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第二話 記憶は水鏡に映して
第三章 3
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3
雪であろうと、水鏡の洞窟の調査は行われる。
むしろ雪が降っているほうが好都合なのだ――と、ルクレは言った。
「アリムさん、大丈夫ですか?」
前方を歩くルクレが振り向いた。フードの陰になった顔が、気遣わし気にアリムを窺い見る。
「だ、大丈夫です」
たった今ぬかるんだ地面に足を取られて転びかけたアリムは、顔を赤くしながら慌ててそう言った。
ルクレは心配そうな顔のまま小首をかしげる。
「辛ければいつでも仰ってくださいね」
「平気ですからっ」
繰り返す声に情けなさが滲んだ。せめて態度で示そうと、アリムは眼差しをまっすぐ進行方向に向ける。
彼らはすでにゼーレを出て、水鏡の洞窟まで人気のない道を歩いていた。平らかな大地は冬の白んだ気配にぼやけ、遠い山並みは幻の向こう側に見える。雪は時間が経つにつれ多くなってきている。
アリムが調査に同行したいと願い出た日から、三日が経っていた。
朝一で、ルクレたちはアリムを迎えに来た。他に五人の男たちが同行している――もちろん全員が精霊保護協会の人間だ。
彼らはアリムが困惑するほどに愛想がよかった。アリムの知った顔ではない――彼らの方はアリムのことを“噂には聞いております”と言った。
いったいどんな噂を聞いているのか。むやみに親切な彼らの態度に、アリムはつい身構えた。しかし街の敷地を出たころ、ふと気がついた――そうか、この人たちは“教師”なんだ。
精霊保護協会において、精霊学を協会員たちに教える立場にある人々。アリムも協会に通っていたころ、その肩書きを持つ数人の講義を聞いたことがある。中には個性の強い人物もいるが、おおむね柔らかな物腰で丁寧に語る人物が多かった。アリムのほうが目立つのを避けていたため直接会話をしたことは一度もなかったが、話しかければ応えてくれると思える人々だった。その候補生だというルクレも、いずれはそういう教師になるのだろう。
そう思って見れば、今ルクレと会話をしながら洞窟へ向かう彼らの穏やかな様子にも納得できる。
すぐ溶ける雪でどろどろになった道。年長の彼ら――アリムには二十代から四十代くらいに見える――はできるだけゆっくりと進み、紅一点のルクレだけでなく最年少のアリムの様子にも気を配ってくれる。もちろんルクレも、しきりにアリムの歩調を気にした。アリムはそのたびに身の縮む思いをした――結局荷物らしい荷物を持っていないのは、この中で自分だけなのに。
ルクレは、記録紙が入っているという布袋を抱えている。
そして他の男性たちは、それよりももっと重そうな袋を肩に負っていた。
何度もルクレに荷物を譲ってくれないかと頼んだのだが、ルクレは笑いながらやんわりと拒否をした。“これは私の役割ですから”と。
返す言葉もなく、アリムはしおしおと肩を落としてただ彼らに同行した。北へ向かい、寒々しい平原をゆっくりと越えていく。
空が静かだ。
細かな雪は音を立てない。行き交う鳥もなく、木々を揺らす風もない。何気なく手袋をはめた手を空中に差し出すと、その上にはらはらと雪が落ちては溶け消える。
頬に当たる空気が刺すように冷たい。白い息を吐き出す自分の呼吸が、なぜか遠く別の人間のもののように聞こえる。足元では彼らが踏み散らす水気の多くなった土の音。そして、ルクレと協会員たちが喋る声。
「アリム君、休憩するかね」
最年長と見える壮年の人物がふと振り向いた。「疲れてはいないかな。こういった地面は歩きづらいだろう」
「あ、いいえ。だ、大丈夫です」
むしろ整えられていない地面は得意なほうだ。何しろ森で生まれ育った身である――ただ今は、ルクレや彼らにどうしても気がいって、足元に注意が向かない。
誰かが止まると一行が止まる。全員でアリムを振り返る。視線を浴び、いたたまれなくなって、アリムはつい唐突に疑問を口にした。
「あの、調査って……普通皆さんのような教師の人がなさるものなんですか?」
