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目など塞げばそれでおしまい①
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今夜帰るにしろ、飲食物と換えの下着くらい欲しいと思い再び買い出しにでかけた。出雲のやけどに塗る軟膏もほしい。昨夜は待っている間に出雲が泣いてしまったので、今日は連れて行こうと思った。しかし目も合わせずに断られてしまい、一人で街を歩く。
ホテルから駅の方角へ歩いていき、表通りに出れば人通りがどっと増える。仕事帰りと思われるくたびれた人々が集まる、平日のド真ん中の夜にしか僕はこの街に来たことがなかった。今はもっと、そわそわとした、なんだか落ち着かない空気が漂っている……ショッピングモールや飲食店、他にゲームセンターなどの遊技場もある程度集まっているため週末は賑わっているのだろう。
後ろから走ってきた小学生くらいの子供が僕の腰にぶつかるスレスレのところを横切っていき、クリスマスツリーを指さして後ろにいる大人になにやら語りかけている。それを見て、ああ、クリスマスの装飾がより一層この浮足立った人たちを作り出しているのだと悟った。
それは……自分にはない感覚。
よく注視してみれば、木には電飾がついているし、赤や緑の装飾、赤い帽子と白いひげのクリスマスの象徴のおじいさんがあちこちに見受けられるし、クリスマスソングも流れている。でもきっとあの子供が僕にぶつかりそうにならなければそんなこと気が付かなかった。
特別な日など特にない。僕にとって特別は、あの子だけ。出雲のいる空間が、それだけで特別。
この辺りの地理に慣れないので多少手間取ってしまったが、買い物を追えたので早く出雲の元へ帰ろうと歩みを早める。
しかし、視界の端に写り込んだものに反応し、弾かれるように振り返った。
自分はこんなに何かに素早く反応できたのかと驚き、その姿を確認して納得し、そしてやっぱり驚いた。
そこにはホテルの一室で待っているはずの出雲が歩いていたのだ。
人を掻き分けて進み、歩行者天国の向かいの道にいた出雲へ駆け寄っていけば、出雲もこちらに気がついてふわりと笑ってみせた。
「水泡さん」
驚きに出雲の手首を掴んだまま立ち止まってしまったら、出雲は肩を竦めてふふっと声を出して笑った。そうして指を絡めて僕の手を握り、繋いだまま僕を誘導するように歩き始める。
当然荷物など持たずに彼のアパートから出てきた筈が、その肩には大きめの黒いトートバッグ掛けられており、着てきたはずのモッズコートは僕でも着られそうなほどオーバーサイズのコーチジャケットに変わっていた。スラックスもかなりタイトなボトムになって、仕事着にコートを羽織った昨夜の即席スタイルとはまるで違う。
「どうして……ここにいるの」
「着替えを取りに行きました。あと、今夜は出勤しますね」
何を言っているのか理解できず、いや、わかるのだが頭がそれを拒否して顔を顰めてしまった。
人の顔色をよく伺うこの子が、そんな僕の反応に気が付かないはずがないので次の言葉を待ったが、特に弁解することもなく出雲は僕の手を握ったまま微笑んでいる。
「意味が、わからない……」
「そのまんまですよ?」
「彼のところに、行ったの? 会って……きたの?」
「はい。あ、動画ですが、まだどこにも公開してないそうです。良かったですね。俺のこと沢山の人に見られたら……水泡さん、嫌ですもんね?」
わざとやっているのか、話があまりに通じなくて額をさすり、セットをぜずに中分けに垂らしたままの長い前髪をかきあげた。
「彼に会ったの? あの、店長に? 会ってきたの? 一人で?」
「はい。そう言いました」
人とすれ違うたびに、皆の目線が同じように下がり、僕らの顔をまじまじと見つめる。何かと思ったが、しばらくそれが繰り返されるうちに繋いだ手を見られていることがわかった。僕は構わないが出雲はどうだろうかと横目で様子を伺えば、ギュッと小さな手に力が入った。
「水泡さん」
いつもなら声に出して返事をするのだが、無言で顔だけ向ける。すると背伸びをして頬の下の方……どちらかといえば顎の近くに唇を寄せられた。なんだというのだ。不可解なことがあまりにも多くて嬉しくもないしむしろ不愉快にすら思った。この子にキスされて不快に思うことがあるなんて驚きである。
「やめて……」
「人目が気になりますか? 意外です。昔俺のこと担いで歩いたじゃないですか」
「きみ、すごく嫌がってた」
「今は大丈夫ですよ。今ここでされても大丈夫です」
「早く、戻ろう……」
不愉快だった。
出雲の行動も、言動も、僕を探るその目も、全てが不愉快だった。
ホテルに戻ってすぐ、持ってきた部屋着に着替えるという出雲を待っていた。
ベッドに腰を下ろし煙草に火を点ける。目の前で着替えれば良いものをわざわざ洗面所まで行って、見られたくないものでもあるのだろうかと勘ぐってしまう。
疑問ばかりが頭に浮かぶ。せっかく逃げてきたというのに、昨日の今日であの店長に会うだなんて理解ができない。考えていることは察することができるが、それにしてもリスクが大きすぎる。よくそのまま普通に帰ってこられたものだ……いや、本当に普通に帰ってきたのだろうか?
