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1.おいしい餌とオカン吸血鬼
5.セクハラ野郎と吸血鬼
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「セクハラですか」
「そう」
きょとんと目を丸くするミカちゃんに、私は頷いた。
セクハラは、もちろんミカちゃんではない。
会社の先輩だ。
こいつ距離感おかしいぞ、と感じたのはいつだったか……最初は気のせいかなと考えたりもした。だからすぐに騒ぎ立てるのもどうかと、これはスルー力を鍛えるための試練なのだと自分に言い聞かせたりもした。
そうやってそれなりの期間を我慢したのは、しかし、相手をつけ上がらせるだけだったらしい。
「なんていうか、ちょっと顔がいいから許されるって、勘違いしてるタイプ」
「勘違いですか」
「ネットとかでよく言うでしょう、“ただしイケメンに限る”って。それが現実世界でも通用するって思ってるんじゃないのかな」
私は怒りのあまり直ちにキレるというタイプではない。けれど、さすがに今日は無理だった。ここは会社で、相手は先輩だからと我慢しただけで。
それに、ただイケが許されるのはミカちゃんレベルのイケメンだ。並のイケメン程度で許されるはずがない。
「やたらと接触多いなあとは思ってたんだよね。でも今日のは無理。肩組むとか、職場で何やってんだって。外だったら殴ってたね間違いなく」
「……大丈夫なんですか?」
ミカちゃんが心配そうに首を傾げる。
そう、正しいイケメンは決してセクハラなど行わない。
むしろ気を遣うものなのだ。
「女性の先輩方に相談はしてあるんだ。だから注意はしていてくれるんだけど、いちいち逃げなきゃいけないのがめんどくさくってさあ」
私はちょっとだけ溜息を吐いた。職場のことでなければ、もっと思いっきり報復してやれるのに。
「それに、もっと面倒くさくってね。
同僚の女の子がセクハラ野郎のこと大好きで、構われて羨ましいとか寝ぼけたこと私に言ってくるの。
いくらでも代わってやるってのよ。正直、頭沸いてるのかって思うよ」
「それは厄介ですね」
「でしょう!?」
ミカちゃんが苦笑を浮かべて先を促す。
なんともコメントしづらい愚痴だとは思うが、こうしてひとしきり愚痴って共感してもらえて、ようやく私のムカムカも落ち着いてきた。
問題の先輩は、たぶん“全世界の女子にモテモテな俺”とでも勘違いしてるんだろう。今の現場の平均年齢は高い。ぶっちゃけてしまえば、若くて見目のいい男性が少ないということが、勘違いをよけいに加速させているんだろう。
いい加減にしなければ……具体的にはあと三回、なんかあったら上司へ話を持って行こうと決めて、ようやくスッキリおさまった。
「身の危険を感じるのでしたら、いつでも会社まで迎えにあがりますよ」
「ありがとう、でもミカちゃんに会社まで迎えに来られたら、それこそ大騒ぎだよ。気持ちだけで十分だから」
「そうですか?」
だがそうは言ったものの、セクハラ野郎の勘違いは留まるところを知らなかった。
私はそいつの行動力を甘く見ていたらしい。
「お疲れ様でしたー!」と、会社の親睦会が終わった帰宅の途。
自宅最寄駅を降りて少し歩いたところで、いきなりポンと肩を叩かれた。
「卯原さんの最寄駅ってここだったんだ?」
「は――田中さん!?」
振り返ると、そこにいたのは問題のセクハラ野郎、田中だった。
「なんでここに」
「卯原さんともっと親睦を深めたいなって」
にやにやといやらしい笑いを浮かべて、私の肩を抱いてくる。
殴ってもいいだろうか、いや殴らないでおくべきか……そう、一瞬だけ迷ったスキにぐいと引き寄せられて、私は拳を握りしめた。
「私は、深めたくなんかありませんが」
だがしかし、握りしめた右手首は振り上げる間もなくがっちりと掴まれてしまった。力負けして動かせない悔しさにギリギリと歯噛みしつつ、どうすれば、という言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。
本当にどうしたらいいのか。
「気の強い子っていいよねえ」
いいよねえじゃねえよと、気持ち悪さに鳥肌が立つ。
しかしちょうどここは駅と交番の中間点だし駆け込む場所もない。どうしよう。
やばい。
「さ、卯原さんの家に行こう? どっち?」
その言葉に、光明が見えた。
そうだ、家まで行けばミカちゃんがいる! ペトラちゃんだっている!
