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【第二部】東の国アル・ハダール
85 宰相さんの懸念
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「それはさておき、先程の狼藉ものたちの件ですが」
と言って宰相さんが向き直った。僕も慌てて頷く。
「ええと、神殿がどうとか言っていたように聞こえましたが……」
「彼らは東の国境近くにある神殿の者たちです。彼らの主張は『慈雨の神子である貴方は宮殿ではなく神殿に住まうべきである』ということと、一刻も早く彼らの神殿へお越し願いたい、ということです」
「え、慈雨の神子って神殿にいないといけないんですか?」
正直、ちょっと焦った。え、嫌だな、って。
だってようやくこの宮殿での日課に慣れてきたところだし、それに神殿に行けば騎兵団の団長さんであるサイードさんやカハル皇帝の主騎であるダルガートと離れ離れになるわけだし。
ああ、でも確かに『神子』なら神殿に、っていうのも少しはわかる……んだけど……うわぁ……どうしよう……。
という考えが顔に出ていたんだろうか。宰相さんが苦笑して言った。
「いえ、慈雨の神子が神殿に住まなければいけないという決まりはありませんな。なにせ皇帝カハルの御代も先のジャハール王に連なる代も、神子がいらっしゃるのは初めてのこと。前例がなければ当然規則も伝統もありまぬゆえ」
「あ、なるほど……」
そういえばそれぞれの国へ言った神子が何をしていたかとかは各国で秘匿されてて、あの白髭の神殿長さんでさえ全然知らないって言ってたもんな。
「それをあのようになりふり構わず押しかけて来たのは、彼らの神殿がある一帯がひどく渇水したままだから、というのです」
「えっ、それ本当なんですか!?」
「確かに、かの地方では河川の水も戻らず牧草の生育も遅れたままだと報告には上がっておりまする」
「じゃ、じゃあなんとかしないと……」
だってこのイシュマール大陸全土、中でも僕が選んだアル・ハダール国内に水を行き渡らせるのが僕の仕事なんだし。
それが出来ていないのなら、やっぱり僕が行かないと……行って具体的に何をすればいいのかはわかんないんだけど……。
すると宰相さんは逸る僕を抑えるようにそっと手を上げた。
「もちろん、何か手当てをしなければならぬのは確かなこと。けれど今は時期が悪い」
「え?」
そういえばさっき宰相さんがダルガートと話していた時もそう言ってたような……。と思っていたら、宰相さんが僕を見て頷いた。
「今は貴方を守護するサイード殿がおられませぬゆえ」
「あ……」
そう、さっき鍛錬中にカーディム将軍も言ってた『守り役がいない』というのはそのことだ。
今、サイードさんは異民族の侵入で不穏な気配があるという西の方へ、騎兵団の人たちを連れて行っているのだ。どうやら僕たちが旅の途中で泊めてもらった羊飼いのおじいさんたちが住んでる辺りらしい。
「水量が戻っていない地域はアーケルという名の地方領主が治める領地で、東の国境に近い。東方の蛮族が幾度も国境を越えて侵入している場所にございます。それを防ぐためにこちらも手を打ってはおりますが、なかなか……。そのようなところへサイード殿も連れずに神子殿を行かせるわけには参りませぬ」
「……そうですか……」
いや、でも水不足ってすごく深刻だよね。ましてやあんな風になりふり構わず宮殿にまで怒鳴り込んでくるってやっぱりただ事じゃないし……。
僕の脳裏に日本史で習った一向一揆とか米騒動についての記事が思い浮かぶ。
「……でもやっぱり一度行ってみないといけないと思います」
今日みたいに数人押しかけてくるくらいならいいけど、もしもっと大規模な抗議行動になったり本当に飢饉でも起きたりしたら、ちょっとまずいんじゃないだろうか、ということを話すと、宰相さんは頷いた。
「確かにおっしゃる通りにございます」
「それに、水の恵みをもたらすのが僕の唯一の仕事なんだから、それだけはちゃんと遂行しないといけないと思うんです」
「……決意は固いと……?」
そう尋ねる宰相さんに、僕は強く頷く。すると宰相さんはしばらく考え込むと小さくため息をついて言った。
「……確かにこのまま放置しておいてよい問題でもありませぬな。それではダルガートをお傍に。大変、不本意ではありますが」
