女神の心臓

瑞原チヒロ

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第二話 記憶は水鏡に映して

第三章 4

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 腰に剣をぶら下げ、腕組みをしてたたずむアークは、興味深そうな顔をして軽く首をかしげた。
「お前らそれで寒くないの?」
 と言葉を向けた相手は当然、上半身裸という信じられない格好をした男たちだろう。しかし声をかけられても男たちは依然として威嚇を返すのみ。
 アークは腕組みを解き、片手で頭を掻いた。
「――まあ、聞いたことはあるんだけどさ。お前らの国の人間って異様に暑さ寒さに強いんだってな?」
「それは少し違う」
 アリムを抑えている男が口を開いた。「我らの先祖は他国に服を奪われた。その記憶を忘れぬよう、伝統的に受け継がれているだけだ」
 はあん、とアークは胡乱な視線を投げやった。
「つまり過去の恨みを厭味ったらしく主張してるわけか」
「貴様に言われたくはない、アーク」
「そーだな」
 青年の顔がにやりと笑う。「俺も恨んだら忘れないよ? だって許す気もないし――でもさ」
 ぞっとするようなことをさらりと言ってのけたあと、彼はなぜか、労わるような笑みを作った。
「恨むのは空しいしすごく疲れる。だから俺は目の前の人間には、恨むのはやめとけって言うよ。お前らにも」
 肌の表面を、そっと撫でていくような声で。
 男たちが虚を衝かれたように黙り込んだ。
 その気配を背後に感じながら、アリムはアークを凝視した。
 ――彼が誰を恨んでいるというのか。
 最後にアークと交わした会話が蘇る。あんなに寂しそうな顔をさせてしまった――だからまさか自分のことだろうかと、不安に鼓動が早鐘を打つ。
 しかし青年はアリムと視線が合うと、
 照れたように肩をすくめて苦笑いを見せた。
 そして何も言わずに体勢を低くし、腰の剣に手をかけた。抜剣の構え――
「無駄話もおしまいだ。アリムに危害を与えることは許さない。さっさと手を引け、“その他”の呑んだくれども」
 ずっと気楽だった表情が一転した。アリムを通り越し男たちを見据える目に、研いだばかりの刃の光が走る。
 奇妙に緩みかけていた場の空気がにわかに緊張した。
 青年の手が剣の柄を握った、次の瞬間。
 目の前からアークの姿が消えた。次に聞こえた音は背後からの、複数の男たちのくぐもった声。その声の意味に気づくよりも先に、アリムは手首に痛みを感じて呻き声を上げた。掴まれていた手首をおかしな方向にひねられたのだ。
 体が跳ねて手首の向きを直そうとする。思わず背後の男を睨み付ける。しかし男はアリムを見てはいなかった――引きつった顔が、直後苦々しい唾棄の表情へと変じる。
 男はアリムの体を押しやった――いつの間にか彼らの後ろにいたアークに向かって。
「止まれアーク! この子がどうなっても――」
「いいわけないだろ」
 冷え冷えするような声は間近で聞こえた。
 風がアリムの肌に触れる。ふ、とひと呼吸の間に。
 アリムの脇を光が突き抜けた――否、アリムにはそう見えた。
 実際には、突き出された剣がアリムの脇腹横を走って。
 それは威嚇だったのか。背後では男が怯んだようにアリムの手首を掴む力を緩める。しかしそのときにはもう、アークはアリムの横を抜けて男に肉薄していた。
 鈍器で殴るかのような重い音が、聞こえた。
 本能で覚えた恐怖にアリムの体が今更すくみあがった。しかし――
 その音を最後に、全ての音は消え失せた。
 時が止まったかのように思える一瞬があった。自分が混乱していることさえ自覚できず、アリムはただ立ち呆けた。音のない風が通り過ぎ、細かな雪が空中を乱れ飛ぶ。いつの間にか息を殺していた――苦しさを覚えてようやく新しい空気を吸い上げると、鼓動が乱打しているのが聞こえ、そこから一気に音が舞い戻った。
 振り返る。
 数歩先に、亜麻色の髪の青年の背中が見えた。
 剣はすでに鞘に収められ、ただ、倒れ伏す男たちを見下ろしている。腰に手を当てたその風情は、どことなく気だるそうにも見える。
 寸前まで激しく動いていたはずなのに、その名残は全くない。例えばその肩を雪がうっすらと飾っていたとしても、不思議には思わなかったかもしれない。
「……アークさん」
 呟くように、アリムはその名を呼んだ。
 アークは振り向かなかった。代わりに、短い問い。
「怪我は? アリム」
「えっ、あ、……大丈夫、です」
