王さまに憑かれてしまいました

九重

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第二巻 児童書風ダイジェスト版

15 サロン

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「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」と、アレクがむせます。
「キャッ!アレク、大丈夫ですか?」
コーネリアは慌ててアレクの背中をさすりました。
「あ……あ、あぁ。……ケフッ……そ、それよりコーネリア、その、前トーレス伯爵夫人の話って――――」
ここは、相も変らぬ殺風景な財務長官室です。今日は各長官が一堂に集まる会議の開催日。
以前約束した通り、アレクが訪ねて来ているのでした。
「本当にマリア・バルバラさまが、そう言ったのかい?」
なんとか咳を治め、真剣に聞いてくるアレクの瞳は、今は落ち着いた琥珀色です。なんでも魔法のアイテムで瞳の色を変えているのだそうで、短い赤毛のカツラをかぶった彼は、別人にしか見えません。
(イケメンはイケメンですけれど!)
(顔まで変える魔法のアイテムはないからな。その代わりに、自分の気配をできるだけ目立たなくさせるアイテムをつけてきておるようだ)
アイテムの効力のおかげでしょうか、不思議なほどにアレクは人目を引きません。
今も派手にむせたはずなのに、周囲の人間はコーネリア以外誰一人アレクに注目しませんでした。
アレクの様子を確認しながら、コーネリアは彼の質問に答えます。
彼女は先日、前トーレス伯爵夫人のお邸での出来事を話しているところでした。
「そうなんです。マリア・バルバラさまったら『私の娘にならない?』なんて、仰るものですから、トーレス王都警備隊隊長さまが勘違いされてしまって――――」
思い出して、コーネリアは苦笑します。
独身の男性――――しかも、なかなか結婚できない息子の目の前で、母親が若い娘に『私の娘にならない?』などと言い出せば、たいがいの男はそれを『息子の花嫁になってくれないか?』と言ったと思うものです。
トーレス王都警備隊長も、まさしくそう受け取りました。
「母上! 私は、まだ彼女とは、……そんな関係では!」
急に立ち上がり、むせたせいかどうか、真っ赤になって叫ぶ我が子を、前トーレス伯爵夫人は、びっくりしたように見つめます。
「あら? まあ、まあ。いやだ。そんな意味ではないわよ。……でも、そう。まだそんな関係ではないのね?」
「母上!」
トーレスの焦った声に、クスクスと機嫌よく笑いながら、前トーレス伯爵夫人は自分の発言を説明してくれました。
「――――マリア・バルバラさまは、たった一人のご令嬢を亡くされているのだそうです」
コーネリアはそれをアレクに教えます。
五人の息子に恵まれた前トーレス伯爵夫人。しかし彼女はその前に女の子を一人産んだのだと教えてくれました。
しかしその子は病弱で、十六歳までしか生きられなかったと。
『そう、丁度今のあなたと同じくらいで死んでしまったの。あなたと違って、木登りなんかできなかったけれど、でも優しくて純真なところがよく似ているわ。……コーネリア、あなたを娘の身代わりにするつもりはないけれど、私はあなたが気に入ったわ。これも何かの縁だと思うの。……私はもう一度娘を持って、娘としかできないあれやこれやを楽しんでみたい。……ねぇ、コーネリア、考えてみてくれない?』
前トーレス伯爵夫人はそう言いました。
寂しそうな憂い顔に、心を揺さぶられたコーネリアです。
とはいえ――――
「もちろん、だからって平民の私が伯爵家の養女になんてなれるわけがありませんから、直ぐにお断りするつもりだったんですけれど、マリア・バルバラさまは、考えもせずにこの場で断るのだけは止めて欲しいと仰られて。……まだお断りできていないんですよね」