「えっ!? いいんですか?」
だって、一国の君主でありながら単騎でどこへでも行こうとしてしまう上に、護衛たちの馬をあっという間に置いていってしまうほどタフな乗り手のカハル皇帝を守れるのはダルガートぐらいしかいない、って聞いたような……。
すると宰相さんが「背に腹は代えられませぬゆえ」と言った。その声音の低さに、恐る恐る聞いてしまう。
「……あの、確かに陛下の護衛である彼を私事で使ってしまうのは申し訳ないんですが……」
「いえ、そういう意味ではありませぬ」
宰相さんがわずかに目を細めて言った。
「……神子殿はあの者を大層信頼しておられるようですが、わたくし個人としては、彼が神子殿をお守りする役目に相応しい者だとは思ってはおりませぬゆえ」
「えっ」
な、なんで!? だって皇帝陛下を一番傍で守る主騎に抜擢されてるんだから、腕前だって人柄……はともかく信用度は最高レベルって評価されてるってことだよね?
宰相さんとダルガートって仲が悪いっていうけど、だからなのかな……と思いつつ、宰相さんの言葉が結構意外でもあった。
だってこの人、能力があれば個人的な好き嫌いは仕事に持ち込まないタイプに見えたから。アドリーさんも、宰相さんは身分やなんかに関わらず優秀な者はどんどん登用していく人だって言ってたし。
すると、宰相さんの目が不意に鋭く光って僕を見据えた。
「神子殿は、彼が先の王を裏切ったことを御存知か」
「え……あ、はい。確かダルガートが先王の暴政に愛想をつかして真っ先に城門を開けてカハル皇帝が帝都を陥落させるきっかけを作ったとか……」
「左様」
すっ、と息を吸って宰相さんが言う。
「……わたくしは皇帝カハルに見出され、信頼を頂いた御恩に報いるために、この国をもっとも優れた国にしようと身命を賭す覚悟にございます」
その真剣な眼差しと言葉に、ごくりと唾を呑み込む。
「だがあれは違う。今は皇帝カハルに忠誠を誓ってはいても、いつ裏切るかわかりませぬ」
えっ、そんな、と思わず上げそうになった声を、宰相さんが鋭い視線で抑え込んだ。
「確かに、先の王が暴君でなければ主君を裏切ることはなかったでしょう。騎士にとって主君に背くことは己の名を辱め、九世消えぬ恥辱を残すこと。けれどあれにはあれの信念があり、ただそれにのみ従って生きているからこそ、裏切者の謗りを恐れもせずにジャハール王を退け、皇帝カハルをイスマーンへと迎え入れたのでしょう」
僕がおずおずと頷くと、宰相さんはまっすぐに僕を見つめる。
「あの男は、昔から誰に何を言われようが、世の常識も世間の評判もまるで意に介さない。つまりは地位や名誉や外聞や、騎士としての碧血丹心の誓いでさえあれを縛ることはできず、彼自身がその気になりさえすれば反逆などという騎士として最も恥ずべき大罪さえ平気で犯してしまう」
そんな男をどうして信用することができましょうか、と宰相さんは言った。
「もしも皇帝カハルが彼の信念に適う王でなくなれば、また彼は裏切ることでしょう。己が君主として最も好ましいと思う者を頭上に戴くために」
宰相さんの鋭利な刃物のようなその言葉に、僕は何も言い返すことができなかった。それは単なる好き嫌いや性格が合う合わないなんかじゃなくて、冷静に、一人の公人として出た言葉のように感じたからだ。
「……神殿へはダルガートとヤハル、そして数名の手練れを同行させましょう。もしもサイード将軍が戻られればすぐにそちらへ向かって頂きます。わたくしとしても神子殿への最大限の助力は惜しみませぬ。何かございましたらどうぞ何なりとお申し出くださいませ」
そう言って頭を下げる宰相さんに、僕はただ黙って頷くしかできなかった。
と言って宰相さんが向き直った。僕も慌てて頷く。
「ええと、神殿がどうとか言っていたように聞こえましたが……」
「彼らは東の国境近くにある神殿の者たちです。彼らの主張は『慈雨の神子である貴方は宮殿ではなく神殿に住まうべきである』ということと、一刻も早く彼らの神殿へお越し願いたい、ということです」
「え、慈雨の神子って神殿にいないといけないんですか?」
正直、ちょっと焦った。え、嫌だな、って。
だってようやくこの宮殿での日課に慣れてきたところだし、それに神殿に行けば騎兵団の団長さんであるサイードさんやカハル皇帝の主騎であるダルガートと離れ離れになるわけだし。
