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第48話 手が届いたよ!
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花菜さんがようやく手を放してくれて、俺はほっと息をついた。
そしてそれを横から見ているしかなかった絵里さんが、難しい顔で言う。
「うむむ……里奈にはちゃんと手が届くのに」
いやいや、里奈は合唱部で一番背が低いですから。最年少だし……
……絵里さん、もしかして里奈以外にはちゃんと手が届かない?
「やっぱり男子……男の子は、難しいかな」
途中で言い直した絵里さん。似合わない低めの声で「男の子」を強調する。
でも、この人に「男の子」って言われてもその、何か……ちょっと。
しばらく「うむむ」と言っていた絵里さん。
「あ、そうだ!」
急にぱっと笑顔になった。
「立ったままなのもなんだし、座ろうよ。ねっ」
そう言ってすとんと座る。
どうしたんだろう、急に。
「……そうだね。輝くん、座ろう」
花菜さんがそう言ったので、一緒に座った。
なんだか微妙な間があった気がするが、なんだろう。
見れば、絵里さんのうるむような目が、こちらと同じ高さに見えている。
……。
なるほど。
絵里さん、これを狙って……
身長170センチくらいの花菜さんと俺。そこに一緒に立っていたら、絵里さんの身長の低さが際立ってしまう。
座ってしまえばあんまり差がなくなる――ということ、か。
微妙に間があった花菜さんの反応は、絵里さんのそんな考えに気付いたからか。
絵里さん……身長低くても、別にいいのに。
それはそれで、あなたの個性なんですから。無理して花菜さんの真似さえしなければ、十分魅力的な人ですよ。
……。
いや――無理して花菜さんの真似をするのも含めて、絵里さんの個性か。
・・・・・・
その場に顔を合わせて座る3人。
美青年な雰囲気の花菜さん、お人形さんみたいな絵里さん。そんなふたりと顔を合わせている、俺。
左右どちらを見ても、なんだか現実離れした姿が見える。
絵里さんが、俺の方に膝を向けた。
「ね、輝くん。私びっくりしたよ、輝くんが独唱やろうとしてる、って聞いた時は」
そう言いながら、俺の顔を無垢な瞳で見つめる。
急に、胸をやさしくなでられたような感じがして、思わず俺は視線を逸らした。
「昨日琴音も言ってたけど、体育館に椅子並べただけの会場だもん。小さなホールならともかく――正直、それで大丈夫かなー、って思ったよ」
それで大丈夫かな――か。
俺は当然、ある程度の自信を持ってはいる。
でも……正直、「確信」は持てていない。
本当は、確信を持って臨まなければならないのに。
確信がない……つまり、声が全体に届くと信じ切れていないわけだ。もし声が届かなければ、客席では今なにをしているのか分からずしらけるだけ――
「でも、大丈夫そう! ね、花菜!」
「……!」
絵里さんの元気で無造作な言葉に、その気持ちはぶち壊された。
「そうだね。私たちが心配するべきなのは輝くんじゃなくて、私たち自身の方みたいだ。今日の合わせは、私たちの声量が全然足りてなかったから」
「うんうん。今日の輝くんの声、大きかったねー」
絵里さんの顔を見ると、無垢な瞳が見つめ返してくる。
思わず視線を逸らして……
もう少し、見ていたいなと思って、ためらいつつ視線を戻した。
そんな俺の動きを不思議に思ったのか、絵里さんはちょっと首を傾げた。再び視線が合った俺に、絵里さんはやわらかな表情をみせる。
こんなに見つめていても、嫌がったり茶化したりしないで、見ていてくれる。
それなら……
あと少しだけ……見つめ合ってもいいだろうか。胸をやさしくなでるような瞳の、絵里さんと。
独唱の成功に確信がないこの気持ちを、今ひと時だけでも慰めてくれる――ような気がする。もちろん本人はそんな事、考えてないはずだけど。
「今日の輝くんの声――」
まだ俺を見つめ続けながら、絵里さんが言う。
「ただ声が大きい、じゃなかったね。自信があった。並大抵の人じゃ持てないくらいの自信――というより、『確信』かな。練習期間は短かったはずなのに」
……絵里さんはさらりと、「確信」と言った。
花菜さんが絵里さんの言葉を拾って言う。
