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第1話 願う
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「しかし、彼女はすごかったな」
ようやく人が群がる教室前を抜けた僕たちは、昇降口へ続く廊下を並んで歩いていた。もちろん、まだ周りを歩く生徒たちはいるが、さっきよりは断然少ない。堂々と歩けることがこんなに素晴らしいことだったとは知らなかった。
「んにゃ? 何のこと?」
僕の呟きに、如月が首を傾げてこちらを見る。手には二枚のサイン。
「千条麗華だよ。なんか、すごく浮世離れしてたよな」
「そうかなー? 面白い子だったけどなー」
如月が咎めるような口調でそう言うので、僕は苦笑して、まあそうだな、と同意した。
確かに、如月のノリについていけるくらいだから、面白くないはずはない。僕が言いたいのは、その独特の雰囲気のことだ。オーラと言ってもいいだろう。あの人混みの中でさえ、千条が通ろうとすると、まるでモーゼが海を開くように自然と道が開けてきていた気がする。やはり、彼女には何か特別な魅力があるのだろうか。
「ところで、千条のサインってどんなのだったんだ?」
「ふふふ、見たいかい? 見たいんだね?」
意味深に指でお金のジェスチャーを作る如月を無視して、その手から二枚の紙を強奪する。横でワーワー騒ぎ出す彼女を抑えつつ、僕はそれらに目を通した。
一枚は秋谷が書いた綺麗な筆記体のサイン。そしてもう一枚、千条が書いたと思われる方は、丸の中に『千条』と書かれただけのとてもシンプルなものである。サインと言うよりも、ロゴマークと言った方が近いだろう。まるで、どこかの企業のような――
「……あれ? これって、どっかで……」
何か、頭に引っかかるものがあった。何だろう、こんなマークを、どこかで見かけたことがあるような気がする。あれは、どこだっただろう。
考え事をしていたせいだろうか。下を向いてサインを見ながら歩いていた僕は、角をまがった時、ちょうどそこに立ち止まっていた人物がいることに気がつかなかった。
その存在が視界に入った時には、既に僕たちの体は衝突していた。危ない、と叫ぶ如月の声も虚しく、僕は床に倒れこんだ。
「あいたたた……。ご、ごめん! 大丈夫?」
すぐに身を起こして相手の様子を見る。その人物は、両手を床についてそこにへたり込んでいた。呆然とした顔で視線を宙に漂わせている。何が起きたかわからないといった様子である。
「ええっと、渡瀬……だっけ? 大丈夫か?」
その顔に見覚えがあったので、僕は記憶から名前を引っ張り出してそう声をかけた。確か、先ほどの自己紹介で渡瀬莉子と言っていたはずだ。眠っていたということもあって、かなり印象に残っている。
僕の言葉に、彼女はびくっと反応したかと思うと、おそるおそる顔を上げて僕を見た。目が合う。数秒の後、彼女は何かを思い出したかのように、急にあたふたと両手を動かし始めた。
「え、あの、その、わ、私のことですか? えと、た、確かに、私は渡瀬で、渡瀬は私ですけど……」
しどろもどろに話しだす彼女。焦っているというより、未だにこの状況が理解できていないように見える。
とりあえずぶつかったことを謝りたかったのだが、何かにとり憑かれたように一身に話す彼女を前に、なんとなく聞く耳を持っていない気がしたので、しばらくその様子を眺めていることにした。
身長は、如月が僕より頭一個分低いくらいの高さだから、如月と同じか少し小さいくらいだろう。顔立ちは幼く、小学校高学年から中学生くらいなら十分に通用すると思う。頭を動かすたびにぴょこぴょこと跳ねるツインテールが見ていて面白い。
こんなことを考えていると、彼女はまたもや突然はっとしたように動きを止めて、下を向いて黙ってしまった。顔が真っ赤になっているのがわかる。なんて忙しい奴だろう。
「あの、渡瀬?」
「……は、はい!? ななな、何でしょうか?」
「いや、ぶつかったこと。ちょっとぼーっとしててさ。ごめんな」
