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あさと

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 あまり会話もしたくなかったので鏡に映る和人さんから目を逸らし、携帯電話を開いた。浅人からメールが一件入っていた以外にはなんの連絡も着ていない。
 そもそも俺に連絡するような奴って誰だろう。浅人、和人さん、麗奈……名前を上げていくと、残りは玲児と出雲くらいしか浮かばない。二人からは連絡など来るはずもない。
 このままでは浅人もそのうち自分から離れていくのだろう。結局俺は出雲の代わりに浅人に慰めてもらっているだけ。出雲のことをあんなに泣かせたというのになんの反省もできていない。
 このままいつか一人になってしまいそうだ。昔と同じ。
 携帯電話を閉じて瞼を下ろす。
 すると背後からミントのようなしかし苦みのある香りが漂ってくる。
 振り向くと未成年である担当モデルの前で煙草を吸うマネージャーの姿があった。
「和人さん煙草吸ってたっけ?」
「吸うよ? 初めてシた日とか吸ってたでしょ」
「覚えてないです」
「だろうねー、誰とどんなセックスしたかとかも全然わかんないでしょどうせ」
 ケラケラと笑いながら唇を尖らせてフーッと煙を吹きかけてくる。それを手で払いながら顔を顰めると、笑ってちらりと舌を見せた。
「うちの弟は大丈夫なのかな?」
「何が……」
「家に帰れって行ってくれない?」
「言っときますよ」
「頼んだからねー?」
 いつも通りの軽い調子で話しているが、肩に置かれた手にグッと力がこもり威圧感を与えてくる。視線を感じるが目線も合わせずにいると、まだ長い煙草をテーブルに置かれた灰皿に押し付けて去っていった。楽屋にはほろ苦いメンソールの香りだけが残っている。
 携帯電話を再び開き、先ほど確認した浅人からのメールに返信をした。遅くなるかもしれないから先に飯を食べて待っていてくれと。
 和人さんが待っていようが自宅へ帰らせるつもりなどない。今の俺には浅人がどうしても必要だ。何でも許してくれるあいつが必要なのだ。