ああ、でも確かに『神子』なら神殿に、っていうのも少しはわかる……んだけど……うわぁ……どうしよう……。
という考えが顔に出ていたんだろうか。宰相さんが苦笑して言った。
「いえ、慈雨の神子が神殿に住まなければいけないという決まりはありませんな。なにせ皇帝カハルの御代も先のジャハール王に連なる代も、神子がいらっしゃるのは初めてのこと。前例がなければ当然規則も伝統もありまぬゆえ」
「あ、なるほど……」
そういえばそれぞれの国へ言った神子が何をしていたかとかは各国で秘匿されてて、あの白髭の神殿長さんでさえ全然知らないって言ってたもんな。
「それをあのようになりふり構わず押しかけて来たのは、彼らの神殿がある一帯がひどく渇水したままだから、というのです」
「えっ、それ本当なんですか!?」
「確かに、かの地方では河川の水も戻らず牧草の生育も遅れたままだと報告には上がっておりまする」
「じゃ、じゃあなんとかしないと……」
だってこのイシュマール大陸全土、中でも僕が選んだアル・ハダール国内に水を行き渡らせるのが僕の仕事なんだし。
それが出来ていないのなら、やっぱり僕が行かないと……行って具体的に何をすればいいのかはわかんないんだけど……。
すると宰相さんは逸る僕を抑えるようにそっと手を上げた。
「もちろん、何か手当てをしなければならぬのは確かなこと。けれど今は時期が悪い」
「え?」
そういえばさっき宰相さんがダルガートと話していた時もそう言ってたような……。と思っていたら、宰相さんが僕を見て頷いた。
「今は貴方を守護するサイード殿がおられませぬゆえ」
「あ……」
そう、さっき鍛錬中にカーディム将軍も言ってた『守り役がいない』というのはそのことだ。
今、サイードさんは異民族の侵入で不穏な気配があるという西の方へ、騎兵団の人たちを連れて行っているのだ。どうやら僕たちが旅の途中で泊めてもらった羊飼いのおじいさんたちが住んでる辺りらしい。
「水量が戻っていない地域はアーケルという名の地方領主が治める領地で、東の国境に近い。東方の蛮族が幾度も国境を越えて侵入している場所にございます。それを防ぐためにこちらも手を打ってはおりますが、なかなか……。そのようなところへサイード殿も連れずに神子殿を行かせるわけには参りませぬ」
「……そうですか……」
いや、でも水不足ってすごく深刻だよね。ましてやあんな風になりふり構わず宮殿にまで怒鳴り込んでくるってやっぱりただ事じゃないし……。
僕の脳裏に日本史で習った一向一揆とか米騒動についての記事が思い浮かぶ。
「……でもやっぱり一度行ってみないといけないと思います」
今日みたいに数人押しかけてくるくらいならいいけど、もしもっと大規模な抗議行動になったり本当に飢饉でも起きたりしたら、ちょっとまずいんじゃないだろうか、ということを話すと、宰相さんは頷いた。
「確かにおっしゃる通りにございます」
「それに、水の恵みをもたらすのが僕の唯一の仕事なんだから、それだけはちゃんと遂行しないといけないと思うんです」
「……決意は固いと……?」
そう尋ねる宰相さんに、僕は強く頷く。すると宰相さんはしばらく考え込むと小さくため息をついて言った。
「……確かにこのまま放置しておいてよい問題でもありませぬな。それではダルガートをお傍に。大変、不本意ではありますが」
「えっ!? いいんですか?」
だって、一国の君主でありながら単騎でどこへでも行こうとしてしまう上に、護衛たちの馬をあっという間に置いていってしまうほどタフな乗り手のカハル皇帝を守れるのはダルガートぐらいしかいない、って聞いたような……。
すると宰相さんが「背に腹は代えられませぬゆえ」と言った。その声音の低さに、恐る恐る聞いてしまう。
「……あの、確かに陛下の護衛である彼を私事で使ってしまうのは申し訳ないんですが……」
「いえ、そういう意味ではありませぬ」
宰相さんがわずかに目を細めて言った。
「……神子殿はあの者を大層信頼しておられるようですが、わたくし個人としては、彼が神子殿をお守りする役目に相応しい者だとは思ってはおりませぬゆえ」
「えっ」
な、なんで!? だって皇帝陛下を一番傍で守る主騎に抜擢されてるんだから、腕前だって人柄……はともかく信用度は最高レベルって評価されてるってことだよね?