困ったように、コーネリアはため息をつきました。
ルードビッヒは、そんなコーネリアを複雑な表情で見つめています。
アレクは、ジッと考え込みました。
やがて――――
「…………断るの?」
ポツリとそう聞いてきます。
「当然です。私が貴族なんて、なれるわけがありません!」
「どうして?」
「どうしてって、だって、私は平民で――――」
今は琥珀色のアレクの瞳が、コーネリアをジッと見てきます。
それは、コーネリアの心の何もかもをも見透かそうとするかのような強い瞳で……しかもどこか寂しい、縋るような視線でした。
コーネリアは、視線を逸らします。
「だって……」
その時、言いよどむコーネリアの脇を、黒い小さな影が駆け抜けました。
『ワンッ!』
「うわっ!」
まるでコーネリアを守るみたいに、黒い仔犬がアレクに体当たりをします。
グイグイと、頭をアレクに押し付ける黒い仔犬。
「コラッ! ダメよ、アレックス!」
慌ててコーネリアは、アレクの膝の上からレインズの仔犬を抱き上げました。
「めっ!」と仔犬を叱るコーネリア。
アレクは、なんとも複雑そうな顔をします。
「その名前……」
「あ、はい。……すみません。オスカーさまの希望で、この子は“アレックス”という名前になってしまったんです」
アレックスは、アレクの偽名と同じ名前です。
結局、あの場で第二王子の権力に逆らえる者は誰も無く、前トーレス伯爵夫人も快諾したことから、仔犬はオスカーの望み通り、彼をオーナーとしてコーネリアが育てることで話はまとまりました。
オーナーのオスカーは、名前も自分が決めると言い張って、結果仔犬はアレックスと命名されてしまったのです。
偽名とはいえ同じ名前の仔犬に、アレクの反応は微妙です。
アレックスも何かを感じるのか、アレクに対しては妙に敵対心を持っているような反応を見せました。
今も、唸りまではしないものの、ジトッとした黒い目でアレクを見ています。
「いつも一緒に王宮へ連れてきているの?」
「はい。アレックスは、仔犬なので一日三回食事をさせないといけないんです。今までは母犬からエサをもらっていたのだそうですけれど、私を主人と決めた日から、私以外からはエサも水も受け付けなくなってしまって」
結果、仕方なく仕事場にまで連れて来ることになってしまっているのでした。
仔犬を育てるというのは思っていたよりたいへんで、毎日四苦八苦のコーネリアです。
当然、それは彼女一人でできることでもなく、アレックスの飼育はホルテン侯爵家の全面的なバックアップの下で行われていました。
「本当にご領主さまは、お優しくて――――」
コーネリアは心の底からの感謝と共に、ギュッとアレックスを抱きしめます。
……あの日、前トーレス伯爵夫人邸から帰って直ぐに、コーネリアは、今アレクに話しているのと同じ内容をホルテンにも話したのです。
その場でアレックスの飼育の許可を出し、協力を約束してくれたホルテン。
何一つコーネリアを責めなかったホルテンですが……彼は、唯一コーネリアがアレックスの代金を払えないと悩んだと話した時だけ、顔をしかめました。
「私は、もう少しお前から信頼されていると思っていたのだが……」
ポツリとそんなことを呟き、自分を頼ってもらえなかったことを嘆くホルテン。
「そんな! 違います。私は、ご領主さまにこれ以上ご迷惑をおかけしたくなくって――」
慌てるコーネリアに、ホルテンは寂しそうに笑いました。
「わかっている。お前は真面目だからな。……でも、コーネリア。私はお前を家族同然に思っている。お前を甘やかしたいし、全力で守りたいとも思う。……お願いだ、コーネリア。これからは、私をもっと頼りにしてくれないか?」
ホルテン侯爵は、真摯な表情でそう言ってきました。
(もうっ、もうっ、本当にご領主さまは優し過ぎます!)