 帰りのホームルームが終わってもぼーっと頬杖をついたまま青白い顔で窓の外を眺める横顔は、まるで向こうが透けて見えてしまうのではないかという程に儚げだった。
 目の前に僕が立っているというのに全く気がつく素振りもない。上着やノートなどを入れたトートバックをやや乱暴に机に置いたところでやっとこちらに顔を上げる。眉をしかめて眩しそうに見上げてきた。
「これ。こーんなに荷物忘れてたよ?」
 うっすらと開いた唇は閉じられ、目を伏せてゴクリと唾を飲み込んだ。中身も確認せずに小さな小さな声で、すまんと呟く。
「なんか、よくわかんないけどさ……今度からはひと声かけてから帰ってね! 本当にびっくりしたんだから」
「む……そうだな」
 笑顔を作って見せてもそもそも目を合わせてくれない。けれども唇はむずむずと微かに動いていて、何か言葉を探しているのが伝わってきた。
 迷い、悩んでいる。僕と同じだ。
 玲児が話し出すのが早いか、僕が何があったのかを聞くかどうか決断するのが早いか、というところだ。お互いに迷っている。それをお互いが悟っている。
 聞きたい気持ちはもちろんあった。日曜日に何かあったのは明白だし、隼人の様子もおかしい。けれど隼人の様子がおかしいことに何も問題は感じていなかった。むしろ喜ばしいことだった。彼にこんなに縋り必要とされる日がくるなんて思ってもみなかった。
 人生で一番誰かに求められていると思えるのだ。しかもその相手が隼人なのだ。
 聞く必要があるだろうか。
 過程など何でもいいではないか。
 隼人が今、僕を抱きしめてくれる。
 その事実が一番重要だ。
「じゃあね。また明日」
 玲児よりも早く決断ができた僕はそのまま踵を返して彼の席から離れようとした。
「待ってくれ!」
 意外にも引き止められ、顔だけ後ろを向くとその場に立ち上がった玲児がこちらを見つめていた。僕よりも背が高いはずなのになぜだか小さく見える。
「何も聞かないのか?」
「え?  どういうこと?」
「いや……」
 言葉を濁して俯く姿に精一杯微笑んだ。意地悪くなっていないか心配しながら。
「ごめんね、玲児。隼人が待ってるから帰るね」
 俯いたまま、大げさなほどにビクリと肩が震える。そんな姿を見ても不思議と胸は痛まなかった。
「隼人ったら落ち込んでてね……僕にずっと一緒にいてほしいって。そうそう、暫く隼人の家にいるから玲児も今度遊びにおいでよ」
 無邪気の仮面を被って弾むような声で話し、今度こそじゃあねと手を振った。玲児は顔を上げたが、声を発することはできないようだった。
 何があったかなんてわざわざ聞いてやらない。僕は隼人のそばにいたい。
できれば玲児とも離れたくない。現状維持が最も大事なことなのだ。チクチクと針を指して僅かな攻撃を与えながら親友の顔をしていればいい。
 実際には隼人は仕事で遅くなると言っていたから家で待ってはいない。隼人に“出雲先輩に犯された”と話した時から小さな嘘が少しずつ重なっていっている。
 嘘をつくことなんか今までなかったのに。いや、本当にそうだろうか。
 色んなことに知らんぷりを決めてきた僕ははじめから嘘つきだったのではないか?
 考えごとをしながら駅のホームに立ち、電車を待つ。次の電車は急行だ。隼人のアパートがある駅は急行が止まらないから間違えないようにしなければ。暫くは各駅停車だけ使うことになる。いつもと変わった習慣を見つけると頬が緩む。もうこのまま一緒に住んでしまいたいな。隼人とずっと生活したい。高校も近くなるし。馬鹿みたいに思ったことをそのままメールに込めて隼人へと送った。困らせてしまうかもしれないけど、隼人はきっと困ってしまったとしても笑ってそうだなと言うだけだ。僕の頭を撫でながら。
 急行を見送って各駅停車に乗り、駅からお店の並ぶ賑わった道を十分ほど歩く。そうしてアパートの階段を上がりながらスマートフォンを確認するとメールの返事があり僕の言ったことには答えずに“遅くなるから先に飯食ってて” とだけ書かれたディスプレイを眺めため息をついた。
 なんだよ、スーパーもコンビニも全部通り過ぎちゃったよ。
 引き返そうかと考えながら階段を上がっていくと、一番奥、つまり隼人の部屋の前に人影が見えた。見覚えのある女子校の制服に僕よりも背の高そうなスラリと脚の長い女の子だ。こちらの視線に気が付いたのか、長い赤みがかった黒髪を揺らしながら顔をこちらに向けると、零れそうなほどに大きな瞳が僕を捕らえた。
 “誰?  何の用?”なんて用意していた言葉なんて全てどこかへ消えてしまった。和人兄さんが見たら狂喜乱舞して名刺を差し出すレベルの美女だった。
「なに?」
 彼女を見つめたまま固まっていた僕に訝し気に声をかける。顔が小さく細い顎に収まった唇は少し小さめで可愛らしいが、その声からは気が強そうな印象を受けた。
 それを聞いてハッとして、もう一度彼女の全体像を見てみる。隼人のことだ、女の子が訪ねてきたって別に何も驚くことはないじゃないか。隼人だったら相手がどんなに美人でもおかしくも何ともない。きっと一度や二度体の関係も持ったとかそういうことなのだろう。隼人は全く、こんな女子校の綺麗なお嬢さんにまで手を出すなんて!
「隼人と何があったかとか聞かないけど、隼人は部屋にいないし帰ったほうが」
「え?  隼人の友達?」
 ちょっとムッとする。友達じゃないし。そんなこと言わないけど。
 僕の表情を見たからか彼女もちょっとムッとして反論してくる。
「隼人が部屋にいないならあんたも部屋に入れないんじゃない」
「僕は合鍵預かってるの!」
 ポケットから鍵を取り出してフンも鼻息を荒くして仁王立ち!  もう反論の余地もない。僕の大勝利。
 しかし彼女は大きな目を丸くしてさらに大きくした後、ブレザーのポケットから鍵を取り出して見せつけてきた。
「私も持ってるし」
「え?!  なんで?!」
 間抜けな声を上げて驚く僕に勝ち誇った笑みで流し目を送り、鍵を差して扉を開けた。そしてさっさと扉を閉めると、中からカチャリと鍵をかける音を響かせる。
 なにあの子!!  何者?!  感じ悪!!
 唖然としたのもつかの間急いで後を追い、自分も鍵を開けて中へと入った。するとあの女子高生が靴だけ脱いで中に上がり、腕を組んで立ったまま待ち構えていた。
「本当に合鍵なんだ」
「本当にって……!  嘘なわけないじゃん!  ていうか君だれ?!」
「隼人の家族」
「え?  家族って……」
「家族は家族だよ。それよりあんたこそ誰なの。ただの友達が合鍵持ってるわけないよね」
「ぼ、僕は……!」
 隼人の恋人だ、なんて堂々と言えるわけもなく言い淀み口を噤む。
 隼人の家族?  家族って、妹とか?  それならばこの抜群に良い容姿も頷ける。しかし家族ならばますます男の恋人がいるなんて言ってはいけないような気がする。隼人のことだからオープンにしていても驚きはしないけど、でも……
 なんと言い訳をしようかと頭を抱えていると、彼女は考えた下らない言い訳を全て無にする質問を僕に投げかけた。
「まさか……恋人?」
 一瞬時が止まる。そして全力で首を縦に振った。
「うん、そう!  そうなの!  隼人の恋人!  だから別に怪しい奴じゃないし、あの……」
 何を弁明しているんだと思い言葉が切れると、静かになったキッチン兼廊下で僕らは見つめあった。形の良いやや細めの眉をしかめ、若干見下ろされているのが悔しい。
 彼女は何やら不満顔だ。カッコいい自慢の兄に恋人がいることが気に食わないのか。いや、そもそも男に恋人って聞くってことは隼人のだらしない人間関係をわかっているのか。
 への字になったほのかに赤い唇が開く。
「なんかイメージと違う……ねぇ、名前はなんていうの」
「あさと、だけど……」
「あさとぉ?  あさと……漢字は?」
「さんずいの浅いにひとだけど、なんでそんなこと聞くの」
 玲児みたいに眉間にシワを寄せながら、ほぼ九十度なんじゃないかというほどに首を傾げている。なんなんだこの女の子は。じーっと難しい顔で僕を見続け、傾げていた首の角度が直ったと思ったら肩を竦めた。
「私は麗奈。私たち、名前似てないね」
「へ?  なにそれ、似てないよそりゃ……」
「でも良い名前。あんたにぴったりね」
 僕の名前を褒めると、麗奈という目の前の女の子は笑った。目を細めると涙袋がくっきりと浮かび、小さな唇がきゅっと控えめに上がる。可愛い笑顔だった。そして麗奈ちゃんはすぐに廊下の奥へと歩いていき、僕も廊下へ足を踏み入れた。
 名前を褒められたのなんて初めてな気がする。
 ふとそんなことを思った。
 でもぴったりってどういう意味だよ。浅い人であさとなのに。
 嫌味なのかと思って腹が立った。腹が立ったけど、深い意味もないその名前について言われたって反論する術を持たない僕はただ黙っていることしかできなかった。
    
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