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そんな二人の距離を縮める絶好の機会に恵まれたにもかかわらず、その後も二人の関係に大きな変化は無かった。それは偏に自分のせいだ。彼女への想いがはっきりと好きだという形に育っていたにも関わらず、伝えることが出来ずにいた。
その点、日坂は対極の道を歩んでいた。彼は大学の三年間で数えられないほど、柴田奈央に告白をした。振られても振られても。それを彼は七転び八起きだと胸を張り、僕は七転八倒だろうと笑った。
僕たちの話題の中心に中和泉尋深や柴田奈央がいたことは間違いないが、当然ながらそれだけというわけでもない。
印象に残っているのは、当時、若者の間で絶大な人気を博していた女性アイドルグループだ。同世代の男たちの多くが夢中になっていて、僕たちも例外ではなかった。そして、リアルな恋だけではなく、アイドルに対する熱の入れようですら僕と日坂とでは違っていた。僕が推しメンを一人に絞り込めずにいたの対して、彼は秋庭真冬というメンバー単推し。それも随分な熱の入れようだった。
二人共アルバイトと奨学金でかつかつの貧乏学生だったから、アイドルにつぎ込める資金が乏しい事情は共通していた。それでも彼の部屋には秋庭真冬の写真集やネーム入りタオル、団扇など多くのグッズがあった。
中でも一番のお宝は天井にあった、何かのキャンペーンの抽選で当たったという直筆サイン入りの特大ポスターだ。ファンの間ではプレミアものの貴重品だったが、それを大事に仕舞い込むのではなく、ちゃんと毎日眺められるように貼り出すあたりが日坂らしいところだ。
ろくなつまみも無いまま安い酒をしこたま飲んで、床に散らかったものを押し退けて仰向けに寝転がると、目の前に秋庭真冬の顔が広がっていた。
両手を組んで人差し指と親指を伸ばすと拳銃の形になる。それを頬の横に構え、絶妙な角度で首を傾げてウインクをしている。見る者全てがハートを撃ち抜かれてしまう、彼女の必殺のポーズだった。
——確かに真冬も可愛いし、元気でいいと思うけどさあ。
——文句あんのか?
——青花の可憐でか弱い感じ、あの俺が守ってやらなきゃ感をどう思うよ?
——分かる。お前の言いたいことはよく分かる。でもな、青花はお前が守れ。俺は真冬に打ちのめされる。
——じゃあ、涼子はどうだ? あの痛々しいまでに真っ直ぐな純粋さ。いつまで経っても抜けない訛り。
——いや。分かる。分かるぞ。お前の言いたいことは痛いほど分かる。涼子には俺だって何度も貰い泣きをした。訛っている女の子も可愛い。でもな。あの子は純粋過ぎる。真っ白過ぎる。真っ直ぐ過ぎるんだ。俺には荷が重い。涼子には悪いが、俺は真冬の手のひらの上で転がされることを選ぶ。
そんな馬鹿馬鹿しいやり取りを、大真面目な顔で何度も交わした。
熱烈なアイドルファンの間では、推しメンを一人に絞り切れないファンはDDなどと呼ばれて蔑まれていた。誰でも大好きの頭文字だ。
——各務。お前のよくないところは推しメンがはっきりしないところだ。別に真冬を推せとは言わない。青花なのか、涼子なのか。はっきりさせろと言っているんだ。DDは卒業するんだ。
酔った日坂によくそう責められた。そこを無理矢理一人に絞り込むことに何の意義も感じられなかったので、はいはいと適当に受け流してはいたが。
後にお笑い芸人となった彼は、秋庭真冬と共演する機会があっただろうか。昔からファンでしたとか言って握手を求めたりしただろうか。残念ながらテレビなどで二人が並んでいる場面を目にした記憶は無い。
アイドル談義も盛り上がりはするのだが、やはり現実の女の子の話には敵わない。
アイドルだって架空ではなく現実に存在する女の子に違いはなかったが、そこはやはり定義の仕方に齟齬がある。
DD云々は冗談にしても、尋深のことでは日坂から何度も真剣に嗾けられた。
——早く尋深ちゃんに告白しろよ。
——簡単に言うな。タイミングを間違ったら、そこでジエンドなんだぞ。
彼女とはいい友人関係を保ってはいたが、告白に失敗すればそれすらも失くすことになる。僕は情けないほどに臆病になっていた。
