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1巻
1-1
しおりを挟むプロローグ
「新菜、違うんだ! これは……」
「うっさい隆二! 違うも何も、私が見ているこの光景が全てでしょう!?」
新菜は仁王立ちで、恋人から〝元〟恋人に成り下がりそうな全裸男を睨みつける。
場所は新菜と隆二が同棲しているアパートの寝室だ。二人で使っているダブルベッドの中では、長い金髪を緩く巻いた女性が裸の上半身をシーツで隠しこちらを眺めていた。
顔面蒼白の浮気男は冷や汗をかきながら、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「こ、この子は大学時代の後輩で……その、失恋したから慰めて欲しいって言われて……。信じてくれ、決して俺が望んだわけじゃ!」
「黙れ! この浮気男!」
「本当なんだ! 俺が愛しているのは新菜だけだ! 頼む! 捨てないでくれ!」
「えー。でもぉ、隆二さん『あの女にはもう飽き飽きしたんだ。早く別れたい』って言ってたじゃないですかぁ」
「わぁああぁぁぁぁあ!!」
金髪女の冷めた声をかき消すように隆二が叫ぶ。その行動こそ金髪女の言葉が真実だと物語っていた。
新菜は怒りに拳を震わせ、地を這うような声を出す。
「ふーん。へぇー。そうなの」
鬼の形相を浮かべた新菜に、隆二はびくりと肩を震わせすくみ上がった。
「……じゃあ、別れてやるわよ! この、能なし浮気ヒモ男がぁ!!」
そう言って、渾身の力をこめて放った拳は男の顔面にクリーンヒットした。隆二は大量の鼻血を噴きながらベッド脇まで飛んでいき、そのまま気絶したようだ。
新菜は鞄を引っ掴み、一度も後ろを振り返ることなくアパートを後にした。
それが橘新菜に起こった一時間前の出来事である。
新菜は、当てもなくふらふらと暗い夜道を歩いていた。時刻は現在九時。
頭上には星が瞬いて、綺麗な満月が新菜を見下ろしている。
新菜は現在二十五歳。ついて欲しい所に肉はつかない癖に、つかなくてもいい所にはちゃんとお肉がついている、普通のOLだ。
高校卒業後から勤めている会社は、社員を馬車馬のように働かせることをなんとも思わない、所謂ブラック企業と呼ばれる会社だった。なので、新菜の帰宅時間は毎日かなり遅い。
いつもなら夜の十時や十一時を回ってしまうのだが、今日に限って早く帰れたのだ。
久しぶりに隆二とご飯を食べてゆっくりできると鼻歌を歌いながら帰宅した新菜は、そこで彼の浮気現場を目撃してしまったのである。
その時の絶望感たるや筆舌に尽くし難い。
新菜は深くため息をついて、空を見上げる。肩より少しだけ長い黒髪が風に靡いた。
三年も付き合った彼から裏切られたというのに、不思議と涙は出なかった。彼に対する怒りは感じても、何故か悲しいとは思わない。
新菜の口から、再びため息が漏れる。
あのアパートに戻る気にはなれなかった。それに、自分以外の女が寝たベッドを使う気にもなれない。
「今日どこ泊まろう」
新菜はひとまず、今晩はどこか別のところで頭を冷やし、明日、浮気男をアパートから追い出すつもりでいた。こんな時間に訪ねても笑って許してくれる友人はいるのだが、迷惑をかけることも、浮気されたことを言うのもなんだか気が引けた。
「とりあえず、ビジネスホテルかなぁ」
新菜は駅前のビジネスホテルを目指す。まっすぐ前を向いて暗い夜道を歩いていたら、視界の端で何かが光った気がした。何気なくそちらを見た新菜は、思わず息を呑む。
光の正体は流れ星だった。
それも一つや二つじゃない。たくさんの流れ星が新菜の視界を横切っていく。
「凄いっ……!」
見たこともない美しい光景に、新菜の心臓がドクリと音を立てた。
瞬きをするのも忘れて、光の雨のような光景を瞳に焼き付ける。先程までの怒りも、情けなさも、全て洗い流されていくみたいだ。
おそらくこれは、流星群というやつだろう。新菜は呆けた頭で、無意識に言葉を紡いでいた。
「私を愛してくれる人が現れますように……」
思わず口にした新菜の願いに呼応するように、流れ星の勢いが増していく。
やがて、新菜の視界が星々の光で埋め尽くされた。そこで初めて、新菜は自分の見ているものの異常さに気が付く。
「え!? な、なに!?」
次の瞬間、目を開けていられない程の強い光が新菜を包んだ。
そして襲った独特の浮遊感。
恐る恐る目を開いた新菜が見たのは、一面の青空だった。
ゴーゴーと音を立てて新菜の横を凄まじい速さで雲が過ぎ去ってく。
息を呑んで前方に目をやれば鬱蒼とした森の木々がグングンと近付いてくる。
(いや、森が近付いてくるんじゃなくて――私が落ちてる!?)
