I/F〜君の声を聞かせて

桔梗

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俺は、お前がいなくなったあの日からずっと、永遠に夜の中を漂っている。

今でもふとした瞬間に、お前の声が聞こえてくる気がする。

心のいちばん柔らかいところに触れて、
「朔」と呼ぶ、あの穏やかな声。

ーーもっと呼んでくれ。もっと、もっとーー。俺が、お前の声を忘れないように。

もし、あの夜がお前の最期ならーー
永遠に夜が続けばいい。夜明けなんて、来なければいい。

夜明けが来るたびに、
あの頃の俺たちが少しずつ遠ざかっていくようで。

どうにかして繋ぎ留めるように、俺は今日もお前との思い出を手繰り寄せて夜の中を漂う。


***


「なぁなぁ!今日転校生来るらしいぜー!」

同じクラスの竹本がやけにはしゃいでいる。

「この時期にか?」

「あぁ、それがさ、現役アイドルらしいぜ!?まぁ残念ながら、男らしいけどな」

(男のアイドル?何言ってんだコイツ)

「…は?何言ってんのお前」

「ほんとなんだってば!」

竹本が拗ねたように眉を顰める。

「はいはい、面白い面白い」

「あ、桐生!お前信じてねーだろ!」

「どうでもいい」

そう言って、机に突っ伏す。
耳の奥には、まだ紫苑の声が残っている。

「朔」

呼ばれた気がして、思わず顔を上げた。
当然、そこには誰もいない。

(……バカだな)

紫苑はもう、ここにはいない。

そのとき、教室の扉が開いた。

担任が、少しだけ空気を改めた声で言う。

「えー、静かに。今日からこのクラスに転校してくる生徒を紹介する」

ざわり、と空気が揺れた。
誰かが小さく「マジで来た」と囁く。

扉の向こうから、足音が聞こえる。

一歩。
二歩。

そして現れたのは、竹本の話を信じざるおえないほどに、整った顔立ちの少年だった。

「じゃあ、百合川、自己紹介しようか」

「……百合川依織です」

その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

低くて、柔らかくて、
でも、どこか影を含んだ声。

紫苑と、似ている。あまりにもーー。

依織は黒板に名前を書く。
“百合川 依織”。

チョークの音が、やけに大きく響いた。

「……よろしく、お願いします」

たったそれだけの挨拶なのに、
その声が、耳の奥のいちばん柔らかい場所に触れる。

紫苑の声と、重なる。

(やめろ)

