たそうな目が、苦々しそうに店内をにらんでいる。
「だが……困ったことに、アレのカンは外れたことがない。不信感から来ていようが何してようが、な。そもそも、アレは物事に不信を持つこと自体が稀だから――つまり、アレにそういった感情を持たれた時点で、その対象は相当やばい」
そしてチラとアリムを見やり、
「お前から目から見ても、結局協会はまともじゃなかっただろう?」
「………」
ほんのひと月前の経験が、アリムの脳裏にじっとりと滲むように湧いた。
アリムはうつむいた。
「……協会が森にしたことは、許せないんです」
「だろうな」
「でも――ルクレさんの好意を退けるのは、それとは別問題のような気がして」
そうだ。どんなに心の中で否定しようとしても無理だ。自分は――ルクレを拒絶できない。
あの朗らかな眼差しを、疑うことができない。
「その。協会の全部が悪いわけじゃないんじゃないかって、どうしても思うんです。だって僕には、ルクレさんが悪い人にはどうしても見えない……!」
両の手が、自然と拳に握られていた。
掌ににじむ汗は、あまりにも自分で言っていることが不確定であることへの、不安の表れに違いなかった。
無理やり開いた手を見下ろす。森で暮らしていた時分、決して頼りないとは思わなかった自分の両手が、今はこんなにも弱弱しい。
「――アークさんのことは信じています。でも、さっきのアークさんの言葉にはどうしても……賛同できないんです。それが――」
それが、恐い。
アリムはそう呟いた。
しん、と空気が静まり返った。雑然とした店内にはひどく似合わない静寂が、アリムに精霊を見ることができなかった時代の森の暮らしを思い出させる。
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もう一度あんな日々の中を味わいたくないと、心が悲鳴を上げている。アークと仲たがいすることが恐ろしい。精霊の血を引く異質な自分が深く悩まずに毎日を過ごせるのは、精霊を中心にして生きているあの青年がいるからに他ならなかったから――
アークに反感を持ってしまった。この気持ちをどうしたらいいのか、それが分からない。
そして。
「僕はルクレさんに……どういう態度を取ったらいいんでしょうか」
さあな、とトリバーは興味がなさそうにも見える声音で言った。
「好きにしたらいいんじゃないのか」
「……まったく分からないんです。自分が何を望んでいるのかも」
緑の髪の青年は、深く嘆息した。
椅子ごとアリムのほうへ直り、不機嫌な目をアリムに向ける。
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「今のうちに言っとくがな、アリム。お前、俺やあのバカに言うことをすべての基本にしようとするな。別に俺らと違う考えを持ったって何も問題はないんだ」
「―――」
「お前はお前で答えを選び取れ。あのバカはこれからも協会憎しで動くだろうし、俺は俺で協会に好意的にはなれない。だがそんなことはお前にとってどうでもいいことのはずだ――俺たちの言うことなんざ、選択肢のひとつにすぎん。無数にある選択肢のうちのひとつでしかな。いいか」
トリバーは、一文字一文字を明確に空気に描き出すかのように、紡ぐ。
「――悩むことを恐れるな、アリム。悩んでいるのは正常な証拠だ。一番恐ろしいのは、何の疑いもなく他人の考えで動いていることだと知れ」
アリムが無言で見返す青い瞳。
このひと月、新しい知識をアリムに教えようとするたび、決まって彼はこんな目をした。そう――知識、だ。“生きていくために利用するための道具”。
そうは言っても、とトリバーは疲れたように背もたれに身を預け、
「アークと喧嘩をするのが怖いってのは分からんでもない。アレに一度嫌われたら絶望的だと、そう思っているんだろう?」
「………」
「それはアイツも悪いがな。だが、よく思い出せ――まさか俺が、アレと全く考え方を異にしないで今までやってきたと思うか? アレと同じ考え方をしていると思われることは、むしろ俺の人生最大の汚辱に等しいが」
ぶっとフロリデが噴き出す。
こんな真面目な会話の最中でなければ、きっとアリムも笑っていたに違いなかった。
肩を震わせる女店主をうるさそうに横目で見やってから、トリバーは淡々と続けた。
「お前がそうやってアークとの関係を不安がるのは、まだあいつのことをよく知らないからだ。これからいくらでも、どうにでもできることだ――そしてそれは、あの協会の女についても同じことだ」
あの女と話したいなら話せ、と。
トリバーはそう言った。
「い、いいんですか」
「お前がそれを無駄にしないならな」
それで話は終わりだと言いたげに、緑の髪の青年は手を振った。
「ひとまず今日はここでやめておけ。お前は働きすぎだ――体力が万全でないときに陥る思考はあてにならん。まずは休むことだな」
それきり彼はカウンターに体を向け、再び本を開く。
読書姿勢に入った青年を見つめるアリムの心に、彼の言葉が何度も響き渡った。
――悩むことを恐れるな。
(僕は……)
腑に落ちない何かはまだ残っている。生まれてしまった様々な初めての感情は、やっぱりアリムの手に余るとしか言えない。けれど。
また会話をしようとアリムは思った。知りたいと思った――ルクレのことも、そしてアークのことも同じくらいに。
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