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6.恒一の過去
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エレベーターの扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
恒一は正面を見つめたまま、隣に立つ直の気配を意識していた。
距離が近い。肩が触れそうなほどだ。
仕事中にこんな感覚を覚える相手は初めてだった。
――落ち着け。
恒一は自分にそう言い聞かせる。
この男は部下だ。評価している部下。それだけだ。
直は足元を見ている。
会議のときと同じ、感情を表に出さない横顔。
いつも、距離の取り方を間違えない。
直のプライベートについてそれとなく他の部下に聞いてみた。
けれど会社外での直のことについて知っている者は誰一人いなかった。
直は会社内の噂話に決して加わらないのだという。
それに自分の私生活を聞かれるのを過剰に避けるのだと。
エレベーターが一階に到着し、扉が開く。
二人並んで降りると、直は自然に一歩だけ距離を取った。
「お先に失礼します」
それだけ言って、軽く頭を下げる。
その距離感に虚しくなった。
「……ああ。気をつけて帰れ」
直は一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を逸らして歩き出した。
その背中を恒一は無意識に目で追ってしまう。
――自分が特別な存在だと思っているはずがない。
そう思うことで胸の奥の違和感に蓋をした。
仮に恒一が部下を必要以上に意識していたとしても、それは一方的なものだ。
直はきっと何も知らない。
***
帰宅後、スーツを脱いでも気分は切り替わらなかった。
ネクタイを外し、ソファに腰を下ろしても、頭に浮かぶのは仕事――ではない。
直が資料を差し出したときの声。
会議で褒めた瞬間、わずかに見開かれた目。
あの反応は評価に慣れていない人間のものだった。
恒一はまた直のことを考えていると気づいて愕然とした。
直は部下だ。それだけだと、自分に言い聞かせる。
――もう、誰かに特別な気持ちを抱くなんてことはしないと、決めているのだから。
ふと、昔のことが脳裏をよぎる。
恒一には結婚していた過去がある。
相手は同い年の美奈子。
穏やかで話し方も柔らかく、仕事に疲れ切っていた恒一にとって、そばにいるだけで心が休まる女性だった。
結婚した当初は確かに幸せだった。
休日に並んで歩き、他愛ない話をして、静かな時間を共有する。
そんな生活がずっと続くものだと思っていた。
恒一は、家庭に多くを求めていたわけではなかった。
仕事で張り詰めた神経をほどき、何も考えずに呼吸できる場所。
それを結婚という形で手に入れたかったのだ。
だが、いつからか家は心安らぐ場所ではなくなっていった。
結婚から一年ほど経った頃、美奈子が次第に変わっていったのだ。
子供ができないことへの不安が募り、生活の中心が「妊活」へと傾いていった。
食事、睡眠、仕事の仕方。
帰宅時間や、飲み会の有無まで。
いつの間にか、恒一の生活はすべて管理されるようになった。
家は休む場所ではなく、気を張り続ける場所になっていた。
気を抜けば責められ、応えなければ失望される。
そこにあったのは安らぎではなく、常に何かを求められる空気だった。
恒一はそこまで子供を望んでいなかった。
だが、相手の気持ちに寄り添う余裕は、いつの間にか二人の間から失われていた。
ある日、感情をぶつけ合った末に、彼女は疲れ切った声でこう言った。
「……あなたのこと、最初から、好きじゃなかったのかもしれない」
その言葉は責めるようでもあり、自分自身に向けられているようにも聞こえた。
その一言で、すべてが終わった。
恒一は去って行く美奈子を追わなかった。
追えば、もっと深く傷つくだけだと分かっていたからだ。
あのときの選択を間違いだとは思っていない。
だが――
誰かの心へ踏み込むことは簡単じゃない。
それだけは骨身に染みて学んでしまったのだった。
同じ過ちを繰り返すつもりはない。
そう結論づけて、恒一は照明を落とした。
だが、暗くなった部屋の中でも眠気は訪れなかった。
目を閉じて思い浮かぶのは、こちらを見上げた直の表情ばかりだ。
評価されたことに戸惑う顔。
嬉しさを隠そうとして、結局隠しきれなかった視線。
――やめろ、これ以上考えてはいけない。葉山のことも、この気持ちも。
そう言い聞かせることでしか、今は自分を保てなかった。
