とうめいな恋

春野 あかね

文字の大きさ
2 / 13

2、おいしいご飯

しおりを挟む
   そうか、僕は、死ぬのか。

   無機質な白の壁に、夕暮れの光が差し込んでいる。春の霞んだ空は淡い紫色になっていた。
 そんな綺麗な空のもと、僕は他人の口から自分の死を宣告された。
 母さんが泣いている。声はあげず、ただひたすらに唇をかみしめている。僕はまっすぐ、自分を長く診てくれていた医者の首を見ていた。
 普通に生きてきたつもりだ。悪いことも、いいことも、何もせずに生きてきた。普通にしゃべり、普通にご飯を食べ、普通に笑って、普通に怒りもした。何一つ特別なことはしていない。もちろん、これからも普通に生きていくつもりだった。年老いて、それなりに自分の生を全うしたころに、死ぬつもりだった。そんなあたりまえが、あと三か月で壊れる。

 日が落ちて、辺りが急に暗くなった。黒い影が、医者の顔に落ちる。
「でも、短くて余命三か月なので。二年以上生きる人もいます。ただ、この病気は実態がまだ明らかになっていません。ですから、この先どうなるのかは、わたしたちにも分からないです。ただ、ここより大きな病院なら、治療ができるかもしれません」
 僕も母さんも馬鹿じゃない。短くて三か月という意味も、この病気がどんなものなのか不明なのも、分かっている。でも、その三か月で奪われる命が確かにあるのだ。それは、僕かもしれない。少なくとも、どんなに病気の進行が遅くても、あと三か月で僕はあたりまえの生活が困難になるだろう。
 神様なんていやしないのだ。もしいるとしたら、その顔には嘲笑が浮かんでいるはずだ。
 それでも、泣きたくない。少なくとも母さんの前だけでは泣きたくない。僕が泣いたら、母さんはもっと自分を責めて、もっと苦しむだろう。そんな姿は見たくないから、絶対泣かない。
「爽太、どうする、頑張って治療してみる?」
 母さんが真っ赤な目を見開いて聞いた。
 それを選ばない限り、僕は死を待つしかない。黄緑色のカーテンがゆらゆらと揺れた。なまあたたかい風が部屋に舞い込んで、僕は息が詰まりそうになる。おいしくない飲み物を一気飲みした時と同じだ。
「うん、そうする」
 吐き出すように言った。喉がからからに乾いて、喉と舌がひっついたみたいだ。
 医者の、甲斐田先生は、そうですか、と頷いた。
 病弱な僕は、何度もこの先生にお世話になった。でもここから先は、もっと大きな病院に行くことになる。この先生ともお別れだ。
「先生、ありがとうございました」
 母さんが深々と頭を下げる。いや、そんな、そう言った先生の目が真っ赤になっていたのが、ちらっと見えた。

「今日は、何かおいしいものを食べようか」
 母さんはいつになく明るい顔で笑っている。僕はぎゅっと唇を結んだ。
 家までの道のりは街灯が少ないため暗く、道もあまり舗装されていない。がたがたと揺れる車内で、ぽつんと立っている、今にも消えそうな街灯が震えているのをぼんやりとみていた。
「なにがいい? なにがたべたい? ステーキにする?」
 母さんの言葉に、僕はじゅうっと肉汁が溢れ、とろとろの肉が口の中にとろけていくのを想像した。
 ごくり、と唾をのむ。でも。
「とん汁がいい」
 ステーキよりもとん汁が良かった。他の野菜やら肉やらから出た出汁は味噌によく馴染んで、あつあつの汁は冷たい僕の体を温めてくれるだろう。
「そっか」
 母さんがくすっと笑った気がした。ほっと肩の力が抜ける。
「とん汁にしよっか」
 それ以上母さんは僕に話しかけなかったし、僕も母さんに話しかけなかった。
 いよいよ街灯が本当に少なくなってきた。田んぼの畦道に入ったのだ。もう少し行けば、僕の家が見えてくる。
 遠くの家には黄色っぽい光が燈っており、それがぽつぽつと夜の田んぼの向こう側に見えるので、何となく蛍を連想した。
 見えてきた僕の家を見ると、灯は燈っていない。あたりまえだ。僕の家は、誰も――父さんもいないのだから。