そうでもないよ、と真っ先に答えてくれたのは、彼ら男性教師の中では一番若そうな青年だ。確か最初の挨拶のときに、「自分も今日初参加だから同期ということで、よろしく」と気さくにアリムに握手を求めてくれた。いかにもゼーレ人然とした、三十歳に行くか行かないかくらいに見える赤茶髪の彼は、荷物を担ぎ直しながら軽く続けた。
「まあその時々だね。調査だけに没頭している者もいるけど――今回は技術よりもむしろ知識が必要な調査ということで。我々は知識なら負けないからな」
そういうものなのかと曖昧にうなずくアリムに、ルクレが苦笑しながら言い足した。
「ですから、私のような未熟者が参加するのは極めて異例なんですよ。本当に、ここに立たせて頂くのも恥ずかしいくらいで」
「何を言うルクレシア。君には期待しているからな――何しろエルセン教師もご自慢の次代教師候補だ。それとも君は、父君の顔に泥を塗りたいのかね」
壮年の人物がそんなことを言った。厳かな口調でルクレを睨むように見る。「いいえ」ルクレが緊張した面持ちでそう答えると、とたんににやりと唇の端を上げる。
「なに、そう固くなることもない。君が明日にも教師補から下りて旅に出ると宣言したところで、我々は落胆などせんよ。“行くのなら究めよ”とだけは言ってやるがね」
「旅なんて、とんでもない!」
ルクレは表情を和ませ、朗らかに笑った。まだまだ勉強するので手がいっぱいです――と、ごく当然のことのようにそう添えて。
アリムはそんな彼女を、眩しい思いで見つめた。
誰からともなく再び歩き出し、やがて振り向いてもゼーレの街が見えなくなる。
(こんなに街から離れたことなんかあったっけ)
ふとそんなことを思った。
常若の森も街の<外>ではあったけれど、水鏡の洞窟よりは近かった。それにいつも同じ道を通って森と街を行き来していたアリムにしてみれば、その道以外の街の<外>は、正真正銘初めて目にする景色だ。
木々で遮られることのない、開けた視界。当然ながら人家もない。それがとても不思議なものに見えた――本や絵画で見たことならある。しかしそれらと今目にしているものが、どうしても重ならない。例えば今目の前にある風景が、毎日家の居間で目にしている風景画のモデルだと言われても、きっと信じられないだろう。
何が違うのだろうと言えば――
(そうか)
外、とは、こういうものなのだと腑に落ちる。
見るだけではない。耳に届く音も、鼻に届く匂いも、肌で感じる雰囲気をも含めた、その全て。
(僕は初めて外に出るのと同じなのかもしれない)
そんな思いと共に、もうひとつ浮かんだのは世話になっている青年だ。
(――アークさんはいつも、こういう風景の中を走り回っているのかな)
気が付くとどこかへ行ってしまっている彼。意識して考えてみれば、アークは街中に紛れているよりも、こうした場所にいるところのほうがしっくりくる。そもそも彼は精霊のそばを好むのだろうから。
そう、精霊と言えば。
「精霊がいない……?」
声に出して呟いた。
すぐ隣を歩いていたルクレが、すぐにアリムのほうを見た。
「精霊たちなら、おそらく雪を避けて隠れているのだと思いますよ。水精(ヒュドール)たちなら普通に外に出ているはずですが……雪が降ると、どこに雪の精霊が生まれるか予測がつかないですから。うっかりぶつかってしまってはいけませんし」
「あ」
数日前に見た白い子供を思い出し、アリムは口をつぐむ。
あの日――初めて雪の精霊を見たあの朝。アリムを訪なった黒づくめの情報屋。
アラギの言葉を思い出すたび、胃がきりりと痛んだ。この数日、眠れない夜もあったのだ。
『他の精霊に触れないほうがいい』
「ちなみに、ゼーレでは滅多に見られませんが、他の地域では“吹雪”という現象があるのだそうです。風と雪が同時に生まれるんですけど、吹雪の日の精霊たちは皆それ相応に特化した動きをするのだそうですよ。特に雪の精霊の姿が特徴的だという報告があって――アリムさん?」
「え? あ、はいっ」
「大丈夫ですか? ぼーっとなさっていたみたいですが……」
心配そうにルクレに窺われ、アリムは慌てて首を振る。今日はいったい何度心配されていることか。ルクレもいい加減呆れているかもしれない。