「こ、こっちです」
田中はにたあと目を細め、さらにいやらしい笑いを口元に浮かべた。
本当に気持ち悪い。
「あれえ、ミカんとこの律子ちゃんじゃん。どしたの。それ、何?」
「カレヴィさん!」
そこにかかった声の主は、いつぞやのミカちゃんのたぶん友達であるカレヴィさんだった。なんでこんなところをうろついていたのかは知らないけど、藁をも掴む思いで私は振り向こうとする。
「君、誰。俺は卯原さんの彼氏だけど」
「いっ、いつ」
何言ってる、いつ誰がお前を彼氏にした!
――と言い返そうとしたら、顎を掴まれて止められた。
こいつ絶対タダじゃおかない。
とはいえ、振りほどけないのではしかたがない。カレヴィさんに目だけで助けろコールをする。彼はきっと天の助けだろう。
「ふうん?」
なのに、カレヴィさんは愛想良く笑うだけだった。目が合ったし、あれは気づいてるはずなのに、まさかカレヴィさんは事なかれ主義の人なのか。
っていうか、気づいててスルーかよ!
カレヴィさんは私の恨みがましい視線も無視して、にこにこ笑っている。
「別に律子ちゃんの彼氏とかどうでもいいんだけど、ミカは知ってるの?」
「ミカ?」
訝しげに眉を顰める田中さんに、カレヴィさんがにやーっと笑う。
「そ。あいつおっかないからねえ。もしあんたが律子ちゃんに無体を働いてるんなら、人生終了かな」
「終了? ミカって、卯原さんの同居の女の子だろう?」
「お、女の子!?」
ぶはっとカレヴィさんが噴き出した。
確かに、会社で話す時も特に説明はしなかったし、ミカちゃんのことは「ミカちゃん」で済ましていたけどさ。
でも、同居人しかも女子がいると知ったうえで、うちに押し掛けようとしてたのか、この人は。
最悪だ。
「あれが女の子!」
カレヴィさんはもう一度繰り返して、とうとう我慢しきれなかったのか、腹を抱えて笑い出した。
笑ってる暇があるなら、さっさと私を助けてほしいのに。
じっとりと見つめる私をよそに、カレヴィさんはひとしきり笑い倒し、ひいひいと苦しそうに息をしながら目尻ににじんだ涙を拭う。
ミカちゃんはカレヴィさんを“駄犬”と呼んでたけど、本当に“駄犬”でもいいんじゃないだろうか。
「いやあ、おもしれえ。律子ちゃん、ミカのこと全然説明してなかったんだろ。たしかに、日本じゃミカって女の名前らしいしなあ」
カレヴィさんはようやく落ち着いたのか、ふう、と大きく息を吐いてしみじみと述べる。その通りだけど、笑いすぎじゃないだろうか。
「ま、そろそろ来る頃だから、自分で確かめるといいよ」
へ? ときょろきょろ視線を巡らせる私に、カレヴィさんがウィンクを投げてよこした。同時に「律子さん?」とミカちゃんの声がする。
「ミっ、ミカちゃん助けて!」
思い切り頭を振って、顎に掛かった手を振りほどいて、私は必死に声を上げる。無理矢理振り向いた先には、おどろおどろしい雰囲気をむんむんに漂わせたミカちゃんが佇んでいた。
――怖い。
「その方が、先日おっしゃっていた“セクハラ野郎”ですか」
「え、ミカって女じゃ……」
男の声に、田中がぽかんと振り向いた。もしやこいつ、私がミカちゃん美人だからという言葉に期待していたとかじゃあるまいな。
呆けた顔の田中を、ミカちゃんはふっと鼻で笑う。
「私が女ですか?」
「私、ミカちゃんが女だなんてひと言も言ってないし!」
かすかに首を傾げたミカちゃんの目が、すっと細まった。
「ともあれ、私の性別の誤解などはどうでもいいことです。そんなことより、なぜあなたは律子さんを捕まえているのですか?」
ミカちゃんがじりっと一歩詰める、田中は私を抱えたままじりっと下がる。
「その手を離しなさい。律子さんは私の大切な栄養源なのですから、あなたごときが触れていいものではありません」