新菜は一瞬で自分の置かれた状況を理解した。
どういうわけか、自分は今、とんでもない高さから地上に向かって落下している。
これは死ぬ。間違いなく死ぬ。
「きゃああぁぁぁあぁぁあぁ!!」
新菜の喉から、未だかつて出したこともないような悲鳴が飛び出した。恐怖で目を瞑れば、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
新菜は地上にぶつかる覚悟を決める。要するに死ぬ覚悟だ。何がどうしてこうなったのか、いろいろ疑問や無念はあるものの、森の木々が米粒以下の大きさに見えるぐらいの上空から地面に落ちるのだ。痛みを感じる間もなく一瞬で死ぬだろう。それだけが唯一の救いだった。
新菜は衝撃に備えてぐっと身を硬くする。しかし――
「は? なっ……! お、女っ!?」
ひっくり返った男の声が聞こえたかと思った直後、彼女の背中は弾力のある何かの上に落ちた。咄嗟に触れた何かは、つるっとした蛇やワニの鱗のような感触だ。
新菜が落ちた衝撃で上下に撓んだ何かは、しなやかに形を変えて彼女を受け止める。
そして新菜の身体に太くて弾力のあるものが巻き付いてきた。
思いがけず落下は止まったものの、結構な高さから落ちた衝撃は凄まじく、新菜は肺の空気を全て出し切って低く呻く。
「――っ!」
痛みに溢れそうになった涙を、新菜はぐっと堪えた。
状況を把握しようにも、あまりの痛みに頭が上手く働かない。かろうじてわかるのは、自分が死ぬのを免れたということだけだった。
新菜は全身を襲う痛みをなんとかやり過ごし、恐る恐る目を開ける。
最初に目に飛び込んできたのは〝何か〟に跨がる男の後ろ姿。
更には、その跨がっている〝何か〟は空を飛んでいるようだった。
どうやら新菜は、落下途中にその〝何か〟に助けられたらしい。
新菜は状況が上手く呑み込めないまま男の後ろ姿を見つめた。
燃えるような赤い髪に、重そうな甲冑を身につけている。その男がゆっくりと新菜を振り返った。鼻筋の通った端整な顔つきに、髪より少し暗い赤い瞳。男らしく武骨な輪郭に無精ひげが生えていた。オジサマと言うには若いが、青年と言うには少々無理がある気がする。
男は怪訝そうに眉を寄せ、新菜を上から下まで眺めてこう言った。
「お前、いったい何者だ?」
第一章
男の乗った〝何か〟はゆっくりと降下し、森の中の少し開けた場所に着地した。
地面に下ろしてもらった新菜は、ポカンと口を開けて目の前にそびえる〝何か〟を見上げる。
「竜……? ドラゴン……?」
新菜は先程まで自分が乗っていたものに度肝を抜かれた。