「今日を含めると、輝くんが練習したのは実質6日だね。それだけで、あれだけの声量で歌える自信をつけていた。もっとずっと練習していた私たちの方が、音もリズムもあやふやだったなんて、ね」
いや、それは……
合唱はひとりでやるものじゃない。周りの仲間の音も聞いて、合わせて歌うものだから――
「いえ、僕が入ったせいで乱れたんだと思います。自分の音ばかり、思い切り出していましたから」
「ううん、そうじゃないよ」
絵里さんはあまりにもすんなりと、俺の言葉を打ち消す。
「私たちが、自分の音に自信を持ててなかった。だからああなっちゃったの。もちろん、ある程度の自信は――あったつもり、だったけど」
じっと俺を見つめたまま話す絵里さん。
「私たちの何倍か、とっても強い自信を持った輝くんの声に、私たちがこれまで持ってた自信を信じれなくなっちゃったの。今日の合わせでダメだったのは、そういうところ」
そして驚くほど簡単に、そう言い切ってしまった。
「輝くんの声、かっこよかったよ。『俺についてこい』って感じの、強い声。私、圧倒されちゃったな。こんな人いるんだー、って」
見つめられたままそんなふうに言われて、少し耳が熱くなる。
それから絵里さんは、ずいっとこちらに身を乗り出した。
「ねえ、これまでどんな練習をしてきたの?」
両手を握って、きらきらした目でそう言う。
でも別に、大した事は――
「そう簡単にはできないよね、あんな歌い方。だって怖いもん」
……。
「あの声量でひとつでもミスをしたら――自分ひとりのせいで、みんなで歌っていた歌を壊しちゃう。私には怖くてできないよ」
そう言った絵里さんに続いて、花菜さんも同じように言う。
「今日輝くんは『怖い』って感じてなかったね。『怖い』と思ったら、その瞬間に声量が――声が小さくなる。どうしても。輝くんの声には、それがなかった」
「……」
いや――そうじゃない。
怖くないわけがない。短期間の練習で、自信を持てていないところはいくつもあった。
そういうところを歌う時は、当然――怖かった。
怖がっていないように聞こえるのは、これまで――何度も襲って来る恐怖心をひたすら押し返して歌ってきたから。
ここに来るまでの間に、そういう心の綱渡りをし続けた結果なんだ。
絵里さんが一段と身を乗り出して、瞳と言葉で問いかけてくる。
「ね、輝くん、どうなの? 大変な練習をしてきたんでしょ? 今まで。昨日今日でできるわけないもん」
「私も、知りたい。よければ聞かせてくれないかな?」
花菜さんもそう言う。
今まで――中学時代の他の部員にも、内心を話したことはなかったけれど。
目前で、ふたりの先輩に見つめられて――これまでしてきた心の綱渡りのことを、話してみようかな……と、思った。
……きれいな瞳に、ちょっと甘えたくなった気分もあって。
「そうですね――」
・・・・・・
小4から合唱をやってきた俺が、いちばん頑張ったのは中学時代。
でも初めは、俺は部内でいちばんの問題児だった。
部活の前も後も、そして部活中もふざけて遊んでばかり――みんなを、特に先輩方を困らせるばかりだった。
それはもう怒られ続けたし、やる気がないなら出て行ってくれと何度も言われた。
中2になって後輩ができてからも下級生気分でふざけ続け、先輩としての自覚を持てと厳しく言われたが、いまいちピンと来なくて、そのまま過ごした。
転機となったのは、声変わり。それまでソプラノでもトップクラスの高音で歌えていた俺は、その時から大好きだったソプラノの音が出せなくなった。
部内に男子の先輩がいなかったので、俺の声変わりに合わせて男声パートが新設された。
幸か不幸か、後輩には男子が合計5人いた。俺に続いて声変わりした5人の後輩たちは、すぐ男声パートに入ってきた。男声パートは高音のテノール2人と、低音のバス3人に分けられた。
曲がりなりにも上級生の俺は、テノールのパートリーダーとなった。下級生の気分を引きずっていた俺が、急に立場だけ上級生にされてしまったのだ。
そして女子部員が多かったその合唱部において、男声パートは深刻な人数不足だった。
責任――おそらく生まれて初めて、それを知った。
楽譜の読めない俺は、パート練習では後輩をただ立たせたままキーボードを弾くのに苦心した。合わせでは音を間違え、忘れ、声が出ず――さんざんな迷惑をかけた。
その「迷惑」とは、2種類あった。
ひとつの迷惑は――まともに歌えない男声パートが他パートにかける、迷惑。
