バツイチ上司が、地味な僕を特別扱いしてくる

衣草 薫

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12.近づかない理由

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 違和感はすべて偶然だと思おうとした。

 フロアで視線が合いそうになった瞬間、恒一がすっと目を逸らした。
 それだけなら忙しいだけだと流せた。

 だが、それが一度や二度ではなかった。

 直はパソコンの画面を見つめながら、無意識に背筋を正す。
 提出予定の資料はすでに完成している。数字の再確認も終わっている。修正依頼が来てもすぐ対応できる状態だ。

 ――なのに。

 恒一から声がかからない。

 以前なら、簡単な確認でも「ちょっといいか」と呼ばれていた。
 今は同じ案件でも別の社員を経由する。

 昼前、隣の席の田中が小声で言った。

「その資料、部長に確認取った?」

「……いえ、まだです」

「あ、じゃあ俺が持っていくよ」

 直は一瞬、自分が行くと言いかけて、口を閉じた。
 自分が直接行く理由が思いつかなかった。

 給湯室でコーヒーを淹れていると、背後から足音がした。
 もしかして、と思って振り向くと視線が合った。

 恒一だった。

 思わず、息を止める。

「……お疲れさまです、部長」

 声をかけると、恒一は一瞬だけ体を強張らせたが、すぐに視線を手元のカップに落とした。

「ああ」

 それだけだった。
 恒一は無言のまま、流しでカップを洗っていた。

 狭い空間にいるのに、距離を感じた。
 必要最低限のやり取りしか許されていないような……。

 胸の奥がひりついた。

 直は自分のマグカップを持ったまま、動けずにいた。
 以前なら、天気の話や業務連絡がもう一言続いたはずだ。

 恒一は何も言わず、先に給湯室を出ていく。

 直は小さく息を吐いた。

「……避けられてる?」

 呟いた言葉が、やけに現実味を帯びて響く。

 理由が思い当たらない。
 ミスをした覚えも、態度を誤った記憶もない。

 会議の評価も悪くなかったはずだ。

 それなのに。

 午後、資料の最終確認を終えても、恒一からの反応はなかった。
 代わりにメールで簡潔な了承が届いただけだ。

《確認した。問題ない》

 短い一文。
 感情の入る余地のない、仕事として完璧な返答。

 直は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 ――自分だけ、なのか。

 他の社員には、普通に接しているように見える。
 だからこそ、余計にわからない。

 帰り際、エレベーター前で恒一と鉢合わせた。
 一瞬、同時に足を止める。

「……先にどうぞ」

 恒一がそう言って、半歩下がった。
 冷たい口調だった。

「あ、いえ……」

 直は慌てて乗り込む。
 恒一が静かに乗り、扉が閉まる。

 沈黙。
 エレベーターの微かな振動の音しかしない。

 直は前を向いたまま、唇を噛んだ。

 自分が何かしてしまったのなら、はっきり言ってほしい。
 仕事での評価が下がったのなら、それでもいい。

 けれど、この理由のわからない距離は――。

 胸の奥がじわりと熱を持つ。

 自分は何を期待しているのだろう。

 上司としての関心か。
 それとも、それ以外か。

 考えかけて、直は首を振った。

 三宅が部長だった頃はこんな感情を抱かなかった。
 評価されない日々には慣れているはずなのに……。

 そう思おうとしても、心はうまく言うことを聞かなかった。

 エレベーターが一階に到着し、扉が開く。

「お疲れ」

 恒一はそれだけ言って、先に歩き出した。

 その背中を見送りながら、直は立ち尽くす。

 避けられている。
 そう考えるには十分すぎるほどの材料が揃っていた。

 胸の奥が、鈍く痛んだ。

 恒一のこの行動が理性から生まれたものだということを、直は夢にも思っていなかった。
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