――盛り上がってた私の気持ちが一瞬で降下した。
あ、そこですか、と。
いやまあ、ミカちゃん的には正しいのかもしれない。だけど、見た目は王子なんだし、そこはもっと“らしい”セリフが欲しかった。
そうやって脱力している間にも、じりっと近づきじりっと下がり……は繰り返されていた。いい加減、そろそろ離してはもらえないだろうか。
が、しかし、さすがのミカちゃんもさすがに焦れたのか、いきなりすべるように間を詰めた。
ホラー映画でよくある、なにか怖いやつがすっといきなり近づくみたいに。
「ひっ」
田中がびくりと震えた。
私も怖かった。すごく怖くて、本気でビビった。
ちらりとカレヴィさんを見ると、小さく「あーあ」と呟いていた。
「私がおとなしく命じているのに、聞き分けられないほどに低脳なのですか」
にいっと笑うミカちゃんの目は笑っていない。おまけに、青いはずのミカちゃんの目が赤く底光りしたように見えて、いっそう怖かった。
いつまでも私を抱えたままの田中の腕を、ミカちゃんの手ががしっと掴んで力任せに引き剥がす。
田中も結構本気で抵抗しているようなのに、そこまでマッチョに見えないはずのミカちゃんは、すごい力だった。
「あなたのような獣が律子さんの近くにいるというのは、我慢がなりません。どこか遠くにでも行ってもらいましょう」
「え、ミカちゃん、ちょっと」
ミカちゃんの言葉に私のほうが慌ててしまった。
いったい何をする気なのか。ミカちゃんは吸血鬼だってこと忘れてたよ!
「律子さん、安心してください。今後、二度とこの獣が律子さんを煩わすことがないようにしますからね」
「いや、その、ミカちゃん?」
にっこりと微笑むミカちゃんの、その微笑みが底知れない。
ミカちゃんが本気だしたら、きっとろくなことにならないだろう。
どんなろくなことかはわからないが、とにかくまずい。
「み、ミカちゃん、あの、あくまでも穏便に、穏便にお願いします」
「法に触れるような事態はしませんよ。ご心配なさらず」
「はあ」
じゃあ、法に触れないようにどうするつもりなのか。そこは確認しなければいけない気がするけど、尋ねてはいけないところだとも思う。
「う、うわあああ!」
けれど、私が目を瞑るまでもなかった。
田中は、ミカちゃんの与えるプレッシャーにとうとう耐えられなくなったらしい。捕まれていた腕を振り払い、脱兎のごとく駆けだした。
「──逃げてしまいましたか。仕方ありませんね」
必死に走り去る田中の背中に、ミカちゃんがぽそりと呟く。仕方ないからどうするのかは、やっぱり怖くて訊けない。
「それで、そこの駄犬は何をしていたんですか」
「え、俺?」
くるりと振り返ったミカちゃんが、今度はカレヴィさんへの詰問を始めた。
「最近ずっとこのあたりをうろうろしていたのは知っていましたよ。番犬くらいの役には立つかと思っていたのですが、役立たずな駄犬なら不要です。邪魔です。目障りなので消えてください」
「ひ、ひでえ!」
目を丸くするカレヴィさんを、ミカちゃんはじっとりと睨めつける。
いや、たしかにミカちゃんの言うとおり“駄犬”だとは思ったけれど、目障りだから消えろは問題じゃないのか。
「ちょ、ちょ、待ってミカちゃん。カレヴィさんがいたから時間稼げたし、カレヴィさんが番犬とか駄犬とかって意味わかんないから!」
慌てて捲し立てる私に、ミカちゃんはやれやれと溜息を吐いた。
「もしかしてと思いましたが、律子さんは気づいていないんですね」
「へ?」
「この駄犬は、人狼という種族なんですよ」
「人狼? 人狼って、満月になると狼になって遠吠えする、あの人狼?」
あっけに取られた顔でカレヴィさんを見やると、肩を竦めて頭を掻いていた。
――吸血鬼に借金したうえ飯をたかる人狼って、そんなのありなの?