——何だよ、タイミングって。そんなもの、どうやって計るんだよ。
——いろいろあるだろ。二人の間の、その、何て言うか、当事者にしか分からないニュアンスみたいなのが。
——分かんねえよ。そんなもの気にしてたら、いつまで経っても進展しないぞ。もし仮に断られたって、また何回でもチャレンジすればいいんだ。その男の熱意に女はほだされるんだよ。
——成功していない奴から言われたって説得力が無いんだよ。
その台詞で日坂は黙ったが、彼は自分で言ったことを実践し続けた。柴田奈央に、果敢に何度も何度も告白をして、その都度振られ続けた。それでも彼は諦めなかった。
その神経の図太さを、ほんの少しだけでもいいから分けて欲しかった。
夏休みに入ったばかりの頃だ。キャンパスの片隅で柴田奈央から呼び止められたことがあった。その時点では日坂からは既に三回告白をしたけれど、三回ともあっさり振られたと聞いていた。
——ねぇ、日坂君に言ってくれないかな。
——何をです?
——わたしのことは諦めて、他の女の子を好きになりなさいって。
——えっ、何で?
——何でって、もう五回も振ったのにまだチャレンジしますなんて言ってるのよ、彼。
日坂から聞いていたのと回数が合わないことは、良しとした。
——いや。それは僕に言われても……。
——日坂君のことは嫌いじゃないし、いい子だとは思うし、わたしのことを想ってくれるのは嬉しいし、なかなか女を見る目があるじゃんとは思うけどさ。
——じゃあどうして駄目なんですか。あいつ、本当に良い奴ですよ。
——だから、それは分かってるってば。わたし以外の女の子にしなって言ってるの。そうだ。中和泉尋深ちゃんとか、いいんじゃない? 各務君からお勧めすれば?
僕の尋深に対する想いに気づいての意地悪だったのだろう。
——そ、そんなの、お勧めするようなものじゃないでしょう。
——冗談だよ。ごめん。むきにならないで。
——別にむきになんかなってません。そんなことよりも、日坂のことが本当に駄目なら、どうして駄目なのか、はっきりあいつに言ってやってください。日坂のここが嫌いだとか、他に好きな男がいるとか、そもそも男には興味がないとか。いっそ大嫌いだって言ってやった方が、きっぱり諦めがつくかもしれませんよ。
——嘘はつけないよ。嫌いじゃないし。他に好きな男なんていないし。LGBTでもないし。
——だったら一度、日坂と付き合ってみるってのはどうですか。その上で振られたんなら、あいつも諦めがつきやすいんじゃないかな。
——やだよ……。
彼女はふいに視線を遠くへ飛ばし、淋しそうに言葉を続けた。
——だって、そんなことしたら、振られるのはわたしの方だもん……。
——そんなこと、
そんなことあるわけがない。それは疑いようのない事実のはずなのに、それを言わせてもらえなかった。
——各務君、知ってるんでしょ。中学の時、どうしてわたしがいなくなったのか。
——あ、いや……。
さすがに言葉に詰まってしまった。
夜逃げ——あれは本当にそうだったのか。
——あーっ、もう面倒くさいから言っちゃうけど、わたしんち、ていうか、わたし、お金が無いわけよ。親の借金のせいで、あちこち転々と引っ越したりしてさ。中学の時、ちょうどあなたと出会う前くらいが一番落ち着いていた時期かもね。でも、すぐまた逃げなきゃいけなくなっちゃって。そんなだから親とも縁を切って、大学に入る為のお金を貯める為に一年働いたりもして、それで浪人してたわけ。本当は二つ先輩だったのに、一つになっちゃったのはそのせい。今だって、かつかつでやってんの。男と付き合う余裕なんてないの。
——実は僕、部長がいなくなった後、田口と二人で部長の家を訪ねたんですよ。先輩たちに教えて貰って。でも……。
——あのアパートに行ったんだ……そっか。懐かしいな。各務君が天文部に入ってくれる前は落ち着いてたんだよ。貧乏でもこのままの生活が続けばいいなって思えるくらいには。でも、結局また逃げなきゃいけなくなっちゃって。……そうか。あのアパート見たんなら、ティコとケプラーが嘘だってのもバレちゃったんだね。
——え、嘘だったんですか?
