女神の心臓

瑞原チヒロ

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第二話 記憶は水鏡に映して

第三章 6

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 水鏡の洞窟の調査の失敗から三日。
 天気はぐずつき、雪は降ったりやんだりを繰り返した。街は空に翻弄され、日中を威勢のよさで乗り切る人々も、夜になれば疲れ切って眠りにつく。
 アリムはいつも通りに働き続けた。体を動かしていなくては不安に押しつぶされてしまいそうだった――このもやついた胸の内を相談したくとも、伯母には心配をかけたくない。トリバーはここ数日どこかへ出かけていて、店に出てこない。フロリデも忙しそうで“ゼルトザム・フェー”は半ば閉店状態であり、アークは相変わらず所在不明だ。もっともアークには気軽に話せる心境ではないけれど。
 そして四日目。
 久々に晴れ間の覗く朝、パン屋で働くアリムの元に、封書が届いた。店長に許しをもらい仕事の合間に開封すると、それは精霊保護協会からのあの日の詫びと、調査隊――ルクレと教師たち――全員の体調が快復したとの報告だった。
 次回の調査の日取りは未定になっている。だが、そのときにはぜひ同行してほしいとも書いてある。
 アリムは逡巡した。様々な思いが脳裏を駆け巡り、やがて出した結論は。
 ――保護協会に、足を向けること。

 ***

 四隅に四属性の精霊像を掲げる、ゼーレ保護協会の建物――
 街の中央道でもっとも目立つそれを、視界に入れずに生活することは難しい。けれどアリムはこのひと月、努めてその場所を見ないようにしてきた。見れば重苦しい気持ちに悩まされるから。
 ――門前に立ち、見上げる建物は、記憶の中よりもずっと壮麗に見えた。
 門は日中ずっと開いていて、敷地内は誰でも出入り自由となっている。講義室もそれは同様で、講義にさえ自由に出席して構わないのだ。誰かの許可を取る必要も、どこかに申請する必要もない。
 ただし、協会に学徒として登録しておけば、協会から色々な保護を受けられる。当時のアリムはそれを避け、一般の自由学徒でい続けていたのだが。
 今こうして門が開きっぱなしの建物を見直すと、その無防備さに驚いてしまう。
 ――ゼーレにおいて、人々に敬意と畏怖の目を向けられる場所。
 大半の人間が、この場所に来ると神妙で真面目な学生となる。例えばルクレのように。

