群青の空の下で(修正版)

花影

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第3章 ダナシアの祝福

27 罪と罰6

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 翌朝、ニクラスは馬車で別荘に向かっていた。馬車に乗ったのは実に1年ぶりの上、娘がしでかした事件も相まって、別荘に着くまで落ち着かずに幾度も座り直した。
 やがて馬車は市街地を抜け、郊外の並木道に差し掛かる。この先にあるのは元々グスタフが所有していた中でも比較的小さな別荘だった。現在そこには元姑と元妻、そしてその姉妹と娘が暮らしている。以前の暮らしぶりから比較すると、随分と詰め込まれた感があるのだが、ニクラスの現在の住処に比べると何倍も広くて豪華だ。
 固く閉ざされた門の前には見張りが2名立っている。馬車から降りたニクラスが持参した書類を見せると中へ招き入れられた。
 もう長く手入れをされていない庭は荒れ放題になっていた。グスタフが失脚し、敬称すらはく奪された今の彼女達に贅沢は許されておらず、全て自分達で身の回りのことはするように言い渡された。当初は家政婦が居たらしいのだが、あくまで家事の指導役として派遣されていたので、彼女達が自分達で身の回りの事が出来る様になった現在ではその家政婦もいない。その為、なかなか庭へは手が回っていないのだろう。
 玄関の呼び鈴を鳴らすと、程なくして返事が返ってきた。聞き覚えのあるその声は別れた妻のヘルミーナのものだった。
「……久しぶりだな」
 1年ぶりの再会だった。1年前に別れた時にはまだ己の境遇に納得できておらず、失脚前と変わらず豪奢なドレスに高価な宝飾品を身に付けていたのだが、今は飾り気のない簡素なドレスを身に付け、髪は束ねただけで化粧もしていない。その変わりようにすぐに言葉が出てこなかった。
「ニクラス……」
 どうやらそれはお互い様の様で、ヘルミーナもニクラスの姿を見て言葉に詰まっている。確かに、髪は短くしているし、野良仕事のおかげで日に焼けて体も少し引き締まっている。以前の文官然とした姿から想像できなかったのだろう。
「どうぞ、入って」
 我に返ったらしいヘルミーナは慌ててニクラスを中へ招き入れる。昨年までは豪華な調度品が所狭しと置いてあったのだが、今は必要最小限の古びた家具が置いてあるだけだった。とばりも絨毯も心なしか擦り切れている様にも見える。
「何もないでしょう?」
 物珍し気に見ているのに気づいたらしく、ヘルミーナは恥ずかし気に俯く。慌てて謝罪するが、彼女はゆるゆると首を振る。どうやら元姑の治療費を捻出するために売ったらしい。ただそれだけでなく、幽閉前に買った贅沢品の付けに持っていかれたものもあるらしい。
 そんな話を聞きながら着いた部屋は元姑の病室。マルグレーテの怪我の具合がある程度良くなるまで滞在する予定となっている。本当は顔を合わせたくないのだが、挨拶だけはしておいた方がいいだろう。覚悟を決めて扉を叩くと中に入った。
 寝台には白髪の女性が横になっていた。記憶に残る姿よりも随分と老けこんでいて、話を聞いてなければその女性が元姑と分からなかっただろう。
「誰じゃ」
「ニクラスでございます。お久しぶりでございます、奥様」
 長年身にみついた癖で、元姑の前では自然と背筋が伸びる。そして深々と頭を下げた。
「今更……」
 ニクラスと分かったとたんに彼女は激昂する。言葉が少し不自由なのではっきりとは聞き取れない。更には体を半ば起こして自由がきく右手を激しく振り回している。
「お母様、お体に触ります」
 寝台の傍に立っていたヘルミーナのすぐ下の妹がやんわりと押しとどめ、再び彼女を寝台に横たえる。その間にヘルミーナがニクラスを部屋の外へと連れ出した。
「ごめんなさい、誰に対してもあんな感じで……」
「いや……」
 彼女からしてみれば、今頃のこのこ姿を現して何をしに来たのかといったところなのだろう。色々反論したいところだが、彼女の性格なら何を言っても聞き入れてくれることは無いだろう。とりあえず挨拶は済ませた。後は帰るときに顔を合わせればいいだろう。
 気を取り直し、今度は娘の部屋に向かう。扉を叩いて部屋に入ると、一番下の義妹が寝台脇で苦笑している。マルグレーテは隠れているつもりらしく、寝台の上には上掛けがこんもりと盛り上がっている。
「マルグレーテ、お父様が来てくださったわ。ご挨拶なさい」
「……」
 返事はない。ヘルミーナはもう一度声をかけるが、マルグレーテはかたくなに口を閉ざす。ニクラスはため息をつくと、寝台の傍によって盛り上がった上掛けに声をかけた。
「マルグレーテ、起きたことはもう変えられない。こうして逃げていても事態は悪くなる一方だぞ」
 怒るでもなく、淡々とした口調で語り掛ける。だが、頑なな態度は変わることなく、この日に娘の姿を見ることは出来なかった。



 夕食はマルグレーテが腕を振るってくれた。野菜の煮込みと薄焼きのパンという、1年前では想像すらできないほど質素な内容だったが、今のニクラスにはこの上ないご馳走となっていた。
 互いに近況を報告していたが、不意に会話が途切れる。深く思いため息をついたヘルミーナが何か思い立ったように顔を上げた。
「ニクラス、あの子はどうなるのかしら……」
「わからん。ただ、フレア様からのお言葉では、対話を続けるようにとの事だった。私も今のままでは自分が食べて行くのがやっとであの子を養える余裕はない。近くの神殿に預けることになる。とにかく声をかけ続けてみるよ」
「そう……」
 ヘルミーナは力なく俯く。彼女達が幽閉の身になっても未成年のマルグレーテは比較的自由を許されていた。イヴォンヌの我儘でリネアリス家に招かれるのも珍しくなく、あの事件があった日も何の疑いもなくリネアリス家から来た迎えに娘をゆだねたのだ。それがまさかこんなことになるとは……。
「あの子にどこまで知らせている?」
 ふと、疑問になってニクラスは尋ねる。グスタフの訃報と共に彼の企みは伝えられている。元姑はねつ造だと言うが、ハルベルトの暗殺に始まる一連の騒乱を引き起こしたのは疑いようもない。
「お母様が必要ないと仰って、詳しい事はまだ何も……」
「もう成人をむかえるんだ。自分の家で何が行われて来たのか、ちゃんと教えた方がいい」
「でも……」
 ニクラスが確固たる口調で断言するが、ヘルミーナはまだ躊躇っている。病に倒れたとはいえ、元姑の圧力は未だに彼女達に強く圧し掛かったままだ。
「私が言ってもいいが、今日の様子だと当分無理だろう。母親の君の言葉が一番届きやすいはずだ」
「……」
 ヘルミーナは答えない。今日はこれ以上の説得は無理だろうと判断し、ニクラスはご馳走様と夕食の礼を言って席を立つ。空いている部屋が無いので、寝るのは急きょ片付けた物置部屋になったが、今の住まいに比べるとまだ快適な寝床となった。ひとまず寝てから考えよう。そう思いなおしてニクラスは仮の寝台に潜り込んだ。
 
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