——あんなところで犬なんか飼えないの、分かるでしょ。何だったか詳しいことは忘れちゃったけど最初は嘘を吐いたわけではなくて、小さな誤解から始まったんだ。言い訳するつもりはないけどね。結局ケプラーっていう二匹目の話まででっち上げることになっちゃって。完全に大嘘吐きになっちゃった。
——よく出来た話でしたよ。完全に信じてましたし。
——だよね。でも、あれから暫くしておばあちゃんの家に住むことになった時、子犬を飼い始めて、ティコって名前にしたんだよ。これは本当。高校卒業しておばあちゃんの家を出た時に置いてきちゃったけど。まだ元気にしてるみたい。
——でも、貧乏とか、お金が無いとか、どうってことないじゃないですか。僕も日坂も金なんかありませんよ。奨学金とアルバイトで毎月ぎりぎりです。風呂も無い古いアパート借りて、二人で部屋の中の小銭をかき集めて弁当買いに行ったりしてるんですから。
——ごめんっ。
彼女は少しだけ大きな声を出した。
暫く次の言葉を待ったけれど、俯いたまま何も言わないので躊躇いつつも先を促した。
——何がですか?
すると顔を上げた彼女は意外なことを話し始め、結果、僕は後悔に苛まれることになった。
——わたし、今は良いマンション住んでるのよ。エレベータもあるし、オートロックだし。部屋に来るとびっくりするよ。そんなに広くはないけどさ、床暖房まであるし。ブランド物のバッグとかアクセサリとか、その辺に沢山転がってたりするし。
——どういうことです?
聞きたくないという気持になりながらも、もはや訊ねないわけにはいかなった。
——キャバ嬢やってるんだ。毎日遅くまで働いてるの。そのせいでサークルに出れない日も多い。客はいろんなプレゼントをくれる。こう見えてけっこう人気があるんだよ。ナンバーワンとは言わないけどね。でも中には変な客もいて、厄介なことになることもあるの。そのせいで前に住んでいた部屋には住めなくなったから、オートロックでセキュリティのしっかりしたマンションに引っ越して、店も変わったりしたわけ。
彼女は睨みつけるようにして、じっと目を合わせてきた。こちらから逸らすわけにはいかなかった。
けれど、ほんの数秒後、彼女の表情からふっと力が抜けるのが分かった。
——ね。そんな女と付き合ってもいいことないし。この先キャバ嬢じゃ済まないかもしれないし。そんな女だって知ったら付き合いたいとも思わなくなるでしょ。でも、わたしだって、自分からはさ、あんまり言いたくないわけよ。言いたくない人生歩んで来てるのよ。大学では知らん顔して過ごしてるけど。変な噂になるのも面倒だしね。
ここまで言って、彼女は目を伏せた。
——各務君は最低だよ。わたしに言いたくないことを言わせたんだから……。責任取って、ちゃんと日坂君に伝えておいてよ。あの女はやめておけって。
ああ。僕は最低だ——。
キャバ嬢だなんて関係ない。親の借金なんて、もっと関係ない。日坂のことだ。惚れた女性がどんな境遇だったとしても、丸ごと受けれようとするだろう。彼はそういう男だ。
なのに、この時の僕は何も言えないまま、去って行く彼女の背中を見送るしかなかった。
僕は本当に最低だった。
その点、日坂は対極の道を歩んでいた。彼は大学の三年間で数えられないほど、柴田奈央に告白をした。振られても振られても。それを彼は七転び八起きだと胸を張り、僕は七転八倒だろうと笑った。
僕たちの話題の中心に中和泉尋深や柴田奈央がいたことは間違いないが、当然ながらそれだけというわけでもない。
