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鹿角の町
春の訪れ
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水が温み風がほんのりと暖かくなる季節が来た。
冬の間ずっと続いてだんだんと飽き飽きしてきた保存の利く食料以外にも、森で採れた木の芽や柔らかい野草の新芽が宿の食事に出るようになった頃、イヴリンとアライトの引越しも無事完了した。
引越しといっても大半の荷物は新居に移した後で、ほぼ身ひとつでの移動だ。
「どうよ」
そう言って家の扉を開けるアライトの顔は誇らしげだ。
以前はそこそこ羽振りの良い商人が使っていたが、商人が年老いて息子のところに移ってからはずっと、住むもののいない空き家となっていた屋敷だ。少し古く傷みもあって、手を入れたり直したりする必要があることから、広さの割に手頃な値段で手に入れることができたらしい。
何より、半地下にあるワインセラーを兼ねた広い倉庫なら、アライトも竜の姿で十分くつろげるというところも気に入ったのだという。
素敵だわ! と歓声をあげるイヴリンにアライトはたちまち相好を崩すと、横抱きにして玄関の扉をくぐる。
「こういう作法があるんだろ?」
そう言ってイヴリンにキスを落とすアライトは、以前よりも幾分かしっかりして落ち着いたようだ。
「とうとうアライトも巣穴の主人か。今度は下手を打つなよ」
「やらないよ。鯖折りはもうごめんだからな」
笑いながらエルヴィラに言われて、アライトは顔を顰めた。
近所の住人もちらちらと窺うように集まってきているようだ。イヴリンはさっそく愛想よく挨拶を交わし、このあたりの事情などを聞き始める。
「イヴリンなら、ちゃんと上手くやっていけそうだな」
「当たり前だ」
エルヴィラの言葉になぜかアライトが偉そうに応えて胸を張った。
「お前が竜だっていうのは知られてるのか?」
「まだだが、まあ追い追いだろ。子供が産まれりゃ、否が応でもわかるからな」
「ふうん」
よほど嬉しいのか顔が緩みっぱなしだったが、イヴリンとアライトなら、どこに行ってもやっていけそうな気がした。
「ふたりのことも片付いたし、春も来たし、そろそろかな」
宿に戻ると、ミーケルが窓の外を見ながらそんなことを言い出した。
長椅子に座り、卓上に重ねた羊皮紙をくるくると丸めて紙入れにしまいこむ。その様子を見て、そろそろここを出る時期が来たのかと、エルヴィラもそう考えながら窓の外を眺めた。
イヴリンたちともここでお別れか。半年にも満たない間だったけど、楽しかったな。
「イヴリンたちの子供が生まれる頃に、また来たいな」
「そうだね」
エルヴィラはじっと窓の外を見つめる。
どことなくぼんやりと遠くへと目をやって、小さく吐息を漏らして……ほんの少しだけ、心持ち眉尻が下がった表情で。
「どうしたの……そんなにイヴリンが羨ましい?」
「そ、そういうわけじゃない」
だってミーケルといられるんだから。
慌てて長椅子に座り、ぎゅうっと抱きついて、エルヴィラは頭を擦り付けた。
「最近わかってきたんだけど、ヴィーのそれ、ちょっと不安なのをごまかそうとしてる時にもやるでしょ」
「そ、そんなことないぞ」
「ほんとうに?」
ぱちぱちと目を瞬かせるエルヴィラを、ふ、と笑って膝の上に抱きあげて、ミーケルは軽くキスをした。
「……ヴィーは、どうしてそうなんだろう」
「そうって?」
「察しが悪すぎる」
むう、と顔を顰めて「そんなことはないぞ」と口を尖らせるエルヴィラの言葉に、「ほんとうにわかってないんだ?」と目を眇めて薄く笑う。
「それに、ヴィーはどうしてそんなに物わかりが悪いんだろうね」
「そんなに、悪くないと、思うん、だけど……」
エルヴィラの言葉が尻すぼみに消えてしまう。
どうしてミーケルは薄笑いを浮かべ、じっとりと自分を見つめるのだろう。いろいろなものを見透かされているような気持ちになって、少し怖くなる。