洗面所の入り口に目を向ける。扉はついていないが、覗かないでくださいねと念を押された。昨日はその身体を洗い、隅々まで観察したというのに。
煙草を咥えたまま、ゆっくりと立ち上がる。音を立てないよう、低く静かに一歩一歩と足を出す。
中へ入る前に、壁にある大きな鏡に映り込む出雲が見えた。
鏡越しに出雲と目があって、あ、と少し驚いたように口を開けた後、もう、と唇を尖らす。僕は入り口の壁に寄りかかって、懐かしいその姿を上から下までじっくりと眺めた。
太ももの半分くらいまで隠れてしまう大きなTシャツ一枚のみ身につけた、まるで僕の家にいた頃のような姿。出雲はTシャツから伸びる脚を見る僕の視線を気にして、裾をきゅっと引っ張って俯いた。
「駄目って言ったじゃないですか。驚かせようと思ってたのに」
「それ……」
「昔とは違うかもしれませんけど…………まだ似合いますか?」
返事はせずに目の前まで近寄り、僕が作った陰に覆われていくのと同じ速度で君の視線がこちらに向く。
当然その姿はとても可愛らしい。十代の頃の純真さをまだ感じさせながらも、当時から見え隠れしていたあざとさが表立ってきて、艶を仕込んでいる。照れて裾の丈を気にして顔を赤くしているのに、潤んだ目が“これが一番お好きなのでしょう?”と僕を試してくる。
太ももを撫でるとビクリと震え、そのまま裾に指先を忍ばせると身を固くした。
「彼の家でも……この格好で、いたの?」
「え、あ、いいえ。スウェットとか、普通に部屋着? というのでしょうか。この格好はしてません」
「ほんとう?」
腰を屈め、耳元に唇を寄せて問いかける。当時と同じ、下着も履いていない。はぁ、と出雲の熱い息が首筋にかかった。
「本当、です。路彦さんの前で昔の男のTシャツ着るほど、無神経じゃないですよ」
「うん? 僕の?」
「そうです。見覚えないですか? ふふ、ごめんなさい、実は水泡さんのおうちからこっそり持って帰ったんです。ずっと宝物でした」
濃紺に白い線でなにか……よくかわらない造形のキャラクターが寝そべっている絵が描かれたTシャツ。確かにこれとよく似たキャラクターのTシャツが家にあったような気がする。Tシャツを出すたびに深刻にそして噛みしめるように“個性的ですね”と呟いてた出雲が、サイズと価格と素材(綿100%しか着たくない)のみで選んだであろうそのTシャツをずっと大事に持っていたのか。
Tシャツの柄を眺める僕の視線に気づいて、出雲も照れくさそうに下を向き、寝転がっているイラストの彼の頭を撫でる。
「水泡さんの謎のキャラクターなどが書かれたお洋服、今ではとても愛おしく思うようになってしまって……今でも休日の服装は昔と変わらずですか?」
「わかんない」
「じゃあ、気にされてないんですね」
「また……ダサいって言う?」
「どうでしょう。個性的、と……言うかもしれませんね」
驚くほどに嬉しそうに話すから、このまま流されてしまいそうになる。ぽすっと僕の鎖骨のある辺りに出雲のおでこが当たった。甘えてる。後頭部を撫でたら首筋の金魚と重なって、それがまるで金魚を捕まえるかのようで、なぜだかゾッとして手を引っ込めた。
咥えたままだった煙草から伸びていた灰が落ちて、床を汚す。
「あ」
すぐに出雲はそれに気がついてその場でしゃがみ、僕の視界から消えた。
首を真下にやれば、点々と散らばった灰を寄せ集める手が汚れていくのが見える。