印象に残っているのは、当時、若者の間で絶大な人気を博していた女性アイドルグループだ。同世代の男たちの多くが夢中になっていて、僕たちも例外ではなかった。そして、リアルな恋だけではなく、アイドルに対する熱の入れようですら僕と日坂とでは違っていた。僕が推しメンを一人に絞り込めずにいたの対して、彼は秋庭真冬というメンバー単推し。それも随分な熱の入れようだった。
二人共アルバイトと奨学金でかつかつの貧乏学生だったから、アイドルにつぎ込める資金が乏しい事情は共通していた。それでも彼の部屋には秋庭真冬の写真集やネーム入りタオル、団扇など多くのグッズがあった。
中でも一番のお宝は天井にあった、何かのキャンペーンの抽選で当たったという直筆サイン入りの特大ポスターだ。ファンの間ではプレミアものの貴重品だったが、それを大事に仕舞い込むのではなく、ちゃんと毎日眺められるように貼り出すあたりが日坂らしいところだ。
ろくなつまみも無いまま安い酒をしこたま飲んで、床に散らかったものを押し退けて仰向けに寝転がると、目の前に秋庭真冬の顔が広がっていた。
両手を組んで人差し指と親指を伸ばすと拳銃の形になる。それを頬の横に構え、絶妙な角度で首を傾げてウインクをしている。見る者全てがハートを撃ち抜かれてしまう、彼女の必殺のポーズだった。
——確かに真冬も可愛いし、元気でいいと思うけどさあ。
——文句あんのか?
——青花の可憐でか弱い感じ、あの俺が守ってやらなきゃ感をどう思うよ?
——分かる。お前の言いたいことはよく分かる。でもな、青花はお前が守れ。俺は真冬に打ちのめされる。
——じゃあ、涼子はどうだ? あの痛々しいまでに真っ直ぐな純粋さ。いつまで経っても抜けない訛り。
——いや。分かる。分かるぞ。お前の言いたいことは痛いほど分かる。涼子には俺だって何度も貰い泣きをした。訛っている女の子も可愛い。でもな。あの子は純粋過ぎる。真っ白過ぎる。真っ直ぐ過ぎるんだ。俺には荷が重い。涼子には悪いが、俺は真冬の手のひらの上で転がされることを選ぶ。
そんな馬鹿馬鹿しいやり取りを、大真面目な顔で何度も交わした。
熱烈なアイドルファンの間では、推しメンを一人に絞り切れないファンはDDなどと呼ばれて蔑まれていた。誰でも大好きの頭文字だ。
——各務。お前のよくないところは推しメンがはっきりしないところだ。別に真冬を推せとは言わない。青花なのか、涼子なのか。はっきりさせろと言っているんだ。DDは卒業するんだ。
酔った日坂によくそう責められた。そこを無理矢理一人に絞り込むことに何の意義も感じられなかったので、はいはいと適当に受け流してはいたが。
後にお笑い芸人となった彼は、秋庭真冬と共演する機会があっただろうか。昔からファンでしたとか言って握手を求めたりしただろうか。残念ながらテレビなどで二人が並んでいる場面を目にした記憶は無い。
アイドル談義も盛り上がりはするのだが、やはり現実の女の子の話には敵わない。
アイドルだって架空ではなく現実に存在する女の子に違いはなかったが、そこはやはり定義の仕方に齟齬がある。
DD云々は冗談にしても、尋深のことでは日坂から何度も真剣に嗾けられた。
——早く尋深ちゃんに告白しろよ。
——簡単に言うな。タイミングを間違ったら、そこでジエンドなんだぞ。
彼女とはいい友人関係を保ってはいたが、告白に失敗すればそれすらも失くすことになる。僕は情けないほどに臆病になっていた。
——何だよ、タイミングって。そんなもの、どうやって計るんだよ。
——いろいろあるだろ。二人の間の、その、何て言うか、当事者にしか分からないニュアンスみたいなのが。
——分かんねえよ。そんなもの気にしてたら、いつまで経っても進展しないぞ。もし仮に断られたって、また何回でもチャレンジすればいいんだ。その男の熱意に女はほだされるんだよ。