僕が謝ると、数秒の間を取って、渡瀬がぶんぶんと首を横に振った。
「いえ、わ、私も、ぼーっしてましたし、その、ぼーっとするのはよくあることで、別に悪くないというか……」
要するに、気にしていないということだろうか。どうでもいいけど、いくら初対面とはいえどうして彼女のしゃべり方はこうもおどおどしているんだろう。そりゃ、初対面相手に大爆笑するどこかの誰かさんよりは幾分マシだけどさ。
そういえばやけに大人しいな、と思って横を見ると、既に如月は紙とペンを持ってスタンバイしていた。子どものように目をキラキラと輝かせて、胸の前でうずうずとそれらを上下させている。そんなに待ちきれないのか、それって。
「莉子ちゃん! お話があります!」
如月はサイン一式を彼女の前に突きだす。渡瀬が肩を震わせて、ゆっくりと如月の方を向いた。目を丸くして、目の前の紙とペンを見ている。どこか信じられないといった様子なのはなぜなんだろう。
彼女はきょろきょろと辺りを見渡した後、またそれらに視線を戻し、今度はにっこりと微笑んでいる如月に顔を向けた。
「……えっと、今、り、莉子ちゃんって……」
「え、莉子ちゃんじゃないの? ……はっ、まさか偽物!? くう、なんて技術力だ! 奴の能力を見くびっていた」
「あ、いえ、じゃなくて、ですね、莉子は、莉子で、偽物とかじゃないんですけど、その、ですね……」
「うん、じゃあサイン頂戴!」
何がじゃあなんだ、何が。今にも泣きそうな顔の渡瀬と、いかにも楽しそうな如月の、どこか間違っている会話を遠い目で傍観していると、渡瀬が助けを求めるように僕の方を見てきた。本気の困った表情だ。僕は息を吐いて、とりあえず気が早い如月を抑えながら渡瀬の前に立った。
「そういえば、自己紹介がまだだったっけ。僕は須野優で、こっちが如月由乃。こいつ、『友達』のサインを集めるのが趣味なんだとさ。協力してやってくれるか?」
なんとなく満面のスマイルを意識して言ったつもりではあるが、まあ微妙な結果に終わっていることだろう。自己紹介を改めてしたのは、さっきは眠ってたみたいだから多分聞いてなかったんだろうな、とふと思ったからだ。
「え……?」
相変わらずきょとんとした反応をする渡瀬だったが、しばらく何か言いたげに口をぱくぱくと動かした後、何を思ったかまた急に俯いて、肩を震わせだした。
まさかとは思いつつも彼女の顔を覗き込むと、目に大粒の涙を浮かべていたもんだから、僕はかなり焦った。
「お、おい渡瀬? 本当に大丈夫か?」
「ち、違うんです! い、嫌とかじゃなくて、その、何と言いますか……」
渡瀬は顔を上げて、涙を拭きながら懸命にそう訴えかける。周囲の視線が、なんだか僕が泣かせているように思われている気がしてきたので、なんとかして宥めようとしたとき、彼女は勢いよく立ちあがり、涙を浮かべたまま僕と如月に深々と頭を下げて、風のごとく去って行ってしまった。
「……」
取り残される僕と如月。
「ああ、待ってよ莉子ちゃん! サインくれよー!」
サインを貰うことが出来ずに悔しがる如月を余所に、僕は状況が理解できずにぽかんと口を開けていた。
※
去年の夏に体験入学したときから思っていたが、この学校は意外と大きい。
一棟から三棟まで分かれていて、一階には一年教室、三階には三年教室が立ち並ぶ。昇降口から入って三つの棟に分かれる手前の通路前には小さな売店があり、数台の自動販売機と、椅子とテーブルが何セットか置かれている。パンや弁当をここで買えるらしいが、多分これから先、僕が利用する機会はあんまりないだろうな、と少し考えた。
「はあ……やっぱりさっきのって、僕のせいなのか?」
そこの隅っこの席に座って、僕は大きなため息を吐いた。目の前に置かれている先ほど買ったカップコーヒーが、肩を落とす僕の顔を映し出している。
「まあまあ、そう落ち込むなってー」
紙パックのいちごミルクをじゅるじゅる飲みながら、前の席に座る如月が無邪気な笑みで言ってくる。いちごミルクなんてあったのか、僕もそっちにすればよかった。大体、僕はコーヒーなど飲んだことはない。ぼーっとしてたらつい押してしまっただけだ。