木の幹のように太い後ろ足に、鋭く尖った爪の付いた前足。背にはコウモリのような羽が二枚ついている。目の前の大きな塊は、おとぎ話や物語の中でしか見たことがない〝竜〟や〝ドラゴン〟と呼ばれるものに酷似していた。
その大きな身体を覆う鱗は、操っていた男の髪の毛と同じ赤色をしている。爬虫類独特のギョロリとした目は新菜をじっと見つめていた。
その眼光の鋭さに新菜が息を呑み、身を震わせると、隣から優しく声がかけられる。
「怖がる必要はない。……サリー」
赤髪の男の言葉と共に、その竜は一瞬にして燃え上がり、瞬き一つでいなくなってしまった。
目の前で起こった出来事が信じられず、新菜は声を震わせる。
「き、消えた?」
まるで白昼夢を見ているかのような状況に、新菜は自分の頬を捻り上げたくなった。
何故か突然空を落下していると思ったら、物語の中でしか見たことがない大きな竜が目の前に現れて自分を救い、そして一瞬で消えたのだ。
落下の際にぶつけた背中の痛みが、これはまぎれもない現実だと訴えかけているが、夢だと言われた方がまだましだった。
そもそも、ここはどこなのだろうか。新菜は改めて周りを見渡した。
先程まで自分は閑静な住宅街で星を見上げていたはずだ。それなのに、今は鬱蒼とした森の中で太陽を見上げている。
「やっぱり夢でも見てるんじゃ……」
混乱したままそう零した新菜の上に落とされたのは、呆れたような、それでいて優しい声だった。
「そんなわけないだろう。ほら、ここだ」
きゅっ! と甲高い声を上げて、彼の肩から赤いトカゲが顔を出す。
いや、正確にはトカゲではない。背中に立派な羽が生えた、ちび竜である。
その姿を見た瞬間、新菜は思わず黄色い声を上げた。
「かーわーいーいー!」
するとそのトカゲは、パタパタと新菜に飛びついてきた。
「こらサリー! 素性のわからない相手に勝手に懐くな」
咎めるような台詞だが、男の口調は子供に言い聞かせるみたいに優しい。本気で止めようと思っているわけではなさそうだ。
彼は新菜のことを敵とは思っていないらしい。
「本当にかわいい! あなたサリーって言うのね? この羽……凄くよくできてるけど、もしかして本物?」
「あっ! こら、あんまりつつくな。羽はデリケートな部分なんだぞ」
男の少し焦った様子に、新菜は慌ててサリーの羽から手を離し、その背中を優しく撫でた。
「そうなの? ごめんなさい。壊す気はなかったのよ」
「それを言うなら『怪我をさせる気はない』だろうが。羽に穴が空いたらしばらく飛べなくなるんだ。大事に扱ってくれ」
その言葉に、新菜は「えっ?」と目を丸くした。
そういえば、彼はあの大きい竜のことも『サリー』と呼んでいなかったか?