「そのようなものですよ。借金も返さずにうろうろされるのは非常に鬱陶しかったのですが、番犬くらいにはなるだろうと見逃していたんです。
ですが、今回の件で役立たずなことが立証されましたし、もう追い払ったほうがいいかと思いまして」
「お、追い払うって」
「保健所に連れて行きましょう」
「保健所?!」
人狼って保健所で引き取ってくれるものなの?
「やっぱ俺の扱い酷くねえ? いや、だってさ、お前来るのわかったから、出番取ったら悪いかなって思ったんだよ。そこ考慮してくれよ。あとたまにでいいから飯も食わせてくれよ」
慌てるカレヴィさんに、ミカちゃんはじっと考えた。考えた末、「特売のドッグフードなら用意してやってもよいですよ」と尊大に言ってのけた。「俺は犬じゃねえってば!」というカレヴィさんの叫びはきれいにスルーだ。私もスルーした。
「では帰りましょうか」
ミカちゃんはにっこりと微笑んで私の手を取った。カレヴィさんのことは、やっぱりまるっと無視して。
そして、私に向けられたミカちゃんの笑顔はやっぱり怖かった。
ペトラちゃん、助けて!
翌日、田中は会社に来なかった。
帰宅後その話をすると、ミカちゃんは「それはよかったですね」とにっこり微笑んだ。だから、私はミカちゃんが彼に何をしたのかを尋ねることができなかった。ミカちゃんの微笑みは、今日も怖かった。
あと、カレヴィさんも見かけなくなった……気がする。まさか本当に保健所に連れて行ってしまったのだろうか。
とにかく、ミカちゃんのことは本気で怒らせないようにしようと、私はペトラちゃんとふたりで固く誓い合ったのだった。
「そう」
きょとんと目を丸くするミカちゃんに、私は頷いた。
セクハラは、もちろんミカちゃんではない。
会社の先輩だ。
こいつ距離感おかしいぞ、と感じたのはいつだったか……最初は気のせいかなと考えたりもした。だからすぐに騒ぎ立てるのもどうかと、これはスルー力を鍛えるための試練なのだと自分に言い聞かせたりもした。
そうやってそれなりの期間を我慢したのは、しかし、相手をつけ上がらせるだけだったらしい。
「なんていうか、ちょっと顔がいいから許されるって、勘違いしてるタイプ」
「勘違いですか」
「ネットとかでよく言うでしょう、“ただしイケメンに限る”って。それが現実世界でも通用するって思ってるんじゃないのかな」
私は怒りのあまり直ちにキレるというタイプではない。けれど、さすがに今日は無理だった。ここは会社で、相手は先輩だからと我慢しただけで。
それに、ただイケが許されるのはミカちゃんレベルのイケメンだ。並のイケメン程度で許されるはずがない。
「やたらと接触多いなあとは思ってたんだよね。でも今日のは無理。肩組むとか、職場で何やってんだって。外だったら殴ってたね間違いなく」
「……大丈夫なんですか?」
ミカちゃんが心配そうに首を傾げる。
そう、正しいイケメンは決してセクハラなど行わない。
むしろ気を遣うものなのだ。
「女性の先輩方に相談はしてあるんだ。だから注意はしていてくれるんだけど、いちいち逃げなきゃいけないのがめんどくさくってさあ」
私はちょっとだけ溜息を吐いた。職場のことでなければ、もっと思いっきり報復してやれるのに。
「それに、もっと面倒くさくってね。
同僚の女の子がセクハラ野郎のこと大好きで、構われて羨ましいとか寝ぼけたこと私に言ってくるの。