「本気でそう思ってる?」
「本気、だけど」
「なら、どうして僕がこうしてヴィーと一緒にいるんだと思ってるの」
「だって、それは、誓ったからで……」
「じゃあ、なんで誓ったと思う?」
どうしてこんなに畳み掛けるように問い質されるのか。
自分をじっと見詰めるミーケルにするりと頬を撫でられて、つい背筋が伸びる。
「だ、だって、私のはじめてと引き換えって」
「僕がヴィーの最初で最後も悪くないっていったのは?」
「う……と、そ、それは、たぶん、気が向いた、から?」
へえ? と首を傾げるミーケルが怖い。びくびくと上目遣いに見上げると、心持ち引き攣ったようにも見える笑みを浮かべて目を細めた。
「……あのさ、ほんとうにそう思ってるの?」
「違うの、か?」
ほとんど泣きそうになりながら眉尻を下げると、ミーケルはなんとも呆れたという顔で、大きく、はあっと溜息を吐いた。
「まさかとは思ってたけど、ほんとうにわかってないんだ?」
「だから、何がだ」
「……エルヴィラ」
「う?」
急にきちんと名前を呼ばれて、エルヴィラは戸惑ってしまう。いったいこれから何が起こるのか。
「う……ん……」
急に唇を塞がれて慌ててしまう。
「っ、ふ……な、なんで」
「なんでだと思う?」
「う……?」
「なんでだと思うのか、言ってごらん」
困りきった顔でエルヴィラはミーケルを窺い見る。
「そ、そんなの、わかん、ない」
「エルヴィラ」
ちゅ、ちゅ、と口付けて、ミーケルが囁く。
「君は何がほしいの」
「な……に、って」
訊かれても、よくわからない。
なんだかもやもやしたものは渦巻いていると感じる。けれど、それがいったい何なのかがわからない。
「わ、わかんない」
「どうして?」
「だって……わかんない」
「ほんとうに?」
「う……」
ちゅ、と口を啄ばまれる。
ミーケルが正面から目を覗き込む。
「ヴィーは、僕を信用してないよね」
「そ、そんなこと……」
「違う?」
ミーケルは軽く目を伏せて微笑んだ。
冬の間ずっと続いてだんだんと飽き飽きしてきた保存の利く食料以外にも、森で採れた木の芽や柔らかい野草の新芽が宿の食事に出るようになった頃、イヴリンとアライトの引越しも無事完了した。
引越しといっても大半の荷物は新居に移した後で、ほぼ身ひとつでの移動だ。
「どうよ」
そう言って家の扉を開けるアライトの顔は誇らしげだ。
以前はそこそこ羽振りの良い商人が使っていたが、商人が年老いて息子のところに移ってからはずっと、住むもののいない空き家となっていた屋敷だ。少し古く傷みもあって、手を入れたり直したりする必要があることから、広さの割に手頃な値段で手に入れることができたらしい。
何より、半地下にあるワインセラーを兼ねた広い倉庫なら、アライトも竜の姿で十分くつろげるというところも気に入ったのだという。
素敵だわ! と歓声をあげるイヴリンにアライトはたちまち相好を崩すと、横抱きにして玄関の扉をくぐる。
「こういう作法があるんだろ?」
そう言ってイヴリンにキスを落とすアライトは、以前よりも幾分かしっかりして落ち着いたようだ。
「とうとうアライトも巣穴の主人か。今度は下手を打つなよ」
「やらないよ。鯖折りはもうごめんだからな」
笑いながらエルヴィラに言われて、アライトは顔を顰めた。
近所の住人もちらちらと窺うように集まってきているようだ。イヴリンはさっそく愛想よく挨拶を交わし、このあたりの事情などを聞き始める。
「イヴリンなら、ちゃんと上手くやっていけそうだな」
「当たり前だ」
エルヴィラの言葉になぜかアライトが偉そうに応えて胸を張った。
「お前が竜だっていうのは知られてるのか?」
「まだだが、まあ追い追いだろ。子供が産まれりゃ、否が応でもわかるからな」
「ふうん」
よほど嬉しいのか顔が緩みっぱなしだったが、イヴリンとアライトなら、どこに行ってもやっていけそうな気がした。