大きな竜が消えて、代わりに現れた小さなトカゲ……
もしかして、もしかすると、この小さなトカゲとあの大きな竜は同一人物ならぬ、同一動物なのだろうか。
「あ、あなた、あの大きな竜なの?」
答えるはずもない相手に、新菜は思わず疑問をぶつけた。すると赤いトカゲが機嫌よさげに喉を鳴らし、彼女に首を擦り付けてきた。
『そうだよー!』
「へ……?」
突如聞こえてきた甲高い声に、新菜はパチパチと目を瞬かせる。聞き間違いかと思い、辺りを見渡すが、新菜とちび竜の他には甲冑を着た赤髪の男しかいない。彼からあんな子供のような甲高い声が出るとは到底思えなかった。
新菜は手の中の赤いトカゲをじっと見て、恐る恐る声をかける。
「あなた……なの?」
サリーと呼ばれたトカゲは、きゅるるるっと喉を鳴らしただけだった。
やはり新菜の勘違いだろう。そう思った矢先、今度は先程よりもはっきりと、甲高い声が直接脳内に響き渡る。
『なにがー?』
「ひゃっ!」
思わず両手で頭を押さえた。宙に浮かんだ赤いトカゲは、パタパタと羽を動かし新菜を見ている。
「……あなた、話せるの?」
「は?」
その瞬間、赤髪の男が素っ頓狂な声を上げた。
しかし、そんなことに構っていられない新菜は、目の前のサリーとの会話に集中する。
会話といってもサリーの言葉は脳に直接流れ込んでくるのだ。端から見れば、新菜の言葉に対し、サリーがきゅーきゅーと甲高い声を上げているようにしか見えないだろう。
『話せるー!』
「サリーって賢い竜なのね! えっと、竜……なのよね?」
『サリーはね、サラマンダーだよー!』
「さらまんだー? 何それ? 竜じゃないの?」
『サラマンダーはね、サラマンダーだよ! 火を司る精霊だよ! 今はギルと契約してるの。ギルはとっても優しいよ』
喋るトカゲに、竜に、精霊。自分の許容量を超える単語と状況の数々に、新菜は軽く眩暈がした。
しかし、呑み込めるだけ呑み込んでおこうと、新菜はぐっと気を引き締める。
「そうなのね。精霊、とかはよくわからないんだけど、彼はギルって言うのね?」
確かめるように、新菜は隣に立つ男を見上げた。
「なんで俺の名を……」
ギルと呼ばれた赤髪の男は驚いた顔で新菜を見つめる。その表情は思いっきり引きつり、まるで信じられないものを見るような目をしていた。
「なんでって、サリーが教えてくれたから」
そう言うと、男がはっきりと顔色を変える。
「……お前、まさかとは思うが、本当にサリーと話せるのか?」
相手の様子に、新菜の方が戸惑ってしまう。
「えっと、……普通は話せないの?」
「精霊と話せるのは、神か、神が遣わした者だけだ」
二人の間に重い沈黙が流れる。その沈黙を破るように、ギルが口を開いた。
「突然空から落ちてきた上に、サリーと話せるということは……お前、あの〝聖女〟か?」
「何、その恥ずかしすぎる呼称……」
新菜は隣にいるギルを見上げながら、なんとも言えない引きつった顔をしたのだった。
「で、お前はそのニホンとかいう世界からこっちに来たわけか?」
「正確に言うと、日本っていうのは世界の名前じゃなくて、私の住んでた国の名前ね」
新菜はひとまず、自分の身に起こった出来事を洗いざらいギルに話した。どんなに否定したくても、状況的に新菜は今まで暮らしてきた世界とはまったく別の世界にいる。
つまり異世界転移をしてしまったようなのだ。
(ほんと、夢なら早く覚めて欲しいわ……)
ギルの話によると、この世界には電気やガスや水道といった、日本で言うところのライフラインが存在せず、代わりに魔法や魔術が発達しているという。
ついでに言うと、サリーのような精霊や魔物が当たり前のように存在しているらしい。
まさにここは〝剣と魔法の世界〟そのものだった。
そして、新菜は〝聖女〟となるべくこの世界に呼ばれたらしい。
「私みたいな人って多いの? その、聖女として……別の世界から来るって人」
「多くはないが、一定の周期で起こると聞いたことがある。国が乱れた時などに現れ、不思議な力で人々を救うのだと。以前現れたのは、確か百三十年程前だったか?」
