女神の心臓

瑞原チヒロ

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第二話 記憶は水鏡に映して

第三章 5

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 一体何が起こったのか。
 ナズカは目の前の光景を、しばし唖然として見つめた。たっぷり数秒か、それとも数十秒か――とにかくそれくらい呆けてから、ようやく今起こったことを思い返そうとする。そもそも自分は今何をしようとしていたのだったか。今日は、そう、これから町長らと会議をするために、議事堂へ行くつもりで家を出たのだ。
 朝から降り続く細かな雪は止む気配がない。ことさら防寒に気を付けてドアを開け、
 ――そして、見た。
 自宅の前に、ごろごろと上半身裸の男たちが転がっているのを。
「なん……だ?」
 呆然と呟く。おかしい。さっき窓から外の天気を確かめたときには、こんな男たちは確かにいなかった。見間違いじゃない、「今日は雪だから人通りが少ないらしい」と思ったこともちゃんと覚えている。
 それなのに、
「あんた知ってる?」
 唐突すぎる声は、頭上から降ってきた。
 ナズカははっと身を硬くした。後頭部方向から聞こえるその声は、場違いなほど軽やかで、口笛を吹きそうな風情さえあった。
「季節の変わり目に精霊は各地で大量発生する。大半はもちろん、その場で生まれてる。ただし一部の精霊はその場では生まれない。大陸には精霊たちの生まれ故郷とでも言うべき場所があって、一度そこで生まれてから各々の持ち場へ転移する。なぜそんな現象が起こるのかは、精霊学でも未解明の分野だ。保護協会なんかは、やっきになってその研究をしてるとか」
 屋根の上だ。ナズカの自宅はゼーレの標準的な家に比べて屋根が低い。傾斜もなだらかだ。だから人が上ることも特別難しいことではないが、だからと言って大工以外の人間がそうそう屋根に上るわけもない。
 ナズカの緊張にはお構いなしに、上から降る声は続く。
「原因は何にせよ、精霊たちにとっては重要な場所だ。その生まれ故郷となりえる場所は、現在発見されているだけで四か所。精霊学では大陸を女神の聖体になぞらえて、それぞれの位置をこう呼ぶ。――『女神の隻手』、『女神の乳房』『女神の桜唇』、それから」
「――『女神の左目』」
 低く呟く。
 ナズカが応答したことに、声の主は満足したらしい。愉快そうな気配が空気に伝わってきた。
「その通り。つまり精霊にとってとても大切な場所がこのゼーレの近くにあって、しかも今協会に狙われているわけだ。加えてアリムが協会に関わろうとしてる。俺としてはそれだけで腹立たしいのに、この上別口でアリムを狙う連中が現れた場合、もう手加減してる余裕なんかまったくない。というわけで今こうなったわけなんだけど、理解してもらえる?」
 茶化すような内容でありながら――
 語尾に、わずかに剣呑な響きをはらんで。
 ナズカは改めて目の前の光景を見る。倒れたまま目を覚ます様子のない男たち――知った顔などないが、誰なのかは容易に察しがつく。そもそもこの季節、上半身裸で過ごすような連中は種類が知れている。衣服を手に入れられない貧困層か――ゼーレにはまずいないが――もしくは、自らの主張のために服を着ない奴らか。
 男たちの体つきも、見えている得物も、それを明らかにしている。
 この連中がなぜ今自分の家の前に転がされているのか。
 そして、屋根の上から話しかけてくるのは誰なのか。
 緊張に胃が引きつるような心地がした。相変わらずの己の弱さに歯噛みしたい気分になりがら、ナズカは唸るように言った。
「要するに、君は怒っていると言いたいわけか、“背く者”」
「正解」
 空気が変わった。
 目を細めたナズカの視界に、幾つかの気配が滑り込んでくる。透き通るような小さな生き物。風の精霊たち。
 ナズカの視界を横切り、悪戯をするように彼の癖毛を乱し、上空へ戻っていく。ちらちらと降る雪の合間に漂う彼らの姿は、どこか夢の産物のようだ。
「――精霊は転移が可能だ。その力を利用して、その傭兵たちを一緒に連れてきた。あの場所から運ぶのが面倒だったからな――あんたの不始末の後片付けを精霊がしたようなもんだ。感謝しろよ、精霊に」
 屋根の上で誰かが動く気配がした。
 振り向くことができないまま、ナズカは深く息を吐いた。体の中にわだかまった、恐れの気持ちを押し出すために。
「……ああ。感謝する。それに、悪かった――」
 俺に謝るなよと呆れた声。
「大体、謝るなら最初からやるな」
 ナズカは苦笑した。
「君の不興を買うとは思わなかったんだ。俺はただ、あの少年をあの調査団から引き離したかった。調査団はどうなろうとどうでもいいが、ついて行ってはあの子まで危険だから」
 『あの少年』と言えば、お互い共通の人物を思い浮かべることは間違いない。ただしナズカはその少年と会ったことがなかった。そのため資料でしか顔を知らないのだが、情報だけならくどいほど耳にした。
 <森の子>アリム・レン。現状、ゼーレで最も注目度の高い少年と言っても過言ではない。
 彼が協会の調査に加わると聞けば、黙ってはいられなかった。しかし頼りのイグズはもういない。金銭的に余裕もなく、依頼できる傭兵を探すのに時間がかかってしまった。最終的には、皮肉なことにイグズの言う通り――ナズカ自身の生まれが、傭兵たちを動かした。
 本当はそれを表に出したくはなかったのだ。だから依頼するにも、ナズカ自身が直接傭兵たちには会わないようにしていたのだが。
 風が動き、屋根の上から誰かが飛び降りてきた。
 ナズカの横、手の届かない距離に着地する。この寒さにも凍えた様子なく、あまりにも軽やかな動作で。
 短い亜麻色の髪が、かすかに水滴をふくんで濡れている。子供っぽくさえ見える青年は、眉をひそめてナズカに顔を向けた。
「危ないってどういう意味で?」
「……それより前に。こいつらは何をした? 俺は彼らに、調査団に見つからないよう折を見て調査の続行が不可能になるような出来事を起こせと依頼していたんだが」
 ナズカは青年から目を逸らし足元の男たちを見下ろした。いまだ目を覚まさないのは、青年たちが何かしたからなのだろうか。それとも精霊による転移の後遺症なのだろうか。
 この寒さの中このまま放置していたのでは命が危ない。
 しかし焦るナズカに対して、青年のほうはまるでそれに頓着していないようだった。ただ、彼の興味の対象の話を続ける。
「調査の邪魔? それだけか?」
「それだけだ」
「……あー。じゃあアレだ、いざとなったら協会の連中はのしてもいいって言わなかったか?」
「それは仕方がないだろう」
「だからややこしくなったんだよ。おかげであのときアリムはこの傭兵たちを完全に敵と見なした――で、その結果俺が手を出すことになったわけだ」
 やれやれと青年は肩をすくめた。
 告げられた内容に、ナズカは頭痛を覚える。どうやら自分の打った手が悪いほうに転がったらしい。傭兵という難しい連中を使うとはいえ、アリム少年に敵視されるようなことをさせるつもりはなかったのだが。
「……今回は急いで傭兵を見繕って依頼した。細かいところまで行き届かなかったのは確かだ。前回といい、重ね重ねすまなかった」
 青年に向き直り、頭を下げる。
 「前回?」と相手は不思議そうに首をひねった。しばし考え、何かに思い至ったようにぽんと手を打つ。
「ああ。こないだの血気盛んなマヌケたち、あんたの差し金だったんだ?」
「……俺の指示じゃないが、俺の部下だった。奴らは俺によかれと思って君を襲ったんだろう。俺の責任だ」
「ふうん」
 腕を組み、青年はしげしげとナズカを見た。「あんた、ものすごく貧乏くじ引きやすい体質だったりしない? ただし自分で引き寄せてるほうの」
「………」
「まあ俺にはどうでもいいんだけどな。で、アリムが何で危険だって?」
 さらりとナズカの弱点を突きさしながら、あっさり話題を変えてくる。
 ナズカは、今度は胸中で苦笑した。
 ――噂通りだ。この青年は無邪気に精霊を愛し、無邪気に精霊以外のものを切り捨てる。
 顔を合わせるのは今日が初めて。けれどずっと恐れていた。噂が聞こえてくるたび耳を塞ぎたい気持ちになった。それでも聞かずにいられなかった。
 絶対的な痛みの象徴たる相手。
 ――アーク。俺が乗り越えられなかった壁がお前と共に在る。

