花の手紙をひとひら

月森こもれ

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さようなら、わたしの町

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旅立ちの朝、空は雲ひとつない晴れ模様だった。
けれど、フィリーヌの胸の中は春の空にかすむ花曇りのような重さがあった。

花屋の扉を開けたとたん、朝露を含んだ花の香りがふわりと鼻先をかすめる。まるで、すべての花が「おはよう」と言ってくれているようだった。

「よく眠れたかい?」

おばあさんが、いつも通りにパンとミルクを用意してくれていた。
その変わらぬ仕草が、今朝だけは胸にしみる。

「……うん。ちょっとだけ、夢を見たよ」

フィリーヌはそう答え、小さく笑った。
どこまでも日常のままに接してくれるおばあさんの優しさが、かえって涙を誘いそうで、ミルクを飲むふりをして、視線をそらした。



朝ごはんのあと、最後の準備をした。旅支度といっても荷物はほとんどなく、小さな包みがあるだけ。
けれどもうひとつ、大切なものがあった。

フィリーヌは、小さな花かごに花束を入れた。
旅立ちのとき、きっとこの籠の中の花達が自分を支えてくれる。

花屋の前に出ると、そこには、町の人たちがぽつぽつと集まり始めていた。
パン屋の奥さんが、紙袋を手にして駆け寄る。

「フィリーヌちゃん。これ、道中に  食べてちょうだいね。お腹がすいたら、うちのパンと町を思い出してね?」

袋の中には、甘いバターと香ばしいクルミのブリオッシュが三つ入っていた。

仕立て屋のマダムは、小さな布の巾着を差し出した。

「ヒナギクの刺繍、貴方が好きだったでしょ。わたしの若い頃の図案で作ったのよ。向こうで使ってちょうだい。」

そして子どもたちは、色とりどりの野の花を束ねて、元気いっぱいに声をあげた。

「応援花束だよー!」

「町のみんな、フィリーヌのことが大好きだから!」

「向こうでもいっぱい笑ってね!」

フィリーヌは、そのひとつひとつを受け取りながら、胸の奥に何かがいっぱいになっていくのを感じていた。
お礼の言葉が喉の奥でつかえてしまい、うまく出てこなかった。


そして、最後におばあさんの前に立った。
言葉はなかった。
けれど、ふたりの目が合った瞬間、すべてが通じ合った気がした。
おばあさんはそっとフィリーヌの髪をなで、微笑んだ。

「ありがとう。あんたが来てから、この花屋には春がずっと咲いてたよ」

フィリーヌは、かごを抱きしめたまま、首をふる。

「わたしのほうこそ、ありがとう。おばあさんと花たちと過ごせて幸せだった」

ふたりはそっと、静かに抱きしめ合った。
その瞬間、春の風が花の香りと涙の香りを町の通りに運んでいった。




コツ……コツ……。
馬の蹄の音が、石畳の向こうから聞こえてきた。
黒い馬車がローズ通りに現れると、人々は自然と道を開けた。
役人が無言で扉を開け、あたりは一瞬、時間が止まったような静けさに包まれた。


フィリーヌは、小さな花籠を抱えて、深くお辞儀をした。

赤い屋根の花屋、緑のブドウ棚、朝露の光る石畳
そこには見送る人々の、やさしくあたたかい笑顔があった。

馬車の扉が閉まり、世界が静かに切り替わる。
車輪が動き出し、ローズ通りが遠ざかっていく。

「さようなら、わたしの町」

心の中でそう呟いたとき、目から一粒の涙が流れ落ちる。
フィリーヌは花籠をぎゅっと抱きしめた。いくつもの花束と、愛された日々の記憶が、しっかりと詰まっている花籠を——。


馬車が動き出し、町の景色がゆっくりと遠ざかっていく。

 

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