ベッドの枕元に置いた灰皿に煙草を捨てに行き、ティッシュを持って行った。ごめんと呟けば出雲は笑顔で首を横に振り、床はすぐに綺麗になった。片付けを終えて手を洗う後ろ姿と、それをぼーっと眺める自分の姿が映し出された鏡が広がる光景が、とても自然で当たり前で、すとんと心が気持ちよく収まるのを感じた。
けれども鏡に写ってここに立っているのは僕だけではない。
それはあの店長だったり、昨日手助けをしてくれた優しいあの男だったりしたのだ。
それはもしかしたら、つい一時間ほど前にもあった光景かもしれないのだ。
出雲が蛇口を止めるのと同時に、背後から出雲を閉じ込めるように洗面台に両手をついた。僕の両腕に挟まれて、出雲は顔を上げて鏡越しに僕を見る。
「どうして……彼に会いに行く、なんて、勝手なことしたの?」
「自由にしていいって言ったじゃないですか」
「それは……過大解釈。違う?」
「さぁ、どうでしょう。その辺りは感覚の違いもあるかと思います。水泡さんが気に入らなかったのはどんな点でしょう?」
少しは後ろめたさもあるのかと思えば、柔らかな空気を崩さぬまま平然と出雲はそう話した。
「昨日まで、セックスしてた相手、なおかつ逃げてきた相手と会うのが気に入らないのは……感覚の違い、なの?」
「逃げなくても話せばわかってくれたかもしれません」
「君の、言い分は……今会って、話してきたら、わかってくれた、と。そう……言いたいの?」
「ええ。そうです」
「話した、だけ……?」
右手をさらけ出された太ももに移動させた。記憶よりも細い足は、ここ最近で急激に痩せたもの。前腿から外腿まで、肉付きを確かめるように手を這わせていき、後ろからTシャツの裾に手を入れる。太ももとふくよかな尻の境目になっている段差に指先を忍ばせると、ぶるりと背中が震えるのが見て取れた。
「何を、疑っているのです……? 早く先生がほしいのに、また自分の身体を痛めるようなことなんて……」
「なら、こっち?」
右手はそのまま、左手の人差し指で頬を撫でて唇の隙間から捩じ込む。舌先を撫ぜると、素直にちろりと舐めてくる。鏡に映る出雲は僕と目が合うと、僕の指を咥えたまま目を細め微笑んだ。
「してません、よ……? なにも……」
「どうかな。君は、目的のためなら……自分の身体くらい、いくらでも……」
「俺をそんな風にしたのは誰ですか? ね、先生」
僕の指をじゅっと音が鳴るほどに吸ったあと、いたずらに甘噛みをして。そしてまるで準備をするかのように唾液をたっぷり絡ませて舐め始めた。
「ん……それで……俺の目的、て?」
鏡越しに見つめ合うのが気に入らず、口内を弄る指はそのまま、その手で顎を掴んで強く押し上げるように、喉から顎にかけてのラインが直線に近くなるほど上へ向かせた。さすがに苦しさに目を瞑りそうになっていたのを、上から覗き込んでじっとその双眸を見つめて許さない。
「僕への、嫌がらせ……試し行動」
「な、んでっ……俺が、そんなこと」
「僕が君を閉じ込めないのが、気に入らない。僕の君への愛情が変わっていないか、不安」
口に入れられた指のせいか、首の角度がつらいのか、出雲の目に溜まった涙の量がみるみる内に増していき、今にも溢れ出しそうだった。
指を抜き取って顎を解放し、そのまま後ろから両手で抱きしめた。柔らかく、重力を感じないふわふわとした髪に口づける。
