とうめいな恋

春野 あかね

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3、色のない世界

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   次の日、僕の見ているすべてのものの色がなかった。そして、聞こえてくる音も、どこか遠くのほうにあるようで、ぼやけて耳に届くだけだった。
 窓の外の青も、木の緑も、教室の机の茶色も。はっきりとした色はなく、ぼんやりとそこにあるだけ。教室のざわめきも、授業中の先生の声も、一枚の膜で隔てられているようで、遠くのほうから聞こえてくるようだった。
 すべてが遠く、霧の中のようで、見えない気がした。
 死の宣告は、これほどまでに僕の世界を変えてしまった。
「おい、爽太。今日の部活さ、外周だぜ。あー、もうおれやだよ、死んじゃうわ」
 龍人が短髪をかきながら笑って話しかけてきた。
 龍人は、いい奴だ。冗談が面白いし、バスケも上手い。しかも上手くいかない奴らにも根気よく教えてやれるタイプだ。きっと次の部長になるだろう。にっと笑った顔が爽やかで、女子からも人気だ。
 だから僕も、龍人のことが好きだ。彼と一緒に同じコートでプレーした時は最高だった。
 でもこの時、僕はこいつとは二度と話したくない、そう思った。……死んじゃうわ。その言葉が僕の胸に刺さったのだ。自分が消えるからといってそういうことを考えるなんて、身勝手な事だろう。それでも、その言葉が許せなかった。
「そうだな」
 笑ったつもりだが、顔が引きつってうまく笑えたからわからない。そのとき、また一つ、僕の世界が変わった。龍人の顔が見えなくなった。視覚的にはもちろん見えている。でも、そうじゃない、もっと大事なところで僕は龍人のことが見えなくなってしまった。
 龍人が何かを言う。体調悪いのか、と聞いたのだろうか。それもはっきりと分からない。見えているのに、周りの物や人が、全部どこかへ行ってしまったかのような、色を失ったような、そんな世界になっていた。
 僕がこのまま消えたって、何も変わらないよな。
 このまま、死んじゃっても、いいのかもな。誰も気づかないよな。
 そんな考えがよぎったとき。
 鉛筆の落ちる、乾いた音がした。
「落ちたよ、鉛筆」
 低い声で誰かが鉛筆を拾った。森沢瑞穂だ。昨夜なぜか彼女のことが頭に浮かんだことを思い出して、僕は急に恥ずかしくなった。
「…………」
 鉛筆を落とした女子は、何も言わない。ただそれが、僕には最も恐ろしいように思えた。
「はい、どうそ」
 森沢さんは、何も言わない女子にかまわず鉛筆を差し出した。こちら側に背を向けているため、顔は分からない。できれば、どんな表情をしているのか、知りたくない。
 いやそうに、汚そうに鉛筆を受け取った女子は、森沢さんの背中を睨み付け、鉛筆にふっと息を吹きかけて、はたいてから筆箱にしまった。
 そのとき、森沢さんは振り返った。
 よかった。森沢さんはそういうように笑った。
 黒い艶のある髪に、まっすぐ遠くを見つめる凛とした瞳。白い肌がセーラー服からしなやかに伸びていて、綺麗だ。
    ああ、そうか。
    僕は昨日、森沢さんの姿が頭に浮かんだ理由がわかった気がした。
 森沢さんとは今年、初めて同じクラスになった。でも、彼女の噂だけは僕も耳にしていた。
   森沢瑞穂は、美人だけど、変わり者で性格が悪い。
   彼女と同じ中学の人が言い出したのだと思う。中学時代に何があったかは分からないが、森沢さんについてのいい噂は聞いたことがない。
   噂が一人歩きしているせいか、彼女は誰とも群れず、つるんでいる友だちもいない。
 でも決して寂しそうには見えないし、誰かをうらやむようにも見えない。自分と他人の線をはっきり持っており、その中に誰かを入れることはしなかった。
   多分、そこが僕の目に魅力的に見えたのだ。
 鮮やかな彼女の姿は、色を失っていた僕の世界に驚くほど自然に舞い込んできた。妄想めいた考えだが、本当にそう思う。
 でも、僕は彼女に話しかけることはないだろう。人には干渉しない、それがこれからの僕に最も必要な事なのだから。

