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【第三部】西の国イスタリア
112 オアシスの夜
「野兎ですか?」
「ああ」
すでに血抜きをしてある獲物を受け取って火のそばに行く。昔サイードさんに貰って以来手入れしながら使い続けているナイフで皮をはぎ肉をさばいていくと、ダルガートがさっき僕が作っておいた串に肉を刺してスパイスを振り、火の周りに立てた。サイードさんは自分でお茶を注いでごくごくと飲んでいる。
だんだん日が沈んで空の色が変わっていく。太陽の残り火のようなオレンジ色と夜の群青色が交じり合う空を、僕はあちこちの砂漠や草原で見た。日本では決して見られなかっただろうこの雄大な景色は、いつも不思議なほど僕の胸に食い込んだ。
「カイ、種なしパンはこのまま食べるのか?」
「あ、ちょっと待って」
サイードさんに聞かれて慌てて荷物の中から包みを出した。それは僕のお気に入りの山羊のチーズで、ここに来る前に寄った市場で買ってきたものだ。ほくそ笑みながら自分用に大きく切り取ると、どんな些細な事も見逃さないダルガートが僕を見る。
「ちゃんとダルガートにも大きいのあげるって」
彼もこれが結構好きなのだということはとっくの昔にお見通しだ。三つに切ったチーズの塊をそれぞれ串に刺して焚火で慎重に炙る。やりすぎるとぼたっと落ちてしまうのでなかなか神経を使うのだ。
やがて皮の中身がとろりと柔らかくなったところを種なしパンの上に乗せてサイードさんとダルガートに手渡した。わざとらしくも僕のと自分のとを見比べてみせるダルガートの分厚い肩をごつんと殴る。するとそれを見ていたサイードさんが声を上げて笑った。
何人もの護衛の騎士や近従を連れている時はお互いあまり馴れ馴れしくはできないけれど、三人だけの時はよくこんな風にふざけたりする。昔僕には友達と呼べる人はほとんどいなかったけれど、こういう何でもない会話や笑いが楽しくて仕方がない。
あれから二年半が経って、悩みの種だった赤面症やあがり症があまり気にならなくなってきた。それは僕が毎日身体を鍛えたりあちこち回って水不足の場所がないか調べて回ったり、少しずつでも自分にできることをしてわずかなりとも自信をつけてきたからだと思う。
それに周りの人たちが皆、僕がすぐに言葉に詰まってしまったりまっすぐに相手の目を見られなくても気にせずにいてくれたからだろう。
「カイ」
サイードさんが名を呼んで焼けた野兎の肉を差し出す。それをダルガートが受け取って僕に渡してくれた。
野兎の肉は柔らかくて癖がなく、塩コショウで焼くだけでとても美味しく食べられる。そしてこんな時サイードさんはいつも一番美味しいモモの部分を真っ先に僕にくれるのだ。
「旨いか?」
「とっても」
そう答えるとサイードさんが目を細めてかすかに笑った。
本当に自分は周りの人に恵まれた、と心から思う。その最たるものがサイードさんとダルガートなのは間違いなかった。
◇ ◇ ◇
「イスタリアへ?」
食事を終えてから敷物の上に寝そべって焚火を眺めていた時、サイードさんが僕の言葉に少し驚いたように顔を上げた。それに頷いてから口を開く。
「アル・ハダール国内はかなり安定したし、そろそろ行ってもいいかな、って。ほら、初めてダーヒルの神殿で会った時も誘われたし、あの後も再三カハル陛下のところに要請が来てるみたいですし」
けれどサイードさんはそれにいいとも悪いとも言わず、黙って僕の顔を見ていた。
この二年半の間にアル・ハダール国内の水源の回復に関して打てる手は全部打った。だからそろそろ行ってもいいかな、と思ったのだ。僕と同じ日本人の高校生だった三代前の神子が生涯を送ったという西の王国に。
でもどうやらサイードさんには何か思うところがあるようだ。ほんの少し眉をひそめて僕に尋ねる。
「もしやハリファに何か言われたのか?」
「あ、いえ。別にカハル陛下から要請されたり強要されてるわけじゃないんです」
するとサイードさんの視線が隣に移る。そこには敷物に肘をついて横たわるダルガートの姿があった。彼はサイードさんの視線を受けて、寝そべったまま器用に肩をすくめた。本当に陛下や宰相に言われて僕がこんなことを言い出したわけじゃない、という意味だろう。
「あの、元々一度は行ってみたいなって思ってたんです。あそこは僕と同じ日本から来た神子が住んでいた国だから」