 そうかとアークは言った。おもむろに肩をほぐす動作をして、それから移動する。――倒れたままのルクレのところへ。
 そうだ、自分ひとりではなかった。一拍遅れて、慌てて駆け寄る。
 アークはルクレの体を抱き起こし、呼吸を確かめた。「こっちも大丈夫そうだな」と彼が言うのを聞いて、アリムは全身で安堵した。アークの腕の中のルクレは、とても穏やかな顔をしている。
「次から次へと、ほんと落ち着かない奴らだ」
 そう言いながら、アークはルクレを抱いたまま立ち上がった。
「――“その他”の呑んだくれどもを使うような連中は今のところこの街には二種類しかいないらしい。町長派だとか副町長派だとか……こいつらがどっちなのかは分からんけど」
「“その他”の……」
 すなわち西方の小国。ベルティストンを挟んでこちら側では、その国の名前さえ呼ばれることがない。アリムはその国々のことを精霊保護協会にいたころ知ったが、そのとき同じ講義室にいた他の協会員が「もう滅んだ国じゃなかったか?」という話をしているのを聞いたことがある。
「でもそのどっちにしても、今アリムに手を出す理由がはっきりしないな」
 アークはしかめ面になった。「このタイミングでこんなことをするとなりゃ、嫌でも協会に喧嘩売ることになる。ゼーレでは協会と表立って喧嘩するのは阿呆だとか、トリバーが言ってたような気がするのに」
 アリムの脳裏に不安の影が差し込んだ。
「……予定外だ、みたいなことを言っていました。あの人……」
 知らずと動いた視線が、ぴくりとも動かない男たちを捉える。アークが最後に倒した男だ。激昂するアリムに、困ったような反応を見せた男。
 今ここでアリムたちを襲うことは、きっと協会の怒りを買う。だからこの傭兵たちは最初から協会の敵なのだと思った。
 けれどもしかしたら、こうなることは彼らにとっても不本意だったのかもしれない。
(僕が、あのとき気配に気づいてしまったから……?)
 ざわざわと背筋がわななく。何もかもが自分のせいなのだろうか。彼らが自分を狙っていたのは、どうやら間違いないのだ。――自分を。
 体から血の気が引いていく気がした。からからに渇いた喉がひとりでに動き、潤いを求めれば求めるほど痛みを生む。
「―――」
 うつむいたアリムを見つめ、アークが何か言いたげに唇を動かした。しかしそれが声になるより先に、
 おおい、と、遠くから呼び声が聞こえた。
 アリムははっと顔を上げ、そちらを見た。林の向こう、ゼーレに戻る方角だ。木々が邪魔してよく見えない呼び声の主――複数の人々の影が、やがて明確に人の形になる。
「……街のやつらか。“その他”の連中じゃない……」
 アークが独り言のように呟いた。
 明らかにゼーレ人な数人の男たちは、こちらに気づいて慌てて駆け寄ってきた。街のどこにでもいそうな、ごく普通の人々だ。アリムの前までやってくると、寒さのせいか青ざめた顔で、早口にまくし立てる。
「君、君たちは精霊保護協会の調査員じゃないかな? 我々は今日同行する約束になっていた者だが――って、う、うわっ」
 突然ぎょっとして飛びのく。どうやら辺りに何人も気絶した人間がいることに、今気づいたらしい。
「どうしたんだこれは、何があった!」
 それは傭兵たちか、その女の子はどうしたと、口々に疑問を投げかけられ、アリムは焦った。どう答えたらいいのか、そもそもこの人たちは誰なのか――
「こっちの説明の前に、あんたたち誰だ?」
 アークはルクレを抱いたまま、一歩前に出た。ちょうどアリムを半身でかばうような立ち位置へ。
 そのアークを、男たちは不審そうに眉をひそめて見た。
「我々か? ゼーレ役場の者だが」
「ゼーレの? さっき言った同行っていうのは調査にか? あんたらが同行する予定だったのか?」
 青年の鋭い口調には奇妙な迫力がある。いつも陽気な眼差しが、今は男たちを射るようにひたと見据えている。
 アリムは寒気を覚えてぶるりと震えた。
 ――似ている。今さっき“その他”の傭兵たちを叩きのめしたときの、彼の目と。
 それはまるで、戦いに飛び込む一歩手前のような。
 その視線にアリムと同じように恐れをなしたのかもしれない。男たちは、顔色の悪いまま早口に答える。
「だから、我々は協会の許可を得て、今回水鏡の洞窟の調査に同行するはずだった役場の者だ。しかし待ち合わせの場所にいつまで経っても協会の者が来ないから、念のためこうして来てみたんだ。……そこで倒れているのは協会員だろう? 君たちも調査員ではないのか?」
 と、指し示すのは地面に伏せったままの教師たち。