そもそもお前のせいでもあるんじゃないか? と言いかけて、僕は口を噤んだ。いつも適当なことばかり言ってくるもんだからつい反論しようとしたけど、さっきの渡瀬莉子のことに関してはこいつに非はなかった、と思う。
彼女にぶつかってしまったのは僕だし、最後に言葉をかけたのも僕だ。ということは、僕のせいじゃないか。
「優君って、意外と心配性なところあるよねー」
如月はそう言って、おどけたようにけらけらと笑った。どうもこいつといると、いつも深刻さに欠ける。
心配性……確かに、よく親や教師などからもそう揶揄されていた。その度に僕は、別にそんなんじゃないと否定し続けてきたし、今回のことも、僕が関わって、僕の目の前で女の子が泣き出したわけだから、心配するのは当然のことではないかと思う。
「まあ、そんなに気にすることないって。女の子って、不意打ちで泣き出すようにプログラミングされている生物なんだよ。知ってた?」
「いや、全然知らなかった」
誰がどんな目的で作ったプログラムなんだそれは。それに女の子ってことは、如月にもそういう、不意に泣き出したりする時があるのだろうか。まったく想像し難い。
でも、如月が落ち込んでいる僕を励まそうとしてくれているのは十分に伝わってきたので、僕は素直に頷いておくことにした。まあ相変わらずのいつものノリなんだけど、こういうときにはありがたい。
「で、これ飲んだらもう帰るんだろ? まだなんかやり残したことあるのか?」
「んんー、実に口惜しいが、それしかなかろう。くるしゅうない」
渋い顔でいちごミルクを飲む如月。僕も、手付かずだったコーヒーを一口飲んでみる。究極的に苦くて、すぐに飲み干すのを断念した。
ここへ来たのは、如月が「売店寄って行こうよー!」と言い出したからである。彼女曰く、高校生になったら売店でジュースを買うというのは、全人類の夢らしい。そんなことなら三年間で好きなだけやればいいと思う、という僕の意見は華麗にスルーされ、半ば強制的にここへ連れてこられたわけだ。
入学初日だからか、僕たち以外には誰も座っていない。廊下からこの売店は丸見えなので、下校していく生徒が奇異の眼差しで僕らを見ていった。すごく恥ずかしいのは言うまでもないが、如月と一緒にいると、その辺は諦めがつくのが危険だ。
ぼんやりと思考を巡らせている僕の視界の片隅に、一人の女子が映った。とても背が小さく、制服を着ていなければ小学生にしか見えなかっただろう。後ろ姿だったが、すぐに、自己紹介で尾坂美奈と言っていた少女だとわかった。
彼女は自動販売機の前で立ち止まり、上の方を見上げている。一番下の段が彼女の頭の高さにあるので、最上段は絶対に届かないだろうな、なんて思いながら見ていると、彼女は背伸びをして果敢にも最上段に手を伸ばし始めた。しかし、ぎりぎりのところまでは行くものの、やはり届かないようだ。何度か挑戦していたが、諦めたように肩を落として、怒ったようにこちらを振り返った。
その瞬間、目が合ってしまった。慌てて目を逸らそうとしたのだが、遅すぎたらしい。
彼女はつかつかと僕の方に歩み寄り、いちごミルクを飲みながらきょとんとする如月の横を通り過ぎて、僕の真横に立った。腕を組んで、じっと僕の顔を見る。
「おい、お前。今の見てたか?」
あまりにその声が幼かったもんだから、思わず笑いそうになってしまったが、なぜか真剣な目の尾坂を前にして、そんなことをしたら殺されるぞ、という命令が脳から出され、僕は慌てて顔を強張らせた。確かに、目の前の少女はあからさまに不機嫌そうな表情をしている。
「いや、見てない。何のこと?」
僕は無意識に嘘を吐いていた。なぜだろう、彼女をこれ以上怒らせたらまずい気がする。いやそもそも、何でこいつは怒ってんだよ。
「まあ、んなことはどうでもいい。お前、ちょっと来い」
上から目線でそう命令してくる尾坂。見た目が見た目だけに、小学生に馬鹿にされているようでかなりいらっときたが、急かすようにじろりと僕を睨んでいたので、僕はわけもわからないまま席を立った。如月を見ると、何故か目を輝かせて尾坂を見ている。どうせまたサインを貰う機会でも窺っているのだろう。