 その日、僕はまっすぐ家に帰ることができなかった。
 今日、家を出るときの母さんの心配そうな顔が頭から離れない。
「大丈夫? 爽太、無理して学校へ行かなくてもいいのよ」
 僕は大丈夫だよ、そういった。いつものように、いってきます、といった。腫れた瞼で不安げに見つめてくる母さんを見たとき、僕はそういうしかなかったのだ。ただ学校にいざ来ると、どうしようもない悲しみがつっと突き上げてくる。恨めるのなら、恨みたい。でも、僕にも母さんにも、恨む対象がないのだ。
 だから家に帰って、「どうだった? 学校」と、血の気のない顔で聞かれたとき、うまく答える自信がなかった。そんなのでは、もう家には帰れない。僕は体を引きずるようにして、昔父さんと来た、公園にやってきた。ここで、よくキャッチボールをしたり、虫取りをした。でも、あたたかな思い出はもう、夕闇に沈んで思い出せない。
「父さん、どうすればいい?」
 かつてそうしたように、芝生に寝転がって、空を見た。春は、星が見えにくい。夏や冬のように、明るく輝く星はあまりないのだ。
「僕は、どうすればいい?」
 声が震えて、涙があふれてきた。
 生ぬるい春の風が涙に濡れた?茲を撫でて、少し痛い。
   死ぬのが、いやなのだろうか。
 死ぬことを分かったまま生きることが、つらいのだろうか。
 父さんは、どうだったのだろう。最期のあの瞬間、何を思い出したのだろう。何も、思い出さなかったのかもしれない。
 父さんと話したかった。母さんに言えないようなことを、二人で話したかった。思いを抱えたまま黙っているのは、つらい。
 僕は父さんが死んだ時、母さんを支えて一緒に生きるって、約束したんだ。握り返してくれない冷たい手父さんの手を握りしめて、母さんに背を抱かれながら、約束したんだ。
   でも、父さん……、
「ごめん、できそうにないや……」
   心の中で、僕は必死に父さんに話しかけた。僕が死んだら母さんはどうなっちゃうの? とか、僕はどうすればいいの? とか。でも、父さんは答えてくれない。色褪せつつある思い出の中で、何も言わずに穏やかに微笑んでいるだけだ。
   悲しみが虚ろな何かに変わったとき、不意に携帯電話が鳴った。放っておこうと思っていたのに、一度コールが止んでも再び鳴り出す。僕はなんとなく出なきゃいけないような気がして、仕方なく電話に出た。
「もしもし」
 電話の相手は、母さんだった。
「爽太? 今どこにいるの?」
 その声を聴いた瞬間、無性に苛立ち、何かがばちんと音を立ててはじけたような気がした。
「今、学校帰り」
   短く答える。母さんは何も悪くない。でも、自分を案じるその声が、煩わしく思えた。ほうっておいてほしかった。
「夕飯どうする?」
「……食べてくるよ」
 嘘だった。ただ食べ物がのどを通る気がしなかった。昨日はまだ、何を思う暇もなかったが、今になって、医者の言った言葉がずっしりと心に沈んで来たのだ。
「わかったわ。遅くならないうちに帰ってきなさいね」
「うん」
 短く答え、電話を切った。うすら寒い風が通り過ぎるようだった。ごめんなさい、僕は小さくつぶやいて、しばらく芝生に座っていた。

 家に帰ると、母さんはもう自分の部屋へ行ったのか、居間には誰もいなかった。
「あ……」
 冷蔵庫に二つ、僕が好きだった海苔巻きやらお寿司やらのお弁当が置いてあった。……豪華なお弁当だった。
   そのぽつんと置かれている二つのお弁当を見たとき、悲しみと愛おしさと罪悪感が、同時に胸に押し寄せた。
 母さんは、独りで待っていたのだろうか。夕飯はいらないといったからそれはないのかもしれない。でも、二つあるってことは、母さんはご飯を食べていないのかもしれない。
 目頭が熱くなり、僕は唇をかんだ。自分の幼さが恥ずかしくて仕方ない。
 さみしいのは、自分だけではないのだ。
 二人分のお寿司を買って、母は何を思ったのだろう。帰ってこない僕を、どう思ったのだろう。きっと、僕に電話した時には、もしかしたら買ってきていたのかもしれない。僕は弁当を見つめ、唇をかみしめながら必死に涙をこらえていた。


「この病気はこれから、ゆっくりと爽太君の体力を奪っていきます」
 母さんが小さく頷いた。
「でも体力を奪い、だんだん眠くなっていくだけで、痛いとか苦しいとかの症状はあまりないと思いますよ」
 小さな病院だろうが、大きな病院だろうが、医者と話す場所はいつも同じだ。鼻を刺す消毒液の臭いがする、白い無機質な壁に囲まれた、色のない世界。
 六月になって……余命宣告を受けて一か月半たったとき、僕は初めてその病気の正体を知った。
「端的に言うと、体力を奪う病気です」
 なぜ僕がその病気にかかったのか、医者にも分からないらしい。ただ、もうすぐ死ぬということだけは、はっきりしていた。病気は免疫や体力を司る器官を徐々に壊していく。それだけが、甲斐田先生にも今診てもらっている先生にも分かっていたのだ。
「この病気の進みは何とも言えません。ただ、血を吐いてしまったら、覚悟してください。今までこの病気に侵された人は最期を迎えるとき、必ず血を吐いています。ただの血ではありません。真っ黒な血を吐きます」
 だんだん眠くなって本当の最期は、血を吐く。治療法は、薬を飲み続けることだけで、飲み続けてもどうにもならない可能性がある。体力だけがどんどんなくなっていく……。
 そんなことで死ぬのか、と思う。ちらりと母さんを見れば、母さんはやつれた顔で頭を下げていた。
 あと一か月半で僕は消える。
 今まで過ごした一か月半は、からっぽの毎日だった。これがあと一か月半続くと思うと、かえってそちらのほうが恐ろしい。死よりも、生きることの方が恐ろしかった。
 ただ、空っぽの日々の節々で、頭に森沢さんのことが浮かぶことが多くなった。
 自分の生死について考えると、どうしても彼女のことが浮かぶ。凛とした目の先に何を映しているのか、何を感じているのか、気になって仕方なかった。
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