思い出して、悶えるコーネリア。
あまりに力を入れて抱きしめたおかげで、腕の中のアレックスが『ギャワン』と鳴きました。
「キャッ!ごめんなさい、アレク――――っと、違ったアレックス」
思わず仔犬をアレクと呼んだコーネリアに、アレクは苦笑しました。
そのまま手を伸ばし、アレックスを抱いているコーネリアの手に触れてきます。
「私も、リアに優しくしたいな」
「……え?」
「その犬のオーナーが、オスカー……さまだと思うと、胸がモヤモヤする。私もリアのために、レインズを買ってあげたかった」
優しい瞳が、どこか熱を帯びてコーネリアを見つめてきます。
「ア、アレク……」
コーネリアの胸は、またもバクバクと鳴り出しました。
「今度、何か欲しい時は、私に言って。必ず叶えてあげるから」
ね……とお願いされて、コーネリアの胸は、なお大きく高鳴ります。
見つめ合う二人に挟まれたアレックスが、不満そうにジタバタと暴れ出しました。
その時――――
「やあ、来ていたんだね?」
二人に、声がかかりました。
慌ててアレクから離れ、声のかかった方を振り向くコーネリア。
そこにいたのは、この財務長官室に集まる若者の一人であるルスカ子爵という青年でした。
「探していたんだよ、グレイ。……君は本当に何時の間にかやって来て、知らない間にコーネリアさんの側にいるよね」
軽く右手を上げて近づいてきたルスカ子爵は、隠密みたいだと笑います。
最初に出会った時に田舎男爵家の次男だと名乗ったアレクに対し、彼は気安そうに挨拶をしました。
(……隠密ではなく、王太子さまです。ルスカ子爵さま)
まさかそうは言えないコーネリアです。
本来であれば、王太子に対し子爵が気軽に声をかけるなんて、あるはずのないことです。
馴れ馴れしいルスカ子爵の態度に、コーネリアはハラハラしました。
アレクは、愛想の良く笑い返します。
「やあ、ルスカ。……誰だって、ムサイ男の側よりは可愛い女の子の側にいたいに決まっているだろう?」
「それもそうだ」
男二人は、顔を見合わせ、ハハハ!と笑いあいました。
ルードビッヒが、複雑そうに頭を抱えます。
(……こやつは、自分の話している相手が“氷の王太子”だと知ったら腰を抜かすであろうな)
腰を抜かすどころか気絶するのではないでしょうか?
コーネリアは、その時を思って、心の中でルスカ子爵にお詫びします。
しかし、コーネリアが詫びなければならない相手は彼だけではありませんでした。
「ルスカ! グレイはいたのか?」
「あぁ、やっぱりコーネリアさんに引っ付いていたよ。」
「またか。まぁ、気持ちはわかるが。……それより早くこっちに来いよ。グレイ! 先日君の言った王太子殿下の新しい教育政策について、もう一度意見を聞かせて欲しいんだ。やはり私は納得できないんだが――――」
「それよりも、問題は軍の拡充だろう? 確かに前国王陛下の戦死は痛手だったが、だからって即、軍の増強を図るのは短絡的すぎないか? グレイ、君の意見を聞きたいな」
――――財務長官室の控えの間ともなっている広いこの部屋。
いつの間にか貴族の若者たちが集うサロンとなったここでは、部屋のあちこちで数人が集まり、政治や経済など多岐に渡る問題を議論しています。
アレクは、少し困ったようにコーネリアに笑いかけると、席を立って彼らの方に向かいました。
たちまち取り囲まれ、話しかけられるアレク。
この部屋に通うようになってから日の浅いアレクですが、既に彼は若者たちの一員とみなされていました。アレクの穏やかで思慮深い話し方と人の意見に真摯に耳を傾ける態度を好み、意見の交換を望む者も多いのです。
(……なんでこうなったのでしょう?)
