婚約者が別人なので、本物を捜します

ぎんげつ

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5.お姫様 vs. 王子様

教本じゃなかった

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 ちゅ、ちゅと音を立てて繰り返しアルトゥールの唇を啄ばみながら、ジェルヴェーズはにこにこと機嫌が良い。

 一度キスをしてしまえば、アルトゥールはおとなしく、何かと口に出していた理屈も引っ込めてしまった。
 なんだ、つまり細かいことを気にし過ぎていただけじゃないかと、ジェルヴェーズは教本を読んで良かったと思いながら、キスを繰り返す。
 上げっぱなしだったアルトゥールの腕も、いつの間にかジェルヴェーズの背に回されていた。今はそっと、ジェルヴェーズを抱えている。

 ちらりと目を開ければ、目元を赤くしたアルトゥールがとろりとこちらを見返していた。ジェルヴェーズの心臓の鼓動がドキドキとうるさくなる。
 このアルトゥールは“かわいい”というよりも“妖艶”という言葉が似合いそうで、ジェルヴェーズは落ち着かない。軽く啄むだけのキスだったはずなのに、唇を合わせている時間もだんだんと延びていく。

 キスってこんなにたくさん、しかも長い時間するものなのね……などと感心するジェルヴェーズの唇を、何か違うものがつついていた。
 濡れた柔らかいそれは、もしかして、アルトゥールの舌だろうか。
 教本に、こんなの載っていただろうか。

「ニナ姫」

 ほんの少しだけ唇が離れて、アルトゥールが呼んだ。その低く掠れた囁き声に、心臓が思い切り跳ね上がる。

「オー……」

 リャ様、と返そうとしたところを塞がれて、ぬるりと口の中にアルトゥールの舌が入ってきた。
 慌てるジェルヴェーズの舌に、アルトゥールの舌が触れる。普通なら気持ち悪いはずなのに、なぜか嫌じゃない。
 嫌じゃないどころか、もっとして欲しいと思ってしまう。

 キスの時間が長くなると、少し息が苦しくなってきた。

 けれど、本には“鼻で息をすればいい”と書いてあった覚えがある。読んだ時はあまりピンと来なかったけれど、こういう時のためだったのか、とジェルヴェーズは感心する。
 さすが、“大人の淑女レディ”のための教本だ。

 必死に鼻で息を吸っていると、鼻息が荒くなったみたいで少し恥ずかしかった。
 でも、不思議な気持ちにもなる。
 アルトゥールの顔が近くて、どことなくうっとりして、身体の底から熱くなって……こんなの、教本に書いてあっただろうか。音を立てて唇と舌を吸われて、ジェルヴェーズの頭がぼうっとする。
 抱き着く腕にいっそう力がこもって、喉から甘えるような声が出てしまう。

 ふと、しっかり抱き着いていると下腹に何かが当たった気がして、ジェルヴェーズは首を傾げた。
 なんだろう、何か固くて細長いものだ。
 アルトゥールがいつも携帯している短剣の柄だろうか。
 まんいちのことがあったら危ないだろう。ジェルヴェーズはそれを外せないかと、そっと手を伸ばす。

 剣帯の留め金はどこかと探ると、どうも服の下に帯剣しているようだった。ごそごそとまさぐるうちに、ジェルヴェーズの指先が短剣に触れる。
 その途端、いきなりびくりとアルトゥールの身体が跳ね上がった。我に返ったように肩を掴んで、ジェルヴェーズから唇も身体も引き離す。
 ジェルヴェーズが、いったい何事かと驚きに顔を上げると、アルトゥールが見つめ返していた。
 荒くなった息を整えようと、深呼吸を繰り返してもいる。

「オーリャ様?」
「あ、その……すみません、ニナ姫」

 おろおろと視線を泳がせるアルトゥールが、謝罪を口に出す。だが、ジェルヴェーズはなぜ謝られるのか意味がわからず、また首を捻る。

「オーリャ様? わたくし、何か変なことをしてしまったかしら?」
「いえ、そうではなく……その、僕が変なことをしてしまいましたので」

 不思議そうに見つめるジェルヴェーズに、アルトゥールはしどろもどろだ。

「でも、今、オーリャ様がしてくださったのが唇のキスなのよね? 変なことではないと思うのだけど」
「あ……はい、そうですが、そうではなく……」

 アルトゥールの言葉は、今ひとつ要領を得ない。
 いったい何がと考えるうちに、ジェルヴェーズはさっきまで気になっていた短剣のことを思い出す。

「そうだ、オーリャ様。護身に短剣を隠し持つなら、お腹の真ん中は危ないと思うわ。隠すなら脚に沿って付けるのがいいって、トーヴァが言ってたもの」
「え、短剣……?」
「たとえ鞘に入れていても、万が一ということがあるのよ。うっかり鞘から抜けて刺さったら、大変なことになるわ」