「君がとても、とても大好きだよ。愛してる。僕の世界には、君しかいない。ずっとそれは、変わらない」
腹が立って疑って、それでも君の気持ちも悟ることができて、優しくされれば、可愛い姿を見れば、苛立っていたはずなのに愛しく思ってしまう。こんなに感情がめまぐるしく溢れ出して、愛してないはずがない。
「だから……君にいじわるをされるのは、とてもつらい」
でもこれらが君にちゃんと伝わっているのだろうか。僕は表情も乏しく、わかりづらいのではないだろうか。自信がない。
「そんなこと言われても本当に何もないですし。嫌がらせなんてしてないです。俺に意地悪するのは先生でしょう……」
出雲はため息混じりにそう言って、僕の手を掴んで自分の身体からほどいた。こちらに振り返って向き合い、顎を引いて上目遣いに鋭い瞳を向けてくる。
「自由にしろと言いいましたね。それなら今の生活を維持したいと思うのは普通ではないでしょうか? 先生が想定する自由というものを過ごすだけというのは、全く自由などということではありません。先生がどこまでご存知か知りませんけど、俺は調理師免許が欲しいんです。あと半年はホリデイで働かないと実務経験が足りません。店長とは確かに関係を持ちましたが先生の指示ですし、学校内や社内で恋愛して別れたカップルはどちらかが学校や会社を辞めるのでしょうか? 辞めないケースが大半でしょう? そういう常識とか世間一般的なことは、先生には理解できないでしょうけど」
苛立ちに任せるように、早口でそう捲し立てられ、その気迫に、そして僕を貶めているとわかる物言いに、何も返すことができなかった。
反論の余地はあった。普通の恋愛をして別れたのとは違うとか、行動を制限されたり、監視されたり、脅されたりしたのだから危険もあるだろう、とか。しかしそれは僕も君にしてきた内容で、僕は普通ではない。先生には理解できないという言葉が重くのしかかる。
それでも君を閉じ込めないという選択は、自由にしてほしいというのは、それこそが僕には苦しい、けれども“普通”のことなのだから、それだけは間違っていないと自信をもって思うのだ。
ホテルから駅の方角へ歩いていき、表通りに出れば人通りがどっと増える。仕事帰りと思われるくたびれた人々が集まる、平日のド真ん中の夜にしか僕はこの街に来たことがなかった。今はもっと、そわそわとした、なんだか落ち着かない空気が漂っている……ショッピングモールや飲食店、他にゲームセンターなどの遊技場もある程度集まっているため週末は賑わっているのだろう。
後ろから走ってきた小学生くらいの子供が僕の腰にぶつかるスレスレのところを横切っていき、クリスマスツリーを指さして後ろにいる大人になにやら語りかけている。それを見て、ああ、クリスマスの装飾がより一層この浮足立った人たちを作り出しているのだと悟った。
それは……自分にはない感覚。
よく注視してみれば、木には電飾がついているし、赤や緑の装飾、赤い帽子と白いひげのクリスマスの象徴のおじいさんがあちこちに見受けられるし、クリスマスソングも流れている。でもきっとあの子供が僕にぶつかりそうにならなければそんなこと気が付かなかった。
特別な日など特にない。僕にとって特別は、あの子だけ。出雲のいる空間が、それだけで特別。
この辺りの地理に慣れないので多少手間取ってしまったが、買い物を追えたので早く出雲の元へ帰ろうと歩みを早める。
