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第62話
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ゴードンの言葉を聞いて、カガリは一瞬顔を強張らせた。しかしすぐさま目元を緩めると、「なんのこと?」と小首を傾げる。2人の間に流れる空気には甘さの欠片もなくて、見ているだけで妙な緊張感が伝わってきた。
「――この際、ハッキリさせようか。セラスに危害を加えない間は見逃してやるつもりだったが、あまりにも稚拙で話にならないからな」
「ゴードン、なんの話か分からないけれど、セラスも時間がないと言っているし……皆が大きな声を出すから、人も集まって来たわ。日時か場所を改めるべきじゃない?」
商会長夫人がやんわり仲裁したけれど、ゴードンは引かなかった。
「何をしてもセラスに勝てないからって、どんな手段を講じても良いと思ったか?」
「……私は、何もしてない。姉さんに勝てなかったこともない、今も全てにおいて勝ってるじゃない――だって姉さん、いつも自発的に自分の株を下げるから」
「町中に嘘の噂を流したのはお前と、お前の母親だろう。それを自発的とは、本当に独特な感性をしているよな。昔からそういうところが醜いって言っているのに、一向に学ぼうとしない。お前の家には『鏡』がないから……いや、元々あった『鑑』はもう町の外だから、仕方ないか。もしセラスに育てられていたらと思うと、憐れでならない」
「違う、それは母さんが勝手に……私はそんな、卑怯な真似――」
カガリの顔色は真っ青だ。彼に擁護されていると理解できても、思わず居た堪れない気持ちになるほど顔色が悪い。
俯いた妹は、親指の爪を噛んでいる。その時ふと、彼女がこうして指をくわえる時はストレスがかかった時なのかも知れないと、数年越しに気付いた。
「お前が俺を慕っていることは知っている。でもそれは、セラスに勝ちたいからだろう? 姉から何もかも奪って悦に浸りたいだけだ、浅ましい嫉妬と恋愛感情を一緒にするな」
「違うよ! それだけは絶対に違う! 私は、本気でゴードンのことが……! だから商会長夫妻に結婚の打診もした! でもあなたが姉さん、姉さんって未練たらしく頷かなかっただけ! もうずっと前から、あなたのことが好――」
必死に告白するカガリを見て、誰かがフッと鼻を鳴らした。ゴードンではないし、私でもない。
音の発生源を見やれば、それはつい先ほどまで激昂していた職員の男だった。彼はこんな状況にも関わらずニヤケ顔で――視線が集まったことに気付くと、口元を押さえて「よく言うぜ」と呟いた。
カガリは苦々しい顔をして男を睨みつけたけれど、すぐさまゴードンを見上げて「お願い、信じて」と懇願する。けれど彼はカガリではなく夫人に視線を投げて、ハッキリと告げた。
「――母さん、俺はセラス以外とは絶対に結婚しない」
「なっ……あ、あなた、次期商会長でそんなこと許されるはずがないでしょう!? 商会の歴史が――」
「許さないのは商会の歴史でも世間でもなくて、母さんだろう? 自分は耐えた実績があるから、愛人の存在を許容しないセラスのことを認められないだけじゃないか」
「母親に向かって、なんてことを言うのよ! それにその話、一体どこで――まさかセラス、あなた……」
「セラスはどこにも漏らしてない、俺が自分で調べただけだ。辛かった過去を乗り越えたことは尊敬するし、耐え抜いた結果俺が生まれたことには感謝している。けど母さんがセラスを許さないとなれば、愛人や不妊で負い目のある父さんだって同調するしかない。……とは言え、簡単に認められない気持ちも分からなくはない。だから母さんが居なくなったあとにセラスを娶る、それなら文句ないだろう」
何故かカガリの話から母子喧嘩まで勃発したため、言葉を失った。
夫人はふらりと体を傾けたけれど、なんとか踏み留まって頭を抱える。絞り出すような「だから、早くゴードンから離れてと言ったのよ……!」という声に――そんな資格はないと知りながらも――申し訳ない気持ちになった。
ゴードンはどこまでも一途で、本当に頑固だ。レンの言う通り何年、何十年経っても気持ちが変わらない。それこそ死の間際まで私に求愛していそうな気がする。
