バツイチ上司が、地味な僕を特別扱いしてくる

衣草 薫

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13.近づいてはいけない

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 やっぱりどう考えても、避けられている。

 最初は、気のせいだと思おうとした。
 忙しいだけかもしれない、と。

 でも明らかに以前と違う。

 自分が何かしてしまったのだろうか。

 直はデスクに座ったまま、画面に表示されたままの資料を見つめる。
 数字も文章も頭に入ってこない。

 ――嫌われた?

 浮かんだ言葉に、すぐ首を振る。

 そんなはずはない。
 恒一は感情で部下を評価する人ではない。
 仕事に問題があれば、はっきり指摘する。今までだってそうだった。

 だとしたら、理由は別にあるはずだ。

 それが何なのかはわからない。
 ただ、理由も分からないまま距離を取られることが、思った以上につらかった。

 昼過ぎ。
 直は資料を一式まとめ、立ち上がった。

 本来なら、メールで済ませてもいい内容だ。
 けれど、今日はそうしたくなかった。

 理由をつけてでも、話をしたかった。

 恒一のデスクに近づくと、彼はキーボードから手を離し、顔を上げた。

「桐原部長、少しお時間よろしいでしょうか」

 一瞬だけ、間があった。

「……何だ」

 声は淡々としている。
 拒絶ではないが、以前の柔らかさもない。

「先日の提案書ですが、先方から追加の条件が出まして。修正案をまとめました」

 用件を告げると、恒一は小さく頷いた。

「置いておいてくれ」

「できれば、一度ご確認いただけると助かります」

 自分でも驚くほど、踏み込んだ言い方だった。
 恒一が視線をこちらに向ける。

「……今か」

「五分ほどで構いません」

 言い切ってしまったあと、心臓が早く打ち始めた。
 逃げ道を自分で塞いだような気がする。

 数秒の沈黙のあと、恒一は椅子から立ち上がった。

「分かった。会議室を使う」

 それだけ言って歩き出す背中を、直は慌てて追った。

 会議室の扉が閉まる。
 二人きりの空間。

 以前なら当たり前だったはずの状況に、妙な緊張が走る。
 暖房を吐き出す空調の音がやけに大きく聞こえた。

 資料を広げ、説明を始める。
 内容は頭に入っているはずなのに、言葉が少しぎこちない。

「……ここですが、リスクを考えると、この数値の方が現実的かと」

「……ああ」

 恒一は頷きながら、資料に目を落としている。
 視線が合わない。

 直は説明を終え、資料を指で押さえたまま、少しだけ間を置いた。

 本題は、ここからだ。

「部長」

「何だ」

「……最近、何か至らない点がありましたでしょうか」

 声がわずかに震えた。

 恒一が顔を上げる。
 驚いたような表情が、一瞬だけ浮かんだ。

「なぜ、そう思う」

 問い返されて、直は言葉に詰まる。

 理由を並べればいいはずなのに、うまく整理できない。
 けれど、黙るわけにはいかなかった。

「以前より……距離を感じる気がして」

 正直すぎたかもしれない。

 恒一の眉が、わずかに寄る。

「仕事上の対応は、変えていないつもりだ」

「はい。でも……」

 そこまで言って、直は言葉を飲み込んだ。

 これ以上踏み込む権利は、自分にはない。
 部下として、越えてはいけない線だ。

「すみません。気のせいでした」

 頭を下げかけた瞬間、恒一の声が聞こえた。

「……気のせいじゃない」

 直は顔を上げる。

 恒一は視線を逸らし、少し間を置いてから続けた。

「俺の問題だ。君には関係ない」

 それ以上は、何も言わなかった。

 はっきりと拒絶されたわけではない。
 けれど、これ以上踏み込ませない、という意思だけは伝わってきた。

「……分かりました」

 直は資料を片づけ、会議室を出た。

 廊下を歩きながら、胸の奥がじんわりと痛む。

 理由は教えてもらえなかった。
 けれど、「関係ない」と言われたことが、思った以上に重かった。

 ――あんなこと言わなければよかった……。

 自分はただの部下だ。それ以上を望む資格なんてない。

 分かっている。
 最初から、そうだったはずだ。

 それでも。

 恒一の方から距離を取られていると分かっていて、近づいてしまった。

 ――どうして、放っておけなかったんだろう。

 昔の自分だったら、上司の態度に左右されずただ黙って課せられた仕事をこなすだけだったはずなのに。

 考えても答えは出ない。

 ただ一つ確かなのは、恒一の存在が自分の中で「ただの上司」ではなくなっているという事実だけだった。
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