 アリムは当惑に顔を曇らせた。役場の人が同行するだなんて、まったく聞いていなかった。道中に教師たちが話題にすることもなかった気がする。
「アリム」
 アーク促され、慌てて今の状況を説明する。自分は協会員ではないが同行は許されていること、突然知らない傭兵たちに襲われたこと、傭兵の目的が分からないこと――そして、
「――あなた方のことは、知らなくて……」
 アリムの言葉に、役場の男たちは驚きざわめいた。
 やがて彼らは苛立たしそうに眉を吊り上げ、地面の傭兵たちをにらみやった。唇が不機嫌そうにぼそぼそと何かを呟く。
 ――あいつらか。
 そう、聞こえた。
 そしてさらに小さく一言。ほんの少しだけ表情を愉快そうな笑みに変えて。
 ――……だ
「っ?」
 アリムは思わず顔を上げた。
 今聞いた言葉が信じられず、目の前の男たちを凝視する。男たちは何事もなかったかのように再び憤然とした表情に戻り、
「まったく、“その他”の奴らには困ったものだな。金になりさえすれば何でもやる連中だ――よし、あとは我々に任せなさい。とりあえず全員の気つけをして、一緒に街に戻ろう」
 素早く各々行動を始めようとする。が、
 まるでそれを遮るかのように――
 彼らの合間を、さらりと一陣の風が吹いた。
「あ……」
 アリムは我知らず虚空を見つめた。風は吹き抜けず、空中に渦を巻くように溜まる。その風の中に、透き通るような何者かの気配があった。幾つもの、小さな存在。
 風精(アネモス)たちだ。
 雪を避けて姿を消していたはずの彼らが唐突に現れた。大半は上空に留まり、下にいるアリムや役場の男たちを見下ろしている。そして数体だけが、地上に吹き降りた。
 アークの耳元をかすめるように。
 役場の男たちも数人は風精が見えるのだろう、その様子を訝しそうに見ている。
 精霊の囁きを聴いたのか――
 アークはうなずき、顔を上げた。役場の男たちに向かって。
「たった今、この傭兵どもの雇い主が分かった。俺が直接そいつに文句を言いに行く。言っとくがその雇い主が協会と争う結果にはならないからな」
 虚を衝かれたように男たちが反応した。
 一斉にアークを見るその表情で、アリムは察した。――今の青年の言葉は、彼らの内心を言い当てたのだ。
「あんたらはこのことについて手出し無用だ。それと今日の調査はどうせ中止だろうから、一旦引き揚げることをお勧めする。協会が約束を破ったことについては、街に戻ってから抗議でもなんでもしてくれ」
「何を――」
 男たちは絶句した。青ざめた顔はもはや寒さのせいだけではない。
 風は、変わらず青年を中心にして吹く。
 掌ほどに小さな精霊たちが、ちらちらとアリムを見る。アリムは手を伸ばしかけてためらった。精霊に――触れようとすることを、ためらった。
 アリムをよそに、アークはルクレを抱いたまま近場の木へと歩み寄った。そしてその幹に、ゆっくりとルクレをもたれさせる。もう一度彼女の様子を確かめながら、「アリム」とこちらに顔を向ける。
「今、風精が協会の人間を呼んでくれたらしいから、もうしばらく待ったらここに迎えがくるはずだ。それで一旦帰るといい。ちなみに風精たちが集まって来てるから、このヤクバの何ちゃらさんたちのことも見張ってくれるし、安心していい」
「え、あの、アークさんは、」
「俺は早速、この傭兵どもの雇い主のところに行ってくる。風精が案内してくれるって言うからさ」
 ルクレの服装を整え、すっくと立ち上がる。
 同時に風精たちの一部が動いた。彼らは地面で気絶している人々のうち、傭兵たちの上空だけを選んで留まった。そしてまた他の何体かはアークの周辺をくるくると回る。
 そんなアークと風精たちの様子を見て――
 役場の男たちが、顔面蒼白のまま喉をごくりと鳴らした。
「まさか――まさか君は」
 アークは応えなかった。
 ただ、
「気を付けて帰れよ、アリム」
 何でもないことのように身を翻して。
 風が巻き起こる。青年と、そして傭兵たちの周囲で。
 細やかな雪が巻き上げられた。冷たい水気となって、アリムたちの頬に跳ね飛ぶ。
 思わずアリムは手で顔をかばい、目をつぶった。そのほんの一瞬の間に、
 亜麻色の髪の青年と傭兵たちの姿はすべて、風にさらわれかき消えた。
 最後に聞こえたのは、かすかな優しい呟きだった。アリムもよく知っている、青年の口癖――

 ――我が心、精霊とともに――
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