尾坂が動き出したのでとりあえず着いていくと、先ほどの自販機の前で立ち止まった。彼女はこちらを振り向くと、僕を一度見上げてから、顎をくいっと自販機の上の方に向ける。何のジェスチャーだろう。
「何してんだ?」
「……お前、わかんねーのか? 相当鈍い奴だな。ったく」
そう毒づいて、彼女は舌打ちをする。ちょっと待て、なぜ会って数秒の奴からそんなこと言われなければならないんだ。大体お前は何がやりたいんだ。変なジェスチャー見せられて、わかんなかったら鈍いって酷くないかおい。
負の感情が頭をぐるぐると渦巻いて、何か文句でも言ってやろうと思った時、先に彼女が口を開いた。
「だから、えっとだな……ボ、ボタン押せっつってんだよ!」
言葉は乱暴だが、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめながらそう叫んで、自販機の最上段右端の飲み物を指差した。
何だ、つまり、あれが飲みたいけど、手が届かないから代わりに押してくださいってことか。まったく、素直に最初からそう言えばいいのに。
そう思いながらその目的の飲み物を見てみると『グングングルト』と書かれていたもんだから、僕はとうとう吹き出してしまった。
「笑ってんじゃねえよこの野郎! いいから早く押しやがれ!」
今にも襲いかからんばかりの剣幕でそう言ってくるので、僕は笑いを堪えながら、『グングングルト』のボタンを押した。それを取り出すと、彼女に手渡す。
「まあ、これって美味しいよな。僕も結構好きだよ」
笑ってしまったお返しとして、とりあえずフォローの言葉をかけておくことにする。尾坂は顔を真っ赤にしてしばらく目を怒らせていたが、何かを思いついたように、ぼそりと一言発した。
「……お前、名前は?」
「ん? ああ、須野優。ついでに言っとくけど、そこにいるのが如月由乃」
「そこ?」
僕は尾坂の後ろを指差す。彼女は振り向いて、すぐ後ろにいた如月の姿に高い悲鳴を上げて、腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
「お、お前、びびらせんじゃねえよ!」
泣きそうな声で如月に指を向ける尾坂。こいつ、口は悪いが、他の部分はとことん小学生らしいんだな。如月はといえば、両手を胸の前で合わせた状態で、うっとりとした表情で尾坂を見つめていた。なんとなくよからぬ予感がするのは僕だけだろうか。
「尾坂美奈ちゃん、だよね?」
「ああ、そうだけど……何だよ? なんか文句あんのかこら」
怯えた子犬のように縮こまる彼女の言葉には、全く威圧感が感じられない。
如月はゆっくりと尾坂に近づいていき、目の前でしゃがみこんだかと思うと、突然彼女に抱きついた。
「可愛い、可愛すぎるー! 反則的だよ、美奈ちゃん!」
「ちょっ、おい離れろこら! 聞いてんのか!」
顔を真っ赤にして叫ぶ尾坂の言葉が聞こえないかのように、如月は自分の頬を彼女に擦りつけている。秋谷の時と似たような状況だけど今回の姉は如月の方かな、とか場違いに考えていると、尾坂が焦ったように僕に顔を向けた。
「おいお前、ぼーっとしてないでこいつを早くどうにかしろ! 何なんだよこいつは!」
悲痛な表情でそう訴えかけてくる。あまりに切羽詰まってたもんだからそろそろ止めさせるかと近づいて、そういえば僕ってこいつの言いなりばっかになってるな、とふと思った。
初対面の、それもどう見ても自分より幼いようにしか見えない女子から命令ばかりされている現実に、今更ながら腹が立ってきたので、僕は尾坂の横にしゃがみこんで、指を一本立てた。
「よし、助けてほしいなら、『お願いします』って言うんだ」
「はあ? てめえ、何ふざけて――」
「それが嫌なら、自力で何とかすることだ。言っとくが、そいつはなかなかしつこいぞ」
