12 / 44
11.自分だけ、なのか
しおりを挟む
違和感に気づいたのは、朝一番のメールだった。
いつもなら、直接返ってくるはずの確認事項。
それが今日は、先輩である田中を経由して戻ってきた。
内容は簡潔で、修正もない。
《このまま進めてください》という短い一文。それだけだ。
それが、妙に引っかかった。
直は画面を見つめたまま、しばらく指を動かせずにいた。
――あれ?
小さな引っかかりが、胸の奥に残る。
気のせいだ、と片づけようとしても、うまくいかなかった。
午前中の業務でも、同じようなことが続いた。
会議の準備。
資料の差し替え。
進行の確認。
恒一はそこにいる。
同じフロアで、確かに仕事をしている。
なのに。
視線が合いそうになると、自然に外される。
発言の順番も、なぜか自分だけ後になる。
――何かしただろうか。
思い当たることはない。
ミスをした覚えもないし、態度を崩したつもりもなかった。
むしろ恒一に評価されるようになってから、今まで以上に気を引き締めていた。
余計な期待をしないように。
調子に乗らないように。
それなのに。
昼休み、給湯室でお茶を淹れていた。
給湯室は廊下の一角にある小さなスペースだ。
ドアもなく、誰が立ち寄っても不思議ではない場所だった。
カップを手に取ったとき、背後から足音がした。
振り返ると、恒一が立っていた。
反射的に背筋が伸びる。
桐原部長、と名前を呼ぼうとした。
が、直がそうするより先に恒一は踵を返してフロアへ引き返していった。
直はカップを持ったまま、その背中を見送った。
廊下の冷えた空気の中で、湯気だけが、取り残されたように立ちのぼっていた。
――前は、こんなじゃなかった。
避けられている気がするのは自意識過剰だろうか。
三宅が部長だったときは、こんなこと普通だった。
だからこれが上司と部下として、正しい距離なのかもしれない。
午後の会議でも、その印象は変わらなかった。
説明を終え、席に戻る。
無意識に、反応を待ってしまう。
「問題ない」
返ってきたのは、その一言だけだった。
それで終わり。
以前なら、それで十分だったはずなのに。
なぜか今日は胸の奥が静かに沈んだ。
会議後、資料をまとめながら、直は自分の手元に視線を落とす。
――期待していたのか。
そう問いかけて、すぐに首を振る。
違う。
期待なんて、していない。
ただ。
自分だけ、何かを間違えたような。
そんな感覚が、消えないだけだ。
定時が近づき、フロアの人影が少なくなっていく。
恒一の席はすでに空いていた。
いつ帰ったのか、気づかなかった。
直は一人で立ち上がり、エレベーターへ向かう。
鏡面に映る自分の顔は、思ったよりも無表情だった。
――自分だけ?
一瞬、そんな言葉が頭をよぎる。
だが、それ以上考えるのはやめた。
恒一は上司だ。
自分は部下。
距離があるのが普通。
今までが、少し近すぎただけなのかもしれない。
そう言い聞かせて、エレベーターに乗り込む。
扉が閉まる直前、フロアを一度だけ振り返った。
そこには、もう誰もいなかった。
あれほど優しかった理由も、急に距離を置かれた理由も分からないまま、不安だけが胸に残っていた。
いつもなら、直接返ってくるはずの確認事項。
それが今日は、先輩である田中を経由して戻ってきた。
内容は簡潔で、修正もない。
《このまま進めてください》という短い一文。それだけだ。
それが、妙に引っかかった。
直は画面を見つめたまま、しばらく指を動かせずにいた。
――あれ?
