セレナーデ

桔梗

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episode5

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たぶんそれは――怒りでも、同情でもない。
もっと厄介で、名前のつけようがないものだった。

「……食えよ」

俺がぶっきらぼうに言うと、百合川は小さく頷いて、またメロンパンをちぎった。
甘い匂いが、踊り場の埃っぽい空気を少しだけ柔らかくする。

時雨はパン袋をガサガサ鳴らしながら、わざと軽い声で続けた。

「ねえ、もう一個だけ聞いていい?」

時雨が、軽い調子のまま問いかける。

「NEBULAにさ……“戻りたい”って思ったりする?」

空気がまた止まった。
俺の中で、反射的に「やめろ」が喉まで上がる。

けど、百合川は逃げなかった。

「……あります」

ぽつりと、言った。

「……でも」

百合川は、唇を噛んでから続ける。

「……“戻りたい”って思うのは、NEBULAにじゃなくて……」

そこで一度、言葉を区切った。
そこから百合川は言葉を発さなくなった。

「もういいよ、百合川。無理して答えなくていいから」

そう言って、俺は百合川の顔を覗き込む。
時雨も「なんかごめん…」と、少し申し訳なさそうな顔をしている。

「……ごめ……」

「謝るなって」

「……」

百合川は、口を閉じた。

蓮が、静かに立ち上がった。

「……昼、もう終わる」

蓮はそう言って、俺たちを急かすように見ている。
蓮なりの気遣いだろう。

教室へ戻る廊下で、視線の針がまた刺さってくる。
いつまでも騒ぎ散らかして、本当に暇な奴らだ。

「ねえ~、さっきどこ行ってたの?」

「百合川、やっぱ桐生くんと仲良いんだ~」

「てか、芹沢君と藤代君も一緒じゃん!」

「え、なんかイケメンばっかで尊い!」

耳に入る言葉全てが薄っぺらくて、気持ちが悪い。

百合川は顔を伏せて、歩幅を小さくする。
俺は無意識に、半歩だけ前に出た。

(……俺はこいつを守ってるつもりか?)

ーー違う。
俺はただ、こういうのが嫌いなだけだ。

***

放課後。

部活の連中がわらわら廊下へ流れていく中で、俺はカバンを掴んだ。
竹本がさっそく声をかけてくる。

「朔!今日、購買でカツサンド買えたから一個やる!」

「いらねぇ」

「えー!優しさを受け取れよー」

「いいから、お前は早く部活行けよ」

「え~冷たい!」

竹本とふざけ合っていると、急に大きな声が聞こえてきた。

「IORI!」

そこに立っていたのは、マスクをつけた背の高い男と、女子が数人。
うちの学校の生徒じゃない。制服が違う。

「マジでここにいたんだ!」

「ねえ、IORI~言だけお願い!」

「なんで脱退したのー?」

「芸能界、いつ復帰する~?」

言いたい放題の質問が飛び交い、
「SHUとは本当に何もなかったのー?」という女子の声が聞こえた瞬間、
これまで俯いていた百合川がパッと顔をあげ、震えているのがわかった。
顔は青ざめて正気を失ったようだった。

百合川の喉が、ひくりと動いた。

「……やめ……」

その声は、あまりにも小さくて、騒ぎの中に簡単にかき消されてしまう。

「ねえ、SHUってさ、ほんとに彼氏だったの?」
「自殺って、やっぱ百合川のせいって噂あるよね~?」

無遠慮な言葉が、刃みたいに飛んでくる。

百合川の指が、制服の袖を強く握りしめた。
白くなるほど力が入っている。

(……くそ)

俺の中で、何かが切れる音がした。

「おい」

低い声が、自分でも驚くほどはっきり出た。

数人がきょとんとして、俺を見る。

「なに?ファン?」

「新しい彼氏じゃない?笑」

誰かが笑った。

俺は百合川の前に立つ。
意識しなくても、そうなっていた。

「関係ねぇだろ。ここは学校だ。部外者は帰れ」

「はぁ?なに仕切ってんの」

マスクの男が一歩前に出る。

「俺ら、ファンだし。知る権利あんだよ?」

「ねぇよ」

即答だった。

「本当にファンだってんならな、こんなふうに押しかけてきて、こいつがこんな顔になるまで問い詰めるなんてことしねえよ!お前ら、こいつの今の顔見えてんのかよ!ちゃんと、こいつ自身を見てんのかよ!」