夫人は、次期商会長として責任を果たして欲しい、血の繋がった孫の顔を見せて欲しいと強く願っていたはずなのに――それが分かっていたのに、私たちは互いに甘えて離れられなかった。だけどそれはきっと、これからも絶対に変わらなくて。
夫人に結婚を認めてもらえないなら、祝福してもらえないなら、彼女が亡くなった後の世で結ばれよう――今のは、そういうプロポーズと捉えて良いのだろうか。私はその時が来るまで、ゴードンを待ち続けても良い? でも、そんな親不孝が許されるのだろうか……。
「そ、そんなの、ダメに決まっているじゃない! どうしていつも姉さんばっかり!? 私だってゴードンが好きなのに! 姉さんは子供ができないし、今や町の嫌われ者で……それなのに、どうして私じゃいけないの!? 私を選べば、皆が幸せになれるのに!」
カガリの高い声に、ハッと意識を引き戻される。見れば彼女はポロポロと泣いていた。
恐らく本気で、心の底からゴードンのことが好きだったのだろう。一体いつから本気だったのかは分からないけれど――全てにおいて劣る私を羨んでしまうくらいには、好きなのだ。
美しくて、愛想と要領が良くて、誰からも愛されて。両親からの愛情、商会からの信頼と人望を欲しいままにして、町の人気者で。商会長夫妻にも可愛がられて、ゴードンの隣に立って彼の補佐しているらしいカガリ。
確かにゴードンが彼女を選べば、多くの人が幸せになれるのだろう。だけどカガリの言う『皆』には、当然のように私が含まれていない。
できるだけ気にしないようにしていたけれど、やはり長年謂れのない誹りを受けていたせいだろうか? 今まで散々コケにされてきた恨みなのか、私も鬱憤が溜まっていたのかも知れない。
――つい、「ざまあみろ」と思ってしまった。我ながら浅ましい。
でも、カガリは私にないものをたくさん持っているのだ。何もかも持っているのだから、何かひとつ……男くらい渡してくれても良いではないか。
この世に男がゴードン1人という訳ではないし、彼のことだけは諦めてもらわなければ。私は絶対に、死ぬまでゴードンと離れられないのだから。
「事実と異なる噂に興味はない。本当のセラスは俺が知っているんだから、それで十分だ」
「でも、でも……! ――ま、枕営業だってやってる! そんな汚い女と結婚するなんて、商会に泥を……」
「…………なあカガリ、本当に分からないのか?」
「分からないって何!?」
「彼はお前に何を渡されて、こんな真似をしたんだろうな」
ゴードンが彼と言ったのは、もちろんニヤケ顔の職員だ。
「女を犯してこいなんて依頼、リスクだらけじゃないか。並大抵の金品じゃあ動かない――もっと特別で希少価値のあるモノが良いか。……時は金なりと言うし、モノでなくとも時間――体験、労働、奉仕とか?」
「――――どうして? ゴードン……なんで、ゴードンにだけは……誰が話したの? 私がいっぱい頑張っていること、あなたにだけは知られたくなか――」
「頑張っているとは、物は言いようだな。どれだけズルしてもお前がセラスに勝てる日は来ない……商会に泥を塗りたくっているのは誰だ? だから何度も忠告してやったのに――セラスが汚れるから、触ってくれるなと」
カガリは細い声で「そんなに前から知ってたんだ」と囁いた。涙を流したままなのに、不思議と憑き物が落ちたような晴れ晴れとした顔をしている。
見えない何かから解放されたような――それなのに言い知れぬ不安を覚えて、カガリの名を呼んだ。けれど彼女は振り向かず、この場にいる誰にも挨拶をすることなく人混みの中へ消えて行く。
まるで花の蜜に引き寄せられる蝶のように、ヒラヒラと覚束ない足取りだった。
ニヤついていた男はカガリが消えた途端にしゃっきり背筋を伸ばすと、「俺は脅されていただけで、実行に移すつもりはなかった。どうやら誤解があるようだな」と妙なことを主張し始めた。夫人は疲れ切った表情で、「もう、何がなんだか……」と漏らしている。
――正直、あえて核心を外したらしいゴードンとカガリの会話は難解で、まだ上手く理解できていない。ただ、とにかく公衆の面前でゴードンに振られて傷心であろうことは分かる。
でも私の慰めなど、今この世で一番必要としていないだろう。
ゴードンに「俺は彼と話すことがあるから」、夫人には「とにかく今日は帰って休みなさい」と促されて、結局何も買い物できないまま森へ帰るしかなかった。
