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本編・きっかけはどうでも
36 Stop ⑥
結局、先生に連れて行ってもらった喫茶店に入った。シャランというドアチャイムの音が、なんだか寂しく響く。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
店主が、おや、という表情を一瞬浮かべ、すぐに笑顔で打ち消す。
それを見て、ああ、ここに一人で入ったことはなかったな、と気づく。
そもそも私は外食なんかめったにしない、ましてや嗜好品の紅茶なんか飲まない。そんな人間だったはずなのに。
「お決まりになりましたらお呼びください」
私にメニューを渡しながら、店主が言う。
「あ……。もう決まっています」
あわててメニューを開いて差し示す。
「ヌワラエリアを」
「単品でよろしかったでしょうか? それともケーキセットになさいますか?」
「単品で」
「かしこまりました」
今までずっと、ダージリンのケーキセットを頼んでいた。最初の日に先生が選んでくれたものを。
でも、今日はいつも先生が飲んでいるものを頼みたかった。
今日のBGMもクラシック――バッハだ。何度も研究室で同じ曲を聞いた。でも、あの楽しそうなバッハじゃない。もっときっちりした、先生に会う前までの荘厳なイメージ通りの演奏で、なんだかずいぶん無機質で冷たいものに感じられた。
たいしたことはしていないのに。
先生の反応を見ていたら、自分の行った作業が役に立っていると実感できて、とても嬉しい。
紅茶やお菓子や音楽。今まで不要だと判断してきたものにふれることが、生きることの楽しみを思い出させてくれている。
でも、これはバイトで、ずっと続けられる訳じゃない。これで一生食べていける訳じゃない。
ヌワラエリアが運ばれてきたので、砂時計が落ち切るのを待って、口に運ぶ。
飲み慣れていない紅茶だからか、味わいを深めているはずの渋みが、なんだかえぐく感じられて。
現実は口当たりのよさだけで構成されてない。
目が覚めたような気がして、もう一度自分の気持ちを考えてみる。
私が本当に気にしているのは、仕事のことなのだろうか?
違う。本当に悩んでいるのは。
好きになってしまっても、どうしようもない、ということだ。
相手は、人を好きになることをやめていて、私のまるで知らない研究をしていて、全然違う世界にいて、本当は会うはずではなかった人。
一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、離れがたくなるのに。余計好きになってしまうのに。
気づかないうちに、タイムリミットは来ていた。
バイトを辞めよう。次に何をするのか、まだきちんと決めてないけど、いたずらに想いを募らせてしまうより、ずっといい。
私は、仮じゃない本当の居場所を、見つけなければならない。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
店主が、おや、という表情を一瞬浮かべ、すぐに笑顔で打ち消す。
それを見て、ああ、ここに一人で入ったことはなかったな、と気づく。
そもそも私は外食なんかめったにしない、ましてや嗜好品の紅茶なんか飲まない。そんな人間だったはずなのに。
「お決まりになりましたらお呼びください」
私にメニューを渡しながら、店主が言う。
「あ……。もう決まっています」
あわててメニューを開いて差し示す。
「ヌワラエリアを」
「単品でよろしかったでしょうか? それともケーキセットになさいますか?」
「単品で」
「かしこまりました」
今までずっと、ダージリンのケーキセットを頼んでいた。最初の日に先生が選んでくれたものを。
でも、今日はいつも先生が飲んでいるものを頼みたかった。
今日のBGMもクラシック――バッハだ。何度も研究室で同じ曲を聞いた。でも、あの楽しそうなバッハじゃない。もっときっちりした、先生に会う前までの荘厳なイメージ通りの演奏で、なんだかずいぶん無機質で冷たいものに感じられた。
たいしたことはしていないのに。
先生の反応を見ていたら、自分の行った作業が役に立っていると実感できて、とても嬉しい。
紅茶やお菓子や音楽。今まで不要だと判断してきたものにふれることが、生きることの楽しみを思い出させてくれている。
でも、これはバイトで、ずっと続けられる訳じゃない。これで一生食べていける訳じゃない。
ヌワラエリアが運ばれてきたので、砂時計が落ち切るのを待って、口に運ぶ。
飲み慣れていない紅茶だからか、味わいを深めているはずの渋みが、なんだかえぐく感じられて。
現実は口当たりのよさだけで構成されてない。
目が覚めたような気がして、もう一度自分の気持ちを考えてみる。
私が本当に気にしているのは、仕事のことなのだろうか?
違う。本当に悩んでいるのは。
好きになってしまっても、どうしようもない、ということだ。
相手は、人を好きになることをやめていて、私のまるで知らない研究をしていて、全然違う世界にいて、本当は会うはずではなかった人。
一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、離れがたくなるのに。余計好きになってしまうのに。
気づかないうちに、タイムリミットは来ていた。
バイトを辞めよう。次に何をするのか、まだきちんと決めてないけど、いたずらに想いを募らせてしまうより、ずっといい。
私は、仮じゃない本当の居場所を、見つけなければならない。
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