     ***

 今日も嫌な予感がする。
 トリバーは読書の邪魔をする前髪を苛々とかき上げながら、忍び寄る悪寒と戦っていた。
 そもそも昼前、アリムがゼーレに戻ってきたと知ったときから、その予感はあったのだ。
 報告を持ってきた風精によれば、例の洞窟の調査は中止になり、アリムは家に帰ったらしい。幸い今日はエウティス・レンも在宅で、やや疲労気味のアリムの世話を張り切ってしているという。そこはまあ、安心だが。
 昼を少し回ったころ、相変わらず客の来ない“ゼルトザム・フェー”に、珍しく郵便屋が訪れた。
 トリバー宛だという。まるで予定がなかったため力一杯不審に思いながら差出人を見たトリバーは、即座にその封書を破り捨て燃やしたくなった。
 そこに躍っていたのは、かの黒ずくめの情報屋の名前。
 ゼーレのどこにでも現れるあの男が、わざわざ郵便など使う理由はどこにもない。そこにきてトリバーの内側に渦巻く嫌な予感は最高潮に達した。封筒を開くまでとても時間がかかった。忌々しい話だが、捨ててしまってはなおさら悪い目が出るのは明らかだった。
 そして――
 夕方よりは少し早い時刻になり、嫌な予感はとうとう形となって現れた。
 今日も朝から行方不明だった、徹頭徹尾面倒事しか起こさない連れが、突然“ゼルトザム・フェー”に姿を見せたことで。
「トリバー。水鏡の洞窟についてどれくらい知ってる?」
 カウンターの前までずかずかやってくるなり、開口一番アークはそう言った。
 トリバーは顔をしかめて吐き捨てた。
「知らん。巷で噂されている以上のことは」
「だから、どこまで?」
「……お前が聞きたいのはどこの部分なんだ」
 渋々対話に応えると、アークは満足そうにうなずいた。
「あの洞窟が危険だって言う話について、どこまで知ってる?」
 フロリデは不在だった。アリムの見舞いに行くとか言っていたが、おそらくそれは何かのついでだろう。あの女店主の行動も、トリバーにとっては知ったこっちゃないが。
 鼻を鳴らして、手元の本へと視線を落とす。
「あの洞窟に入れば人が狂うとかいう話のことなら、俺には何も分からん」
「本当のことだと思うか?」
「知るか」
「――本当のことらしい。過去、精霊保護協会は何度もあの水鏡の洞窟の調査を試みて、何度も失敗している。理由は、発狂する調査員が続出したから――」
 アークはカウンターに身を乗り出す。
 全身で表す勢いとは裏腹に、声は低く冷静だった。
「表に出ない調査報告書にはちゃんとそれが明記されてる。ただしその報告書を見ることができるのはごく一部の人間で、もちろん実際に調査に出たやつは知っていても、きつく口止めされた。それどころか、場合によってはゼーレを出ていくことになった――表向きはベルティストンやメガロセィアへの栄転、出張ってことにされてるらしいけど。で、発狂したとされる調査員は全員何かしらの病気としてベルティストン行きになった」
 トリバーは苦々しい顔を作って、間近まで顔を寄せてきたアークを睨みやった。
「……どこでその話を」
「『元協会員・現反保護協会』で、今は役場にいるやつに聞いた」
 アークは目を細めた。「そいついわく、協会にはちゃんと正しい情報が保管されているはずだとか。狂人を出したという情報はさすがに出てこなくとも、洞窟がそういうことを生み出す作用について何かしらを論じたものが協会にあるはずだって言ってる」
 それは否定しないがな――とトリバーはなおも渋い顔をした。
「だからって、お前はどうしたいんだ」
「協会にあるはずのその情報が知りたい。洞窟の精霊のことだけを考えるならこの調査をぶち壊すだけで済むけど、それじゃ多分アリムが消化不良になる。俺としても知らないままにしておけない――第一、あの場所でおかしなことが起こるならそれは精霊絡みに決まってるだろ?」
 それはそうだ。トリバーもそれを認めた。
 あの場所は、大陸でも四か所しか見つかっていない貴重な土地のひとつ。
 <女神の欠片(マザーズピース)>と呼ばれる、精霊たちの故郷なのだ。
「……精霊に聞けばいいんじゃないのか」
「精霊たちにも分からない。人間がおかしくなるってことは否定しないんだけどな。どうも、精霊たちにもいまいち理解できない何かが起きるらしい――ひとつだけ分かっていることは、原因があの洞窟の主であるってことだけだ」
 アークの口調は真剣そのものだった。
 トリバーは知っていた。アークがこういう話し方をするときには、絶対に決意を通すということを。
 おまけに、
「協会にある図書館。そこできっと何かが見つかる。頼む、トリバー」
 ――こうやって真っ向勝負で頼み込んでくるから、
「……俺に協会に行けってのか」
「お前は俺と違って門前払いを食らわないだろう? 別にお前自身が嫌われてるわけじゃないんだから」
「俺はやつらを嫌ってる」
「知ってる。でもほら、本が読めるし」
「……俺にだってたまには本より優先したくなる事情ぐらいある――何だその顔は」
「いやだってお前が本より優先するとかこの世はもう終わりかと俺は精霊たち連れてどこに避難すればいいんだっ?」
「安心しろそのときは俺がじきじきにお前を地獄へ道連れにしてやる」
 お前は悪魔か死んだら飯が食えなくなるだろー! とか何とか阿呆な文句をつけてくるアークから、苦々しい思いで視線を外した。
 断わるという選択肢がないことは分かっていた。正直に言うなら協会の図書館には確かに興味がある。こんな機会でもなければそうそう足を踏み入れる気にはならないだろうが。
 普段から反保護協会を隠さないトリバーだったが、彼自身が協会に厭われているわけではないのは本当のことだ。皮肉をこめて“ニクテリス”と呼ばれているものの、アークのように協会に入ることを禁止されているわけではない。
 アリムに何かあったのでは後味も悪い。それを避けるための尽力なら、まあ、いつもよりはやる気になってもいい。
 ただ――
 一つだけ確かな危険信号がある。そこにはろくなものがないと力一杯訴えているもの。
 ――先ほどアラギから届いた封書。
 その中身は、正規の保護協会図書館入館証だったのだ。
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