するとサイードさんの眉間が少し開く。
「ああ……そうか。確か三代前の神子だったか」
「ええ。以前神殿で僕がエイレケのアダンに襲われて怪我をした時にお見舞いにイスタリアのレティシア王女がくれたお茶、あれ煎茶っていって僕たちが住んでいた国のものなんです。だから他にも神子だった彼女の痕跡みたいなのが残っているのかな、って」
すると今度はダルガートが横から言った。
「そういえばついにイスタリアの姫君の婚約が整ったとか。宰相殿の調べではイスタリア最大の交易国である海の向こうの王族の一人だと」
そう、なんでもレティシア王女は隣国の王子と結婚することが決まったらしい。以前神殿で会った時はサイードさんに求婚まがいのことを口にしていたけれど、他に婚約者ができたのなら安心だ。
するとようやく納得がいったのか、サイードさんが頷いた。
「そうか。そういう事ならこちらも陛下と話し合って日取りを決めるようにしよう」
サイードさんの表情がようやく元の穏やかさを取り戻してほっとする。
最近、サイードさんの表情がますます柔らかくなった、というのが僕や僕の護衛をしてくれているヤハルとの共通した見解だ。初めて出会った頃も僕の心が弱くなるたびに微笑んで励ましてくれていたけれど、今はなんでもない時にでも笑いかけてくれる。それがとても嬉しい。
それにイスタリアへ行くことで僕の長年の疑問を解く糸口が掴めるのでは、と希望を持つ。
このアル・ハダールという国は、ダーヒル神殿領と接する西側を除いて三方を巨大な国境の壁で囲まれている。
東と南はいつ誰が作ったのかもわからぬ巨大な石の壁。北は頂上に雪を頂いた天然の断崖。
なぜか人々は国境の外へは行こうとせず、興味も持たず、そこから襲ってくると言われている夷狄を捉え彼らの国について知ろうとしない。まるで何か見えない力で目と意識を塞がれているかのようだと気づいたのは、一年ほど前にあの北の国境の凍てついた山脈を三人で見上げた時だった。
この世界は何かがおかしい。
雨を降らせる力を持つ人間がいるだとか、そんな人間を異世界から呼び寄せたり飲むだけで言葉が通じるようになる薬があったり、一見なんでもありなファンタジー世界のようだけれど、そこに住む人間も動物も食べ物も石や木も僕が生まれた現実の地球にあまりにも似すぎている。
それだけではない。以前ダーヒルの中央神殿の神殿長に貰った地図を見ると、このイシュマール大陸はユーラシア大陸の一部にそっくりな形をしていた。
もしもこの世界がまったくの異世界なら、人間や動植物が僕たちの地球の生物と同じ進化を辿り同じ姿をしているのは明らかに不自然だ。
じゃあもしここが過去の地球だったとしたら、神子の力だの言の葉の秘薬だのが存在するわけがない。
僕が知る現実と空想の産物が共に存在するこのアンバランスさは一体なんなのだろうか。
そして僕がイスタリアへ行きたい理由は、三代前の神子だった加奈さんのこと以外にももう一つある。
イスタリアは海洋貿易で栄えている国だと聞くが、以前ダーヒルの神殿で神殿長さんに貰った地図に載っていた「海」は僕たちの世界でいうカスピ海がある位置だった。つまりそこからさらに西へと大陸が続いている可能性が高いのに、地図では海の南の部分はひどく不自然に途切れていた。
あの地図は本当に正確なのかが知りたい。それに以前王女の主騎であるクリスティアンから少しだけ聞いた、加奈さんが亡くなった原因だという火山の噴火についても詳しく知りたかった。
もし本当にイスタリアへ行けたとしたら僕にとっては初めての他国への訪問となる。アル・ハダール国内をうろうろするのとは訳が違うから、きっと準備にも時間がいるだろうし同行する人数だって増えるだろう。
恐らくサイードさんかダルガートのどちらかは同行してくれるだろうが、レティシア王女が婚約したと言ってもやはり一緒に行ってもらうのはサイードさんよりダルガートの方がいいかもな、と思う。ダルガートならあのクリスティアンだってそうそう睨みつけたりできないだろう。そう考えて思わず小さく吹き出すと、サイードさんがかすかに微笑んだ。
「カイ、風が冷たくなってきた」
そう言ってサイードさんが持ってきた毛布で僕を包み込む。後ろでダルガートが立ち上がる気配がした。きっと辺りの哨戒に行くのだろう。
ダルガートとサイードさんは、いつでもどんな時でも警戒心をなくすことがない。それは僕が生まれた世界よりもずっと死と暴力が身近にあるこの大陸に生まれた者の習いなのだろう。