「つまり、聖女は国を救うために召喚されるってこと? でも、見る限り戦争とか起こってそうな雰囲気ないけど……」
国が乱れると聞いてイメージするのはやはり戦争だろう。そう考えて尋ねたのだが、ギルは静かに首を振る。
「『国が乱れる』といっても、理由は様々だ。外の国に知られてはいけない秘密が漏れそうになっている、というのも立派な国の危機だ」
そう言うギルの顔はどことなく暗い。それを不思議に思いながら新菜は声を張った。
「で、でも、私、そんな人を救う力なんて持ってないし、何かの間違いじゃ……」
「いや〝聖女〟だろう。あんな上空から身一つで落ちてくる女を俺は初めて見た。魔法や魔術を使ってもあんな上空までは飛べないからな。それにお前はサリーと話せただろう。これまでの聖女も能力は違えど、精霊と心を通わせることができたらしいからな」
「……そ、そう」
彼と話していると、嫌でも『異世界転移』が確信へと変わっていく。
話し始めて一時間も経つ頃には、新菜は自分の身に起こった事態を受け入れざるを得なくなっていた。
「なんか荷が重いわぁ……。そもそも〝聖女〟って何をすればいいわけ? どこまですればお役御免なのかも神のみぞ知るってやつ? 何その終わりのないゲームみたいなの。本気で辞退したい。第一、私に聖女の不思議な力なんてないから。あったら助けてもらう前に自分で飛んでたわよ!」
「まだ発現していないだけかもしれん。まぁ、気長に待てばいいじゃないか〝聖女様〟」
ニヤリとからかうように笑うギルに、新菜はこれでもかと顔をしかめた。
「やだ、それ恥ずかしい。私〝聖女〟なんて柄じゃないし」
「そういえば名を聞いてなかったな。なんと呼べばいい?」
「橘新菜よ」
「タチバナニーナ?」
「……新菜でいいわ」
「ニーナだな。サリーから聞いたかもしれんが、俺はギルベルトだ。今まで通りにギルと呼んでくれ。今は理由があって旅をしている」
そう言って笑顔で差し出されたギルの手を新菜はおずおずと掴んだ。するとその手をぐいっと引っ張られ、頬にキスをされた。チュッと音を立てて離れていく唇に新菜の全身が粟立つ。
「よろしく」
なんでもないように言うギルの頬に、新菜は渾身の平手打ちをお見舞いした。
「セクハラ反対ぃいぃ!!」
ギルは張られた頬を押さえて目を白黒させていたが、同じく頬を押さえて真っ赤になっている新菜を見て何かを察したらしい。そして、頬へのキスがこの世界の挨拶だと教えてくれた。
新菜はそれを聞き、思わず内心で「欧米か!」と少し古いつっこみを入れた。とはいえ、これは完璧に新菜が悪い。
急いでギルに謝ると、何故か腹を抱えて笑い出された。
何がそんなに可笑しいのかわからないが、とりあえず怒ってなさそうな彼の態度に胸を撫で下ろす。
それからギルは、新菜に聖女についていろいろ教えてくれた。
元の世界に帰る方法があることも……
その方法は、この国を救った後、聖女が願えば元の世界に帰れるというものだった。
これまで何人もの聖女がこの国にやって来て、そしてそのほとんどが使命をまっとうし元の世界に帰って行ったのだという。
「どうして神様はこの国だけを贔屓するの? この世界には他にも国があるんでしょう?」
ギルはその言葉に少しだけ驚いたように目を見張り、そして、「本当に何も知らないんだな」と呟いた。
「お前のいた世界ではどうだったか知らないが、俺達の世界にはそれぞれその国を守護する神が存在する。神は自分の守護する国に恩恵をもたらすんだ。国が滅べば、その国を守護していた神も滅ぶ。だから、神は俺達を守ることで国を栄えさせようとするし、俺達も自国の神を信仰し大切にする。それがこの世界での神と人とのあり方だ」
この世界で神と人は相互扶助の関係にあるということなのだろう。前の世界と比べて人と神の距離が明らかに近い。
つまり、ギルの言葉を借りれば、この国を守護する神が国の危機を察して聖女として新菜を召喚したということになる。
ならば、この国の危機とはなんだろう?
