家出少年と錬金術師

ぎんげつ

文字の大きさ
6 / 15

5.狭くなった世界

しおりを挟む
 馬車が走り出すと、「エヴァレット様」と向かいに座った男が僕を呼んだ。
 ちらりと見ると、彼は恭しく一礼する。
わたくしは大旦那様よりエヴァレット様の教育を申しつかっております、ケインズです」
 僕はただ無言で頷く。そんなこと、どうでもいい。
「では、エヴァレット様、さっそくですがお手を」
 ケインズは僕の手を取ると、横の荷物から小さな容器を取り出した。いったい何かと思えば、軟膏だった。
 荒れてあちこちひび割れ、すっかりガサガサで汚くなった僕の手に、ケインズは黙って軟膏を塗り込んでいく。
 そんな塗り薬で、この手荒れが早々治るものかと見ていたら、瞬く間に皮膚はつるりと滑らかになってしまった。とてもじゃないが、さっきまで荒れ放題だった手と同じものとは思えない。
「魔法薬……」
「はい。念のためにと用意してきてようございました」
 塗るだけで、あるいは飲むだけでどんな傷でも癒してしまう魔法薬は、とても高価だ。それこそ、ケリーの作る薬とは値段の桁が違う。
 高くても金貨1枚か2枚の普通の薬に対して、魔法薬はどんなに安いものでもひとつにつき金貨数十枚は必要だ。珍しく、効果が劇的で強力なものであれば、金貨1万枚にもなると聞いたことがある。
 そんなものを、たかが手荒れに使うなんて。
「途中、宿で1泊しますから、髪と身なりはその時に整えましょう」
 言われて、切りっぱなしでばさばさの毛先を見た。いかに手荒れを治したところで、これじゃとても貴族の継嗣だなんて信じてもらえないだろう。
「……僕が跡取なんて、お笑い種だ」
「そのようなことにはならないよう、これから時間をかけて私共がエヴァレット様を整え、教育いたします」
 あくまでも真面目に答えられて、やっぱりどうでもいいと考えてしまう。

 馬車の小窓は閉じられたままで、外は見えない。
 はぁ、と溜息を吐いて、僕はこれからどうすればいいのかと考える。



 もう2度と来ることはないと思っていたのに、戻ってきてしまった。
 以前住んでいた別館は、本館から遠く離れた敷地の片隅だった。この屋敷がこれほどまでに広かったとは、今日初めて知った。
 途中滞在した宿で簡単に髪と服装を整えられていたから、そのまま祖父と対面することになった。祖父なんて、物心ついてからいちども会ったことなどない。祖父どころか、両親や兄弟の顔もろくに知らないのだ。

 広い部屋の中、長椅子と椅子が数脚置かれた暖炉のそばに、祖父は座っていた。短杖ステッキを握り、上から下までじろじろと値踏みするように僕を眺めて「あれを」とかたわらの使用人に申し付ける。
 すぐにその使用人が何かを手に掲げるように持って戻り、「エヴァレット様、失礼いたします」と一礼して僕の顔に当てた。
「何を……」
「その禍々しい目を塞ぐのだ」
 祖父が命じるように被せてくる。
 その言葉に、この右目の紅は九層地獄界インフェルノに燃え盛る業火の紅なんだっけと思い出す。
 なるほど、どんな災禍を呼ぶかわからないから隠してしまえということか。こんな気味の悪い目は、ラエスフェルト公爵家には相応しくないと。
「18になるまでに、お前は基本的なことをすべて身につけなくてはならない。できないとは言わせん」
 革の眼帯を付けた僕に、祖父は重々しく告げる。異論も反論も封じるように、まるで使用人に命令を下すように。
「18になったら、お前を後継として社交界に出さねばならん」
 僕はただ頷く。
「お前は幼い頃の病により右目を損ない、遠方の環境の良い場所で療養していたということになっている。その眼帯を取ることは許さん」
 狭くなった視界は、そのまま狭くなった僕の世界のようだ。
「教育はすべて執事長のケインズと家令のモリスに任せてある。他にも幾人かの教師を付けてやろう。お前は我が公爵家に相応しい人間となるのだ」
 僕は俯いたまま、祖父の言葉を聞く。
 ──と、いきなり短杖の先でぐいと顎を持ち上げられた。
「公爵家の人間が下を向くことは許さん。常に相応しい態度を取れ」
「……はい」
 くっと手を握り締めて、睨みつけるように祖父を見返す。祖父の顔には何の感慨も無く、ただ、拾った野良犬を血統の良い犬に見せかけなければならないことへの煩わしさが、目に浮かんでいるだけだった。

 ……僕がいなければ、本当は困るくせに。

 本当なら、僕に縋って頼み込む立場なのは、祖父のほうなのではないか。
 僕がいつ、ここに戻りたいと言った。



 18まで1年足らずの間、領内や屋敷の采配のしかたや人の動かし方、貴族たちのパワーバランスや関係、それに社交のやりかた……そういったものを必死に学んだ。他人の口から出る言葉に隠された真の意味はどうなのかを伺い、わずかな動作や表情の変化からの真意を推測する方法もだ。
 いずれも、貴族の付き合いには必須なものばかりで、それができなければ侮られて陥れられて終わるだけなのだ。たとえ、この国で最上位の貴族であるラエスフェルト公爵家であっても。
 そんなもの知らない、貴族になんかなりたくないと思っても、僕に与えられた選択肢は他に何もなかった。できることならまた……けれど、ケリーにも捨てられて、僕の行ける場所なんて本当になくなってしまったのに、いったいどこへ行こうというのか。



