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第2話 誰かじゃなくてアナタと

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 アイドルと言われても、具体的に何をするのかが分からない。一般人ならその程度だろう。私もその程度だ。
 帰宅後、夕飯の香りに誘われつつも渋々と脱衣所へ向かった。あの後かなりの時間歌ってしまい、汗によるシャツの透けを気にしながら帰宅する羽目になってしまったのだ。
 全く、自身がそのような人材なんてあり得るはずがないなと浴室に身を浮かばせて嘲笑する。嘲笑したのだが、何故か脳内は情景を映し出す。今まで教室ではあまり目立たぬようフレーム越しの視線を受けていた筈なのだが、なかなかどうして考えて見れば見るほど大勢の視線と黄色い歓声を浴びる自分と時雨宮古を想像してしまう。
 「…なんでなの」
 特に長所と言える何かは、持ち合わせていない筈だ。スタイルも良くないし、顔に自信も持てない。そうでなければ伊達眼鏡なんて付けてはいない。コミュ障で、あがり症で、ちょっと趣味が偏ってて、あと胸もそんなに無い。
 それでも、なにか憧れるものはある。きっと大勢を前にしても平常を保てる精神を持ったり、そういった世界で繰り広げられる青春のようなものを想像することはおそらく何度かしたことがあるのだ。
 「蕣ぉ‼︎いつまで入ってんの⁉︎」
 盛大に音を立てて開け放たれた扉の向こう側には、見慣れた姿が怒った顔を覗かせていた。
「おっ…お姉ちゃん⁉︎わかった!わかったから閉めてよ‼︎」
 何故今更この様な恥がこみ上げてくるのだろうか。おそらく本日の一連が原因だと思われる。扉を閉め立ち去る姿に謎の笑いが姿を現し、唇の両端を高くしていた。

「…はあ?なにそれ芸能デビューするってこと?」
「そうなんだろうけど、時雨さんが言い出しただけだと思うし一応ってことで…」
 私の腹は決まっていた。この様なチャンスを逃すわけにはならないと、今一番後悔しない道を探しそして見つけた。運だと言われても構わないと、それが自身の「私利私欲」であると伝えた。
「そういうのは母さんと父さんが帰ってきてから言えよ……」
「いや…なんかすごく大切なことかなって思って、お姉ちゃんに一度聞いておこうと思って…」
 姉は湯呑みの中に注がれた湯気の立つ緑茶を啜り、しばし眉間をつまみ脳と格闘している様だった。
「別に私はいいと思うよ。蕣がそれだっていうならね。ただそういうのは本当になれるのかを確認した後で話してほしい」
「…うん」

「…私が仕事を断っているのは、それが本当にやりたいことじゃないから。いつかは成れると思ってたけど、いつまで経っても静止した一枚の中ばかりだ。だから私は自ら頼みに来たんだ…」
 消灯後の『Quartetto』事務所にて、時雨宮古とプロデューサーの峯森は向かい合っていた。
「あの子をスカウトしてきたの?あんな一般人を…」
「違う。あの子は…蕣ちゃんは逸材だよ。歌の巧さだけじゃない。数時間歌っても枯れることのない声帯やしつこいくらいの体力…そして何より心の底から喜び笑い、歌っていた…なんて、峯森みたいな大人からしたら綺麗事なんだろうけどね」
 直立した状態で、時雨宮古は語る。その数時間前に目の当たりにした光景と人物を。
「貴女が仕事を受けてくれる様になるなら私はそれでも構わないわ。だけど、今までの状況を置いてそんなことを上が認めてくれるかしら」
「それは…私の責任です。私が頭を下げるだけ。蕣ちゃんに面目の立たない結果にはしたくないですから」
 暫しため息まじりに微笑み、部屋を後にした峯森を見つめて安堵を唱える。
「これでやっと…」

 現在A.M8:50辺りである。先日という、あまりに情報量が多すぎた日を状況整理のつかないまま越してしまった。机の周りを囲む数人の生徒からの質問攻めという状況だろうか、その様なことが起こっていた。
「昨日は災難だったねー」
「結局ヤってたのあいつだったんだよね」
「ていうか眼鏡どうしたの?」
 よし、とりあえず状況を整理しよう。まず先日の犯人は、濡れ衣を被せた紛れもないあの少女だということだ。彼女が総ての問題の根源であり、男子生徒諸共停学を食らったらしい。
 そして次の件だが、単純に眼鏡は忘れただけだ。これ以上なにも語ることはない。
「いやー…確かに大変だったというか…眼鏡忘れたというか…」
 先日浴槽に浮かびながらあんな事を考えていたはずなのに、今は完璧に人と関われないモードへと突入している。
「それで…蕣ちゃん、決まった?」
 なんだかよく聞いた様だが、余り聞いたことの少ないとも取れる声が耳に届く。
目の前に陣取っていたのは時雨宮古だった。
「とっ…時雨さん⁉︎なんでここに⁉︎」
「遊びに来ちゃった。ていうか宮古でいいよ」
 両手のピースサインをこちらに見せ、淡々と無表情で語りかける。彼女が昨日見せていた感情はどこへ消えたのだろうか。
「今日の放課後、事務所までいくから予定開けといてね」
「え…ちょ、そんな急に……⁉︎」
「そんな急にだよ」
 そういうと、時雨宮古は教室を抜けて視界から消える。眼前の皆様からは「誰?」といった声が上がっている。かなり目立ってしまっているなと頬を赤く染め、肩を窄めた。