そんなことが続けばいずれ『もう戻りますか』と言われてしまう。もっとしっかりしなくては――。アリムは胸に貼りつく黒い影を無理やり振り切り、前方を見ようと顔を上げた。
進行方向に木々が見える。森という風情ではないが、同じ種類の木がやや密な間隔で、広く左右に広がっている。葉のないそのシルエットは妙に寒々しい。
「あの林を抜ければもうすぐです」
と教師の誰かが言った。
一行は間もなく林の中に足を踏み入れた。何の木の林なのかアリムには分からなかったが、近づいてみると一本一本が太く、大人も隠れられそうだ。上を見上げれば、空を遮る無数の枝。それぞれは細く見えるのに、空から降る何かをがっちり受け止めようとするかのようなその形は、むしろ力強くさえ見えた。暖かい季節にはこの枝が、たくさんの葉を支えているのだ。
気が付いたときには木に夢中になっていた。協会の面々は慣れた道のはずで、どんどん先に行きたかったに違いないが、置いて行かれるようなことはなかった。
後から思えばそれが幸いだったのだ。
「この道……」
ルクレがぼんやりと呟いた。
それは彼女には珍しいと思えるほど、漠然とした声音だった。アリムは敏感に反応して、すぐそばにいたルクレを見やった。
「ルクレさん?」
「あ……いえ、ちょっと」
ルクレは立ち止まり、困惑したようにそっと首をかしげた。「あの、この道で合っているのですよね?」
声をかけられた他の教師たちは、当然だと言いたげな顔をする。
「どうかしたのかい? ルクレシア」
一番若い教師が問うと、ルクレの表情が曖昧に陰った。
「何だか……思い出せなくて。この道、前にも通りましたか……?」
「確かに通ったぞ。どうしたルクレシア」
と、これは壮年の教師だ。分かりませんとため息とともに視線を低く落とすルクレを、年長者たちは軽く笑い飛ばした。
「なに、冬の木というのは意外に印象に残らんものだ。どこもかしこも同じ景色に見えたりな――特に君は道中も熱心に我々と話し込んでいることが多かったから、周りを見ておらなかったんだろう」
「そんなことないです」
風景は好きですから――ルクレは不満げに赤らんだ頬を膨らませた。ほんの時々、彼女はこんな顔をする。
むくれながらもそれ以上は何も言わず、彼らは再び歩き出す。最後尾でルクレの背中を見つめたアリムは眉を曇らせた。
何か――不安が残る。
(そもそもルクレさん、本当に具合悪くないのかな……?)
数日前確かに行き倒れていたというのに、結局その原因は定かではない。協会では睡眠不足だと認識されたらしく、丸一日休まされたのだと聞いた。今日三日ぶりに会ったルクレは、血色もよく元気がよかった。それを見たアリムも一度は安心したのだ。
問題はない、はずだ。
――本当に?
もやもやとした不安を逆撫でするように、背後で気配がした。風精(アネモス)たちが怯えるときと同じような空気の震え――
アリムははっと振り向いた。並び立つ冬の木々の陰で、何かがわずかに動いた。
「だれ――!」
思わず声を上げる。同行者たちが驚いたように一斉にアリムを振り返る。
「アリムさん――?」
誰かが舌打ちするような音がして、
同時、一行の背後方面にあった木々の陰から、幾つもの人影が飛び出してきた。
「大人しくしろ……!」
アリムは咄嗟にルクレをかばおうと両腕を広げた。彼の目に映ったのは、伸びあがるようにしてアリムたちに襲いかかる男の姿。一様にがりがりと言っていいほど細身でありながら、異様に長い手足の生み出す躍動感が軟弱さを打ち消している。上半身は信じられないことだが裸だ。だがそのことよりも、腰回りに取り付けられた銀の小剣がきらりと光ってアリムの視線を釘付けにした。
凍りついたアリムを、一人の男があっという間に捕らえる。その隙にもう一人が横を通りすぎた。アリムが振り返る前にルクレの悲鳴が上がる。続いて教師たちの怒声が。
「何者だ……! 我々を精霊保護協会の教師と知っての狼藉か!?」
応える言葉はなく、男たちは次々と教師たちに躍りかかった。
物音も立てず男のむき出しの腕が教師たちの胴体に滑り込み、教師たちは呻き声とともに地面に崩れ落ちる。