 父さんが亡くなってしまったのは、今から六年前の、小学五年生の夏だった。ただ暑くて、天気が良かったのを覚えている。
 父さんは腕のいい大工だった。部下の面倒見もよく、仕事も黙々とこなしていたため、周りからの信頼も厚い。僕の自慢の父さんだった。
 僕は何度か父さんの仕事場に行ったことがある。木くずがたくさん落ちていて、木のつんとした匂いがした。そんな仕事場で、いつも父さんは僕が来ると、笑顔で「よおっ、爽太」と笑っていた。たくましい腕を振りながら、日に焼けた顔でにかっと笑う。
 仕事場に子どもがいるなんて、今考えれば邪魔だったのだろうなと思うが、みんなやさしく僕の遊び相手をしてくれていた。だから僕は、父さんの仕事場に行くのが大好きだった。
 でもその仕事場で、父さんは死んだ。足を踏み外したのだ。二階ならどうにかなったかもしれない。だけど父さんのその時の担当は三階だった。
 父さんが転落したころ、僕は友達と学校で給食を食べていた。牛乳をたくさんおかわりして、揚げパンもたくさん食べて、おいしいと笑っていたのを覚えている。それは、自分へのご褒美のつもりだった。
 その日、算数のテストが返された。苦手な図形のテストだったが、僕は百点だった。父さんのおかげだった。家の図面も書く父さんは、丁寧に図形について教えてくれて、もし百点を取ったら、バスケットボールを買ってもらう約束をしていた。
「今日ね、僕百点だったんだ」
「そうか、頑張ったな、爽太。よし、ボール買いに行くか!」
 そんな話をするはずだった。日に焼けた父さんと青空の下、自転車をこぐつもりでいた。
 でも、僕が急いで病院に行ったとき、父さんはもう、意識不明の状態だった。
 僕はずっと父さんの手をつないでいたんだ。そうすれば、きっと握りかえしてくれるって信じていたから。でも、大きな父さんの手は、握りかえしてくれなかった。
 死ぬ間際、一瞬だけ父さんは目を覚ました。母さんが叫ぶ。僕も叫んだ。仕事の上司の人も、部下の人も、同僚の人も、みんな叫んだ。父さんは愛されていたんだ。父さんは答えない。だけどふっと目元がやわらいだ気がした。僕と母さんを見て、笑ったような気がした。でも、ゆっくりと父さんは息を吐き、その息を吸うことは、二度となかった。
 走馬灯のようにこれまでの人生が蘇る、というのはよく聞く話だ。あのとき、父さんは何を思い出したのだろう。僕のことだろうか、母さんのことだろうか。もしそうなら、嬉しい。そして、もし本当に蘇るなら、その蘇った記憶にとどまることはできないのだろうか。……僕がそうなったときは、どの記憶にとどまるのだろう。
 そんなことを、沢山の灯をみつめながら、ぼんやり考えた。
 
「ごはんできたよ」
 白いご飯にとん汁、煮物、きゅうりの漬物。どれもおいしそうだった。ほかほかと温かな湯気を出して、その向こう側で母さんがやわらかく、哀しそうに笑っている。
 とん汁の熱さは、体の中にじんわりと広がった。具にもよく味がしみこんでいて、大根をかめば、しみこんだ汁が溢れてくる。豚肉はやわらくておいしい。さといもはぬめりがあって、なかなか箸でとれなかった。箸が、震えていたのかもしれない。
 そのとん汁は、やさしい味がした。甘いような、でもお菓子の甘さとは違う甘さ。やはり、やさしい味がぴったりかもしれない。ほんとうに、おいしい。当たり前の食事なのに、もう泣きそうなほどおいしかった。

「ごちそうさま!」

 たまらずに僕は自分の部屋へ駆け込んだ。
 涙が止まらない。
 もう、どうすればいいのかわからない。
 どうしてこうなってしまったのだろう。病気になったのは、去年の冬だったのに。自分でさえその病気をよく分かっていないのに。その分からないものに、僕は殺されてしまうのか。どんなふうに生きていても、運命は、変えられないのだ。
 頭の中で「どうしてだろう」という疑問がふくらむうちに、ふと、明日は学校だと思った。
 学校には、健康な奴らがたくさんいる。
 明日のことなんて考えずに、自分のやりたいことだけをやるやつがたくさんいる。
 僕は、もうすぐ消える。消えて、見えなくなって、とうめいになる。
 もしそうなら。人と関わる意味なんてないと思った。こんなギリギリの僕と付き合う人はいないだろう。そう思った。
 もし誰かと深い関係を築いたまま僕が逝けば、その残された誰かは、心に大きな洞を抱えていくことになる。それだけは嫌だった。大切だから、嫌だった。
 僕の頭の中に、友人の顔が浮かんだ。母さんの顔が浮かんだ。小学生のころ、好きだった女の子の顔が浮かんだ。どの顔も、僕は今もちゃんと思い出すことが出来る。 

 そのたくさんの顔の中で、一人、冷めた目で遠くを見つめる少女の顔が浮かんだ。

 森沢瑞穂。

 彼女はいつも一人で冷めた目で遠くを見つめている。白い肌と黒く長い髪をもった、この春、初めて同じクラスになった少女だった。特に話したこともない。ただ、僕は彼女の顔も、しっかり思い出すことが出来た。
 なんだろうな、なんで彼女のことが。僕は苦笑して、敷きっぱなしの布団の上に倒れこむ。なんとなく陽だまりの香りがするような気がした。窓の外の霞がかった月が、ぼんやりと部屋を照らしている。
「あー疲れた」
 なにもかも面倒になり、僕は眠気に任せて目を閉じる。瞼が熱い。眠気からか、泣いているからなのか僕にもわからない。
 眠りにつく直前、森沢瑞穂のことがまた頭に浮かんだ。
 じっとこちらを見つめるまっすぐな、黒い瞳が。今にも泣きだしそうな濡れた瞳が。
 その瞳の美しさが胸に残り、僕は眠りについた。
 月は雲に隠れ、もう見えなくなっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...