だが、「これ以上考えてはいけない」と思うこと自体が、すでに直を強く意識している証拠だとは、まだ気づいていなかった。
恒一は正面を見つめたまま、隣に立つ直の気配を意識していた。
距離が近い。肩が触れそうなほどだ。
仕事中にこんな感覚を覚える相手は初めてだった。
――落ち着け。
恒一は自分にそう言い聞かせる。
この男は部下だ。評価している部下。それだけだ。
直は足元を見ている。
会議のときと同じ、感情を表に出さない横顔。
いつも、距離の取り方を間違えない。
直のプライベートについてそれとなく他の部下に聞いてみた。
けれど会社外での直のことについて知っている者は誰一人いなかった。
直は会社内の噂話に決して加わらないのだという。
それに自分の私生活を聞かれるのを過剰に避けるのだと。
エレベーターが一階に到着し、扉が開く。
二人並んで降りると、直は自然に一歩だけ距離を取った。
「お先に失礼します」
それだけ言って、軽く頭を下げる。
その距離感に虚しくなった。
「……ああ。気をつけて帰れ」
直は一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を逸らして歩き出した。
その背中を恒一は無意識に目で追ってしまう。
――自分が特別な存在だと思っているはずがない。
そう思うことで胸の奥の違和感に蓋をした。
仮に恒一が部下を必要以上に意識していたとしても、それは一方的なものだ。
直はきっと何も知らない。
***
帰宅後、スーツを脱いでも気分は切り替わらなかった。
ネクタイを外し、ソファに腰を下ろしても、頭に浮かぶのは仕事――ではない。
直が資料を差し出したときの声。
会議で褒めた瞬間、わずかに見開かれた目。
あの反応は評価に慣れていない人間のものだった。
恒一はまた直のことを考えていると気づいて愕然とした。
直は部下だ。それだけだと、自分に言い聞かせる。
――もう、誰かに特別な気持ちを抱くなんてことはしないと、決めているのだから。
ふと、昔のことが脳裏をよぎる。
恒一には結婚していた過去がある。
相手は同い年の美奈子。
穏やかで話し方も柔らかく、仕事に疲れ切っていた恒一にとって、そばにいるだけで心が休まる女性だった。
結婚した当初は確かに幸せだった。
休日に並んで歩き、他愛ない話をして、静かな時間を共有する。
そんな生活がずっと続くものだと思っていた。
恒一は、家庭に多くを求めていたわけではなかった。
仕事で張り詰めた神経をほどき、何も考えずに呼吸できる場所。
それを結婚という形で手に入れたかったのだ。
だが、いつからか家は心安らぐ場所ではなくなっていった。
結婚から一年ほど経った頃、美奈子が次第に変わっていったのだ。
子供ができないことへの不安が募り、生活の中心が「妊活」へと傾いていった。
食事、睡眠、仕事の仕方。
帰宅時間や、飲み会の有無まで。
いつの間にか、恒一の生活はすべて管理されるようになった。
家は休む場所ではなく、気を張り続ける場所になっていた。
気を抜けば責められ、応えなければ失望される。
そこにあったのは安らぎではなく、常に何かを求められる空気だった。
恒一はそこまで子供を望んでいなかった。
だが、相手の気持ちに寄り添う余裕は、いつの間にか二人の間から失われていた。
ある日、感情をぶつけ合った末に、彼女は疲れ切った声でこう言った。
「……あなたのこと、最初から、好きじゃなかったのかもしれない」
その言葉は責めるようでもあり、自分自身に向けられているようにも聞こえた。
その一言で、すべてが終わった。
恒一は去って行く美奈子を追わなかった。
追えば、もっと深く傷つくだけだと分かっていたからだ。
あのときの選択を間違いだとは思っていない。
だが――
誰かの心へ踏み込むことは簡単じゃない。
それだけは骨身に染みて学んでしまったのだった。
同じ過ちを繰り返すつもりはない。
そう結論づけて、恒一は照明を落とした。
だが、暗くなった部屋の中でも眠気は訪れなかった。
目を閉じて思い浮かぶのは、こちらを見上げた直の表情ばかりだ。
評価されたことに戸惑う顔。
嬉しさを隠そうとして、結局隠しきれなかった視線。
――やめろ、これ以上考えてはいけない。葉山のことも、この気持ちも。
そう言い聞かせることでしか、今は自分を保てなかった。
だが、「これ以上考えてはいけない」と思うこと自体が、すでに直を強く意識している証拠だとは、まだ気づいていなかった。
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