多分、今僕の顔は相当な悪人面になっていることだろう。自動販売機ので前でじゃれあう女子二人を見ながらにやりと笑っている男の姿は、傍から見れば通報ものかもしれないが、この生意気な小娘に世の中の厳しさを思い知らせるためだ、仕方ない。
尾坂はそんな僕を無視して、自分の力だけで如月から逃れようとしていたが、ぴったりと身体同士が密着しているためか、まったく身動きが出来ないようである。如月の耳元で叫んでみても、どこか別の世界に旅立ったようにうっとりしている彼女は離れる気配がない。しばらく試行錯誤を繰り返して、最後には目に涙を浮かべて僕を見た。
「なあ、頼むからこいつどうかにかしてくれよ……意味わかんねえよ……」
その声があまりにも切実だったので、僕はなんだかすごい罪悪感を感じて慌てて頷いた。どうやら、僕も如月も少々彼女で遊びすぎたようだ。目の前の幼い少女から、中々離れようとしてくれない如月を無理やり引き剥がし、尾坂の前に座って彼女と視線の高さを合わせる。
「えっと、ごめん。ちょっとやりすぎたみたいだな、こいつも僕も」
「う、うるせえ! こっち見んな!」
ぐずぐずとしゃくりあげる彼女の姿は、どこからどう見ても高校生には見えない。街中でこんな少女がいたら、親切な人は交番に届けてあげたくなるくらいだろう。なんか、罪でも犯してしまったような気分である。
ことの原因である如月を見ると、驚いたことにもう彼女は紙とペンを持って待機していた。行動の早い奴だ、と感心する気持ちが半分、残りの半分は、今じゃなくちゃ駄目なのか? という疑問。
「ところで美奈ちゃん、ちょっといいかい?」
如月の弾んだ声に、尾坂はびくっと肩を震わせる。先ほどまでの威勢が嘘のようだ。トラウマにでもなったんじゃないだろうかと少し心配になる。
そんな尾坂の様子を気にも留めずに、如月はサインセットを突き出した。
「サイン、頂戴!」
すっかり意気消沈している尾坂は、うんざりとしたように如月をしばらく見つめて、何かを悟ったようにそれらを受け取った。目が死んでるとは、今の彼女のような状態を言うのだろうか。
彼女は機械的な手の動きで書き終えると、放り出すようにサインを如月に投げつけてからゆっくりと立ち上がって、最後の力を振り絞るかのように僕らを力強く睨んだ。
何かを口にしようとしていたが、結局言葉にならずに、そのままくるりと背を向けて去って行ってしまった。
「……今のは、お前のせい、だよな」
まったく反省の色が見られない如月に、そう呟く。彼女は今もらったばかりのサインを眺めながら、目を細めている。僕の話も聞いていないようだ。
一つため息を吐いて、まだ残っていたコーヒーを思い出し、一口飲んでみたけど、冷めていてさっきよりも数倍まずかった。
ようやく人が群がる教室前を抜けた僕たちは、昇降口へ続く廊下を並んで歩いていた。もちろん、まだ周りを歩く生徒たちはいるが、さっきよりは断然少ない。堂々と歩けることがこんなに素晴らしいことだったとは知らなかった。
「んにゃ? 何のこと?」
僕の呟きに、如月が首を傾げてこちらを見る。手には二枚のサイン。
「千条麗華だよ。なんか、すごく浮世離れしてたよな」
「そうかなー? 面白い子だったけどなー」
如月が咎めるような口調でそう言うので、僕は苦笑して、まあそうだな、と同意した。
確かに、如月のノリについていけるくらいだから、面白くないはずはない。僕が言いたいのは、その独特の雰囲気のことだ。オーラと言ってもいいだろう。あの人混みの中でさえ、千条が通ろうとすると、まるでモーゼが海を開くように自然と道が開けてきていた気がする。やはり、彼女には何か特別な魅力があるのだろうか。
「ところで、千条のサインってどんなのだったんだ?」
「ふふふ、見たいかい? 見たいんだね?」
意味深に指でお金のジェスチャーを作る如月を無視して、その手から二枚の紙を強奪する。横でワーワー騒ぎ出す彼女を抑えつつ、僕はそれらに目を通した。
一枚は秋谷が書いた綺麗な筆記体のサイン。そしてもう一枚、千条が書いたと思われる方は、丸の中に『千条』と書かれただけのとてもシンプルなものである。サインと言うよりも、ロゴマークと言った方が近いだろう。まるで、どこかの企業のような――