もうひとつの迷惑は――まともに歌えないくらい不十分なパート練習しかできない俺が後輩にかける、迷惑。
責任を、感じた。俺がしっかりしなければ、と。
俺はまず、読めない楽譜をどうにか読めるよう手を加えた。音階が分からないなら全部書く。長さが分からないならあらかじめ音符と記号をよく見て書く。
それから、決意をして歌った。
誰よりも早く音を取り、絶対に間違えない。キーボードがうまく弾けないなら、自分の声でその代わりをすればいい。
合わせでは、それまでよりぐっと声量を大きくし、後輩たちに正しい音を届け続けた。これが正しい音だ、これに合わせろ――と。
それはもう、悲惨なものだった。そんなに簡単に「絶対に間違えない」なんてできるわけがない。生ぬるい練習ばかりしてきた俺には、無理だった。
何度も俺自身が間違え、大声量の間違った音に合わせはめちゃくちゃになった。ずらりと並んだ部員たち全員の歌を、俺ひとりで台無しにする。それは恐怖だった。
大きな声を出すくせに、俺は自信がない場所でわずかに声量を小さくした。わざとじゃない、反射だ。自信がなければ、声は小さくなる。
そして――パートリーダーの俺が自信がないのだ、後輩も自信はなかった。そういう時こそ俺が頼りになるべきなのに、逆に声量を小さくしてしまった。
この人の声を聴いていれば大丈夫――そう思って歌っていた後輩の横での、わずかな声量の減少。それに後輩は敏感に反応した。ぐんと声量が下がり、つられて俺も声量を下げ――練習を、止めてしまった。
ひとりで全員をぶち壊す――その怖さ。それは抗いがたいものだった。
でも、初めに決意をしていた。「誰よりも早く音を取り、絶対に間違えない」と。
怖さを押し返して、歌った。自信がなくても絶対に声量を下げず、絶対に正しい音を、絶対に正しいリズムで――
他パートが間違えて止まっても、みんなが止まってひとりだけになっても、指揮者が止めるまで歌い続けた。俺が歌い続けていれば、それを基準にして他パートが戻って来られるかもしれないと思って。
いつからかは分からない。俺は誰よりも早く音を取り、絶対に間違えなくなった。自信がなく、失敗の恐怖を感じても声量は下がらなくなった。
それだから――みんなは俺を、頼りにしていたのだろうか。
俺以外の全員一致で部長に指名され……また別の苦労をすることになった。
そんな事をやってきて、今の俺が出来上がった。
・・・・・・
「……なるほど。簡単じゃないね」
花菜さんが静かに言った。
「今日の合わせ――『怖い』って思わずに歌っているように聞こえたけど、そうじゃなかったんだ」
それから花菜さんは、きまりの悪そうな顔をする。
「ごめんね、輝くん。……そこまで、聴けていなかった」
それから絵里さんも、顎に手を当てながらつぶやくように言った。
「責任感――それで歌ってきたんだ。100%の自信があるんじゃなくて、少しくらい自信が揺らいでいても表には出さない……そういうことだったんだ。分からなかった……」
いや――
花菜さんと絵里さんはそう言うが――そう言えること自体、すごいことだ。
合わせでみんな一緒に歌う中で、花菜さんと絵里さんはそこまで聴いていた。そう、そこまできっちり聴かれていた。
元から落ち着いてしっかりした印象の花菜さん、一見ただの面白い人のように見える絵里さん。
……でもこのふたりは、部活ではしっかり聴けている人。
合唱はみんなで歌うもの。歌うのは当然。そして同じくらい、聴けなければだめだ。互いの声を聴いて、合わせるのだから。
ふたりの先輩は、他の仲間の声を聴けている。たぶん陽和と琴音が部長と副部長になる前には、花菜さんと絵里さんがみんなを頼もしく引っ張っていた時代があったんだ。
絵里さんは、また顔を上げてうるむような瞳で見つめてきた。
「輝くん、やさしそうな顔してるけど、大変な道を歩いてきたんだね」
そう言った絵里さんはそばに寄ってきて、おもむろに右手を伸ばしてくる。
「よしよし、えらいえらい」
絵里さんの手が、なでなでと頭にやさしく触れる。
それから絵里さんは花菜さんを見て、元気よく言った。
「ほら、手が届いたよ!」
そしてそれを横から見ているしかなかった絵里さんが、難しい顔で言う。
「うむむ……里奈にはちゃんと手が届くのに」
いやいや、里奈は合唱部で一番背が低いですから。最年少だし……
……絵里さん、もしかして里奈以外にはちゃんと手が届かない?
