愛してしまうと思うんだ

ゆれ

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無明長夜

03

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 調の手がちょっとだけ空いたのを見て、一二三がお茶と一緒に肉まんを持っていく。かわいい女の子に給仕してもらえて眼鏡が喜んでいた。話が済んだのか馨子が先に応接スペースから出てくると、彼に帳簿を渡した。そして「私もいただこ~」とこちらのテーブルへ寄ってくる。ややもせず八色も来たので歩が龍の隣を空けようとしたが、いいと手で制した。

「お疲れ様です」

 一二三がかるく会釈するのに倣って挨拶を交わす。相変わらず馨子は無造作に髪をまとめ、化粧をしているかもあやしい顔でおいしそうに肉まんを食べている。こうして見ると匂坂とは然程似てないし似ているとも気づかない。やっぱり化粧は魔法めかしている。服装の趣味もたぶん異なるのだろうが、一度並べて見てみたいような。

篠田しばたの件ってどうなったんすか? 傷害で現行犯逮捕のあと」
「起訴はしなかったから、まあ示談ってとこか。慰謝料だけ貰うことにしたわ」

 弁護士がやったから俺はわからんと八色がさっぱり言う。本人に反省の色も見られ、ささやかではない額の出費もあってか目は醒めたようだったと聞いてほっとする。何よりあの事件のあと馨子が篠田に、住所等は無論伏せてだが、飼い犬の幸せな現在の姿を見せてやったらしい。

「そりゃ諦めがつきそうだ」

 独り言の大きさで、歩がぽつんと零した台詞は隣に座る龍には聞こえていた。意図があったかどうかはわからない。顔も見ないで知らんふりをした。涙の余韻でまだ熱を帯びている目元に冷えた指先をすべらせる。

 引き継ぎを馨子に頼んで調が帰った。あとは宿直の職員が来るまで待てば彼女も帰宅できる。龍はもうすこしどこかで時間を潰したかったのだが、もう冬との境目なので建物の外はきつかった。本屋、カフェ、頭の中で予定を考える。思考とともに双眸もぼやっと彷徨わせていると八色と目が合った。
 ちょいちょいと白い指が戸口のほうを差す。何か用があるらしい。龍も話したいとは思っていたが、もういいのだろうか。この場は。

「黒部さん、気を付けてくださいね。また出ますよああいうの。てか今までもいたんすか?」
「うーん……あそこまでのはなかったかな。大抵その場で睨まれたりして終わるけど」

 ある意味そういう人達より自分の行ないを恥じていたからこそ思い余ってしまったのかもしれない。またおなじことを他の誰かにしなければそれでいい、と結んで改めて「ありがとうございました」と頭を下げた馨子に、八色がニヤニヤして言い放つ。

「今度は彼氏に守ってもらえ」
「えっ」
「八色さん、まさかご存知だったんすか?!」
「おーよ」
「……だったらあの記事って、」
「可笑しくて仕方なかったわ」

 一二三にそう答えて優雅に頬杖をする。なんだ。そうか、だから弁解のひとつもなくスルーしていたのか。だが龍は教えてもらってなかったので思い詰めてあんなことになってしまった。すぐに話してくれていたらと悔やんだけれど、ひょっとすると馨子側の事情だったのかもしれない。付き合いは龍より長そうなので、彼女の性格についても八色はよく知っているだろう。恥ずかしいから秘密にしてとでも言われたらたとえ相手が彼氏だろうと、くちを滑らせはしない筈だった。

 でも、そうか。何も変わりはしないのだ。ただ馨子ではなかった、今回は違ったというだけで。素直に喜べないどころか胸がむかむかしてきて、龍は口元を押さえて席を外す。給湯スペースに行くと不快な吐き気はなりをひそめた。取り敢えず伏せてあったグラスに水を汲んでゆっくりと身体に流し込む。

「龍?」
「……悪い、大丈夫」

 もう一杯水を飲んでからグラスを洗って元の位置に戻しておいた。大真面目な顔をしていると思ったのに「つわり?」とかまされて腹が立ったので頬をひねってやった。

「マジでよせ。男がつわれるか」
「ごめんってば~」

 すっかり赤くなった頬を自分で撫でている歩にもう一瞥投げつけていると、八色が顔を覗かせる。

「ちょうどよかった。ふたりに話あるんだわ」
「あっじゃあもう帰ります?」
「送らせていただきます」

 現金な歩に笑いながら八色が応じる。ふたりで勝手に決めてしまうので龍にはどうしようもなかった。荷物をまとめ、一二三は馨子が送ってくれるというのでここで別れる。裏手にある駐車場に入れてあった八色の車に乗り込み、駅へ向かうようだ。「横になりたい」と頼んで歩に助手席に座ってもらった。シートの隅に畳んで置いてあった毛布をかけて、そっと目を閉じる。

「暖房つけるか?」
「大丈夫」
「眠そうだな、龍」

 自覚はなかったのだが泣いた所為かもしれなかった。嬉しいことがあったのに、今はそれも抜け落ちている。浮き沈みが激しくて自分でも手に負えないような感じがする。まえにもこんな状態になった時期があり、八色と出会ったのだ。
 吸ってもいい空気が減っているみたいな感覚。くるしくて、絶えず悩んで、喘いでいる。どうすればいいかわからないふりをしている。だってこの苦痛から解放されるのは手放した時だからだ。大好きで、大切にしたい筈のひとを。

「八色さん、いつも黒部さんと仕事の打ち合わせしかしてないのかと思ってました。けっこう友達なんすね」
 
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