「……あれ? これって、どっかで……」
何か、頭に引っかかるものがあった。何だろう、こんなマークを、どこかで見かけたことがあるような気がする。あれは、どこだっただろう。
考え事をしていたせいだろうか。下を向いてサインを見ながら歩いていた僕は、角をまがった時、ちょうどそこに立ち止まっていた人物がいることに気がつかなかった。
その存在が視界に入った時には、既に僕たちの体は衝突していた。危ない、と叫ぶ如月の声も虚しく、僕は床に倒れこんだ。
「あいたたた……。ご、ごめん! 大丈夫?」
すぐに身を起こして相手の様子を見る。その人物は、両手を床についてそこにへたり込んでいた。呆然とした顔で視線を宙に漂わせている。何が起きたかわからないといった様子である。
「ええっと、渡瀬……だっけ? 大丈夫か?」
その顔に見覚えがあったので、僕は記憶から名前を引っ張り出してそう声をかけた。確か、先ほどの自己紹介で渡瀬莉子と言っていたはずだ。眠っていたということもあって、かなり印象に残っている。
僕の言葉に、彼女はびくっと反応したかと思うと、おそるおそる顔を上げて僕を見た。目が合う。数秒の後、彼女は何かを思い出したかのように、急にあたふたと両手を動かし始めた。
「え、あの、その、わ、私のことですか? えと、た、確かに、私は渡瀬で、渡瀬は私ですけど……」
しどろもどろに話しだす彼女。焦っているというより、未だにこの状況が理解できていないように見える。
とりあえずぶつかったことを謝りたかったのだが、何かにとり憑かれたように一身に話す彼女を前に、なんとなく聞く耳を持っていない気がしたので、しばらくその様子を眺めていることにした。
身長は、如月が僕より頭一個分低いくらいの高さだから、如月と同じか少し小さいくらいだろう。顔立ちは幼く、小学校高学年から中学生くらいなら十分に通用すると思う。頭を動かすたびにぴょこぴょこと跳ねるツインテールが見ていて面白い。
こんなことを考えていると、彼女はまたもや突然はっとしたように動きを止めて、下を向いて黙ってしまった。顔が真っ赤になっているのがわかる。なんて忙しい奴だろう。
「あの、渡瀬?」
「……は、はい!? ななな、何でしょうか?」
「いや、ぶつかったこと。ちょっとぼーっとしててさ。ごめんな」
僕が謝ると、数秒の間を取って、渡瀬がぶんぶんと首を横に振った。
「いえ、わ、私も、ぼーっしてましたし、その、ぼーっとするのはよくあることで、別に悪くないというか……」
要するに、気にしていないということだろうか。どうでもいいけど、いくら初対面とはいえどうして彼女のしゃべり方はこうもおどおどしているんだろう。そりゃ、初対面相手に大爆笑するどこかの誰かさんよりは幾分マシだけどさ。
そういえばやけに大人しいな、と思って横を見ると、既に如月は紙とペンを持ってスタンバイしていた。子どものように目をキラキラと輝かせて、胸の前でうずうずとそれらを上下させている。そんなに待ちきれないのか、それって。
「莉子ちゃん! お話があります!」
如月はサイン一式を彼女の前に突きだす。渡瀬が肩を震わせて、ゆっくりと如月の方を向いた。目を丸くして、目の前の紙とペンを見ている。どこか信じられないといった様子なのはなぜなんだろう。
彼女はきょろきょろと辺りを見渡した後、またそれらに視線を戻し、今度はにっこりと微笑んでいる如月に顔を向けた。
「……えっと、今、り、莉子ちゃんって……」
「え、莉子ちゃんじゃないの? ……はっ、まさか偽物!? くう、なんて技術力だ! 奴の能力を見くびっていた」
「あ、いえ、じゃなくて、ですね、莉子は、莉子で、偽物とかじゃないんですけど、その、ですね……」
「うん、じゃあサイン頂戴!」
何がじゃあなんだ、何が。今にも泣きそうな顔の渡瀬と、いかにも楽しそうな如月の、どこか間違っている会話を遠い目で傍観していると、渡瀬が助けを求めるように僕の方を見てきた。本気の困った表情だ。僕は息を吐いて、とりあえず気が早い如月を抑えながら渡瀬の前に立った。
