幾星霜

ゆれ

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「じゃあわたしが車で連れて帰ってあげるから、ええと」
美統みさ!」
「美統ちゃん、走れる?」

 どちらかというと小柄な子なので頑張れば抱えられるかもしれないけれど、そうなると速度が落ちる。「ちょっとだけなら」と言うので苦しくなったらすぐやめることを約束して、いのりは脱いでいたジャンパーを再び着た。

 最早悩んでいる猶予はない。いつもポケットに忍ばせてあるハードキャンディの包みをひとつつまむと、トイレの奥にある小窓から外に投げつけた。コンクリートにぶつかる硬い音が響く。思いの外ささやかだったので不安になる。

「……行こう」
「うん」

 まずいのりが顔を出すと、それでも男は物音の様子を見に行ったのか姿が見えなかった。最初から周辺を見回っていたとすると余計あやしい。男子トイレも電気が消えていて人の気配はない。人感センサーがついているらしく、これではばれるなと思ったが入れ違いに年配の女性がやってきたのでチャンスだった。早歩きでトイレを出て、追っ手がないのを確認し走り出す。

 人生でもここまで動悸がし、生きた心地がしなかったことは、絶対になかった。もし物騒な物でも持っていたらと何度もろくでもない想像をしてしまったが、前世で徳でも積んでいたのか何とかいのりと美統ちゃんはバンに辿りついた。

「乗って」

 すこし呼吸を乱した少女をシートを倒して助手席に乗せ、ジャンパーをかけて、パジャマが見えないようにする。公園から鬼の形相で男が出てきたのが視界に入った。いのりは何食わぬ顔で車を出し、すぐ先の信号を曲がって、しばらく道なりに走って距離を稼ぐ。相手はこれから合流するあてがあるのかは知らないが、当座の追走手段はないと思われ、ややもせず予定になかった緊張感とはお別れできた。

 美統ちゃんが落ち着いてから訊きだすと、彼女がいたのはくだんの総合病院だと判明しいのりは真っ青になった。もしかしなくても心臓が弱いらしい。本人曰く「おくすりはのんでるし、もってるからへいきだよ」とのことだが、もう一秒でも早く連れて帰らないと、何にも安心できない。

 どうかどうか発作など起こりませんように。気が変になりそうなほど祈りながら、ナビも見ずに道を急いだ。








「美統!!!」

 本人の指示に従い、星見が丘総合病院まで連れていくと案の定ちょっとした騒ぎになっていたようだ。

 真っ青な顔で名前を叫びながら走り出てきた女性が美統ちゃんをひしっと抱きしめる。ただでさえ子どもが姿を消したうえに病気まで患っていれば、その心痛は如何ほどか想像に難くない。ぎゅっとしばらく抱いて我が子の無事を五感にしっかり馴染ませてから、女性はゆっくりといのりに目を向ける。

「……あなたがこの子を?」
「え、っと」

 なんだか複数の意味を持つ問いかけだ。迂闊に肯定すると誤解を招きそうで、返事に困っていると美統ちゃんがいのりを指さして言ってくれた。

「このおねえちゃんがたすけてくれた」
「そうなのね」
「うん!」

 言うが早いか、女性から離れていのりの前まで戻ってくると「クッキーもありがとう」とクマも一緒に頭をさげさせながら美統ちゃんがお礼を述べてくる。稚いしぐさにつられるように破顔する。

「無事でよかった。今度から気を付けてね」
「うん」
「どうしてあの男の人についていったの?」
「あのね、千早くんのおともだちだっていうから」

 その名前には聞き覚えがあるぞ、と思ったのと、持ち主の姿が見えたのはほぼ同時だった。

「美統ちゃん……ッ!」
「あ、千早くんだ」
「えっ……いのり?」

 ぴょんぴょんと跳ねるように近づいてきて、飛びついてくる美統ちゃんを受け止めつつ、驚きの隠せない様子でこちらに問うてくるのは間違いなく大石だった。少女が消え、慌てふためいて捜しまわっていたのがひと目でわかるようなくしゃくしゃの髪と、乱れた服装。季節でもないのにうっすら汗を掻いている。

 実はこのところ児童公園でも姿を見かけなかったのだ。忙しさにか若干やつれた顔で、よかった、と蚊の鳴くような声で唱えて美統ちゃんの頭を撫でる。隣で母親とおぼしき女性は複雑な表情をしていた。大石の所為で今回のことが起こったようであるし、それでもこんなに懐いているらしいのはかれが日頃からよく美統ちゃんと接しているからなのだろう。もう二度と近づくなとも簡単に言えなそうだ。

「すみませんでした」

 とは言え大石は責任を感じているようで、女性に頭を下げる。「私が席を外さなければこんなことには」

「一体どういう方なんです?」
「それは、その……こちらのほうではわかりかねるのですが」
「あなたを騙って連れ出そうとしたということなのよね?」
「美統ちゃんが言うからには、そうだと思います」

 女性はすこし考えるしぐさを取り、ややあって派手な造作をぎゅっと引き歪める。

「うちのひとか、お父さんに訊いたほうが早そうね」

 はあっと盛大な溜め息を落として一旦ヒールの踵を返そうとしたが、ふと気づいたようにこちらへ寄ってきて深々と頭を下げた。近くで見るとかなり威圧的な女性だ。前の職場にいた似たような社員を思い浮かべていのりはうっすら口元を引き攣らせる。
 
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