「な、何だ……っ?」
最後に残ったのは一番若い教師だ。何が起こったのかも理解できていない様子で呆然と立っている。その懐に謎の男の一人が素早く潜り込んだ――次の瞬間、青年教師は目を剥き、声もなくくずおれた。
「ラサロ先生……!」
ルクレが教師の名を呼ぶ。男の腕から逃れようと暴れるルクレに、アリムはぞっと怖気だつような危機を感じた。
「だめ、ルクレさん……!」
だが遅かった。アリムの叫びとほぼ同時に、ルクレの体ががくりと折れた。よく見えなかったが、彼女を捕まえていた男が何かしたのは間違いなかった。
君は大人しくしていろ――と、背後で低く囁く声がある。
いつの間にか後ろに回ってアリムの両腕を背中で抑えている男だ。押し殺したような声音で、早口に。
――君らを害するつもりはない。
瞬間、目もくらむような怒りがアリムの全身を駆け抜けた。
「……っ、ふざけないでください……っ!!!」
体をねじって背後を見ようとする。暴れるのは危険だと分かっていた。現にルクレは暴れたからああなったのだ――だが止まらない。
「い、いきなり襲ってきて、そんな言い分通用しない! 離してください! ルクレさんのことも、離して……!」
だが。
「――こんなことをするつもりはなかったんだが」
無理やり見た背後にいたのは、苦々しい顔をする面長の男。ほとんど独り言のような口調で、しかしアリムの腕を捕らえる力は緩めることなく――
「気づかれてしまったからな。本当は誘導して君らだけを教師どもから引き離すはずだったんだが……」
「へえ。つまり目的はやっぱりアリムか」
第三の声はあまりに唐突に。
面長の男の目つきが瞬時に切り替わった。敵を威嚇する刃の視線に。
上半身裸の男たちが一斉に身構え、一点に視線を走らせる。
林立する木々の終わり。再び平原が始まるその地点に、彼はいた。導かれるようにそちらを見たアリムは、飛び上がりそうなほどに驚いた。まさか彼が、どうして。
「――アークさん!?」
雪であろうと、水鏡の洞窟の調査は行われる。
むしろ雪が降っているほうが好都合なのだ――と、ルクレは言った。
「アリムさん、大丈夫ですか?」
前方を歩くルクレが振り向いた。フードの陰になった顔が、気遣わし気にアリムを窺い見る。
「だ、大丈夫です」
たった今ぬかるんだ地面に足を取られて転びかけたアリムは、顔を赤くしながら慌ててそう言った。
ルクレは心配そうな顔のまま小首をかしげる。
「辛ければいつでも仰ってくださいね」
「平気ですからっ」
繰り返す声に情けなさが滲んだ。せめて態度で示そうと、アリムは眼差しをまっすぐ進行方向に向ける。
彼らはすでにゼーレを出て、水鏡の洞窟まで人気のない道を歩いていた。平らかな大地は冬の白んだ気配にぼやけ、遠い山並みは幻の向こう側に見える。雪は時間が経つにつれ多くなってきている。
アリムが調査に同行したいと願い出た日から、三日が経っていた。
朝一で、ルクレたちはアリムを迎えに来た。他に五人の男たちが同行している――もちろん全員が精霊保護協会の人間だ。
彼らはアリムが困惑するほどに愛想がよかった。アリムの知った顔ではない――彼らの方はアリムのことを“噂には聞いております”と言った。
いったいどんな噂を聞いているのか。むやみに親切な彼らの態度に、アリムはつい身構えた。しかし街の敷地を出たころ、ふと気がついた――そうか、この人たちは“教師”なんだ。
精霊保護協会において、精霊学を協会員たちに教える立場にある人々。アリムも協会に通っていたころ、その肩書きを持つ数人の講義を聞いたことがある。中には個性の強い人物もいるが、おおむね柔らかな物腰で丁寧に語る人物が多かった。アリムのほうが目立つのを避けていたため直接会話をしたことは一度もなかったが、話しかければ応えてくれると思える人々だった。その候補生だというルクレも、いずれはそういう教師になるのだろう。
そう思って見れば、今ルクレと会話をしながら洞窟へ向かう彼らの穏やかな様子にも納得できる。