いくらでも代わってやるってのよ。正直、頭沸いてるのかって思うよ」
「それは厄介ですね」
「でしょう!?」
ミカちゃんが苦笑を浮かべて先を促す。
なんともコメントしづらい愚痴だとは思うが、こうしてひとしきり愚痴って共感してもらえて、ようやく私のムカムカも落ち着いてきた。
問題の先輩は、たぶん“全世界の女子にモテモテな俺”とでも勘違いしてるんだろう。今の現場の平均年齢は高い。ぶっちゃけてしまえば、若くて見目のいい男性が少ないということが、勘違いをよけいに加速させているんだろう。
いい加減にしなければ……具体的にはあと三回、なんかあったら上司へ話を持って行こうと決めて、ようやくスッキリおさまった。
「身の危険を感じるのでしたら、いつでも会社まで迎えにあがりますよ」
「ありがとう、でもミカちゃんに会社まで迎えに来られたら、それこそ大騒ぎだよ。気持ちだけで十分だから」
「そうですか?」
だがそうは言ったものの、セクハラ野郎の勘違いは留まるところを知らなかった。
私はそいつの行動力を甘く見ていたらしい。
「お疲れ様でしたー!」と、会社の親睦会が終わった帰宅の途。
自宅最寄駅を降りて少し歩いたところで、いきなりポンと肩を叩かれた。
「卯原さんの最寄駅ってここだったんだ?」
「は――田中さん!?」
振り返ると、そこにいたのは問題のセクハラ野郎、田中だった。
「なんでここに」
「卯原さんともっと親睦を深めたいなって」
にやにやといやらしい笑いを浮かべて、私の肩を抱いてくる。
殴ってもいいだろうか、いや殴らないでおくべきか……そう、一瞬だけ迷ったスキにぐいと引き寄せられて、私は拳を握りしめた。
「私は、深めたくなんかありませんが」
だがしかし、握りしめた右手首は振り上げる間もなくがっちりと掴まれてしまった。力負けして動かせない悔しさにギリギリと歯噛みしつつ、どうすれば、という言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。
本当にどうしたらいいのか。
「気の強い子っていいよねえ」
いいよねえじゃねえよと、気持ち悪さに鳥肌が立つ。
しかしちょうどここは駅と交番の中間点だし駆け込む場所もない。どうしよう。
やばい。
「さ、卯原さんの家に行こう? どっち?」
その言葉に、光明が見えた。
そうだ、家まで行けばミカちゃんがいる! ペトラちゃんだっている!
「こ、こっちです」
田中はにたあと目を細め、さらにいやらしい笑いを口元に浮かべた。
本当に気持ち悪い。
「あれえ、ミカんとこの律子ちゃんじゃん。どしたの。それ、何?」
「カレヴィさん!」
そこにかかった声の主は、いつぞやのミカちゃんのたぶん友達であるカレヴィさんだった。なんでこんなところをうろついていたのかは知らないけど、藁をも掴む思いで私は振り向こうとする。
「君、誰。俺は卯原さんの彼氏だけど」
「いっ、いつ」
何言ってる、いつ誰がお前を彼氏にした!
――と言い返そうとしたら、顎を掴まれて止められた。
こいつ絶対タダじゃおかない。
とはいえ、振りほどけないのではしかたがない。カレヴィさんに目だけで助けろコールをする。彼はきっと天の助けだろう。
「ふうん?」
なのに、カレヴィさんは愛想良く笑うだけだった。目が合ったし、あれは気づいてるはずなのに、まさかカレヴィさんは事なかれ主義の人なのか。
っていうか、気づいててスルーかよ!