 18になった日、僕のお披露目を兼ねた盛大な夜会が開かれた。
 貴族らしい薄い笑みを顔に張り付かせ、祖父のあとについて様々な貴族へ紹介され、繋ぎを作る。
 僕には婚約者もまだだと見てか、多くの令嬢たちとも引きあわされた。まるで見世物か何かのようだと考えながら、当たり障りなく社交辞令で躱す。
「今日は、東国から外遊中の王族も招いている。しくじるなよ。うまくやれば、お前の相手となるのだからな」
 言われて、示された方向へと目をやると、確かに荒地の向こうに広がる“嵐の国”、ストーミアン王家の特徴を持った姫がこちらへと向かって来ていた。高く結い上げた艶やかな黒髪に、染めと刺繍による大輪の花模様も艶やかな、東国風の変わったデザインのドレスを纏う美姫だ。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
 僕の前まで来た姫君は、ドレスの裾を軽く摘み、優雅に軽やかに腰を落として淑女の礼を取った。
「わたくしはフェリシア・ストーミアン。遠く東の“嵐の国”より参りました。王の末妹にございます」
「はじめまして、エヴァレット・ラエスフェルトです」
 僕も王族へと向ける礼で返し、差し出された手を取って軽く口付ける。
 ストーミアン王家特有の翠玉の目がにっこりと微笑み、なるほど、これが竜の血を引き継いでいることの証なのかと考える。
「フェリシア殿下には、楽しんでいただけていると良いのですが」
「ええ、もちろんですわ。我が家につたわる旅行記には荒地の向こうのこともいろいろと綴られていましたから、とても楽しみでしたの」
「それは良かった」
 貼り付けた笑顔のまま、他の貴族と同様、当たり障りのないやり取りを交わす。だが、姫君はなぜか軽く首を傾げて……ちょうど他の客に声を掛けられた祖父が僕のそばから離れるのを見計らうように、口を開いた。
「エヴァレット様は……」
 フェリシア姫は、何かを考えるように口元に扇子をあてる。
「なんだか、唯一と定めたつがいを亡くしてしまった竜のようですのね」
「え?」
 思わぬことを言われ、取り繕うことも忘れて僕は目を瞠ってしまう。
「失礼なことでしたら申し訳ありません。けれど、そう感じましたの」
「いえ……」
 少し考えても気の利いた答えなど何も浮かばない。いったい、姫君はなぜそんなことを言い出したのか……そこまで考えてもういちど微笑みを貼り付け直し、小さく肩を竦めるだけに留める。
「当たらずとも遠からず、かもしれませんよ」
「まあ」
 姫君は不思議そうに、また、首を傾げた。



「フェリシア姫はどうだった」
「どう、とは?」
「かの姫は“嵐の国”の悪魔祓いの女王と聖なる守護竜の血筋だ。あの血が入れば、お前のその目のわざわいなど問題ではなくなる」
 僕は叫び出さないようにしっかりと口を噤み、奥歯をギリと噛み締めた。
 祖父はそんな僕をじろりと見やる。
「それとも、あの女が忘れられないとでもいうか。あの平民の薬師ふぜいを」
「……何を」
「お前の動向など、抑えていなかったわけがなかろう」
 やはり、全部知ったうえで放置していたのか。
 疫病のせいで、僕しかいなくなってしまったから仕方なく呼び戻したけれど、そうでなければそのまま捨て置くつもりだったのか。
めかけとして置くにしても、あれは身分が低すぎる」
 ……妾? ケリーを、妾だって?
 すっと頭が冷える。ケリーを妾だなんて、とんでもない。
「……そうですね」
 僕の返答を逆に取ってか、祖父は「わかっているなら構わん」と頷いた。



 そこから数日後。
 祖父はフェリシア姫を屋敷へと招待した。表向き、国賓たる姫を第1位の貴族であるラエスフェルト公爵家がもてなす……ということだったが、本格的にフェリシア姫を僕にあてがおうと考えたのだろう。
 不自然なほどに人が来ないテラスでの茶会に、何と切り出したものかと考える。家格からすれば、王族である姫君のほうが上だ。

 ところが、フェリシア姫は、驚くほどに思い切りの良い女性だった。
「エヴァレット様、単刀直入に申し上げますわ。わたくし、他の女性を心の内に住まわせている方に嫁ぐ趣味はありませんの」
 にっこりと艶やかな微笑みを浮かべたまま、姫君は言葉通り率直に言ってのけた。僕は思わず目を丸くする。
 貴族どころか王族の姫が、こうも取り繕わないなんて。
 ひとつ息を吐いて、僕は仮面でない苦笑を浮かべた。
「僕も、彼女以外を迎える気はありません。
 ……ですが、今の僕にはあまり選択権がないんです。できれば、姫のほうから断ってくださるとありがたい」
「ええ、構いませんわ。理由はいかがいたしましょう」
「お好きなように。祖父の反応など気にせず、顔が気に入らないでもなんでもあげつらってください」
「まあ」
 何かいたずらでも思いついたかのような表情で、姫君は楽しそうに笑った。
「では、わたくし、“エヴァレット様はどうにも線が細くて弱そうね。もう少し偉丈夫な方でないと嫌だわ”と我儘を言うことにいたします」
「よろしくお願いします」
 姫君の言葉に、僕もくすりと笑ってしまった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

【魔法少女の性事情・1】恥ずかしがり屋の魔法少女16歳が肉欲に溺れる話

TEKKON
恋愛
きっとルンルンに怒られちゃうけど、頑張って大幹部を倒したんだもん。今日は変身したままHしても、良いよね?

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...