自分でも、こんな言葉が出ると思わなかった。
でも、今はどうでもいい。

百合川の肩が、小さく震えているのが背中越しに伝わってくる。
百合川は無意識だろうか、俺の制服の裾を掴んでいた。

「百合川。お前は、何も言わなくていい」

俺は振り返らずに言った。

「こんなやつ相手にする価値ないから」

その隙に、竹本が廊下から走ってきた。

「先生ー!こっちです、こっち!」

どこに行ったのかと思ってたら、教師を呼びに行ってたようだ。

「おい!お前らなんだ!ここは部外者立ち入り禁止だぞ!」

教師の声に騒いでいた奴らが「やべ!行くぞ!」と言って走り去っていった。

廊下に、急に静寂が落ちた。

さっきまでのざわめきが嘘みたいに引いていって、
残ったのは、百合川の荒い呼吸と、床に反射する夕方の光だけだった。

「……大丈夫か?」

俺がそう言うと、百合川は一瞬だけ顔を上げ、すぐにまた俯いた。

「……ごめ……」

「謝るなって言ってんだろ」

語気が強くなりすぎたのに気づいて、少しだけ息を整える。

「……怖かっただけだろ」

百合川の喉が、またひくりと鳴った。

「……ぼく……」

言葉が、そこで止まる。

蓮と時雨が、少し離れたところで空気を読むように立っていた。
竹本も、教師に状況を説明しながら、ちらちらこちらを気にしている。

教師がこちらへ駆け寄ってくる。

「大丈夫か、百合川。怪我は?」

百合川は一瞬、言葉が出てこない様子で、ただ小さく首を振った。

「……だいじょうぶ、です」

声は震えていたが、必死に平静を装っているのがわかった。

教師は俺たちと百合川を一度見渡してから、深く息をついた。

「……とりあえず、二人は一旦、職員室に来なさい」

廊下を歩く間、周囲の生徒たちがひそひそとこちらを見てくる。
だが教師が先頭を歩いているせいか、誰も近寄ってこなかった。

職員室の奥の、応接用の小さな部屋に通される。
百合川は椅子に座ると、ようやく力が抜けたのか、肩を落とした。

しばらくすると、校長と担任がやってきた。

「……すみません……ご迷惑をおかけして……」

「君が謝る必要はない」

校長がはっきり言った。

「学校側の管理体制が甘かった。部外者が簡単に入り込める状況にしてすまない」

百合川は目を見開いた。
責められると思っていたのだろう。

「今日の件は、念の為警察にも連絡しておきます。それから、警備の強化をします」

校長は淡々と、しかし迷いなく続ける。

「記者やファンを名乗る人物が来た場合、対応はすべて学校が行うので、君は一切、対応しなくていいですからね」

百合川の膝の上にあった拳が、ぎゅっと強く握られていた。

「……本当に……いいんですか……?」

「いいに決まっている。君はこの学校の生徒だ。芸能人以前に、守られるべき一生徒だ」

その言葉が、部屋の空気を変えた。

「……ありがとう、ございます……」

百合川の目が、わずかに潤む。

「……それから、桐生、よくやった。だが、無理はするな。相手がもし危険なものを持っていたら、危なかったぞ。ああ言うときは必ず近くにいる大人を呼ぶこと。いいな?」

担任が俺をまっすぐに見つめる。

「はい」

百合川が、ちらりと俺を見る。

その目に、さっきまでの怯えとは違う、戸惑いと、ほんのわずかな安心が混ざっていた。

***

職員室を出ると、すでに日が傾いていた。
廊下の窓に差し込む夕陽が、床をオレンジ色に染めている。

俺たちは並んで校門へ向かう。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、校内は静かだった。

門を出ると、蓮と時雨、竹本が少し離れたところで待っていた。

「おーい!大丈夫だった?」

時雨と竹本が手を振っている。

「百合川、大丈夫か?」

蓮も声をかける。
相変わらず無愛想だが、その言葉にははっきりとした気遣いがあった。

「……うん、大丈夫。ありがとう……」

時雨が肩をすくめる。

「まーでもさ、さっきの朔、まじでナイトだったよ?」

「うるせ」

「百合川君もびっくりしたでしょ?あんな朔、滅多に見られないよ~」

百合川は少し考えてから、ゆっくり首を振った。
それから、小さく笑う。

「……うれしかったです」

その一言で、場の空気がふっと柔らいだ。

時雨が一瞬だけ黙り込み、次の瞬間にはいつもの調子で笑う。

「ほら~、朔。ちゃんと報われてるじゃん」

「……うるせ」

照れ隠しみたいに吐き捨てると、百合川が少しだけ目を伏せた。

「……あの……」

言いかけて、言葉を探すみたいに一度止まる。

「……ぼく、さっき……何も言えなくて……」

「いいって言っただろ」

百合川は、少しだけ驚いた顔をしてから、ゆっくり頷く。

「……はい」

「じゃ、俺は時雨と帰るから。朔、百合川頼んだ」

蓮がそう言って歩き出すと、
時雨も「じゃーねー!」と大きく手を振り、二人は歩いていった。

竹本も部活に戻るらしく、「俺も行くわ!」と駆けていく。

校門の前に残ったのは、俺と百合川だけだった。

一気に、音が消えたみたいに静かになる。

夕焼けに照らされた百合川の横顔は、少し疲れているようで、それでもさっきよりは穏やかだった。

「……行くか」

「……うん」

「家まで、送る」

「え……?」

「一人で帰らせるの危ねぇから」

「……でも……」

「いいから」

言い切ると、百合川は小さく頷いた。

並んで歩き出す。
影が、長く伸びて重なった。
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