 ジェルヴェーズの言う“短剣”が何のことを言っているのかを悟って、アルトゥールの顔がまたもや真っ赤に染まる。
 アルトゥールはしばし無言のままじっと俯いて……それから急にジェルヴェーズを抱えて立ち上がった。

「姫、今日は、もう、遅いですから、お休みください」
「えっ、でも、わたくし……」
「いかに婚約者とはいえ、まだ未婚なのですから、こんな遅い時間に男性の部屋を訪ねるのはよくないことです。
 これからは、扉にもきちんと鍵を掛けておきましょう」

 滔々と説教めいた口調で囁きながら、アルトゥールはジェルヴェーズを部屋へ運び、ベッドへと寝かせた。

「あの教本は、僕が預かっておきます」
「でも、わたくし、まだ全部読み終わってなくて……」
「大丈夫、姫にはまだ不要です」
「でも、わたくし」
「“混沌の海を満たす力よ。眠りの砂となりてこの者の瞼に降り注げ”」

 アルトゥールの魔術で、ジェルヴェーズはすぐに眠りに落ちてしまった。アルトゥールは小さく息を吐く。
 それからジェルヴェーズの額にキスをひとつ落として自室へと戻った。

 ふたりが使っている部屋の間には、婚姻後に夫婦の寝室として使われる予定の、続きの間がある。鍵さえ開いていれば、ここを通って互いの部屋を自由に行き来ができるようにもなっているのだ。
 だが、やはり婚姻の儀が済むまで、ここへ繋がるそれぞれの扉は鍵で閉じたままにしたほうが良さそうだ。



 翌朝、ジェルヴェーズは毛布を被ったまま、ベッドから出てこなかった。

「姫様、もう朝ですよ。太陽はあんなに高く昇ってしまいましたよ」

 ぽんぽんと毛布を叩いて起こそうとするトーヴァの声に、「起きたくない」とジェルヴェーズが返す。

「姫様、何かありましたか? どこか具合でも?」
「だって……だって……」

 毛布の中から啜り上げるような声がして、トーヴァは慌てる。まさか、ほんとうにジェルヴェーズに何かがあったのか。

「姫様、失礼します」

 力任せに毛布を捲り上げると、ジェルヴェーズはめそめそと泣いていた。

「姫様……何があったのですか? 姫様?」
「と、扉が……」
「扉?」

 ジェルヴェーズの見つめる先を見やれば、夫婦の寝室へと続く扉があった。

「まさか、アルトゥール殿下が何かなさったのですか?」
「オーリャ様は、きっと、わたくしのことが嫌いになったんだわ……」
「まさか、喧嘩でもなさったのですか?」
「だって、扉、開かなくなっちゃったんだもの……」
「え?」

 扉が開かなくなったとはどういう意味かと、ぐすぐす泣くジェルヴェーズを宥めすかし、どうにか話を聞き出す。

「朝、オーリャ様のお部屋に行って、おはようのキスをしようと思ったの。なのに、扉がびくともしなくて、だから、オーリャ様はわたくしのことが嫌いになったから、扉を開かなくしてしまったのよ」
「おはようのキスですか? でも、どうしてそんなことを?」

 やっぱりよくわからないと、トーヴァはさらに話を聞き出す。
 ――昨夜、アルトゥールに質問をしに行った時の出来事だ。

 ネリアーの助言どおり、ジェルヴェーズはわからないことを教えてもらおうとアルトゥールの部屋を訪れた。
 最初はたしかにいつものように優しく応じてくれた。
 だが、そこでの質問があまりに幼稚すぎたんだろう。今考えれば、キスも間違えた。唇を合わせるだけでは、キスじゃなかったのに。
 もっと言えば、鼻での呼吸の仕方も下品だったし、それに、変なタイミングでどうでもいい短剣のことなんか気にしてしまった。
 それでとうとう呆れて嫌になってしまったのだろう。だから、アルトゥールは扉に鍵を掛けてしまったのだ。
 きっともう会ってはくれないつもりなんだ。