すぐ溶ける雪でどろどろになった道。年長の彼ら――アリムには二十代から四十代くらいに見える――はできるだけゆっくりと進み、紅一点のルクレだけでなく最年少のアリムの様子にも気を配ってくれる。もちろんルクレも、しきりにアリムの歩調を気にした。アリムはそのたびに身の縮む思いをした――結局荷物らしい荷物を持っていないのは、この中で自分だけなのに。
ルクレは、記録紙が入っているという布袋を抱えている。
そして他の男性たちは、それよりももっと重そうな袋を肩に負っていた。
何度もルクレに荷物を譲ってくれないかと頼んだのだが、ルクレは笑いながらやんわりと拒否をした。“これは私の役割ですから”と。
返す言葉もなく、アリムはしおしおと肩を落としてただ彼らに同行した。北へ向かい、寒々しい平原をゆっくりと越えていく。
空が静かだ。
細かな雪は音を立てない。行き交う鳥もなく、木々を揺らす風もない。何気なく手袋をはめた手を空中に差し出すと、その上にはらはらと雪が落ちては溶け消える。
頬に当たる空気が刺すように冷たい。白い息を吐き出す自分の呼吸が、なぜか遠く別の人間のもののように聞こえる。足元では彼らが踏み散らす水気の多くなった土の音。そして、ルクレと協会員たちが喋る声。
「アリム君、休憩するかね」
最年長と見える壮年の人物がふと振り向いた。「疲れてはいないかな。こういった地面は歩きづらいだろう」
「あ、いいえ。だ、大丈夫です」
むしろ整えられていない地面は得意なほうだ。何しろ森で生まれ育った身である――ただ今は、ルクレや彼らにどうしても気がいって、足元に注意が向かない。
誰かが止まると一行が止まる。全員でアリムを振り返る。視線を浴び、いたたまれなくなって、アリムはつい唐突に疑問を口にした。
「あの、調査って……普通皆さんのような教師の人がなさるものなんですか?」
そうでもないよ、と真っ先に答えてくれたのは、彼ら男性教師の中では一番若そうな青年だ。確か最初の挨拶のときに、「自分も今日初参加だから同期ということで、よろしく」と気さくにアリムに握手を求めてくれた。いかにもゼーレ人然とした、三十歳に行くか行かないかくらいに見える赤茶髪の彼は、荷物を担ぎ直しながら軽く続けた。
「まあその時々だね。調査だけに没頭している者もいるけど――今回は技術よりもむしろ知識が必要な調査ということで。我々は知識なら負けないからな」
そういうものなのかと曖昧にうなずくアリムに、ルクレが苦笑しながら言い足した。
「ですから、私のような未熟者が参加するのは極めて異例なんですよ。本当に、ここに立たせて頂くのも恥ずかしいくらいで」
「何を言うルクレシア。君には期待しているからな――何しろエルセン教師もご自慢の次代教師候補だ。それとも君は、父君の顔に泥を塗りたいのかね」
壮年の人物がそんなことを言った。厳かな口調でルクレを睨むように見る。「いいえ」ルクレが緊張した面持ちでそう答えると、とたんににやりと唇の端を上げる。
「なに、そう固くなることもない。君が明日にも教師補から下りて旅に出ると宣言したところで、我々は落胆などせんよ。“行くのなら究めよ”とだけは言ってやるがね」
「旅なんて、とんでもない!」
ルクレは表情を和ませ、朗らかに笑った。まだまだ勉強するので手がいっぱいです――と、ごく当然のことのようにそう添えて。
アリムはそんな彼女を、眩しい思いで見つめた。
誰からともなく再び歩き出し、やがて振り向いてもゼーレの街が見えなくなる。
(こんなに街から離れたことなんかあったっけ)
ふとそんなことを思った。
常若の森も街の<外>ではあったけれど、水鏡の洞窟よりは近かった。それにいつも同じ道を通って森と街を行き来していたアリムにしてみれば、その道以外の街の<外>は、正真正銘初めて目にする景色だ。
木々で遮られることのない、開けた視界。当然ながら人家もない。それがとても不思議なものに見えた――本や絵画で見たことならある。しかしそれらと今目にしているものが、どうしても重ならない。例えば今目の前にある風景が、毎日家の居間で目にしている風景画のモデルだと言われても、きっと信じられないだろう。
何が違うのだろうと言えば――
(そうか)
外、とは、こういうものなのだと腑に落ちる。
見るだけではない。耳に届く音も、鼻に届く匂いも、肌で感じる雰囲気をも含めた、その全て。