——成功していない奴から言われたって説得力が無いんだよ。
その台詞で日坂は黙ったが、彼は自分で言ったことを実践し続けた。柴田奈央に、果敢に何度も何度も告白をして、その都度振られ続けた。それでも彼は諦めなかった。
その神経の図太さを、ほんの少しだけでもいいから分けて欲しかった。
夏休みに入ったばかりの頃だ。キャンパスの片隅で柴田奈央から呼び止められたことがあった。その時点では日坂からは既に三回告白をしたけれど、三回ともあっさり振られたと聞いていた。
——ねぇ、日坂君に言ってくれないかな。
——何をです?
——わたしのことは諦めて、他の女の子を好きになりなさいって。
——えっ、何で?
——何でって、もう五回も振ったのにまだチャレンジしますなんて言ってるのよ、彼。
日坂から聞いていたのと回数が合わないことは、良しとした。
——いや。それは僕に言われても……。
——日坂君のことは嫌いじゃないし、いい子だとは思うし、わたしのことを想ってくれるのは嬉しいし、なかなか女を見る目があるじゃんとは思うけどさ。
——じゃあどうして駄目なんですか。あいつ、本当に良い奴ですよ。
——だから、それは分かってるってば。わたし以外の女の子にしなって言ってるの。そうだ。中和泉尋深ちゃんとか、いいんじゃない? 各務君からお勧めすれば?
僕の尋深に対する想いに気づいての意地悪だったのだろう。
——そ、そんなの、お勧めするようなものじゃないでしょう。
——冗談だよ。ごめん。むきにならないで。
——別にむきになんかなってません。そんなことよりも、日坂のことが本当に駄目なら、どうして駄目なのか、はっきりあいつに言ってやってください。日坂のここが嫌いだとか、他に好きな男がいるとか、そもそも男には興味がないとか。いっそ大嫌いだって言ってやった方が、きっぱり諦めがつくかもしれませんよ。
——嘘はつけないよ。嫌いじゃないし。他に好きな男なんていないし。LGBTでもないし。
——だったら一度、日坂と付き合ってみるってのはどうですか。その上で振られたんなら、あいつも諦めがつきやすいんじゃないかな。
——やだよ……。
彼女はふいに視線を遠くへ飛ばし、淋しそうに言葉を続けた。
——だって、そんなことしたら、振られるのはわたしの方だもん……。
——そんなこと、
そんなことあるわけがない。それは疑いようのない事実のはずなのに、それを言わせてもらえなかった。
——各務君、知ってるんでしょ。中学の時、どうしてわたしがいなくなったのか。
——あ、いや……。
さすがに言葉に詰まってしまった。
夜逃げ——あれは本当にそうだったのか。
——あーっ、もう面倒くさいから言っちゃうけど、わたしんち、ていうか、わたし、お金が無いわけよ。親の借金のせいで、あちこち転々と引っ越したりしてさ。中学の時、ちょうどあなたと出会う前くらいが一番落ち着いていた時期かもね。でも、すぐまた逃げなきゃいけなくなっちゃって。そんなだから親とも縁を切って、大学に入る為のお金を貯める為に一年働いたりもして、それで浪人してたわけ。本当は二つ先輩だったのに、一つになっちゃったのはそのせい。今だって、かつかつでやってんの。男と付き合う余裕なんてないの。
——実は僕、部長がいなくなった後、田口と二人で部長の家を訪ねたんですよ。先輩たちに教えて貰って。でも……。
——あのアパートに行ったんだ……そっか。懐かしいな。各務君が天文部に入ってくれる前は落ち着いてたんだよ。貧乏でもこのままの生活が続けばいいなって思えるくらいには。でも、結局また逃げなきゃいけなくなっちゃって。……そうか。あのアパート見たんなら、ティコとケプラーが嘘だってのもバレちゃったんだね。
——え、嘘だったんですか?