訳が分からぬままレンに今日一日の出来事を話して、やっぱり「相変わらずバカですね、あなたもゴードンも」と呆れられて――。
私が全て理解したのは、翌朝のこと。血相を変えて森まで訪ねてきたゴードンに渡された、カガリの遺書を見た時だった。
「――この際、ハッキリさせようか。セラスに危害を加えない間は見逃してやるつもりだったが、あまりにも稚拙で話にならないからな」
「ゴードン、なんの話か分からないけれど、セラスも時間がないと言っているし……皆が大きな声を出すから、人も集まって来たわ。日時か場所を改めるべきじゃない?」
商会長夫人がやんわり仲裁したけれど、ゴードンは引かなかった。
「何をしてもセラスに勝てないからって、どんな手段を講じても良いと思ったか?」
「……私は、何もしてない。姉さんに勝てなかったこともない、今も全てにおいて勝ってるじゃない――だって姉さん、いつも自発的に自分の株を下げるから」
「町中に嘘の噂を流したのはお前と、お前の母親だろう。それを自発的とは、本当に独特な感性をしているよな。昔からそういうところが醜いって言っているのに、一向に学ぼうとしない。お前の家には『鏡』がないから……いや、元々あった『鑑』はもう町の外だから、仕方ないか。もしセラスに育てられていたらと思うと、憐れでならない」
「違う、それは母さんが勝手に……私はそんな、卑怯な真似――」
カガリの顔色は真っ青だ。彼に擁護されていると理解できても、思わず居た堪れない気持ちになるほど顔色が悪い。
俯いた妹は、親指の爪を噛んでいる。その時ふと、彼女がこうして指をくわえる時はストレスがかかった時なのかも知れないと、数年越しに気付いた。
「お前が俺を慕っていることは知っている。でもそれは、セラスに勝ちたいからだろう? 姉から何もかも奪って悦に浸りたいだけだ、浅ましい嫉妬と恋愛感情を一緒にするな」
「違うよ! それだけは絶対に違う! 私は、本気でゴードンのことが……! だから商会長夫妻に結婚の打診もした! でもあなたが姉さん、姉さんって未練たらしく頷かなかっただけ! もうずっと前から、あなたのことが好――」
必死に告白するカガリを見て、誰かがフッと鼻を鳴らした。ゴードンではないし、私でもない。
音の発生源を見やれば、それはつい先ほどまで激昂していた職員の男だった。彼はこんな状況にも関わらずニヤケ顔で――視線が集まったことに気付くと、口元を押さえて「よく言うぜ」と呟いた。
カガリは苦々しい顔をして男を睨みつけたけれど、すぐさまゴードンを見上げて「お願い、信じて」と懇願する。けれど彼はカガリではなく夫人に視線を投げて、ハッキリと告げた。
「――母さん、俺はセラス以外とは絶対に結婚しない」
「なっ……あ、あなた、次期商会長でそんなこと許されるはずがないでしょう!? 商会の歴史が――」
「許さないのは商会の歴史でも世間でもなくて、母さんだろう? 自分は耐えた実績があるから、愛人の存在を許容しないセラスのことを認められないだけじゃないか」
「母親に向かって、なんてことを言うのよ! それにその話、一体どこで――まさかセラス、あなた……」
「セラスはどこにも漏らしてない、俺が自分で調べただけだ。辛かった過去を乗り越えたことは尊敬するし、耐え抜いた結果俺が生まれたことには感謝している。けど母さんがセラスを許さないとなれば、愛人や不妊で負い目のある父さんだって同調するしかない。……とは言え、簡単に認められない気持ちも分からなくはない。だから母さんが居なくなったあとにセラスを娶る、それなら文句ないだろう」
何故かカガリの話から母子喧嘩まで勃発したため、言葉を失った。
夫人はふらりと体を傾けたけれど、なんとか踏み留まって頭を抱える。絞り出すような「だから、早くゴードンから離れてと言ったのよ……!」という声に――そんな資格はないと知りながらも――申し訳ない気持ちになった。
ゴードンはどこまでも一途で、本当に頑固だ。レンの言う通り何年、何十年経っても気持ちが変わらない。それこそ死の間際まで私に求愛していそうな気がする。
夫人は、次期商会長として責任を果たして欲しい、血の繋がった孫の顔を見せて欲しいと強く願っていたはずなのに――それが分かっていたのに、私たちは互いに甘えて離れられなかった。だけどそれはきっと、これからも絶対に変わらなくて。