心の中で、叫ぶ。
似ているだけだ。
別人だ。

わかっているのに、
わかっているからこそ、痛い。

「な!!ほんとだっただろ?」

前の席の竹本が俺の方を振り返り、嬉しそうにしている。

「……桐生?」

竹本が、心配そうに俺の顔を覗き込む。

「お前、顔色やばいぞ…大丈夫か?」

「……あぁ」

今自分が何をしているのかわからなくなるほどに、百合川の声に全神経を集中させていた。

クラスの女子がざわめいている。

「ねぇ、あの…百合川くんだよね?」

「え?」

「ほら、あの……最近ニュースになってた……」

「……ああ。NEBULAの?」

その名前が、ひそやかに、しかし確実に教室の空気を切った。

「そうそう。NEBULA!メンバーの一人が、誹謗中傷で自殺したって……」

「マジで……?」

「うん。そのあと活動休止して…百合川くんも脱退したんだよね…」

「なんかテレビの前とイメージ全然違うね」

「確かに、なんか暗いよね」

小さな声なのに、不思議とよく聞こえる。

依織は、何も聞こえないふりをしているのか、少し下を向いている。
その瞳はどこか所在なさげで、痛々しく見えた。

「知ってる人もいるかもしれないが」

担任が言葉を挟む。

「百合川はな、実は芸能界で活動していたんだが、今回事情があってこの学校に転校することになったんだ。みんな、百合川のこと頼んだぞ」

「はーい!」

クラス中の声がこだました。

その中で、俺だけが、まるで暗闇に取り残されたみたいに、ただ百合川依織を見ていた。

***


昼休みに入った途端に、視線が一斉に百合川依織へ向く。

「……百合川くん?」

最初に声をかけたのは、クラスの女子だった。

「NEBULAの……本物だよね?」

百合川は、一瞬だけ固まる。

「……えっと……」

言葉を探す間もなく、別の声が割り込む。

「やっぱそうだよね!テレビで見たことある!」

「えー!すごーい!」

「まだ事務所入ってるのー?」

「グループって解散するのー?」

質問が、水を浴びせるように降ってくる。

百合川は、ただただその場を動くことができずに取り囲まれている。

「……あの……」

声を出そうとした瞬間、廊下の方がざわついた。

「マジで百合川いるって」

「やば、見に行こ」

他のクラスの生徒が、扉の外から覗き込んでくる。

スマホを構えた奴もいる。

「うわ、本物だ」

「ねえ、写真撮っていい?」

「サインとかさ……」

百合川の顔から、血の気が引いていく。

「……すみません……」

百合川は席を立ち上がり、その場をなんとか抜け出そうとする。

「ちょっと……」

「えー!ちょっと待ってよー!」

「なんで逃げるのー?百合川くーん!」

誰かが、百合川の腕に触れた。

その瞬間、百合川の肩がびくりと跳ねる。

「やめ……っ」

俺は、気づいたら、その細い腕を掴んでいた。

「離せ」

低い声で言う。

クラスが、一瞬、静まる。

「コイツ、困ってんだろ。お前らも少しは考えろよ」

視線が、俺に集まる。

「……関係ねーだろ」

「芸能人なんだしさ」

「見るくらいいいじゃん」

周りは迷惑そうにしている。

「人を見世物みたいに扱うな」

俺の声は、自分でも驚くほど、鋭かった。
百合川は、俺を見ている。

そのとき、少し後ろから、聞き慣れた明るい声が割って入った。

「桐生の言うとおりだぞー!」

竹本だった。

腕を組んで、いつもの軽い顔じゃなく、珍しく真面目な目をしている。

「お前らさ、転校初日だぞ?いきなり囲んで質問攻めとか、普通に怖いだろー」

さらに、別のクラスメイトが続く。

「てかさ、百合川くん、顔色めっちゃ悪いじゃんー」

「そうだよ、かわいそうだよー!」

百合川は、俯いたまま、何も言わない。
その姿が、余計に、教室の罪悪感を煽る。

「おい」

俺が声をかけると、百合川の大きな黒い瞳いっぱいに、俺が映っている。
俺は、そのまま、百合川の手首を引いた。

「行くぞ」

「……え」

「静かなとこ行くぞ」

教室を抜け、廊下を進む。

「おーい!昼飯はー?」

竹本の声が聞こえた。

「食ってくるわー」

俺はできるだけ大きな声で答えた。

「オッケー!次遅れんなよー!」

竹本は大声で手を振っている。

相変わらず百合川は黙り込んでいて、俺よりも少し小さなその手は、ひどく冷たかった。

***

体育館の裏を抜け、使われていない渡り廊下を通ると、その先に、錆びたフェンスと小さな花壇に囲まれた、ほんの三畳ほどの中庭があるのだ。

昼休みでも、ここには人はほとんど来ない。
俺の秘密の場所だ。

「お前、嫌いなもんある?」

「…え…?」

「食えないもんあるのかって」

「えっと…野菜は苦手…です…」

「子供かよ。了解、ちょっとここで待ってな」

「…はい」

百合川は、そう答えてから、そっとベンチに腰を下ろした。
背中を丸めるその仕草が、ひどく小さく見える。

俺は中庭を出て、校舎の中へ戻り購買へ向かった。
購買は昼休みの熱気でごった返していた。

棚の前で立ち止まり、手当たり次第にパンを取る。
カレーパン、メロンパン、焼きそばパンーー。

「お、桐生じゃん。お前が購買いんの珍しくね?」

レジの横で、別のクラスのやつが声をかけてきた。

「そういえば、さっき、百合川と一緒に歩いてたよな?」

「……ああ」

「やっぱあいつ、芸能人なの?」

「俺は、知らねーよ」

「なんだよつめてーなー」

会話を切って、さっさと会計を済ませる。

中庭に戻ると、百合川はさっきと同じ姿勢で座っていた。

「待たせたな」

「……いえ」

購買で買ってきたパンの入った袋を差し出す。

「野菜入ってねーやつ選んできたけど…」

百合川は、少しだけ目を見開いてから、小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます。お金…」

「いいよ、なんか無理やり引っ張ってきたみたいなもんだし」

少し距離をあけて百合川の隣に腰を下ろす。

「…え、でも…」

「いいから」

「…ありがとう…」

「ああ」

パンの袋を開く音が、やけに大きく響く。

百合川は、メロンパンをちぎりながら、ちらりと俺を見た。

「……あの……」

「ん?」

「……さっき……助けてくれて……」

言葉を選ぶみたいに、少し間を置く。

「……ありがとうございました」

「いや、別に…」

「……でも……なんで……?」

百合川は、パンを持つ手を止めた。

視線が、俺の指先をなぞる。

「……放っとけなかっただけだから」

百合川は、それ以上聞かなかった。
しばらく沈黙が流れる。

「……ここ……」

百合川が、周囲を見回す。

「……本当に静かですね」

「ああ」

「……好きなんですか……こういうとこ」

「そうだな」

正確には、“一人になれる場所”が好きなんだけど。

百合川の声が、ほんの少し、柔らかくなる。

「……いいですよね」

百合川は、パンを食べながら、空を見上げている。

雲が、ゆっくり流れていく。

「…百合川」

百合川はハッとして、俺を見る。

「ここのこと、誰にも言うなよ?」

百合川は、一瞬だけ驚いて、それから小さくうなずいた。
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