——あんなところで犬なんか飼えないの、分かるでしょ。何だったか詳しいことは忘れちゃったけど最初は嘘を吐いたわけではなくて、小さな誤解から始まったんだ。言い訳するつもりはないけどね。結局ケプラーっていう二匹目の話まででっち上げることになっちゃって。完全に大嘘吐きになっちゃった。
——よく出来た話でしたよ。完全に信じてましたし。
——だよね。でも、あれから暫くしておばあちゃんの家に住むことになった時、子犬を飼い始めて、ティコって名前にしたんだよ。これは本当。高校卒業しておばあちゃんの家を出た時に置いてきちゃったけど。まだ元気にしてるみたい。
——でも、貧乏とか、お金が無いとか、どうってことないじゃないですか。僕も日坂も金なんかありませんよ。奨学金とアルバイトで毎月ぎりぎりです。風呂も無い古いアパート借りて、二人で部屋の中の小銭をかき集めて弁当買いに行ったりしてるんですから。
——ごめんっ。
彼女は少しだけ大きな声を出した。
暫く次の言葉を待ったけれど、俯いたまま何も言わないので躊躇いつつも先を促した。
——何がですか?
すると顔を上げた彼女は意外なことを話し始め、結果、僕は後悔に苛まれることになった。
——わたし、今は良いマンション住んでるのよ。エレベータもあるし、オートロックだし。部屋に来るとびっくりするよ。そんなに広くはないけどさ、床暖房まであるし。ブランド物のバッグとかアクセサリとか、その辺に沢山転がってたりするし。
——どういうことです?
聞きたくないという気持になりながらも、もはや訊ねないわけにはいかなった。
——キャバ嬢やってるんだ。毎日遅くまで働いてるの。そのせいでサークルに出れない日も多い。客はいろんなプレゼントをくれる。こう見えてけっこう人気があるんだよ。ナンバーワンとは言わないけどね。でも中には変な客もいて、厄介なことになることもあるの。そのせいで前に住んでいた部屋には住めなくなったから、オートロックでセキュリティのしっかりしたマンションに引っ越して、店も変わったりしたわけ。
彼女は睨みつけるようにして、じっと目を合わせてきた。こちらから逸らすわけにはいかなかった。
けれど、ほんの数秒後、彼女の表情からふっと力が抜けるのが分かった。
——ね。そんな女と付き合ってもいいことないし。この先キャバ嬢じゃ済まないかもしれないし。そんな女だって知ったら付き合いたいとも思わなくなるでしょ。でも、わたしだって、自分からはさ、あんまり言いたくないわけよ。言いたくない人生歩んで来てるのよ。大学では知らん顔して過ごしてるけど。変な噂になるのも面倒だしね。
ここまで言って、彼女は目を伏せた。
——各務君は最低だよ。わたしに言いたくないことを言わせたんだから……。責任取って、ちゃんと日坂君に伝えておいてよ。あの女はやめておけって。
ああ。僕は最低だ——。
キャバ嬢だなんて関係ない。親の借金なんて、もっと関係ない。日坂のことだ。惚れた女性がどんな境遇だったとしても、丸ごと受けれようとするだろう。彼はそういう男だ。
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