(フム。わしも下位貴族の若者たちがこれほどに政治に興味を持っておるとは思わなかった。……高位貴族の頭の固い連中だけで回していた政治には、不満も多かったのであろうな)
考え深げにルードビッヒは呟きます。
平民の使用人であるコーネリアが、生き生きと働く財務長官室。
その姿に、集まった若者たちは何か感じるところがあったのかもしれません。
最初はコーネリア目当てで訪れていた若者たちは、いつの間にか自分たちの意見を論じ合う仲間となっていました。
結果この部屋は、日ごろ自分の考えを主張する機会もなく、くすぶっていた下位貴族の若者たちや、高位貴族とはいえ若さゆえに意見を言えない者などが集い、思う存分持論を主張できるサロンとなったのです。
(皆さま、とても楽しそうで、それは良いんですけれど……)
政治や経済などに対する意見――――その中には、当然ながら堂々とした王太子批判もあります。
今も――――
「貴族も平民も分け隔ての無い教育の自由が理想なのはわかる。しかし、それは高い予算を使ってまで行うようなことだろうか? 第一、その政策により我ら貴族に利益はあるのか?」
声高に問うのは、この中では一番身分の高い伯爵家の三男です。
「利益、利益と俗物だな貴公は」
「俗物だとも。――――私だけではない、世のほとんどの人間は俗物なのだ。俗物に利益を示せぬ政策など通るはずもない!」
堂々と言い切る伯爵家の三男。
(フム。正論だな)
(陛下っ! アレクの出した教育政策が批判されているんですよ!)
コーネリアは、内心冷汗ダラダラでした。
ルードビッヒは面白そうにアレクサンデルに目を向けます。
アレクは落ち着いた様子で話しはじめました。
「この政策が実現された場合――――全ての国民が等しく基本教育を受けた後に、専門教育へ進む道を選択できるようになる。ごく普通の高等教育の他に、農業、商業、工業、医薬などの各分野、騎士を養成する士官学校や工芸の技能を磨く道も用意されることになるだろう。……平民にも“貴族”にも平等にだ」
アレクが“貴族”という言葉を強調したことに気づき、ルスカ子爵がハッと目を見開きます。
「つまり! 私たち“貴族”も、商人や技師などの職人になるという道を選ぶことができるということか!」
通常貴族の子弟は、中央か地方かの違いはあっても、全ての者が国に仕える文官か武官になるのが普通です。
将来の安定した確かな道ですが……彼らに他の職業は選べませんでした。
しかし、もしもこの新しい教育政策が実現された場合、彼らの前には新しい選択肢が与えられることになるかもしれないのです。
アレクの言葉に……ルスカ子爵や、自分が自由に職を選べないことを不満に思っていた者たちが、瞳をキラキラと輝かせはじめました。
「……そうか。そう考えるとこの新政策は、なかなか良いな」
「流石、アレクサンデル王太子殿下だ」
彼らの口から王太子を称える言葉が出て、コーネリアはどうなることかと詰めていた息を、ホッと吐きました。
しかし、次の瞬間――――
「だが、こんなに良い政策を立案できるのに、王太子殿下はアピールが下手過ぎる!」
とんでもない批判の言葉に、コーネリアは頭を抱えることになりました。
「何が問題かと言って、一番の問題は、王太子殿下のあの無表情だろう!」
拳を握り締め力説する伯爵家の三男。
アレクの顔が微妙に引きつり、コーネリアの顔は真っ青になります。
「まあ、確かにあれ程に“美しい方”なのだから、少しくらい微笑まれても良いのではないかとは思うがね。」
ルスカ子爵まで、顎に手をやり残念そうに首を傾けました。
男に“美しい方”と言われたアレクの顔は、はっきりと引きつります。
「先日、私は廊下で殿下とすれ違ったんだが……あのお顔を拝した途端、何もしていなかったのに『申し訳ありませんでした!』と謝りたくなってしまった」
その言葉をきっかけに、次から次へとアレクの無表情への不平不満の声が上がります。
(そうだそうだ。もっと言ってやれ!)