(僕は初めて外に出るのと同じなのかもしれない)
そんな思いと共に、もうひとつ浮かんだのは世話になっている青年だ。
(――アークさんはいつも、こういう風景の中を走り回っているのかな)
気が付くとどこかへ行ってしまっている彼。意識して考えてみれば、アークは街中に紛れているよりも、こうした場所にいるところのほうがしっくりくる。そもそも彼は精霊のそばを好むのだろうから。
そう、精霊と言えば。
「精霊がいない……?」
声に出して呟いた。
すぐ隣を歩いていたルクレが、すぐにアリムのほうを見た。
「精霊たちなら、おそらく雪を避けて隠れているのだと思いますよ。水精(ヒュドール)たちなら普通に外に出ているはずですが……雪が降ると、どこに雪の精霊が生まれるか予測がつかないですから。うっかりぶつかってしまってはいけませんし」
「あ」
数日前に見た白い子供を思い出し、アリムは口をつぐむ。
あの日――初めて雪の精霊を見たあの朝。アリムを訪なった黒づくめの情報屋。
アラギの言葉を思い出すたび、胃がきりりと痛んだ。この数日、眠れない夜もあったのだ。
『他の精霊に触れないほうがいい』
「ちなみに、ゼーレでは滅多に見られませんが、他の地域では“吹雪”という現象があるのだそうです。風と雪が同時に生まれるんですけど、吹雪の日の精霊たちは皆それ相応に特化した動きをするのだそうですよ。特に雪の精霊の姿が特徴的だという報告があって――アリムさん?」
「え? あ、はいっ」
「大丈夫ですか? ぼーっとなさっていたみたいですが……」
心配そうにルクレに窺われ、アリムは慌てて首を振る。今日はいったい何度心配されていることか。ルクレもいい加減呆れているかもしれない。
そんなことが続けばいずれ『もう戻りますか』と言われてしまう。もっとしっかりしなくては――。アリムは胸に貼りつく黒い影を無理やり振り切り、前方を見ようと顔を上げた。
進行方向に木々が見える。森という風情ではないが、同じ種類の木がやや密な間隔で、広く左右に広がっている。葉のないそのシルエットは妙に寒々しい。
「あの林を抜ければもうすぐです」
と教師の誰かが言った。
一行は間もなく林の中に足を踏み入れた。何の木の林なのかアリムには分からなかったが、近づいてみると一本一本が太く、大人も隠れられそうだ。上を見上げれば、空を遮る無数の枝。それぞれは細く見えるのに、空から降る何かをがっちり受け止めようとするかのようなその形は、むしろ力強くさえ見えた。暖かい季節にはこの枝が、たくさんの葉を支えているのだ。
気が付いたときには木に夢中になっていた。協会の面々は慣れた道のはずで、どんどん先に行きたかったに違いないが、置いて行かれるようなことはなかった。
後から思えばそれが幸いだったのだ。
「この道……」
ルクレがぼんやりと呟いた。
それは彼女には珍しいと思えるほど、漠然とした声音だった。アリムは敏感に反応して、すぐそばにいたルクレを見やった。
「ルクレさん?」
「あ……いえ、ちょっと」
ルクレは立ち止まり、困惑したようにそっと首をかしげた。「あの、この道で合っているのですよね?」
声をかけられた他の教師たちは、当然だと言いたげな顔をする。
「どうかしたのかい? ルクレシア」
一番若い教師が問うと、ルクレの表情が曖昧に陰った。
「何だか……思い出せなくて。この道、前にも通りましたか……?」
「確かに通ったぞ。どうしたルクレシア」
と、これは壮年の教師だ。分かりませんとため息とともに視線を低く落とすルクレを、年長者たちは軽く笑い飛ばした。
「なに、冬の木というのは意外に印象に残らんものだ。どこもかしこも同じ景色に見えたりな――特に君は道中も熱心に我々と話し込んでいることが多かったから、周りを見ておらなかったんだろう」
「そんなことないです」
風景は好きですから――ルクレは不満げに赤らんだ頬を膨らませた。ほんの時々、彼女はこんな顔をする。
むくれながらもそれ以上は何も言わず、彼らは再び歩き出す。最後尾でルクレの背中を見つめたアリムは眉を曇らせた。
何か――不安が残る。
(そもそもルクレさん、本当に具合悪くないのかな……?)