 事務室でルクレへの面会を申し込むと、ルクレシア・エルセン教師補は講義に出ていると言われた。
 幸いもうすぐ終わるらしい。協会員がルクレを呼んできてくれるというので、アリムは大人しく自習室で待つことにした。
 自習室はアリムが好んで通った部屋だ。いつでもそれなりの人数の人々がいるものの、部屋はあまりにも広い。隅っこで壁に並ぶ書物を相手にしていれば、自分も目立たずにいられると信じていたのだ。
 文字を読むのが苦手なアリムにしてみれば、本を読むのも一苦労で全精神を注ぎ込まなくてはいけなかったから、実際に勉強を始めてしまえば周囲の目は忘れてしまえた。
 しかし今、自習室に足を踏み入れてみて、アリムは以前の自分の間抜けさをしみじみ思う。
 ――実際には、相当に異様な子供だったんだろう。みんな見ていて、知らないふりをしていてくれたのかもしれない。
 そもそも――先月分かったことだけれど――自分が協会に出入りしていることを、なぜか街の人が知っていたくらいなのだから。
 窓は広く取られ、今日は日差しが心地よい。
 そうは言っても真冬だから、皆室内の暖房近くの席にいて、窓際は空いていた。
 アリムはそそくさと窓際の隅に座った。幸い大半の学生が勉強に夢中で、珍しい客に気づいていない。
 大きな窓から見えるのは、協会の敷地にある庭の一部。
 違う季節であれば彩りあふれる景色も、今はひっそりと静まり返っている。
 本を読む気にもなれず、ぼんやりと時間を過ごした。そうすると、取りとめもない色々なことが思い浮かぶ。
 ルクレと再会してから――
 考えこむことが多くなった。眠れない夜もある。考えれば考えるほど迷路に迷いこむようで、投げ出したくなる瞬間もある。けれど数時間後には、また同じことを考えてしまうのだ。
(……水鏡の洞窟って、どんなところかな……)
 別名「女神の左目」。「女神の欠片マザーズピース」と呼ばれる場所のひとつ。精霊たちの生まれ故郷。
(洞窟の中に、精霊がいる)
 想像してみると、それは不思議な光景だ。もちろんアリムは洞窟になどかつて行ったことがなく、書物で見る知識程度しかないのだけれど。
 アリムが知っている“精霊”は、火精(ピュール)を除けば基本的に『開けた場所に』存在するものだった。とりわけ太陽の下で見ることが多い気がする。もっとも精霊に昼夜はさほど関係ないらしく、中には夜を好む精霊もいるようだが。
 洞窟――閉じられた場所。
 そこにどの属性の精霊がいるのかを、アリムはまだ知らない。けれど洞窟に冠された名前からすれば、おそらく水精(ヒュドール)なのだろうと思う。
 水精は水気がなければ存在できない。洞窟の中に一体どういう形の<水>があるのか。
 そこに棲む精霊は、アリムの知っている川の精霊や泉の精霊と、どう違うのだろうか。
(……調査の対象。精霊たちの故郷にいるままの精霊は、どんな姿をしているんだろう)
 ふと。
 慎ましやかな足音が近づいてきて、アリムははっと振り向いた。
「お待たせしてすみません、アリムさん」
 小脇に本を抱えたルクレシアが、小首をかしげてにこりと笑った。
「あっ。いえ」
 慌てて立ち上がると、椅子が派手な音を立てた。しまったと思ったがもう遅い。気が付けば彼らは自習室中の注目の的になっていた。
 アリムは肩を縮めた。視線の中にはアリムを見て、何かに気づいたかのような顔をする者がいる。
 ルクレはさりげなく周囲に向かって、音を立てたことを詫びるように頭を下げ――
「大丈夫ですか?」
 労わるようにアリムに声をかけた。「ここではお話できませんから、場所を移りましょうか」
 自分の失敗なのにまた彼女を巻き込んでしまった。アリムは真っ赤になりながらも、ただうなずくことしかできなかった。