ルードビッヒが無責任に煽りました。
(陛下っ! もう、なんてことを仰るんです)
とても黙って聞いておられずに、コーネリアは叫びました
「で、でもっ! 王太子殿下は、本当はとっても優しいお方です!」
びっくりしたように、全員がコーネリアに注目します。
特にアレクは琥珀色の目を大きく見開いて彼女を見てきました。
「…………それは、ホルテン……侯爵が?」
聞かれてコーネリアは、自分が王太子とは会ったことも無いはずの平民なのだと思い出しました。
「そ、そうです。……ご領主さまは、王太子殿下を真面目で優しい方だといつも仰っておられます。人物の優れたとても素晴らしい方だと」
焦ってコーネリアは、そう付け加えます。
「――――そうか、ホルテン侯爵閣下は王太子殿下派か」
彼女の言葉を聞きながら、ルスカ子爵は呟きました。
「……しかし、そうだとすると“あれ”はまずいんじゃないか?」
誰かが“あれ”と、困ったように言いました。
途端に全員が、気まずい顔で黙り込みます。
顔を見合わせる若者たち。
そこへ――――
「コーネリア、アレックス、来てやったぞ!」
ノックもなしに出入り口の扉が開かれ、そこから一人の青年が、飛び込んで来ました。
一目散に、アレックスを抱いたコーネリアに駆け寄ろうとした青年は、オスカー第二王子です。
彼は、さり気なくアレクがサッと出した足に躓いて……派手に転びました。
「キャッ! 大丈夫ですか?」
抱いていたアレックスを下に降ろし、コーネリアは慌ててオスカーに駆け寄ります。
(へ、陛下……今、アレクが……)
(あぁ、間違いなく足を出してオスカーを転ばせたな。このくらい、アレクサンデルの心情からすれば、当然の仕打ちだろう)
(そんな……)
コーネリアに対しては、いついかなる時も優しい紳士なアレク。
そのアレクが、こんな子供みたいな意地悪をするだなんて、彼女はとても信じられません。
しかしコーネリアの目は、オスカーの前に差し出されたアレクの長い足を、しっかりと見てしまっていました。
(仕方あるまい。そなたは以前ホルテンで、アレクに安いカップ一つ買ってもらおうとしなかった。……なのに、オスカーからは高いレインズを買ってもらったのだ。奴が多少オスカーを引っかけて転ばせたとしても、わしは咎めはせんぞ)
可愛いものだとルードビッヒは笑います。
コーネリアは呆気にとられました。
それでは、まるで本当に子供のケンカです。
それに――――
(それだと、何かアレクが、オスカーさまに嫉妬しているように聞こえるんですが?)
じわじわと頬が赤くなっていくコーネリア。
(嫉妬しておるに決まっておろう? 好きな女の欲しいモノを他の男が買ってやったと知って嫉妬せずにおられる男など、この世にいないぞ。何を今さら言っておる?)