小さな引っかかりが、胸の奥に残る。
気のせいだ、と片づけようとしても、うまくいかなかった。
午前中の業務でも、同じようなことが続いた。
会議の準備。
資料の差し替え。
進行の確認。
恒一はそこにいる。
同じフロアで、確かに仕事をしている。
なのに。
視線が合いそうになると、自然に外される。
発言の順番も、なぜか自分だけ後になる。
――何かしただろうか。
思い当たることはない。
ミスをした覚えもないし、態度を崩したつもりもなかった。
むしろ恒一に評価されるようになってから、今まで以上に気を引き締めていた。
余計な期待をしないように。
調子に乗らないように。
それなのに。
昼休み、給湯室でお茶を淹れていた。
給湯室は廊下の一角にある小さなスペースだ。
ドアもなく、誰が立ち寄っても不思議ではない場所だった。
カップを手に取ったとき、背後から足音がした。
振り返ると、恒一が立っていた。
反射的に背筋が伸びる。
桐原部長、と名前を呼ぼうとした。
が、直がそうするより先に恒一は踵を返してフロアへ引き返していった。
直はカップを持ったまま、その背中を見送った。
廊下の冷えた空気の中で、湯気だけが、取り残されたように立ちのぼっていた。
――前は、こんなじゃなかった。
避けられている気がするのは自意識過剰だろうか。
三宅が部長だったときは、こんなこと普通だった。
だからこれが上司と部下として、正しい距離なのかもしれない。
午後の会議でも、その印象は変わらなかった。
説明を終え、席に戻る。
無意識に、反応を待ってしまう。
「問題ない」
返ってきたのは、その一言だけだった。
それで終わり。
以前なら、それで十分だったはずなのに。
なぜか今日は胸の奥が静かに沈んだ。
会議後、資料をまとめながら、直は自分の手元に視線を落とす。
――期待していたのか。
そう問いかけて、すぐに首を振る。
違う。
期待なんて、していない。
ただ。
自分だけ、何かを間違えたような。
そんな感覚が、消えないだけだ。
定時が近づき、フロアの人影が少なくなっていく。
恒一の席はすでに空いていた。
いつ帰ったのか、気づかなかった。
直は一人で立ち上がり、エレベーターへ向かう。
鏡面に映る自分の顔は、思ったよりも無表情だった。
――自分だけ?
一瞬、そんな言葉が頭をよぎる。
だが、それ以上考えるのはやめた。
恒一は上司だ。
自分は部下。
距離があるのが普通。
今までが、少し近すぎただけなのかもしれない。
そう言い聞かせて、エレベーターに乗り込む。
扉が閉まる直前、フロアを一度だけ振り返った。
そこには、もう誰もいなかった。
あれほど優しかった理由も、急に距離を置かれた理由も分からないまま、不安だけが胸に残っていた。
38
あなたにおすすめの小説
『定時後の偶然が多すぎる』
こさ
BL
定時後に残業をするたび、
なぜか必ず同じ上司が、同じフロアに残っている。
仕事ができて、無口で、社内でも一目置かれている存在。
必要以上に踏み込まず、距離を保つ人――
それが、彼の上司だった。
ただの偶然。
そう思っていたはずなのに、
声をかけられる回数が増え、
視線が重なる時間が長くなっていく。
「無理はするな」
それだけの言葉に、胸がざわつく理由を、
彼自身はまだ知らない。
これは、
気づかないふりをする上司と、
勘違いだと思い込もうとする部下が、
少しずつ“偶然”を積み重ねていく話。
静かで、逃げ場のない溺愛が、
定時後から始まる。
元カレ先輩に、もう一度恋をする。
毬村 緋紗子
BL
中学三年になる春。
俺は好きな人に嘘をついて別れた。
そして一年。
高校に入学後、校内で、その元カレと再会する。
遠くから見ているだけでいいと思っていたのに……。
先輩は言った。
「友だちに戻ろう」
まだ好きなのに。
忘れられないのに。
元恋人から始まる、再スタートの恋。
(登場人物)
渋沢 香名人 シブサワ カナト 高1
山名 貴仁 ヤマナ タカヒト 高3
表紙は、生成AIによる、自作です。 (替わるかもです。。)
僕の彼氏は僕のことを好きじゃないⅠ/Ⅱ
MITARASI_
BL