しかし、視界の端に写り込んだものに反応し、弾かれるように振り返った。
自分はこんなに何かに素早く反応できたのかと驚き、その姿を確認して納得し、そしてやっぱり驚いた。
そこにはホテルの一室で待っているはずの出雲が歩いていたのだ。
人を掻き分けて進み、歩行者天国の向かいの道にいた出雲へ駆け寄っていけば、出雲もこちらに気がついてふわりと笑ってみせた。
「水泡さん」
驚きに出雲の手首を掴んだまま立ち止まってしまったら、出雲は肩を竦めてふふっと声を出して笑った。そうして指を絡めて僕の手を握り、繋いだまま僕を誘導するように歩き始める。
当然荷物など持たずに彼のアパートから出てきた筈が、その肩には大きめの黒いトートバッグ掛けられており、着てきたはずのモッズコートは僕でも着られそうなほどオーバーサイズのコーチジャケットに変わっていた。スラックスもかなりタイトなボトムになって、仕事着にコートを羽織った昨夜の即席スタイルとはまるで違う。
「どうして……ここにいるの」
「着替えを取りに行きました。あと、今夜は出勤しますね」
何を言っているのか理解できず、いや、わかるのだが頭がそれを拒否して顔を顰めてしまった。
人の顔色をよく伺うこの子が、そんな僕の反応に気が付かないはずがないので次の言葉を待ったが、特に弁解することもなく出雲は僕の手を握ったまま微笑んでいる。
「意味が、わからない……」
「そのまんまですよ?」
「彼のところに、行ったの? 会って……きたの?」
「はい。あ、動画ですが、まだどこにも公開してないそうです。良かったですね。俺のこと沢山の人に見られたら……水泡さん、嫌ですもんね?」
わざとやっているのか、話があまりに通じなくて額をさすり、セットをぜずに中分けに垂らしたままの長い前髪をかきあげた。
「彼に会ったの? あの、店長に? 会ってきたの? 一人で?」
「はい。そう言いました」
人とすれ違うたびに、皆の目線が同じように下がり、僕らの顔をまじまじと見つめる。何かと思ったが、しばらくそれが繰り返されるうちに繋いだ手を見られていることがわかった。僕は構わないが出雲はどうだろうかと横目で様子を伺えば、ギュッと小さな手に力が入った。
「水泡さん」
いつもなら声に出して返事をするのだが、無言で顔だけ向ける。すると背伸びをして頬の下の方……どちらかといえば顎の近くに唇を寄せられた。なんだというのだ。不可解なことがあまりにも多くて嬉しくもないしむしろ不愉快にすら思った。この子にキスされて不快に思うことがあるなんて驚きである。
「やめて……」
「人目が気になりますか? 意外です。昔俺のこと担いで歩いたじゃないですか」
「きみ、すごく嫌がってた」
「今は大丈夫ですよ。今ここでされても大丈夫です」
「早く、戻ろう……」
不愉快だった。
出雲の行動も、言動も、僕を探るその目も、全てが不愉快だった。
ホテルに戻ってすぐ、持ってきた部屋着に着替えるという出雲を待っていた。
ベッドに腰を下ろし煙草に火を点ける。目の前で着替えれば良いものをわざわざ洗面所まで行って、見られたくないものでもあるのだろうかと勘ぐってしまう。
疑問ばかりが頭に浮かぶ。せっかく逃げてきたというのに、昨日の今日であの店長に会うだなんて理解ができない。考えていることは察することができるが、それにしてもリスクが大きすぎる。よくそのまま普通に帰ってこられたものだ……いや、本当に普通に帰ってきたのだろうか?