「やっぱり男子……男の子は、難しいかな」
途中で言い直した絵里さん。似合わない低めの声で「男の子」を強調する。
でも、この人に「男の子」って言われてもその、何か……ちょっと。
しばらく「うむむ」と言っていた絵里さん。
「あ、そうだ!」
急にぱっと笑顔になった。
「立ったままなのもなんだし、座ろうよ。ねっ」
そう言ってすとんと座る。
どうしたんだろう、急に。
「……そうだね。輝くん、座ろう」
花菜さんがそう言ったので、一緒に座った。
なんだか微妙な間があった気がするが、なんだろう。
見れば、絵里さんのうるむような目が、こちらと同じ高さに見えている。
……。
なるほど。
絵里さん、これを狙って……
身長170センチくらいの花菜さんと俺。そこに一緒に立っていたら、絵里さんの身長の低さが際立ってしまう。
座ってしまえばあんまり差がなくなる――ということ、か。
微妙に間があった花菜さんの反応は、絵里さんのそんな考えに気付いたからか。
絵里さん……身長低くても、別にいいのに。
それはそれで、あなたの個性なんですから。無理して花菜さんの真似さえしなければ、十分魅力的な人ですよ。
……。
いや――無理して花菜さんの真似をするのも含めて、絵里さんの個性か。
・・・・・・
その場に顔を合わせて座る3人。
美青年な雰囲気の花菜さん、お人形さんみたいな絵里さん。そんなふたりと顔を合わせている、俺。
左右どちらを見ても、なんだか現実離れした姿が見える。
絵里さんが、俺の方に膝を向けた。
「ね、輝くん。私びっくりしたよ、輝くんが独唱やろうとしてる、って聞いた時は」
そう言いながら、俺の顔を無垢な瞳で見つめる。
急に、胸をやさしくなでられたような感じがして、思わず俺は視線を逸らした。
「昨日琴音も言ってたけど、体育館に椅子並べただけの会場だもん。小さなホールならともかく――正直、それで大丈夫かなー、って思ったよ」
それで大丈夫かな――か。
俺は当然、ある程度の自信を持ってはいる。
でも……正直、「確信」は持てていない。
本当は、確信を持って臨まなければならないのに。
確信がない……つまり、声が全体に届くと信じ切れていないわけだ。もし声が届かなければ、客席では今なにをしているのか分からずしらけるだけ――
「でも、大丈夫そう! ね、花菜!」
「……!」
絵里さんの元気で無造作な言葉に、その気持ちはぶち壊された。
「そうだね。私たちが心配するべきなのは輝くんじゃなくて、私たち自身の方みたいだ。今日の合わせは、私たちの声量が全然足りてなかったから」
「うんうん。今日の輝くんの声、大きかったねー」
絵里さんの顔を見ると、無垢な瞳が見つめ返してくる。
思わず視線を逸らして……
もう少し、見ていたいなと思って、ためらいつつ視線を戻した。
そんな俺の動きを不思議に思ったのか、絵里さんはちょっと首を傾げた。再び視線が合った俺に、絵里さんはやわらかな表情をみせる。
こんなに見つめていても、嫌がったり茶化したりしないで、見ていてくれる。
それなら……
あと少しだけ……見つめ合ってもいいだろうか。胸をやさしくなでるような瞳の、絵里さんと。
独唱の成功に確信がないこの気持ちを、今ひと時だけでも慰めてくれる――ような気がする。もちろん本人はそんな事、考えてないはずだけど。
「今日の輝くんの声――」
まだ俺を見つめ続けながら、絵里さんが言う。
「ただ声が大きい、じゃなかったね。自信があった。並大抵の人じゃ持てないくらいの自信――というより、『確信』かな。練習期間は短かったはずなのに」
……絵里さんはさらりと、「確信」と言った。
花菜さんが絵里さんの言葉を拾って言う。
「今日を含めると、輝くんが練習したのは実質6日だね。それだけで、あれだけの声量で歌える自信をつけていた。もっとずっと練習していた私たちの方が、音もリズムもあやふやだったなんて、ね」
いや、それは……
合唱はひとりでやるものじゃない。周りの仲間の音も聞いて、合わせて歌うものだから――
「いえ、僕が入ったせいで乱れたんだと思います。自分の音ばかり、思い切り出していましたから」
「ううん、そうじゃないよ」