僕は集めておいた枯れ木を火に足すといつものように僕の後ろに腰を下ろしたサイードさんにもたれて毛布を巻き付ける。
「おやすみ、サイードさん」
「ああ、よく眠れ。カイ」
そうして僕は彼の腕の中で深々と息を吐いて目を閉じた。
「ああ」
すでに血抜きをしてある獲物を受け取って火のそばに行く。昔サイードさんに貰って以来手入れしながら使い続けているナイフで皮をはぎ肉をさばいていくと、ダルガートがさっき僕が作っておいた串に肉を刺してスパイスを振り、火の周りに立てた。サイードさんは自分でお茶を注いでごくごくと飲んでいる。
だんだん日が沈んで空の色が変わっていく。太陽の残り火のようなオレンジ色と夜の群青色が交じり合う空を、僕はあちこちの砂漠や草原で見た。日本では決して見られなかっただろうこの雄大な景色は、いつも不思議なほど僕の胸に食い込んだ。
「カイ、種なしパンはこのまま食べるのか?」
「あ、ちょっと待って」
サイードさんに聞かれて慌てて荷物の中から包みを出した。それは僕のお気に入りの山羊のチーズで、ここに来る前に寄った市場で買ってきたものだ。ほくそ笑みながら自分用に大きく切り取ると、どんな些細な事も見逃さないダルガートが僕を見る。
「ちゃんとダルガートにも大きいのあげるって」
彼もこれが結構好きなのだということはとっくの昔にお見通しだ。三つに切ったチーズの塊をそれぞれ串に刺して焚火で慎重に炙る。やりすぎるとぼたっと落ちてしまうのでなかなか神経を使うのだ。
やがて皮の中身がとろりと柔らかくなったところを種なしパンの上に乗せてサイードさんとダルガートに手渡した。わざとらしくも僕のと自分のとを見比べてみせるダルガートの分厚い肩をごつんと殴る。するとそれを見ていたサイードさんが声を上げて笑った。
何人もの護衛の騎士や近従を連れている時はお互いあまり馴れ馴れしくはできないけれど、三人だけの時はよくこんな風にふざけたりする。昔僕には友達と呼べる人はほとんどいなかったけれど、こういう何でもない会話や笑いが楽しくて仕方がない。
あれから二年半が経って、悩みの種だった赤面症やあがり症があまり気にならなくなってきた。それは僕が毎日身体を鍛えたりあちこち回って水不足の場所がないか調べて回ったり、少しずつでも自分にできることをしてわずかなりとも自信をつけてきたからだと思う。
それに周りの人たちが皆、僕がすぐに言葉に詰まってしまったりまっすぐに相手の目を見られなくても気にせずにいてくれたからだろう。
「カイ」
サイードさんが名を呼んで焼けた野兎の肉を差し出す。それをダルガートが受け取って僕に渡してくれた。
野兎の肉は柔らかくて癖がなく、塩コショウで焼くだけでとても美味しく食べられる。そしてこんな時サイードさんはいつも一番美味しいモモの部分を真っ先に僕にくれるのだ。
「旨いか?」
「とっても」
そう答えるとサイードさんが目を細めてかすかに笑った。
本当に自分は周りの人に恵まれた、と心から思う。その最たるものがサイードさんとダルガートなのは間違いなかった。
◇ ◇ ◇
「イスタリアへ?」
食事を終えてから敷物の上に寝そべって焚火を眺めていた時、サイードさんが僕の言葉に少し驚いたように顔を上げた。それに頷いてから口を開く。
「アル・ハダール国内はかなり安定したし、そろそろ行ってもいいかな、って。ほら、初めてダーヒルの神殿で会った時も誘われたし、あの後も再三カハル陛下のところに要請が来てるみたいですし」
けれどサイードさんはそれにいいとも悪いとも言わず、黙って僕の顔を見ていた。
この二年半の間にアル・ハダール国内の水源の回復に関して打てる手は全部打った。だからそろそろ行ってもいいかな、と思ったのだ。僕と同じ日本人の高校生だった三代前の神子が生涯を送ったという西の王国に。
でもどうやらサイードさんには何か思うところがあるようだ。ほんの少し眉をひそめて僕に尋ねる。
「もしやハリファに何か言われたのか?」
「あ、いえ。別にカハル陛下から要請されたり強要されてるわけじゃないんです」
するとサイードさんの視線が隣に移る。そこには敷物に肘をついて横たわるダルガートの姿があった。彼はサイードさんの視線を受けて、寝そべったまま器用に肩をすくめた。本当に陛下や宰相に言われて僕がこんなことを言い出したわけじゃない、という意味だろう。