「ふたりのことも片付いたし、春も来たし、そろそろかな」
宿に戻ると、ミーケルが窓の外を見ながらそんなことを言い出した。
長椅子に座り、卓上に重ねた羊皮紙をくるくると丸めて紙入れにしまいこむ。その様子を見て、そろそろここを出る時期が来たのかと、エルヴィラもそう考えながら窓の外を眺めた。
イヴリンたちともここでお別れか。半年にも満たない間だったけど、楽しかったな。
「イヴリンたちの子供が生まれる頃に、また来たいな」
「そうだね」
エルヴィラはじっと窓の外を見つめる。
どことなくぼんやりと遠くへと目をやって、小さく吐息を漏らして……ほんの少しだけ、心持ち眉尻が下がった表情で。
「どうしたの……そんなにイヴリンが羨ましい?」
「そ、そういうわけじゃない」
だってミーケルといられるんだから。
慌てて長椅子に座り、ぎゅうっと抱きついて、エルヴィラは頭を擦り付けた。
「最近わかってきたんだけど、ヴィーのそれ、ちょっと不安なのをごまかそうとしてる時にもやるでしょ」
「そ、そんなことないぞ」
「ほんとうに?」
ぱちぱちと目を瞬かせるエルヴィラを、ふ、と笑って膝の上に抱きあげて、ミーケルは軽くキスをした。
「……ヴィーは、どうしてそうなんだろう」
「そうって?」
「察しが悪すぎる」
むう、と顔を顰めて「そんなことはないぞ」と口を尖らせるエルヴィラの言葉に、「ほんとうにわかってないんだ?」と目を眇めて薄く笑う。
「それに、ヴィーはどうしてそんなに物わかりが悪いんだろうね」
「そんなに、悪くないと、思うん、だけど……」
エルヴィラの言葉が尻すぼみに消えてしまう。
どうしてミーケルは薄笑いを浮かべ、じっとりと自分を見つめるのだろう。いろいろなものを見透かされているような気持ちになって、少し怖くなる。
「本気でそう思ってる?」
「本気、だけど」
「なら、どうして僕がこうしてヴィーと一緒にいるんだと思ってるの」
「だって、それは、誓ったからで……」
「じゃあ、なんで誓ったと思う?」
どうしてこんなに畳み掛けるように問い質されるのか。
自分をじっと見詰めるミーケルにするりと頬を撫でられて、つい背筋が伸びる。
「だ、だって、私のはじめてと引き換えって」
「僕がヴィーの最初で最後も悪くないっていったのは?」
「う……と、そ、それは、たぶん、気が向いた、から?」
へえ? と首を傾げるミーケルが怖い。びくびくと上目遣いに見上げると、心持ち引き攣ったようにも見える笑みを浮かべて目を細めた。
「……あのさ、ほんとうにそう思ってるの?」
「違うの、か?」
ほとんど泣きそうになりながら眉尻を下げると、ミーケルはなんとも呆れたという顔で、大きく、はあっと溜息を吐いた。
「まさかとは思ってたけど、ほんとうにわかってないんだ?」
「だから、何がだ」
「……エルヴィラ」
「う?」
急にきちんと名前を呼ばれて、エルヴィラは戸惑ってしまう。いったいこれから何が起こるのか。
「う……ん……」
急に唇を塞がれて慌ててしまう。
「っ、ふ……な、なんで」
「なんでだと思う?」
「う……?」
「なんでだと思うのか、言ってごらん」
困りきった顔でエルヴィラはミーケルを窺い見る。
「そ、そんなの、わかん、ない」
「エルヴィラ」
ちゅ、ちゅ、と口付けて、ミーケルが囁く。
「君は何がほしいの」
「な……に、って」
訊かれても、よくわからない。
なんだかもやもやしたものは渦巻いていると感じる。けれど、それがいったい何なのかがわからない。
「わ、わかんない」
「どうして?」
「だって……わかんない」
「ほんとうに?」
「う……」
ちゅ、と口を啄ばまれる。
ミーケルが正面から目を覗き込む。
「ヴィーは、僕を信用してないよね」
「そ、そんなこと……」
「違う?」
ミーケルは軽く目を伏せて微笑んだ。
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