絵里さんはあまりにもすんなりと、俺の言葉を打ち消す。
「私たちが、自分の音に自信を持ててなかった。だからああなっちゃったの。もちろん、ある程度の自信は――あったつもり、だったけど」
じっと俺を見つめたまま話す絵里さん。
「私たちの何倍か、とっても強い自信を持った輝くんの声に、私たちがこれまで持ってた自信を信じれなくなっちゃったの。今日の合わせでダメだったのは、そういうところ」
そして驚くほど簡単に、そう言い切ってしまった。
「輝くんの声、かっこよかったよ。『俺についてこい』って感じの、強い声。私、圧倒されちゃったな。こんな人いるんだー、って」
見つめられたままそんなふうに言われて、少し耳が熱くなる。
それから絵里さんは、ずいっとこちらに身を乗り出した。
「ねえ、これまでどんな練習をしてきたの?」
両手を握って、きらきらした目でそう言う。
でも別に、大した事は――
「そう簡単にはできないよね、あんな歌い方。だって怖いもん」
……。
「あの声量でひとつでもミスをしたら――自分ひとりのせいで、みんなで歌っていた歌を壊しちゃう。私には怖くてできないよ」
そう言った絵里さんに続いて、花菜さんも同じように言う。
「今日輝くんは『怖い』って感じてなかったね。『怖い』と思ったら、その瞬間に声量が――声が小さくなる。どうしても。輝くんの声には、それがなかった」
「……」
いや――そうじゃない。
怖くないわけがない。短期間の練習で、自信を持てていないところはいくつもあった。
そういうところを歌う時は、当然――怖かった。
怖がっていないように聞こえるのは、これまで――何度も襲って来る恐怖心をひたすら押し返して歌ってきたから。
ここに来るまでの間に、そういう心の綱渡りをし続けた結果なんだ。
絵里さんが一段と身を乗り出して、瞳と言葉で問いかけてくる。
「ね、輝くん、どうなの? 大変な練習をしてきたんでしょ? 今まで。昨日今日でできるわけないもん」
「私も、知りたい。よければ聞かせてくれないかな?」
花菜さんもそう言う。
今まで――中学時代の他の部員にも、内心を話したことはなかったけれど。
目前で、ふたりの先輩に見つめられて――これまでしてきた心の綱渡りのことを、話してみようかな……と、思った。
……きれいな瞳に、ちょっと甘えたくなった気分もあって。
「そうですね――」
・・・・・・
小4から合唱をやってきた俺が、いちばん頑張ったのは中学時代。
でも初めは、俺は部内でいちばんの問題児だった。
部活の前も後も、そして部活中もふざけて遊んでばかり――みんなを、特に先輩方を困らせるばかりだった。
それはもう怒られ続けたし、やる気がないなら出て行ってくれと何度も言われた。
中2になって後輩ができてからも下級生気分でふざけ続け、先輩としての自覚を持てと厳しく言われたが、いまいちピンと来なくて、そのまま過ごした。
転機となったのは、声変わり。それまでソプラノでもトップクラスの高音で歌えていた俺は、その時から大好きだったソプラノの音が出せなくなった。
部内に男子の先輩がいなかったので、俺の声変わりに合わせて男声パートが新設された。
幸か不幸か、後輩には男子が合計5人いた。俺に続いて声変わりした5人の後輩たちは、すぐ男声パートに入ってきた。男声パートは高音のテノール2人と、低音のバス3人に分けられた。
曲がりなりにも上級生の俺は、テノールのパートリーダーとなった。下級生の気分を引きずっていた俺が、急に立場だけ上級生にされてしまったのだ。
そして女子部員が多かったその合唱部において、男声パートは深刻な人数不足だった。
責任――おそらく生まれて初めて、それを知った。
楽譜の読めない俺は、パート練習では後輩をただ立たせたままキーボードを弾くのに苦心した。合わせでは音を間違え、忘れ、声が出ず――さんざんな迷惑をかけた。
その「迷惑」とは、2種類あった。
ひとつの迷惑は――まともに歌えない男声パートが他パートにかける、迷惑。
もうひとつの迷惑は――まともに歌えないくらい不十分なパート練習しかできない俺が後輩にかける、迷惑。