カレヴィさんは私の恨みがましい視線も無視して、にこにこ笑っている。
「別に律子ちゃんの彼氏とかどうでもいいんだけど、ミカは知ってるの?」
「ミカ?」
訝しげに眉を顰める田中さんに、カレヴィさんがにやーっと笑う。
「そ。あいつおっかないからねえ。もしあんたが律子ちゃんに無体を働いてるんなら、人生終了かな」
「終了? ミカって、卯原さんの同居の女の子だろう?」
「お、女の子!?」
ぶはっとカレヴィさんが噴き出した。
確かに、会社で話す時も特に説明はしなかったし、ミカちゃんのことは「ミカちゃん」で済ましていたけどさ。
でも、同居人しかも女子がいると知ったうえで、うちに押し掛けようとしてたのか、この人は。
最悪だ。
「あれが女の子!」
カレヴィさんはもう一度繰り返して、とうとう我慢しきれなかったのか、腹を抱えて笑い出した。
笑ってる暇があるなら、さっさと私を助けてほしいのに。
じっとりと見つめる私をよそに、カレヴィさんはひとしきり笑い倒し、ひいひいと苦しそうに息をしながら目尻ににじんだ涙を拭う。
ミカちゃんはカレヴィさんを“駄犬”と呼んでたけど、本当に“駄犬”でもいいんじゃないだろうか。
「いやあ、おもしれえ。律子ちゃん、ミカのこと全然説明してなかったんだろ。たしかに、日本じゃミカって女の名前らしいしなあ」
カレヴィさんはようやく落ち着いたのか、ふう、と大きく息を吐いてしみじみと述べる。その通りだけど、笑いすぎじゃないだろうか。
「ま、そろそろ来る頃だから、自分で確かめるといいよ」
へ? ときょろきょろ視線を巡らせる私に、カレヴィさんがウィンクを投げてよこした。同時に「律子さん?」とミカちゃんの声がする。
「ミっ、ミカちゃん助けて!」
思い切り頭を振って、顎に掛かった手を振りほどいて、私は必死に声を上げる。無理矢理振り向いた先には、おどろおどろしい雰囲気をむんむんに漂わせたミカちゃんが佇んでいた。
――怖い。
「その方が、先日おっしゃっていた“セクハラ野郎”ですか」
「え、ミカって女じゃ……」
男の声に、田中がぽかんと振り向いた。もしやこいつ、私がミカちゃん美人だからという言葉に期待していたとかじゃあるまいな。
呆けた顔の田中を、ミカちゃんはふっと鼻で笑う。
「私が女ですか?」
「私、ミカちゃんが女だなんてひと言も言ってないし!」
かすかに首を傾げたミカちゃんの目が、すっと細まった。
「ともあれ、私の性別の誤解などはどうでもいいことです。そんなことより、なぜあなたは律子さんを捕まえているのですか?」
ミカちゃんがじりっと一歩詰める、田中は私を抱えたままじりっと下がる。
「その手を離しなさい。律子さんは私の大切な栄養源なのですから、あなたごときが触れていいものではありません」
――盛り上がってた私の気持ちが一瞬で降下した。
あ、そこですか、と。
いやまあ、ミカちゃん的には正しいのかもしれない。だけど、見た目は王子なんだし、そこはもっと“らしい”セリフが欲しかった。
そうやって脱力している間にも、じりっと近づきじりっと下がり……は繰り返されていた。いい加減、そろそろ離してはもらえないだろうか。
が、しかし、さすがのミカちゃんもさすがに焦れたのか、いきなりすべるように間を詰めた。
ホラー映画でよくある、なにか怖いやつがすっといきなり近づくみたいに。
「ひっ」
田中がびくりと震えた。
私も怖かった。すごく怖くて、本気でビビった。
ちらりとカレヴィさんを見ると、小さく「あーあ」と呟いていた。
「私がおとなしく命じているのに、聞き分けられないほどに低脳なのですか」
にいっと笑うミカちゃんの目は笑っていない。おまけに、青いはずのミカちゃんの目が赤く底光りしたように見えて、いっそう怖かった。
いつまでも私を抱えたままの田中の腕を、ミカちゃんの手ががしっと掴んで力任せに引き剥がす。
田中も結構本気で抵抗しているようなのに、そこまでマッチョに見えないはずのミカちゃんは、すごい力だった。
「あなたのような獣が律子さんの近くにいるというのは、我慢がなりません。どこか遠くにでも行ってもらいましょう」
「え、ミカちゃん、ちょっと」
ミカちゃんの言葉に私のほうが慌ててしまった。
いったい何をする気なのか。ミカちゃんは吸血鬼だってこと忘れてたよ!