数日前確かに行き倒れていたというのに、結局その原因は定かではない。協会では睡眠不足だと認識されたらしく、丸一日休まされたのだと聞いた。今日三日ぶりに会ったルクレは、血色もよく元気がよかった。それを見たアリムも一度は安心したのだ。
問題はない、はずだ。
――本当に?
もやもやとした不安を逆撫でするように、背後で気配がした。風精(アネモス)たちが怯えるときと同じような空気の震え――
アリムははっと振り向いた。並び立つ冬の木々の陰で、何かがわずかに動いた。
「だれ――!」
思わず声を上げる。同行者たちが驚いたように一斉にアリムを振り返る。
「アリムさん――?」
誰かが舌打ちするような音がして、
同時、一行の背後方面にあった木々の陰から、幾つもの人影が飛び出してきた。
「大人しくしろ……!」
アリムは咄嗟にルクレをかばおうと両腕を広げた。彼の目に映ったのは、伸びあがるようにしてアリムたちに襲いかかる男の姿。一様にがりがりと言っていいほど細身でありながら、異様に長い手足の生み出す躍動感が軟弱さを打ち消している。上半身は信じられないことだが裸だ。だがそのことよりも、腰回りに取り付けられた銀の小剣がきらりと光ってアリムの視線を釘付けにした。
凍りついたアリムを、一人の男があっという間に捕らえる。その隙にもう一人が横を通りすぎた。アリムが振り返る前にルクレの悲鳴が上がる。続いて教師たちの怒声が。
「何者だ……! 我々を精霊保護協会の教師と知っての狼藉か!?」
応える言葉はなく、男たちは次々と教師たちに躍りかかった。
物音も立てず男のむき出しの腕が教師たちの胴体に滑り込み、教師たちは呻き声とともに地面に崩れ落ちる。
「な、何だ……っ?」
最後に残ったのは一番若い教師だ。何が起こったのかも理解できていない様子で呆然と立っている。その懐に謎の男の一人が素早く潜り込んだ――次の瞬間、青年教師は目を剥き、声もなくくずおれた。
「ラサロ先生……!」
ルクレが教師の名を呼ぶ。男の腕から逃れようと暴れるルクレに、アリムはぞっと怖気だつような危機を感じた。
「だめ、ルクレさん……!」
だが遅かった。アリムの叫びとほぼ同時に、ルクレの体ががくりと折れた。よく見えなかったが、彼女を捕まえていた男が何かしたのは間違いなかった。
君は大人しくしていろ――と、背後で低く囁く声がある。
いつの間にか後ろに回ってアリムの両腕を背中で抑えている男だ。押し殺したような声音で、早口に。
――君らを害するつもりはない。
瞬間、目もくらむような怒りがアリムの全身を駆け抜けた。
「……っ、ふざけないでください……っ!!!」
体をねじって背後を見ようとする。暴れるのは危険だと分かっていた。現にルクレは暴れたからああなったのだ――だが止まらない。
「い、いきなり襲ってきて、そんな言い分通用しない! 離してください! ルクレさんのことも、離して……!」
だが。
「――こんなことをするつもりはなかったんだが」
無理やり見た背後にいたのは、苦々しい顔をする面長の男。ほとんど独り言のような口調で、しかしアリムの腕を捕らえる力は緩めることなく――
「気づかれてしまったからな。本当は誘導して君らだけを教師どもから引き離すはずだったんだが……」
「へえ。つまり目的はやっぱりアリムか」
第三の声はあまりに唐突に。
面長の男の目つきが瞬時に切り替わった。敵を威嚇する刃の視線に。
上半身裸の男たちが一斉に身構え、一点に視線を走らせる。
林立する木々の終わり。再び平原が始まるその地点に、彼はいた。導かれるようにそちらを見たアリムは、飛び上がりそうなほどに驚いた。まさか彼が、どうして。
「――アークさん!?」
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