責任を、感じた。俺がしっかりしなければ、と。
俺はまず、読めない楽譜をどうにか読めるよう手を加えた。音階が分からないなら全部書く。長さが分からないならあらかじめ音符と記号をよく見て書く。
それから、決意をして歌った。
誰よりも早く音を取り、絶対に間違えない。キーボードがうまく弾けないなら、自分の声でその代わりをすればいい。
合わせでは、それまでよりぐっと声量を大きくし、後輩たちに正しい音を届け続けた。これが正しい音だ、これに合わせろ――と。
それはもう、悲惨なものだった。そんなに簡単に「絶対に間違えない」なんてできるわけがない。生ぬるい練習ばかりしてきた俺には、無理だった。
何度も俺自身が間違え、大声量の間違った音に合わせはめちゃくちゃになった。ずらりと並んだ部員たち全員の歌を、俺ひとりで台無しにする。それは恐怖だった。
大きな声を出すくせに、俺は自信がない場所でわずかに声量を小さくした。わざとじゃない、反射だ。自信がなければ、声は小さくなる。
そして――パートリーダーの俺が自信がないのだ、後輩も自信はなかった。そういう時こそ俺が頼りになるべきなのに、逆に声量を小さくしてしまった。
この人の声を聴いていれば大丈夫――そう思って歌っていた後輩の横での、わずかな声量の減少。それに後輩は敏感に反応した。ぐんと声量が下がり、つられて俺も声量を下げ――練習を、止めてしまった。
ひとりで全員をぶち壊す――その怖さ。それは抗いがたいものだった。
でも、初めに決意をしていた。「誰よりも早く音を取り、絶対に間違えない」と。
怖さを押し返して、歌った。自信がなくても絶対に声量を下げず、絶対に正しい音を、絶対に正しいリズムで――
他パートが間違えて止まっても、みんなが止まってひとりだけになっても、指揮者が止めるまで歌い続けた。俺が歌い続けていれば、それを基準にして他パートが戻って来られるかもしれないと思って。
いつからかは分からない。俺は誰よりも早く音を取り、絶対に間違えなくなった。自信がなく、失敗の恐怖を感じても声量は下がらなくなった。
それだから――みんなは俺を、頼りにしていたのだろうか。
俺以外の全員一致で部長に指名され……また別の苦労をすることになった。
そんな事をやってきて、今の俺が出来上がった。
・・・・・・
「……なるほど。簡単じゃないね」
花菜さんが静かに言った。
「今日の合わせ――『怖い』って思わずに歌っているように聞こえたけど、そうじゃなかったんだ」
それから花菜さんは、きまりの悪そうな顔をする。
「ごめんね、輝くん。……そこまで、聴けていなかった」
それから絵里さんも、顎に手を当てながらつぶやくように言った。
「責任感――それで歌ってきたんだ。100%の自信があるんじゃなくて、少しくらい自信が揺らいでいても表には出さない……そういうことだったんだ。分からなかった……」
いや――
花菜さんと絵里さんはそう言うが――そう言えること自体、すごいことだ。
合わせでみんな一緒に歌う中で、花菜さんと絵里さんはそこまで聴いていた。そう、そこまできっちり聴かれていた。
元から落ち着いてしっかりした印象の花菜さん、一見ただの面白い人のように見える絵里さん。
……でもこのふたりは、部活ではしっかり聴けている人。
合唱はみんなで歌うもの。歌うのは当然。そして同じくらい、聴けなければだめだ。互いの声を聴いて、合わせるのだから。
ふたりの先輩は、他の仲間の声を聴けている。たぶん陽和と琴音が部長と副部長になる前には、花菜さんと絵里さんがみんなを頼もしく引っ張っていた時代があったんだ。
絵里さんは、また顔を上げてうるむような瞳で見つめてきた。
「輝くん、やさしそうな顔してるけど、大変な道を歩いてきたんだね」
そう言った絵里さんはそばに寄ってきて、おもむろに右手を伸ばしてくる。
「よしよし、えらいえらい」
絵里さんの手が、なでなでと頭にやさしく触れる。
それから絵里さんは花菜さんを見て、元気よく言った。
「ほら、手が届いたよ!」
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