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あなた病
04
しおりを挟む「あらおかえりたまこ。そちらが須恵くんね、いらっしゃい。初めまして」
そう言いながら奥から出てきた一二三の母とおぼしき女性は、なんと逆さまになって天井をスタスタ歩いてきた。
「えっ……あっ、はじめまして須恵ですお世話になります……」
反応の薄さをまたも隣から無言で咎められている気がするが驚きすぎているのだ。何をどうしたらこうなるのか、足首まではあろうかというワンピースの裾もまとめ髪も彼女のすべてが重力をあっさりと裏切っている。それでいて不安定にふわふわ浮いているわけじゃないので不思議なのだ。本当に地上に立っている姿を上下に反転しただけ。
だったらこのお宅では天井も掃除しなければならないのだろうか。二倍清潔を保てるから良いか。詮無い考えがあぶくの如く次々わいては消えていく。龍はしっかり動揺していた。
「あのこれ、おくちに合うかわかりませんがプリンです」
「まあ嬉しいわ。ありがとうございます。あなた、ちょっと!」
呼ばれて奥から以前すこしだけ挨拶をした一二三の父が顔を覗かせる。「お土産をいただいたのよ」と言われ、出てきて龍の手から丁重に受け取った。
「須恵くんこんばんは。これありがとうね。どうぞあがって」
「こんばんは、今日は突然すみません。お邪魔します」
「遠くて疲れたでしょう。たまちゃんお風呂に案内してあげなさい」
「わかった」
こっちよ、と導かれるままに階段をあがり、まずは一二三の部屋に荷物とアウターを置かせてもらう。音から着替えを借りてきた一二三が「着てた服は洗濯機に入れておいて。下着も靴下も一緒でかまわないわ」と言ってバスルームに連れてきてくれた。脱衣所の隅に洗濯機がある。これは通常のものとおなじようだ。
「中にあるものはどれでも使ってね」
「ありがとう」
親切にしてもらえて嬉しいし、考えてみると、一二三とこんなにやり取りするのは初めてに近かった。いつも歩を介してなので。
友人の家の風呂に入るのはかなり昔にさかのぼらなければ思い当たらない体験だ。近所にちいさな子どもがうじゃうじゃいる環境ではなかったし、遠巻きにされることの多かった子だったので、小学生の頃に一回だけにわか雨に降られて当時の友達の家で洗ってもらった。それが自宅のものとはまるで違う広い木の浴槽だったため印象に残っているのだろう。お寺の三男坊だった。
その後はもう高校時代になってしまって、歩とはいかがわしいことに耽っていた所為でよくあの家のシャワーを使わせてもらった。嫌だと言ったのに親がいないから大丈夫と丸め込まれて、浴室で交わった記憶さえあるのだからどうしようもない。あの直後はしばらく家を訪れてもご家族の顔が見られなかった。心の中で平謝りしていた。
湯加減はやや熱めで、客人だからと一番に使わせてもらっているのかと思う。自分では買わないようなボディソープやシャンプーも龍は気にしないので、オレンジのいい香りに包まれてご機嫌であがった。
「食卓の上に水を出しておくから」と一二三が言ってくれていたので覗いてみると未開封のボトルが置いてあった。有り難くキャップを開けて呷ったすぐあとのことだった。ドン、と背後から何かにぶつかられて龍は顔からテーブルに突っ伏した。
「うわっ」
幸い水はもう殆ど飲んでいたので零れなかったが、何が起こったのかわからない。咄嗟についた腕が痛くてかすかに呻いた。見れば一二三の父に背面から押し倒されたような格好になっているではないか。
「???」
「あっ……もしかして須恵くん? こらたまちゃん、お友達を透明にするのはよしなさい」
「俺いま透明なんすか?!」
「そうだよ」
さっと起き上がり、掌は差し出してくれているが明後日の方向なため本当に見えてないのだとわかる。こちらからは一二三の父がごく普通に見えるのであまり実感がわかない。ちらちらと視界に食い込んだり、手を振ったりしてみても、ひとつも反応が貰えなくてようやく信じる気になった。
彼のあとについてリビングへ移動しながら試してみたが、壁や扉をすり抜けたりはできない。自分では何も変わったところはないけれど他人には姿が見えなくなる、という状態らしかった。声は聞こえている。立てる物音も然りだ。
予想通り暖炉のある素敵なリビングで何か分厚い本をめくっていた一二三がニコニコして指を振る。それで魔法はとけたようで、裸になってしまうのでは、とはっとしたが音に借りた服をちゃんと着ていた。かけた状態のまま透明になるという理屈なのだろうか。
「いつの間にこんなことしたんだ?」
「うふふ」
まあ簡単に覚られるようでは魔法使いとしては駄目なのかもしれないけれど後学のために聞かせてほしい。もし他の悪い魔法使いにおなじような目に遭わされでもしたら、すぐ傍にいるのに誰にも気づかれないなんて悲劇すぎる。泣いてしまうかもしれない。
「玉山ってやっぱいたずらっ子だな~」
「鍛錬の一環よう」
「家なら使い放題だもんな。Wi-Fiみあるわ」
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