洗面所の入り口に目を向ける。扉はついていないが、覗かないでくださいねと念を押された。昨日はその身体を洗い、隅々まで観察したというのに。
煙草を咥えたまま、ゆっくりと立ち上がる。音を立てないよう、低く静かに一歩一歩と足を出す。
中へ入る前に、壁にある大きな鏡に映り込む出雲が見えた。
鏡越しに出雲と目があって、あ、と少し驚いたように口を開けた後、もう、と唇を尖らす。僕は入り口の壁に寄りかかって、懐かしいその姿を上から下までじっくりと眺めた。
太ももの半分くらいまで隠れてしまう大きなTシャツ一枚のみ身につけた、まるで僕の家にいた頃のような姿。出雲はTシャツから伸びる脚を見る僕の視線を気にして、裾をきゅっと引っ張って俯いた。
「駄目って言ったじゃないですか。驚かせようと思ってたのに」
「それ……」
「昔とは違うかもしれませんけど…………まだ似合いますか?」
返事はせずに目の前まで近寄り、僕が作った陰に覆われていくのと同じ速度で君の視線がこちらに向く。
当然その姿はとても可愛らしい。十代の頃の純真さをまだ感じさせながらも、当時から見え隠れしていたあざとさが表立ってきて、艶を仕込んでいる。照れて裾の丈を気にして顔を赤くしているのに、潤んだ目が“これが一番お好きなのでしょう?”と僕を試してくる。
太ももを撫でるとビクリと震え、そのまま裾に指先を忍ばせると身を固くした。
「彼の家でも……この格好で、いたの?」
「え、あ、いいえ。スウェットとか、普通に部屋着? というのでしょうか。この格好はしてません」
「ほんとう?」
腰を屈め、耳元に唇を寄せて問いかける。当時と同じ、下着も履いていない。はぁ、と出雲の熱い息が首筋にかかった。
「本当、です。路彦さんの前で昔の男のTシャツ着るほど、無神経じゃないですよ」
「うん? 僕の?」
「そうです。見覚えないですか? ふふ、ごめんなさい、実は水泡さんのおうちからこっそり持って帰ったんです。ずっと宝物でした」
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Tシャツの柄を眺める僕の視線に気づいて、出雲も照れくさそうに下を向き、寝転がっているイラストの彼の頭を撫でる。
「水泡さんの謎のキャラクターなどが書かれたお洋服、今ではとても愛おしく思うようになってしまって……今でも休日の服装は昔と変わらずですか?」
「わかんない」
「じゃあ、気にされてないんですね」
「また……ダサいって言う?」
「どうでしょう。個性的、と……言うかもしれませんね」
驚くほどに嬉しそうに話すから、このまま流されてしまいそうになる。ぽすっと僕の鎖骨のある辺りに出雲のおでこが当たった。甘えてる。後頭部を撫でたら首筋の金魚と重なって、それがまるで金魚を捕まえるかのようで、なぜだかゾッとして手を引っ込めた。
咥えたままだった煙草から伸びていた灰が落ちて、床を汚す。
「あ」
すぐに出雲はそれに気がついてその場でしゃがみ、僕の視界から消えた。
首を真下にやれば、点々と散らばった灰を寄せ集める手が汚れていくのが見える。
ベッドの枕元に置いた灰皿に煙草を捨てに行き、ティッシュを持って行った。ごめんと呟けば出雲は笑顔で首を横に振り、床はすぐに綺麗になった。片付けを終えて手を洗う後ろ姿と、それをぼーっと眺める自分の姿が映し出された鏡が広がる光景が、とても自然で当たり前で、すとんと心が気持ちよく収まるのを感じた。
けれども鏡に写ってここに立っているのは僕だけではない。
それはあの店長だったり、昨日手助けをしてくれた優しいあの男だったりしたのだ。
それはもしかしたら、つい一時間ほど前にもあった光景かもしれないのだ。
出雲が蛇口を止めるのと同時に、背後から出雲を閉じ込めるように洗面台に両手をついた。僕の両腕に挟まれて、出雲は顔を上げて鏡越しに僕を見る。
「どうして……彼に会いに行く、なんて、勝手なことしたの?」
「自由にしていいって言ったじゃないですか」
「それは……過大解釈。違う?」
「さぁ、どうでしょう。その辺りは感覚の違いもあるかと思います。水泡さんが気に入らなかったのはどんな点でしょう?」
少しは後ろめたさもあるのかと思えば、柔らかな空気を崩さぬまま平然と出雲はそう話した。
「昨日まで、セックスしてた相手、なおかつ逃げてきた相手と会うのが気に入らないのは……感覚の違い、なの?」
「逃げなくても話せばわかってくれたかもしれません」