夫人に結婚を認めてもらえないなら、祝福してもらえないなら、彼女が亡くなった後の世で結ばれよう――今のは、そういうプロポーズと捉えて良いのだろうか。私はその時が来るまで、ゴードンを待ち続けても良い? でも、そんな親不孝が許されるのだろうか……。
「そ、そんなの、ダメに決まっているじゃない! どうしていつも姉さんばっかり!? 私だってゴードンが好きなのに! 姉さんは子供ができないし、今や町の嫌われ者で……それなのに、どうして私じゃいけないの!? 私を選べば、皆が幸せになれるのに!」
カガリの高い声に、ハッと意識を引き戻される。見れば彼女はポロポロと泣いていた。
恐らく本気で、心の底からゴードンのことが好きだったのだろう。一体いつから本気だったのかは分からないけれど――全てにおいて劣る私を羨んでしまうくらいには、好きなのだ。
美しくて、愛想と要領が良くて、誰からも愛されて。両親からの愛情、商会からの信頼と人望を欲しいままにして、町の人気者で。商会長夫妻にも可愛がられて、ゴードンの隣に立って彼の補佐しているらしいカガリ。
確かにゴードンが彼女を選べば、多くの人が幸せになれるのだろう。だけどカガリの言う『皆』には、当然のように私が含まれていない。
できるだけ気にしないようにしていたけれど、やはり長年謂れのない誹りを受けていたせいだろうか? 今まで散々コケにされてきた恨みなのか、私も鬱憤が溜まっていたのかも知れない。
――つい、「ざまあみろ」と思ってしまった。我ながら浅ましい。
でも、カガリは私にないものをたくさん持っているのだ。何もかも持っているのだから、何かひとつ……男くらい渡してくれても良いではないか。
この世に男がゴードン1人という訳ではないし、彼のことだけは諦めてもらわなければ。私は絶対に、死ぬまでゴードンと離れられないのだから。
「事実と異なる噂に興味はない。本当のセラスは俺が知っているんだから、それで十分だ」
「でも、でも……! ――ま、枕営業だってやってる! そんな汚い女と結婚するなんて、商会に泥を……」
「…………なあカガリ、本当に分からないのか?」
「分からないって何!?」
「彼はお前に何を渡されて、こんな真似をしたんだろうな」
ゴードンが彼と言ったのは、もちろんニヤケ顔の職員だ。
「女を犯してこいなんて依頼、リスクだらけじゃないか。並大抵の金品じゃあ動かない――もっと特別で希少価値のあるモノが良いか。……時は金なりと言うし、モノでなくとも時間――体験、労働、奉仕とか?」
「――――どうして? ゴードン……なんで、ゴードンにだけは……誰が話したの? 私がいっぱい頑張っていること、あなたにだけは知られたくなか――」
「頑張っているとは、物は言いようだな。どれだけズルしてもお前がセラスに勝てる日は来ない……商会に泥を塗りたくっているのは誰だ? だから何度も忠告してやったのに――セラスが汚れるから、触ってくれるなと」
カガリは細い声で「そんなに前から知ってたんだ」と囁いた。涙を流したままなのに、不思議と憑き物が落ちたような晴れ晴れとした顔をしている。
見えない何かから解放されたような――それなのに言い知れぬ不安を覚えて、カガリの名を呼んだ。けれど彼女は振り向かず、この場にいる誰にも挨拶をすることなく人混みの中へ消えて行く。
まるで花の蜜に引き寄せられる蝶のように、ヒラヒラと覚束ない足取りだった。
ニヤついていた男はカガリが消えた途端にしゃっきり背筋を伸ばすと、「俺は脅されていただけで、実行に移すつもりはなかった。どうやら誤解があるようだな」と妙なことを主張し始めた。夫人は疲れ切った表情で、「もう、何がなんだか……」と漏らしている。
――正直、あえて核心を外したらしいゴードンとカガリの会話は難解で、まだ上手く理解できていない。ただ、とにかく公衆の面前でゴードンに振られて傷心であろうことは分かる。
でも私の慰めなど、今この世で一番必要としていないだろう。
ゴードンに「俺は彼と話すことがあるから」、夫人には「とにかく今日は帰って休みなさい」と促されて、結局何も買い物できないまま森へ帰るしかなかった。
訳が分からぬままレンに今日一日の出来事を話して、やっぱり「相変わらずバカですね、あなたもゴードンも」と呆れられて――。
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