「あの、元々一度は行ってみたいなって思ってたんです。あそこは僕と同じ日本から来た神子が住んでいた国だから」
するとサイードさんの眉間が少し開く。
「ああ……そうか。確か三代前の神子だったか」
「ええ。以前神殿で僕がエイレケのアダンに襲われて怪我をした時にお見舞いにイスタリアのレティシア王女がくれたお茶、あれ煎茶っていって僕たちが住んでいた国のものなんです。だから他にも神子だった彼女の痕跡みたいなのが残っているのかな、って」
すると今度はダルガートが横から言った。
「そういえばついにイスタリアの姫君の婚約が整ったとか。宰相殿の調べではイスタリア最大の交易国である海の向こうの王族の一人だと」
そう、なんでもレティシア王女は隣国の王子と結婚することが決まったらしい。以前神殿で会った時はサイードさんに求婚まがいのことを口にしていたけれど、他に婚約者ができたのなら安心だ。
するとようやく納得がいったのか、サイードさんが頷いた。
「そうか。そういう事ならこちらも陛下と話し合って日取りを決めるようにしよう」
サイードさんの表情がようやく元の穏やかさを取り戻してほっとする。
最近、サイードさんの表情がますます柔らかくなった、というのが僕や僕の護衛をしてくれているヤハルとの共通した見解だ。初めて出会った頃も僕の心が弱くなるたびに微笑んで励ましてくれていたけれど、今はなんでもない時にでも笑いかけてくれる。それがとても嬉しい。
それにイスタリアへ行くことで僕の長年の疑問を解く糸口が掴めるのでは、と希望を持つ。
このアル・ハダールという国は、ダーヒル神殿領と接する西側を除いて三方を巨大な国境の壁で囲まれている。
東と南はいつ誰が作ったのかもわからぬ巨大な石の壁。北は頂上に雪を頂いた天然の断崖。
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それだけではない。以前ダーヒルの中央神殿の神殿長に貰った地図を見ると、このイシュマール大陸はユーラシア大陸の一部にそっくりな形をしていた。
もしもこの世界がまったくの異世界なら、人間や動植物が僕たちの地球の生物と同じ進化を辿り同じ姿をしているのは明らかに不自然だ。
じゃあもしここが過去の地球だったとしたら、神子の力だの言の葉の秘薬だのが存在するわけがない。
僕が知る現実と空想の産物が共に存在するこのアンバランスさは一体なんなのだろうか。
そして僕がイスタリアへ行きたい理由は、三代前の神子だった加奈さんのこと以外にももう一つある。
イスタリアは海洋貿易で栄えている国だと聞くが、以前ダーヒルの神殿で神殿長さんに貰った地図に載っていた「海」は僕たちの世界でいうカスピ海がある位置だった。つまりそこからさらに西へと大陸が続いている可能性が高いのに、地図では海の南の部分はひどく不自然に途切れていた。
あの地図は本当に正確なのかが知りたい。それに以前王女の主騎であるクリスティアンから少しだけ聞いた、加奈さんが亡くなった原因だという火山の噴火についても詳しく知りたかった。
もし本当にイスタリアへ行けたとしたら僕にとっては初めての他国への訪問となる。アル・ハダール国内をうろうろするのとは訳が違うから、きっと準備にも時間がいるだろうし同行する人数だって増えるだろう。
恐らくサイードさんかダルガートのどちらかは同行してくれるだろうが、レティシア王女が婚約したと言ってもやはり一緒に行ってもらうのはサイードさんよりダルガートの方がいいかもな、と思う。ダルガートならあのクリスティアンだってそうそう睨みつけたりできないだろう。そう考えて思わず小さく吹き出すと、サイードさんがかすかに微笑んだ。
「カイ、風が冷たくなってきた」
そう言ってサイードさんが持ってきた毛布で僕を包み込む。後ろでダルガートが立ち上がる気配がした。きっと辺りの哨戒に行くのだろう。
ダルガートとサイードさんは、いつでもどんな時でも警戒心をなくすことがない。それは僕が生まれた世界よりもずっと死と暴力が身近にあるこの大陸に生まれた者の習いなのだろう。
僕は集めておいた枯れ木を火に足すといつものように僕の後ろに腰を下ろしたサイードさんにもたれて毛布を巻き付ける。
「おやすみ、サイードさん」
「ああ、よく眠れ。カイ」
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