「君の、言い分は……今会って、話してきたら、わかってくれた、と。そう……言いたいの?」
「ええ。そうです」
「話した、だけ……?」
右手をさらけ出された太ももに移動させた。記憶よりも細い足は、ここ最近で急激に痩せたもの。前腿から外腿まで、肉付きを確かめるように手を這わせていき、後ろからTシャツの裾に手を入れる。太ももとふくよかな尻の境目になっている段差に指先を忍ばせると、ぶるりと背中が震えるのが見て取れた。
「何を、疑っているのです……? 早く先生がほしいのに、また自分の身体を痛めるようなことなんて……」
「なら、こっち?」
右手はそのまま、左手の人差し指で頬を撫でて唇の隙間から捩じ込む。舌先を撫ぜると、素直にちろりと舐めてくる。鏡に映る出雲は僕と目が合うと、僕の指を咥えたまま目を細め微笑んだ。
「してません、よ……? なにも……」
「どうかな。君は、目的のためなら……自分の身体くらい、いくらでも……」
「俺をそんな風にしたのは誰ですか? ね、先生」
僕の指をじゅっと音が鳴るほどに吸ったあと、いたずらに甘噛みをして。そしてまるで準備をするかのように唾液をたっぷり絡ませて舐め始めた。
「ん……それで……俺の目的、て?」
鏡越しに見つめ合うのが気に入らず、口内を弄る指はそのまま、その手で顎を掴んで強く押し上げるように、喉から顎にかけてのラインが直線に近くなるほど上へ向かせた。さすがに苦しさに目を瞑りそうになっていたのを、上から覗き込んでじっとその双眸を見つめて許さない。
「僕への、嫌がらせ……試し行動」
「な、んでっ……俺が、そんなこと」
「僕が君を閉じ込めないのが、気に入らない。僕の君への愛情が変わっていないか、不安」
口に入れられた指のせいか、首の角度がつらいのか、出雲の目に溜まった涙の量がみるみる内に増していき、今にも溢れ出しそうだった。
指を抜き取って顎を解放し、そのまま後ろから両手で抱きしめた。柔らかく、重力を感じないふわふわとした髪に口づける。
「君がとても、とても大好きだよ。愛してる。僕の世界には、君しかいない。ずっとそれは、変わらない」
腹が立って疑って、それでも君の気持ちも悟ることができて、優しくされれば、可愛い姿を見れば、苛立っていたはずなのに愛しく思ってしまう。こんなに感情がめまぐるしく溢れ出して、愛してないはずがない。
「だから……君にいじわるをされるのは、とてもつらい」
でもこれらが君にちゃんと伝わっているのだろうか。僕は表情も乏しく、わかりづらいのではないだろうか。自信がない。
「そんなこと言われても本当に何もないですし。嫌がらせなんてしてないです。俺に意地悪するのは先生でしょう……」
出雲はため息混じりにそう言って、僕の手を掴んで自分の身体からほどいた。こちらに振り返って向き合い、顎を引いて上目遣いに鋭い瞳を向けてくる。
「自由にしろと言いいましたね。それなら今の生活を維持したいと思うのは普通ではないでしょうか? 先生が想定する自由というものを過ごすだけというのは、全く自由などということではありません。先生がどこまでご存知か知りませんけど、俺は調理師免許が欲しいんです。あと半年はホリデイで働かないと実務経験が足りません。店長とは確かに関係を持ちましたが先生の指示ですし、学校内や社内で恋愛して別れたカップルはどちらかが学校や会社を辞めるのでしょうか? 辞めないケースが大半でしょう? そういう常識とか世間一般的なことは、先生には理解できないでしょうけど」
苛立ちに任せるように、早口でそう捲し立てられ、その気迫に、そして僕を貶めているとわかる物言いに、何も返すことができなかった。
反論の余地はあった。普通の恋愛をして別れたのとは違うとか、行動を制限されたり、監視されたり、脅されたりしたのだから危険もあるだろう、とか。しかしそれは僕も君にしてきた内容で、僕は普通ではない。先生には理解できないという言葉が重くのしかかる。
それでも君を閉じ込めないという選択は、自由にしてほしいというのは、それこそが僕には苦しい、けれども“普通”のことなのだから、それだけは間違っていないと自信をもって思うのだ。
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漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
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