月の砂漠に銀の雨《二人の騎士と異世界の神子》

伊藤クロエ

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【第二部】東の国アル・ハダール

63 沐浴と閨の支度

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 ウルドに促されて、脱衣所的な小部屋の椅子に倒れ込むように腰を下ろす。いかん、なんか本当に旅の疲れが一気に来たような身体の重さだ。
 するとウルドが目の前に膝をついて靴や服を脱がせて代わりに薄い浴衣よくいを着せてくれたりと、実に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。そして尻に根が生えたみたいにだらっと座り込んでた僕を引っ張り上げてくれる。

 ウルドは僕より十歳ぐらい年上な感じで、背は高いけど結構痩せててひょろっとした印象だ。でも意外に力はあるようで、そのままウルドに連れられてよたよたと蒸し風呂ハマームに移動した。
 ハマームの奥のタイル張りの台に座らされて、温かいお湯をかけてもらったり身体や髪を洗ってもらう。ものすごく気持ちがいい。

「神子様、長旅で肌が随分と乾燥しているようです。香油をお塗りしてもよろしいですか?」

 静かなウルドの声に僕はただ頷いて「……おねがいします……」と答えた。そしてウルドの手で柔らかな布を何枚も重ねて敷いた台にうつ伏せに寝かせられる。
 あー、なんかこのまま寝てしまいそうだ……と思っていたら、どこからか少しひんやりとした空気が入ってきてハマームの温度が下がった。そしてすごくいい匂いがしてくる。なんだろう、初めて嗅ぐ匂いだ……。

 神殿のハマームではよくラヴァンドラというラベンダーに似た匂いが焚き込められていた。確か疲れが取れて気持ちが落ち着ける効果がある、って。
 僕がこっちの世界に来たばかりの頃、いろいろ気持ちが不安定でグダグダだった時にサイードさんがラヴァンドラのオイルでマッサージしてくれたのを思い出す。
 でも今のこの香りはあれよりもっと濃密で、重い。

 濡れた浴衣よくいが張りつく身体の上にふわり、と柔らかな布が掛けられる。そしてウルドの手が僕の疲れた足やふくらはぎを揉んで、温かいオイルを塗り込んでいってくれた。

 ウルドの手や指はサイードさんと比べるとずっと細くて感触が全然違う。でもその分繊細というか、触れる場所とか強さとか、本当に細かいところまで気配りしてくれているような感じがする。
 腰帯を結んで貰った時も、サイードさんは割と勢いよくシュシュッ、とやってしまう感じだったけど、ウルドに頼むとすごく丁寧に布の襞の一つ一つまで綺麗に整えてくれたしな。
 
 今もうつらうつらしながらだらっと寝そべっている僕の身体の足の指の間や膝の裏やくるぶしのでっぱりとか、細かいところの一つ一つに丁寧に香油を伸ばして労わってくれている。
 それだけじゃなくて、僕がいつも着替えとか風呂とかを見られるのを嫌がっていたことをちゃんと分かってくれてて、マッサージする場所を変えたり濡れた浴衣をずらしたりする度に、上から掛けてくれてる布もちゃんと動かして隠してくれてる。
 お陰で、なんだかすごい際どいところも洗われたりなんだりしてたような気もするけど、そうやってすごく気を遣ってくれてるのが伝わってきたからあんまり気にならなかった。というよりほんと、何か言ったり聞いたりする気力がまったく出ない……。サイードさんと同じでウルドに任せておけば大丈夫な感じだ。
 あ~~多分、ウルドって本当に有能というか、ものすごく大当たりな近従さんなんじゃないだろうか……ありがたいな……。

 身体をひっくり返されて仰向けになって、なんだか女の人のエステみたいな感じで顔や首や耳の裏や髪や頭皮にまで丁寧にオイルを伸ばされて、それがもうあまりに気持ちよすぎていつの間にか完全に寝落ちしてしまっていたようだった。

「神子様」

 突然ウルドの声がして、僕はハッと我に返った。ヤバイ、よだれ出てなかった?

「お休みのところ申し訳ございません。お立ちになれますか?」
「う、うん。だ、だいじょぶ……れす」

 さりげなく口元を拭って身体を起こす。するとウルドが大きな布を肩に掛けてくれて、さっき服を脱いだ小部屋に連れて行ってくれた。
 そこでまた座って髪を乾かしてもらう間、別の傍仕えの人が果物や飲み物を持ってきてくれた。礼を言ってありがたくご馳走になる。
 何か柑橘系のものを絞った水がすごく美味しくて一気に飲んだ。それから綺麗に薄皮の剥かれたオレンジっぽい果物を一つ食べる。でもそこでなんかもういっぱいになってしまった。
 時間的にもすごくお腹が減っていて当たり前だと思うんだけど食欲がない。なんとなく猫背になってため息をつくと、後ろで髪を拭いてくれていたウルドに言った。

「ごめん、ちょっと疲れたからもう寝ていいかな」
「もちろんでございます」

 優しく微笑んでウルドが僕を立たせ、軽くて柔らかい夜着を着せてくれた。でもふとそれを見て、あれ? って思う。
 こっちの世界で僕がいつも寝る時に着てるのは、昔の洋画とかに出てきそうなガウンの襟のないやつというか、前で合わせて腰のところで紐でゆるく縛る感じのやつだ。膝下ぐらいの丈でズボンがないから下半身がスースーして落ち着かないことこの上ないんだけど、これはこういう物らしいのでどうしようもない。

 そして今着せられたのは、確かに神殿に泊まっていた時に着てたのと形は一緒なんだけど、それよりもっとすべすべしてて、あと袖口や合わせの部分に布と同じ色でなんか模様みたいなのが刺繍されているものだった。
 え、なんかこれえらいオシャレというか、豪華すぎないか?
 ああ、でもおフランスの貴族とかは男の人でも刺繍とかフリルとかいっぱいあったみたいだし、こういうすごい宮殿に住んでる人はみんなこんなの着て寝てるのかな……と思い直す。

 なんにしても本当に疲れてて、ウルドに聞く気力も湧いてこない。
 ただぼけっと立って完全にお任せしてたら、ウルドは夜着と共布でできた細いリボンみたいな紐をゆるく腰に巻いて、それはそれは丁寧に綺麗に結んでくれた。そして腰のところでくしゃっとなった夜着の襞まで整えてくれる。
 それから刺繍のされた立派なスリッパみたいな室内履きを履かせてくれて、最後に髪まで梳いて、まるでこれから舞踏会にでも行く人みたいに完璧に綺麗に整えてくれた。いや、だからもう僕、寝るだけなんだけど。

「お歩きになれますか?」
「……うん……だいじょうぶ……」

 これでやっと布団に飛び込める……と思いながら小部屋を出ようとすると、なぜかウルドがその場に跪いて深々と頭を下げた。
 まるで「いってらっしゃいませ」って挨拶してるみたいな恰好に思わず頭にハテナマークが飛ぶけど、まあすぐそこのベッドに行くくらい一人で行けるし、ウルドも風呂場の後片付けとかあるからかな、って思って寝台のある部屋に一人で戻った。

 すでに外は夜になってて、部屋のあちこちに置かれたランプが柔らかな光を灯している。そのまま寝台に向かって歩いて行くと、寝台の向こう、大きな窓のところに誰かが立っているのに気づいて心臓が止まりそうになった。

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