疑問に思った新菜は、ギルにその疑問をぶつけた。だが、ギルは少し目を泳がせて、「なんだろうな」と答えただけだった。
ギルのその態度に新菜は眉を寄せて口を尖らせる。
「ギル、それは何か知ってるって顔よね。私にも関係あることなんだから正直に話してよ」
「まぁ、王宮に着いたら、な」
「王宮?」
新菜はきょとんと首を傾げる。何故そんなところに行く必要があるのかと言外に問えば、ギルは新菜を安心させるように微笑んで、彼女の頭を優しく撫でた。
「お前の身元を保証し、保護してもらうためだ。お前はこの世界になんのツテもないだろう? これからこの国で生活するためには、身元をはっきりさせといた方がいい」
「え? なに? もしかして、ギルがそこまで案内してくれるの?」
新菜は、まさかギルがそこまでしてくれるとは思っていなかったので、思いっきり目を見開いて固まってしまった。なんていう太っ腹な申し入れなのだろうか。
新菜のそんな表情にギルは眉尻を下げて、困ったような、それでいて優しい笑みを浮かべる。
「……俺はこちらの世界に来たばかりの聖女様を放置する程不信心じゃない。どちらかといえば信心深い方だ。大体、見捨てるつもりなら初めから見捨てている。これも神の思し召しということだろう」
「えっと……」
「まぁ、黙って世話されていろということだ。聖女はこの国の宝だ。悪いようにはしない」
「……はい」
右も左もわからないこの世界で、他に頼る相手もいないのだ。新菜はギルのその優しさに素直に甘えることにした。
「よろしくお願いします」
そう言って下げた新菜の頭をギルは優しく撫でたのだった。
そして新菜とギルは、ひとまず森の近くにある街に向かった。
ギルは道すがら、この国のことを新菜に教えてくれる。
ここはゲンハーフェンという王国で、魔法や魔術が盛んなのだそうだ。国民のほとんどが魔力を持っていて、魔術に頼った生活をしているという。火を熾こすのも、水を出すのも、農作物を育てるのも、全て魔術で行っているらしい。
ちなみに、魔術と魔法の違いは、魔法陣を用いて発動するのが魔術、直接発動するのが魔法、なのだそうだ。そしてどちらを行うにも魔力という燃料がいる。
「つまり……電気みたいなものだと思えばいいのかな」
「『デンキ』? なんだそれは。お前の国の独特な文化か?」
ギルと言葉を重ねる度に、新菜の世界とこの世界との違いがはっきりしてくる。
あちらの単語が通じないことも一回や二回じゃなかった。それを説明する言葉は通じるのに、それぞれの世界にしかないものについては単語の意味が通じないのだ。
そう考えると、新菜がこうして普通にギルと会話できていることが不思議に思えてくる。
都合よく、この世界の共通語が日本語だったりするのだろうか?
新菜は試しに、「この世界の言語は日本語なのか?」と聞いてみた。だが、「ニホンゴ?」と首を傾げられただけだった。
どうやら、『同じ言語を話している』のではなく、『互いに違う言語を話しているが、理解ができる』というのが正解らしい。
そうこうしているうちに、目的の街に着いた。リヒシュタットというこの街は、ゲンハーフェン王国の貿易の要になっている都市なのだそうだ。
貿易の要というだけあって、たくさんの人で溢れかえりずいぶんと栄えているように見えた。あちこちで商人達が大きく声を張り、店に客を呼び込んでいる。それが、活気に満ち溢れた都市の雰囲気を作り出しているようだった。
ちなみに、サリーは街の外でお留守番をしていた。ギルが言うには、「アイツも他の精霊と遊びたいだろうし、呼べばいつでも応えてくれるから心配はいらない」とのことだった。
ギルの後ろを付いて街を歩いていた新菜は、居酒屋のような店の二階に案内された。
二階といっても、外についた階段で直接上がれる造りになっていて、一階の店とはあまり関係がないようだ。
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