宰相さんとダルガートって仲が悪いっていうけど、だからなのかな……と思いつつ、宰相さんの言葉が結構意外でもあった。
だってこの人、能力があれば個人的な好き嫌いは仕事に持ち込まないタイプに見えたから。アドリーさんも、宰相さんは身分やなんかに関わらず優秀な者はどんどん登用していく人だって言ってたし。
すると、宰相さんの目が不意に鋭く光って僕を見据えた。
「神子殿は、彼が先の王を裏切ったことを御存知か」
「え……あ、はい。確かダルガートが先王の暴政に愛想をつかして真っ先に城門を開けてカハル皇帝が帝都を陥落させるきっかけを作ったとか……」
「左様」
すっ、と息を吸って宰相さんが言う。
「……わたくしは皇帝カハルに見出され、信頼を頂いた御恩に報いるために、この国をもっとも優れた国にしようと身命を賭す覚悟にございます」
その真剣な眼差しと言葉に、ごくりと唾を呑み込む。
「だがあれは違う。今は皇帝カハルに忠誠を誓ってはいても、いつ裏切るかわかりませぬ」
えっ、そんな、と思わず上げそうになった声を、宰相さんが鋭い視線で抑え込んだ。
「確かに、先の王が暴君でなければ主君を裏切ることはなかったでしょう。騎士にとって主君に背くことは己の名を辱め、九世消えぬ恥辱を残すこと。けれどあれにはあれの信念があり、ただそれにのみ従って生きているからこそ、裏切者の謗りを恐れもせずにジャハール王を退け、皇帝カハルをイスマーンへと迎え入れたのでしょう」
僕がおずおずと頷くと、宰相さんはまっすぐに僕を見つめる。
「あの男は、昔から誰に何を言われようが、世の常識も世間の評判もまるで意に介さない。つまりは地位や名誉や外聞や、騎士としての碧血丹心の誓いでさえあれを縛ることはできず、彼自身がその気になりさえすれば反逆などという騎士として最も恥ずべき大罪さえ平気で犯してしまう」
そんな男をどうして信用することができましょうか、と宰相さんは言った。
「もしも皇帝カハルが彼の信念に適う王でなくなれば、また彼は裏切ることでしょう。己が君主として最も好ましいと思う者を頭上に戴くために」
宰相さんの鋭利な刃物のようなその言葉に、僕は何も言い返すことができなかった。それは単なる好き嫌いや性格が合う合わないなんかじゃなくて、冷静に、一人の公人として出た言葉のように感じたからだ。
「……神殿へはダルガートとヤハル、そして数名の手練れを同行させましょう。もしもサイード将軍が戻られればすぐにそちらへ向かって頂きます。わたくしとしても神子殿への最大限の助力は惜しみませぬ。何かございましたらどうぞ何なりとお申し出くださいませ」
そう言って頭を下げる宰相さんに、僕はただ黙って頷くしかできなかった。
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