「律子さん、安心してください。今後、二度とこの獣が律子さんを煩わすことがないようにしますからね」
「いや、その、ミカちゃん?」
にっこりと微笑むミカちゃんの、その微笑みが底知れない。
ミカちゃんが本気だしたら、きっとろくなことにならないだろう。
どんなろくなことかはわからないが、とにかくまずい。
「み、ミカちゃん、あの、あくまでも穏便に、穏便にお願いします」
「法に触れるような事態はしませんよ。ご心配なさらず」
「はあ」
じゃあ、法に触れないようにどうするつもりなのか。そこは確認しなければいけない気がするけど、尋ねてはいけないところだとも思う。
「う、うわあああ!」
けれど、私が目を瞑るまでもなかった。
田中は、ミカちゃんの与えるプレッシャーにとうとう耐えられなくなったらしい。捕まれていた腕を振り払い、脱兎のごとく駆けだした。
「──逃げてしまいましたか。仕方ありませんね」
必死に走り去る田中の背中に、ミカちゃんがぽそりと呟く。仕方ないからどうするのかは、やっぱり怖くて訊けない。
「それで、そこの駄犬は何をしていたんですか」
「え、俺?」
くるりと振り返ったミカちゃんが、今度はカレヴィさんへの詰問を始めた。
「最近ずっとこのあたりをうろうろしていたのは知っていましたよ。番犬くらいの役には立つかと思っていたのですが、役立たずな駄犬なら不要です。邪魔です。目障りなので消えてください」
「ひ、ひでえ!」
目を丸くするカレヴィさんを、ミカちゃんはじっとりと睨めつける。
いや、たしかにミカちゃんの言うとおり“駄犬”だとは思ったけれど、目障りだから消えろは問題じゃないのか。
「ちょ、ちょ、待ってミカちゃん。カレヴィさんがいたから時間稼げたし、カレヴィさんが番犬とか駄犬とかって意味わかんないから!」
慌てて捲し立てる私に、ミカちゃんはやれやれと溜息を吐いた。
「もしかしてと思いましたが、律子さんは気づいていないんですね」
「へ?」
「この駄犬は、人狼という種族なんですよ」
「人狼? 人狼って、満月になると狼になって遠吠えする、あの人狼?」
あっけに取られた顔でカレヴィさんを見やると、肩を竦めて頭を掻いていた。
――吸血鬼に借金したうえ飯をたかる人狼って、そんなのありなの?
「そのようなものですよ。借金も返さずにうろうろされるのは非常に鬱陶しかったのですが、番犬くらいにはなるだろうと見逃していたんです。
ですが、今回の件で役立たずなことが立証されましたし、もう追い払ったほうがいいかと思いまして」
「お、追い払うって」
「保健所に連れて行きましょう」
「保健所?!」
人狼って保健所で引き取ってくれるものなの?
「やっぱ俺の扱い酷くねえ? いや、だってさ、お前来るのわかったから、出番取ったら悪いかなって思ったんだよ。そこ考慮してくれよ。あとたまにでいいから飯も食わせてくれよ」
慌てるカレヴィさんに、ミカちゃんはじっと考えた。考えた末、「特売のドッグフードなら用意してやってもよいですよ」と尊大に言ってのけた。「俺は犬じゃねえってば!」というカレヴィさんの叫びはきれいにスルーだ。私もスルーした。
「では帰りましょうか」
ミカちゃんはにっこりと微笑んで私の手を取った。カレヴィさんのことは、やっぱりまるっと無視して。
そして、私に向けられたミカちゃんの笑顔はやっぱり怖かった。
ペトラちゃん、助けて!
翌日、田中は会社に来なかった。
帰宅後その話をすると、ミカちゃんは「それはよかったですね」とにっこり微笑んだ。だから、私はミカちゃんが彼に何をしたのかを尋ねることができなかった。ミカちゃんの微笑みは、今日も怖かった。
あと、カレヴィさんも見かけなくなった……気がする。まさか本当に保健所に連れて行ってしまったのだろうか。
とにかく、ミカちゃんのことは本気で怒らせないようにしようと、私はペトラちゃんとふたりで固く誓い合ったのだった。
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