ルードビッヒは呆れました。
(好きって……)
コーネリアは、ますます赤くなります。
本当だろうか?と狼狽えながら、チラリとアレクの方を見ますが、しかし、ほんのついさっきまでアレクの居たその場所は、カラッポになっていました。
(フム、アレクサンデルめ。オスカーが転んだ隙にさっさと逃げてしまったようだな)
考えてみればそれは当たり前のことです。
何といっても、オスカーはアレクの弟なのです。オスカーが変装したアレクの正体を見破る可能性はかなり大きいでしょう。
考えて、納得しましたが……それでもコーネリアは、ちょっとがっかりしてしまいました。
しかし、そこに――――
「……っつぅ~」
うめき声が聞こえます。
コーネリアは、ハッとしました。
慌ててオスカーの側に屈みこみます。
「オスカーさま?」
「あ、あぁ、大丈夫だ。……変だな、躓くようなものなど何もなかったはずなのに?」
首を不審そうに傾げながら、オスカーは上体を起こしました。
どうやらどこにもケガなどしていないようです。
「まあ、良いか。……それより、アレックスだ! 私のレインズはどこだ?」
ケガどころか転んだ痛みもほとんどなかったらしいオスカーは、直ぐに立ち上がるとキョロキョロと周囲を見回しました。
アレックスを見つけ、たちまち仔犬めがけて駆け寄り、逃げようとしたアレックスを抱き上げます。
「うん、うん、今日も元気なようだな。少し重くなったんじゃないか?」
デレっとした顔で、オスカーはアレックスに頬ずりをしました。
黒い仔犬は、嫌そうに鼻の上にしわを寄せ、片方の前足をオスカーの顔にかけて、フンッと突っ張ります。
第二王子のルードビッヒそっくりな顔が、犬の足に押されてムギュゥッと歪みました。
(……情けなくて、涙が出て来る)
その様子に、ルードビッヒは大きなため息をつきました。
ほぼ毎日このくらいの時間にアレックスに会いに来るオスカーは、嫌がる仔犬をワシャワシャと撫でくりまわします。
しばらくそのままにしておいたのですが……これ以上やると、本気でアレックスがオスカーに噛みつきそうになって、コーネリアは彼から、サッと仔犬を取り上げました。
「まだ良いだろう?」
名残惜しそうに腕を伸ばしてくるオスカー第二王子。
「ダメです。これ以上しつこく触ってアレックスに嫌われても良いんですか?」
コーネリアは、腰に手を当てきっぱりと断りました。
いつもであればここで素直に諦めるオスカーですが、今日はなかなか退いてくれません。
しつこくアレックスに手を伸ばし「もうちょっと」とねだってきます。
「もうっ! どうかされたんですかっ?」
コーネリアの怒声にオスカーはなんとも情けない顔をしました。
「だって、しばらく王宮では会えなくなるのだろう? だから……」
そんなことを言ってきます。
「え? どうしてですか? オスカーさま、どちらかに出かけられるのですか?」
コーネリアはびっくりして問いかけました。
オスカーは違うと首を横に振ります。
「王宮に来られなくなるのは“君”だろう? ……来月開かれる王太后さまの誕生日祝いの式典で、前トーレス伯爵夫人が“君”のお披露目をすると、私は聞いたぞ。はじめての舞踏会デビューだ。とても王宮で仕事などしていられないはずだ」
ただでさえ女性は準備がたいへんだからなと、オスカーはしょんぼりと肩を落とします。
「……え?」
そんなことは初耳なコーネリアでした。

その夜、オスカー第二王子から舞踏会の話を聞いたコーネリアは、長官会議から戻って来たホルテンに、急いで話しかけました。
「どうしてそんなことになっているのですか?」
「私は舞踏会になど行きません」
矢継ぎ早に次々ときっぱりと宣言するコーネリア。
ホルテン侯爵は、彼女の勢いに少し驚きながらも「そうか」と優しく笑ってくれました。
「心配しなくても良い。既に前トーレス伯爵夫人には、私から断ってある」
そんなことまで言ってくれます。
しかも、養女になる話まで断る返事をしてくれたのだそうでした。
ただ……
「何とか話を通し、養女の話はなかったこととし、舞踏会にも行かないと決めたのだが……、マリア・バルバラさまは全てを白紙に戻した上で、もう一度お前に話をしたいと言ってこられたのだ。……本当はそれも断りたかったのだが、できなかった」
申し訳なさそうにコーネリアに説明し、もう一度前トーレス伯爵夫人の邸に行ってほしいと、ホルテン侯爵は頼んできます。
コーネリアは……「はい」と答えました。
「このお話は、私がきちんとお断りしなければならないことですから」
自分のことを考えていろいろ対処してくれたホルテンに礼を言いながら、コーネリアは真っ直ぐに彼を見返します。
眩しそうに目を細めたホルテンは、もう一度「そうか」と言って優しく笑ってくれました。

こうしてコーネリアはもう一度、前トーレス伯爵夫人に会う事になったのでした。 
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