I
彼氏に愛されているはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
「好き」と言ってほしくて、でも返ってくるのは沈黙ばかり。
揺れる心を支えてくれたのは、ずっと隣にいた幼なじみだった――。
不器用な彼氏とのすれ違い、そして幼なじみの静かな想い。
すべてを失ったときに初めて気づく、本当に欲しかった温もりとは。
切なくて、やさしくて、最後には救いに包まれる救済BLストーリー。
Ⅱ
高校を卒業し、同じ大学へ進学した陸と颯馬。
別々の学部に進みながらも支え合い、やがて同棲を始めた二人は、通学の疲れや家事の分担といった小さな現実に向き合いながら、少しずつ【これから】を形にしていく。
未来の旅行を計画し、バイトを始め、日常を重ねていく日々。
恋人として選び合った関係は、穏やかに、けれど確かに深まっていく。
そんな中、陸の前に思いがけない再会をする。
過去と現在が交差するその瞬間が、二人の日常に小さな影を落としていく。
不安も、すれ違いも、言葉にできない想いも抱えながら。
それでも陸と颯馬は、互いの手を離さずに進もうとする。
高校編のその先を描く大学生活編。
選び続けることの意味を問いかける、二人の新たな物語。
続編執筆中
一度も話したことないイケメンのクラスメイトと二人組になったら引くほど執着されてた
時
BL
「はい、じゃあ二人組作って」──あまり人付き合いが得意ではない夏稀(なつき)にとってそれは地獄の言葉。
けれど高校ではちがう。なぜなら新しくできた友達と『二人組』協定を結んだから。
もう二人組なんて怖くないと思っていた矢先、その友達が風邪で欠席。
ほかに組む相手が見つからず、先生と組むことも覚悟する夏稀だったが、そこで声をかけてきたのは美形の転校生──緒川聖夜(おがわ・きよや)だった。
「俺と二人組にならない?」
その一言をきっかけに聖夜は夏稀との距離を急速に縮めてきて──。
執着美形攻め×平凡受けのちょっと不穏な学園BL。
不幸の手紙に“男に告白される”って書いてあったんだが?
すもも
BL
磯城亮輔のもとに、毎日「不幸の手紙」が届く。
書かれた内容はなぜか必ず当たるが、だいたいが地味に嫌なだけの不幸。
亮輔はすっかり慣れきっていた。
しかしある日、こう書かれていた。
「男に告白されるだろう」
いや、ちょっと待て。
その翌日から手紙は呪詛じみていき、命の危機すら感じ始める。
犯人を探し始めた亮輔だが、周囲は頼りにならず——。
これは、少し性格に難ありな主人公が、不幸と告白に振り回される青春BL。
他のサイトにも掲載していますが、こちらは修正したものとなっています。
30歳の誕生日、親友にプロポーズされました。
凪
BL
同性婚が認められて10年。世間では同性愛に対する偏見は少なくなってきた。でも結婚自体、俺には関係ないけど…
缶ビール片手に心を許せる親友と一緒に過ごせればそれだけで俺は満たされる。こんな日々がずっと続いてほしい、そう思っていた。
30歳の誕生日、俺は親友のガンちゃんにプロポーズをされた。
「樹、俺と結婚してほしい」
「樹のことがずっと好きだった」
俺たちは親友だったはずだろ。結婚に興味のない俺は最初は断るがお試しで結婚生活をしてみないかと提案されて…!?
立花樹 (30) 受け 会社員
岩井充 (ガンちゃん)(30) 攻め
小説家
大嫌いなこの世界で
十時(如月皐)
BL
嫌いなもの。豪華な調度品、山のような美食、惜しげなく晒される媚態……そして、縋り甘えるしかできない弱さ。
豊かな国、ディーディアの王宮で働く凪は笑顔を見せることのない冷たい男だと言われていた。
昔は豊かな暮らしをしていて、傅かれる立場から傅く立場になったのが不満なのだろう、とか、
母親が王の寵妃となり、生まれた娘は王女として暮らしているのに、自分は使用人であるのが我慢ならないのだろうと人々は噂する。
そんな中、凪はひとつの事件に巻き込まれて……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる