女神の心臓

瑞原チヒロ

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第二話 記憶は水鏡に映して

第三章 7

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「ルクレ先生、精霊さんが困ってるみたいなの。お話聞いてあげて」
 子供たちの中央にいた女の子が、早口にそう訴える。
 四人の子供。全員が十歳よりも少し若い年齢のようだ。先生、と呼ぶからには、ルクレが教師補として接したことのある子供だろうか。
 アリムが室内からそっと様子を見ていると、ルクレはしゃがんで子供たちと視線の高さを同じにした。
「精霊さん? どこの精霊さんかしら?」
 すると子供たちは背後を指さした。
 その方向を目で追ったルクレは「あら……」と小さく声を上げた。
「………?」
 アリムは慌ててルクレたちのそばまで近寄り、視線を追った。そしてすぐに気づいた。地精が数体固まって、ちらちらとこちらを見ているのだ。
「地精ですね。でも困ったわ。先生は精霊さんとは話せないから……誰か他の先生を呼んできましょうか」
 ルクレは子供たちに視線を戻し、優しくそう言った。
 子供たちは一斉に「ええー」と落胆の声を上げた。
「先生お話できないの? Sクラスじゃないの?」
「先生のお母さんは“渡し人”さんなのに?」
「ええ、ごめんなさいね――先生、どの精霊さんのお声も全く聞こえないの」
 ルクレが申し訳なさそうに詫びるのを聞いて、アリムはいたたまれなくなる。同時に驚いてもいた。――ルクレは精霊の声が聞こえなかったのか。
 しかも母親が“渡し人”だという。“渡し人”とは保護協会内の役職、職業のようなものだ。精霊と会話をすることができる人間が受け持ち、協会内外を問わず精霊と意思の疎通が必要になったときに活躍する。例えば協会内では、精霊学を学ぶ人たちが精霊と接する時間を作るために。例えば協会外では、新しく街を開発するときにその地形の精霊たちにお伺いをを立てるために。
 精霊に対する<感性(クラス)>は遺伝するわけではない……らしい。
 それでも、家族に秀でたクラスの人間がいれば、おのずと期待されてしまうのだ――と、そんな話を、アリムも聞いたことがあった。
「じゃあ誰に言えばいいですか? 先生」
 中央の女の子はすがるようにルクレを見上げている。そうねとルクレは思案するように小首をかしげている。
 アリムは思わず口を挟んだ。
「あの……僕が話を聞いてきましょうか?」
 ルクレがはっと振り向いた。そしてアリムを見て、思い至ったように表情を輝かせた。
「アリムさん、精霊の声が聞こえるんですね……!」
 ぎこちなくうなずき返し、ルクレと子供たちの横を通り過ぎて通路に出ると、地精たちに駆け寄った。
 地精たちはアリムを見て、ほっとしたような顔をした。アリムの知っている精霊ではないが、精霊は言葉の通じる人間を本能で判断できる。そもそもアリムの存在はゼーレ全体の精霊が知っているのではないかと言うくらい、会う精霊会う精霊全員が友好的だ。目の前の地精も例外ではなかった。
 どうしたのと声をかけるより先に、一体がアリムの手を取り、ぐいと引っ張った。
「わ、ど、どこに行くの!?」
 ――こっちへ来て、助けてあげて
 地精たちはそんなことを言う。
 意味はすぐに分かった。精霊たちに案内された先――
 協会宿舎の裏庭の片隅で、白い子供が倒れていた。雪の精霊だと一目で分かった。ただでさえ淡い色合いの小さな精霊が、その輪郭をますます薄くしている。顔を覗き込むと、その目は閉じられ、苦しげに歪んでいた。今にも消えてしまいそうだ。
「雪の精霊? どうして」
 後ろから追ってきたルクレと子供たちが、同じように地面を見て息を呑む。ルクレは両手を口に当て、
「おかしいわ、今日は雪は降っていないのに。雪がやんだときに姿を隠しそこなってしまったんでしょうか?」
「げ、原因はわかりませんけど、とにかくどこか――雪、雪に近い、どこか水気があって冷えた場所へ運んで、」
 言いかけ、アリムは絶句した。
 地精は触ることができる。しかし雪の精霊は水属性のはずだ。触れられるはずがない。
 どうやって運ぶ――?
「運べません。ここをこの子によい環境にしなければ。今すぐ誰かを呼んできます」
 ルクレがすぐさま身を翻そうとする。しかし、
「それには及ばない」
 唐突に低い声が割り込んだ。
 全員ではっと顔を上げる。ルクレが目を瞠った。
「ヨギ様……!」
 長身で灰色の髪をした男がいつの間にかそこにいた。どこから現れたのか、音もなく歩み寄ってくる。
 アリムは息を殺した。この人を自分は知っている――ひと月前のあのときに、顔を合わせている。暴れた自分を眠らせた男だ。けれどそれ以上のことは何も分からない。
 彼に警戒したのはアリムだけではなかった。アリムたちをここまで案内した地精たちが一斉に、アリムの背後へと隠れるように移動した。
 しかしそれらには一切頓着することなく――
 ヨギと呼ばれた男は雪の精霊の傍らに膝をつき、冷静に手を伸ばした。
(触れようとしてる……?)
 否。雪精の顔の辺り、輪郭の間近に手をかざしているようだ。そのまま数秒静止する。
 いったい何をしているのか――
 全く分からなかった。けれど次に彼が手を動かしたとき、見えた雪精の表情は目に見えて穏やかになっていた。心なしか輪郭も濃くなったようだ。
 男は立ち上がり、アリムたちに向き直った。
「応急処置はしました。じきに自分で動ける程度には回復するでしょう」
「何をしたんですか?」
 アリムの問いに、何でもないことのように返事があった。
「協会で現在研究中の技術です。詳しいことは言えませんが」
「技術……?」
「人間が精霊を助ける方法は、まだまだあるということです」
 精霊を助ける技術。
 呆然と男を見つめるアリムとは対照的に、ルクレは目一杯の感嘆の表情を浮かべて、両手を胸の前で組み合わせた。
「素晴らしいです。ありがとうございます、ヨギ様……!」
 アリムはそんな彼女を、怪訝な思いで見た。雪精の回復を喜んでいるのは確かだろうけれど、それ以上にこの反応は、何か意味がある気がする。まるで陶酔するような、今にもひざまずきそうな表情――
 子供たちも次々に男に礼を言った。男は変わらぬ無表情のまま、軽く首を振った。
「大したことじゃない。お前たちは元の場所に戻りなさい」
 はーい、と気持ちのよい返事をして、子供たちは戻って行った。それを見送ったあと、ルクレは改めてヨギに頭を下げた。
「まさかヨギ様がこんな時間にここにいらっしゃるとは思いませんでした」
 顔を上げ、不思議そうに長身の男を見る。
「君たちに会いに来ました」
 男は抑揚なくそう告げた。「ルクレシア、アリム君。水鏡の洞窟の調査の次回決行日が明後日に決まりました。用意をしてほしい」
 まあ、とルクレは口に手を当てた。
「役場の方々とお話がついたんですね?」
「ええ。役場からも数人同行することになっています。今度は行き違いのないよう、この協会の門で落ち合うことになりました」
 それは安心ですねとにっこり笑うルクレの横で、アリムは腑に落ちない顔をした。
「あの……そもそも前回は何であんなことが起こったんですか? あの日の調査隊の皆さんは、役場の方々の同行を知らなかったんでしょう?」
 ルクレとヨギは一斉にアリムを見る。ヨギは表情を動かさないまま、
「ルクレシア。アリム君に説明はしていないのですか」
「……話しそびれておりました、申し訳ありません」
 ルクレは神妙にそう言った。改めてアリムに困ったような微笑を見せ、「アリムさん、この間のことは――どうやら誤った情報を流した者がいたということです。あの日私は確かに同行者のことを知りませんでしたけど、先生方はご存知でした。ただ、直前に『同行は中止になった』という話が舞い込んだようで……」
 そして、気落ちしたように目を伏せる。続きをためらうように唇が震えた。
 それに気づいたのかどうか、ヨギが後を引き受けた。
「残念なことですが、その誤った情報を流したのは協会内部の者だろうと支部長は判断されました。目下調査中です――しかしそれは調査自体とは関係がありませんので、調査は続行されますが」
「間違った情報……」
 情報と言われて咄嗟に思い浮かんだのは、あの黒ずくめの情報屋のことだった。
 しかしあの男は精霊保護協会の人間ではない。むしろそれに相反する組織であるはずの、精霊術師組合(マギサ・エルガシア)に属しているはずだ。犯人は“協会内部の者”だというのなら、違うのかもしれない。
 そこまで考えて、アリムははっと我に返った。
(……いつの間にかアラギさんをすぐに疑うようになってる)
 確かに怪しいことこの上ないけれど、こうまで何もかもあの男につなげるのはおかしい気がする。アリムは頭を振って打ち消した。協会内部のことなんか、どのみち自分に分かるわけがない。考えるのをやめよう。
 それよりも、今は。
「……調査は、どうしても行わなければいけないんでしょうか」
 ぽつり、呟きが落ちる。
 ルクレはきょとんと目をしばたいた。
「当然です。突然どうしたんですか?」
「その……洞窟を踏み荒らすのは、精霊たちが嫌がるんじゃないかと。それに、わざわざ調べることに、意味はあるんでしょうか?」
 思わず語調が強くなった。
 “知らないままでも精霊とは付き合える”。そんな気持ちがアリムの中から消えないのだ。
「アリムさん……」
 ルクレは当惑顔でアリムを見つめる。思いもかけないことを言われたと、その表情が如実に語っていた。
「……ルクレシア、アリム君に説明してみなさい。我々がなぜ調査を続けるのか」
 ヨギは重く響く声で言った。「私は支部長の元へ行かなければならない。明後日の調査についてはこのあと書面にして誰かに持たせる。待っていなさい」
「あ、はい。ありがとうございました……!」
 ヨギの姿が建物に消えるまで、ルクレはしっかりと見送っていた。その横顔が生気に満ちている。
 何となくその姿を見ていらなかった。視線を落とすと、雪精がちょうどぴくりと動いた。
 かがんで覗き込む。薄い色であることを除けば人間そっくりの瞼が、すっと開く。
 やがて、白い子供は先ほどの衰弱が嘘のようにぴょんと立ち上がった。その頃にはルクレも雪精へと顔を向け、体調を案じるような顔つきでうかがっていた。アリムも似たような顔だったに違いないが――
 そんな二人に、にこりと笑いかけ。
 そのまま、精霊はすうと溶けるように消えた。
 強制的な消滅ではない、転移だ。雪精として存在していられる場所へ移動したのだ。
 ただ歩いて移動するにも転移をするにも、人間でいえば体力のようなものがいる。移動が終わらない内に環境が変わりすぎ、そこに存在できなくなって消滅する精霊は往々にしている。
(良かった……)
 安堵のため息をついたとき、ふと思い至る。――自分は結局、先ほどの男性に一言もお礼を言っていない。
「協会の敷地内は暖かいですからね。建物の内部の暖房の影響だとは思うのですが」
 雪精の消えた空間を見つめて、ルクレは呟いた。「今朝まで雪が残っていましたし……今日の晴れが予想外だったのでしょうか」
「多分……。この天気なら、すぐまた降るとは思いますけど」
 アリムは空を見上げた。薄い色の空が広がっている。
 晴れてはいても、西の方に重そうな雲が多い。あれがこの街の上空に来るころ、きっとまた雪が降る。
「それにしてもアリムさん。さすがですね――精霊の声が聞こえるなんて。素敵です……!」
 ルクレはアリムに顔を向け、眩しいものを見るかのように目を細めた。「私、声は聞こえないんです。地精と水精なら、見ることができるのですけど……風精と火精は感じるだけで。だからずっと憧れているんです」
 アリムは赤くなって、しどろもどろに否定した。
「く、感性(クラス)は体質――みたいなものだから、褒められるようなことじゃ――“渡し人”さんのように精霊と交渉するとか、僕にはできないですしっ」
「会話ができるという時点で素晴らしいんですよ。声が聞こえる人はあまりいませんから。うちは弟も妹も、実は教授の父も、声は聞こえないんです」
 母だけですから――とルクレは声に羨望の響きをのせる。
 その輝くような眼差しが、一途にアリムを見ている。
 アリムは鼓動が早くなるのを感じた。こんな風に人から見られるのは初めてだった。何だか顔が熱くて、まともにルクレの顔を見られない。なのに目を逸らせない。ないまぜになった気持ちのまま、口は自分でも予想外のことを紡ぎ出す。
「さ、さっきの方は――誰、でしたっけ」
 ヨギ様ですか? とルクレは目をしばたいた。
 アリムに向けられていた瞳の輝きが、その瞬間にどこかへと逸れた。
 ルクレはその人物が消えた方向をもう一度見やり、うっとりとした顔をした。
「ヨギ・エルディオス様は支部長様の側近です。とても有能な方なのですよ」
「―――」
「ヨギ様がこうして私のような下っ端にまで直接連絡をくださるなんて滅多にないことなんです。ですから、この調査はそれだけ大事ということです。アリムさん、私絶対にやり遂げます」
 アリムは言葉を詰まらせる。
 何か、言いたいことがある気がする。でもはっきりと言葉にならない。あの男がひと月前にアリムに何をしたか――ルクレは覚えていないのだろうか。覚えていてなおその言葉なのだろうか。
 否、それだけじゃない。
 アリムはそっと背後に手を回した。まるでアリムの指先を待っていたかのように、不思議な感触がそこに触れる。
 ――アリムの陰に隠れたままでいる、地精たち。
 きゅっとアリムの指を握るその丸みのある小さな手が、アリムに何かを訴えている。少なくとも今、はっきり分かっていることがあるのだ。地精たちが――あの男を怖がっているということ。
 けれどアリムはそれをルクレに話すことができなかった。
 言ってしまうべきだと強く思いながら、どうしてもそれを口にすることができなかったのだ。もしそれを口にしてしまえば、ルクレは二度と自分に笑顔を見せてくれなくなる。自分でも不可解なほど、その確信があったから。
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