 ルクレが案内してくれたのは彼女の私室――
 協会の片隅に位置する寮の一室。家具は少なく、こじんまりしているが綺麗に整えられている。ところどころにさり気なく置かれた白い陶器のインテリアが、とてもルクレに似合っていた。
 アリムに椅子をすすめ、自分は立ったままでルクレは口を開いた。
「わざわざ来てくださってありがとうございます。先日はごめんなさい――」
「と、とんでもない……です。……あの、お体大丈夫ですか?」
 座らないのも失礼な気がして、居心地の悪い思いをしながらアリムは腰を下ろした。
 三日前に起きた出来事を思い出しながらルクレを窺うと、彼女は朗らかに微笑んだ。
「ええ、もうすっかり。先生たちも元気におなりですよ。後で会いに行きましょうか」
「……はい。それで、調査のほうは?」
 問うと、返ってきたのは小さなため息。
「それが……ゼーレの役場と少し噛み合わない部分があって。今調整中です。間もなく再開されると思うんですけど」
 手近にあった書類を手に取り、確認するようにパラパラとめくる。調査資料なのかもしれない。「――私が聞いたところによると、次回は今度こそ役場の方とご一緒に行くことになるようです。街の方にも知っていただくのはとてもいいことだと思うので、うまく話がまとまれたいいのですけど」
「―――」
 そうなのだろうか。アリムも何度も考えてみたが、よく分からない。
 単純に精霊のことを深く知るためだというのなら、街の人間も知っておくほうがいいと思う。
 その一方で、知らないままのほうがいいのかもしれない――とも思う。
 そもそもこの数日でますます調査の意義が分からなくなっている。洞窟の中を調査するというのは、つまりアリムの住んでいた森を調査するのと変わらない。もしも森の中を詳しく調査すると言われたなら、あそこにいる精霊たちをあれこれ調べると言われたなら、アリムは快く賛成する自信がない。
 アリム自身の生活をつぶさに暴かれるのと、それは同じことのような気がするからだ。
 知られて困るようなことはない。確かにない。それでも、あれやこれやと研究されるのは違和感がある。“生態を知る”のは大切なことのように思える反面、わざわざ知る必要のないことも多いような気がする。
 知らなくても精霊と付き合うことは無理なことじゃない。現にこれまでも、当たり前のようにお互い生活してきているのだから。
 精霊は人間に必要以上に近づかない。人間の調査などしない。だから、人間も精霊の領域に、必要以上に踏み込む必要などないんじゃないだろうか――
 しかしルクレは顔を上げ、決意をこめた目で話を続ける。
「調査は絶対に遂行しなくてはいけません。人が精霊を害することがないように……。精霊は大切な隣人です。その隣人のことを、皆さんに知ってもらわないと」
「隣人……」
 呟く。あまり聞かない表現だった。こうして口にするとしっくり馴染むけれど、精霊学にそういった考え方があっただろうか。
 ルクレは聞き逃さなかった。アリムを見て、明朗に説明してくれた。
「“隣人”というのはメガロセィアの思想です。東のメガロセィアでは母なる女神信仰とともに、精霊を女神の下で生きる我々人間の隣人と見なしているそうです。こちら西の大陸では女神の実在は信じられていませんけど、精霊が隣人だということに変わりはありませんよね」
 アリムは驚いてルクレを見つめた。
「ルクレさんはメガロセィアの思想も勉強しているんですか?」
 ルクレははにかむように微笑んだ。
「ええ――お世話になっている教授がお一人、メガロセィア思想を専攻していらっしゃるので」
 すごい。心の底からそう思う。アリムはまだベルティストン思想の精霊学で手が一杯どころか、向こう十年はそれだけで終わるのじゃないかと思うのに。
「ゼーレはベルティストンとメガロセィアの間にあるので、メガロセィア思想専攻の教授が数人いらっしゃるんですよ。もっとも講義を取る学生はとても少ないのですけど」
「……? なぜ?」
「王都ベルティストンに行きたい学生ばかりだからです。そのためには、ベルティストン思想を学ぶ必要がありますから」
 そう言って表情を曇らせる。「そういった実利のために学ぶ内容を選ぶのは最善ではないですけれど、仕方がないですね。みんな王都への憧れはどうしても強いもの」
 ベルティストンに――
 三日前、ルクレが教師たちとしていた会話を思い出した。
 あの時ルクレは、「旅に出るなんてとんでもない」と言っていたが。
「ルクレさんは、ベルティストンには行かないんですか?」
 ルクレは小首をかしげた。
「そうですね、いずれは留学しようと思います。でも最終的にはゼーレで学ぶつもりです。両親もゼーレで過ごしていますし、私も離れがたいですから」
 そして急に思い出したように手を叩いて、
「そうでした、先日私がアリムさんのお店の店長様にご迷惑をおかけしたときのあの場所は私たち一家が昔住んでいた地域なんです。開発が始まる前はあの辺りで暮らしていました。あそこ、いずれはまた住宅街になるっていう噂ですから、そうなったらあっちに引っ越そうかなって。家族は賛成しないかもしれませんが、私ひとりでも――。今の家のほうが便利は便利なんですけど、子供のころにいた場所って不思議と心地よいんですよね」
 景色はきっと変わってしまうのでしょうけど――と、ルクレはほんの少し寂し気に、笑った。
「以前とまったく同じように再建してくれるように、町長様に頼んでみようかしら」
「――きっと聞いてくれますよ!」
 思わず勢い込んだ。椅子から腰を浮かし、拳まで握りしめて。
 ルクレが不思議そうにこちらを見る。アリムは真っ赤になった。
「――その、みんなが熱心にお願いすれば、ひょっとしたら……」
「そうですね」
 ルクレはにこりと微笑んでくれた。
 ただそれだけで、恥ずかしさはどこかに飛んでいく。アリムはルクレの笑顔に心の底から安心するのを感じていた。無条件に落着ける、そんな空気。
 そして思うのだ――もしその方法があるのなら、たとえ無意味でも、自分も町長にそのことをお願いしてみたい、と。
 そうすればきっと、彼女は喜んでくれるだろうから。


 コンコン、とルクレの部屋がノックされたのはそのときだった。
「はい」
 ルクレがドアを開けに行く。来客だろうか――アリムは立ち上がった。
 開いたドアの向こうには、協会のローブを着た子供たちがいた。
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