 ――泣くジェルヴェーズに、トーヴァはもう一度溜息を吐く。

 念のため確認してみれば、扉を閉じているのは通常の鍵ではなく魔術鍵だったから、たしかにアルトゥールが施錠したのだろう。
 だが、おそらくは、ジェルヴェーズが想像しているのと違う理由でだ。

「――姫様」
「トーヴァ、わたくしどうすればいいの?」
「姫様、わかりました。今日は、閨の勉強としましょう」
「閨?」
「婚姻を済ませた後に、“ほんとうの夫婦になる”のだと申しますよね? つまりそれで実のところは何をするのか、という勉強です」
「ちゃんとお勉強したら、オーリャ様は会ってくださるかしら」
「大丈夫ですよ。姫様が閨のことを何もご存じなかったのは、私にも責任があります。勉強の後で、私も一緒にアルトゥール殿下に謝罪しましょう」
「ほんとう?」
「はい、ほんとうです」


 * * *


「カーティス、少し、いいだろうか」

 カーティスの部屋の扉が叩かれた。
 開けるとやはりアルトゥールで、カーティスが毎朝の礼拝を終えるあたりを狙って来たらしい。

「これはアルトゥール殿下、いったいどうなさったんですか」

 問われて、アルトゥールはやや落ち着きなく視線を泳がせた。目の下にはうっすらとクマが浮いている。
 いったい何事か。

「殿下、まずはどうぞ中へ」

 慌ててアルトゥールを中へ入れ、その背後、廊下の先に目を走らせてから、カーティスは扉を閉めた。

「カーティスは、この書物を知っているだろうか」

 アルトゥールの差し出した本の題字に素早く目を走らせる。
 “令嬢の秘密レッスン”と少し古風な字体で綴られたそれは、カーティスにも見覚えのあるもので……。
 そうだ、故郷にある自宅の図書室、その一角に作られた、叔母専用の書棚にあったのではなかったか。

「殿下、これをいったいどちらで……」

 叔母の持っている書物といえば、そのほぼすべては遠い西、“深淵の都”から取り寄せた娯楽小説である。それも、成人を過ぎた女性向けの、性愛ありの、人に見せるのは少々はばかりのある恋愛物語ばかりだ。
 それを、なぜアルトゥールが持っている?

「姫が、大人の淑女レディ向けの教本なのだと持参したもので、その、僕も目を通してみたのだが……」
「え、殿下が、これを……読まれたと……?」

 呆然と本を凝視するカーティスに、アルトゥールは慌てて言葉を繋げる。

「その、淑女教育がどのようなものなのか知らなかったので、姫は、いったいどこまでご存じなのかと少し気になったんだ」
「殿下、たいへん申し上げにくいのですが」

 カーティスの眉が寄る。
 ジェルヴェーズがこれを持参したというなら、十中八九、出どころはトーヴァだろう。こんなものから読ませてしまって、ジェルヴェーズに間違った認識を植え付けてしまったらいったいどうするのか。
 アルトゥールにも、あまりいい影響がないのではないか。

「――何だ?」
「その書物は教本ではなく、成人した女性向けの娯楽です。
 こちらではほとんど見かけませんが、西の“都”では“ロマンス小説”と呼ばれていて、大変に人気があるそうです」
「娯楽……?」

 アルトゥールはまじまじと本の表紙を見つめる。

「たしかに物語仕立てではあったが、性愛についても書いてあったのだ。それを、女性が娯楽として楽しむと……?」
「殿下、女性も、男性と変わらない程度には性愛を好むそうです」

 アルトゥールは目を丸くしたまま固まってしまった。
 閨のことすらよくわかっていないはずのジェルヴェーズが、妙に性愛の描写が濃い、この本を、娯楽として読んで、楽しむと?

「――ニナ姫は」
「殿下?」
「つまり、この物語のような体験をしたいと、望んでいるのだろうか」
「殿下!?」
「僕は、ニナ姫の提示したこの物語に沿っての行動を、期待されていると?」
「殿下、落ち着いてください、殿下!」

 手にした本をじっと見つめたまま、ふらふらと部屋を出て行こうとするアルトゥールを、カーティスは慌てて引き留めた。
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