「時雨さんっ…すいません、遅れましたか⁉︎」
「いや、全然?あと宮古でいいよ、私ホントに畏るの苦手なんだって」
 先日の暗くなった帰路とは違い、橙に染め上げられた街並みを歩くことになる。時計は4時と5時のちょうど間を指していた。
「と…宮古さんって、いつからQuartettoに?」
「中学2年の時からだよ。私はそのとき、子供らしいだとか夢の見過ぎだとか言われながらアイドルなんていう他感覚が馬鹿馬鹿しいと思うものを目指してた。私は、蕣ちゃんにもそう思われてるかなって不安だったよ。だから敢えて聞かないけど」
「そんな、寧ろ凄いなって思いますよ。私も昨日よく考えてみたら、とんでもなく貴重なチャンスなんじゃって思いましたし…」
 少しずつ歩調を進め、会話の末に特徴的なフォントで記されたQuartettoの文字を見つけた。
 宮古さんの言った通り、Quartettoからはそう一括りにアイドルだなんて言えるユニットはプロデュースしていない。もし私がその一員になれるならどれだけ光栄なことか考えるも、壮大な世界は既に予想不可能なほどになっていた。
 宮古さんに連れられる様建物へ入り、あっという間に階を跨ぎその先の圧倒的な違いを感じる部屋の前に立っていた。
 きっとここには、Quartettoの責任者だとかそういう人がいるのだろうと考える。明白な理由に、今更ながら緊張が自身を拘束しているようだった。
「…今回は私が提案を出すだけ。まだ蕣ちゃんの答えも聞いてないしね。だからあんまり期待はしないほうがいいと思うよ」
 そういうと、宮古さんはドアノブを下げて扉を開け放った。その先には、いかにも偉そうな50代ほどの男性と、先日宮古さんを迎えにきていたプロデューサーが佇んでいた。
「連れてきましたよ」

「…なるほど。Quartetto初の歌って踊れるユニットをデビューさせたいと、君はそう言いたいんだね?時雨くん」
「私が支離滅裂かつ自分勝手な理想を語っていることは承知の上です。ですが、彼女の力があれば…」
 Quartettoの最高責任という、簡単に言って仕舞えば社長なのだろう。その人物と宮古さんは語っていた。私はただそれを見つめる人形の様になり、飛び交う業界用語を必死で理解しようと神経を張り巡らせた。
「その発言は、だね。七海くんの力があればというのなら、君は何のためにそこにいる意味がある?君は彼女の能力に便乗したいだけなのかい?」
「それは…」
 言葉に詰まる宮古さんの姿がそこにはあり、彼女が唇を噛む動作が目に映っていた。
「違うだろう?ユニットというものは、そこに求められる人間が少しずつ持ち寄ったもので完成するものだ」
「う…」
彼女は何かに気付いたよう、はっと顔を上げて表情を変える。
「時雨くんの言う『力』は七海くんの力だけではない筈。メンバーがいて、初めて完成する。それがユニットだ」
 自身今まで何気なくみていた数々の有名ユニットでも、何気ないところで大多数の力が足算された姿だと知る。小、中学で行事があるごとに同じような綺麗事を聞いてきたような気がするが、何故かこの人の言葉だけはすぐに不覚へ突き刺さり抜けなくなっていた。
「3ヶ月後、偶然あるオーディションが行われる。それに受かれば正式に認めてあげてもいい」
「ほっ…本当ですか⁉︎」
「ただし、落ちたそのときは潔く諦めてくれるかな。私からの条件はこれだけだ」
 笑顔を浮かべる宮古さんはこちらを向き、ガッツポーズと共に語りかけた。
「やったよ蕣ちゃん!私はいつでも大丈夫だから…一緒にデビューしてくれるなら、すぐに教えてね!」
「う…うん!」
 実際のところは決まっている。私は宮古さんと共にデビューしてみたいと。あとはそれを両親に相談し、了承を得るのだ。
「あぁ、そうだふたりとも。言い忘れていたんだが…オーディションの募集要項は『3人』ユニット限定だ」
「…え?」
2人分の空虚な声が、ガラス張りの中で反響していた。
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