「そういえば、自己紹介がまだだったっけ。僕は須野優で、こっちが如月由乃。こいつ、『友達』のサインを集めるのが趣味なんだとさ。協力してやってくれるか?」
なんとなく満面のスマイルを意識して言ったつもりではあるが、まあ微妙な結果に終わっていることだろう。自己紹介を改めてしたのは、さっきは眠ってたみたいだから多分聞いてなかったんだろうな、とふと思ったからだ。
「え……?」
相変わらずきょとんとした反応をする渡瀬だったが、しばらく何か言いたげに口をぱくぱくと動かした後、何を思ったかまた急に俯いて、肩を震わせだした。
まさかとは思いつつも彼女の顔を覗き込むと、目に大粒の涙を浮かべていたもんだから、僕はかなり焦った。
「お、おい渡瀬? 本当に大丈夫か?」
「ち、違うんです! い、嫌とかじゃなくて、その、何と言いますか……」
渡瀬は顔を上げて、涙を拭きながら懸命にそう訴えかける。周囲の視線が、なんだか僕が泣かせているように思われている気がしてきたので、なんとかして宥めようとしたとき、彼女は勢いよく立ちあがり、涙を浮かべたまま僕と如月に深々と頭を下げて、風のごとく去って行ってしまった。
「……」
取り残される僕と如月。
「ああ、待ってよ莉子ちゃん! サインくれよー!」
サインを貰うことが出来ずに悔しがる如月を余所に、僕は状況が理解できずにぽかんと口を開けていた。
※
去年の夏に体験入学したときから思っていたが、この学校は意外と大きい。
一棟から三棟まで分かれていて、一階には一年教室、三階には三年教室が立ち並ぶ。昇降口から入って三つの棟に分かれる手前の通路前には小さな売店があり、数台の自動販売機と、椅子とテーブルが何セットか置かれている。パンや弁当をここで買えるらしいが、多分これから先、僕が利用する機会はあんまりないだろうな、と少し考えた。
「はあ……やっぱりさっきのって、僕のせいなのか?」
そこの隅っこの席に座って、僕は大きなため息を吐いた。目の前に置かれている先ほど買ったカップコーヒーが、肩を落とす僕の顔を映し出している。
「まあまあ、そう落ち込むなってー」
紙パックのいちごミルクをじゅるじゅる飲みながら、前の席に座る如月が無邪気な笑みで言ってくる。いちごミルクなんてあったのか、僕もそっちにすればよかった。大体、僕はコーヒーなど飲んだことはない。ぼーっとしてたらつい押してしまっただけだ。
そもそもお前のせいでもあるんじゃないか? と言いかけて、僕は口を噤んだ。いつも適当なことばかり言ってくるもんだからつい反論しようとしたけど、さっきの渡瀬莉子のことに関してはこいつに非はなかった、と思う。
彼女にぶつかってしまったのは僕だし、最後に言葉をかけたのも僕だ。ということは、僕のせいじゃないか。
「優君って、意外と心配性なところあるよねー」
如月はそう言って、おどけたようにけらけらと笑った。どうもこいつといると、いつも深刻さに欠ける。
心配性……確かに、よく親や教師などからもそう揶揄されていた。その度に僕は、別にそんなんじゃないと否定し続けてきたし、今回のことも、僕が関わって、僕の目の前で女の子が泣き出したわけだから、心配するのは当然のことではないかと思う。
「まあ、そんなに気にすることないって。女の子って、不意打ちで泣き出すようにプログラミングされている生物なんだよ。知ってた?」
「いや、全然知らなかった」
誰がどんな目的で作ったプログラムなんだそれは。それに女の子ってことは、如月にもそういう、不意に泣き出したりする時があるのだろうか。まったく想像し難い。
でも、如月が落ち込んでいる僕を励まそうとしてくれているのは十分に伝わってきたので、僕は素直に頷いておくことにした。まあ相変わらずのいつものノリなんだけど、こういうときにはありがたい。
「で、これ飲んだらもう帰るんだろ? まだなんかやり残したことあるのか?」
「んんー、実に口惜しいが、それしかなかろう。くるしゅうない」
渋い顔でいちごミルクを飲む如月。僕も、手付かずだったコーヒーを一口飲んでみる。究極的に苦くて、すぐに飲み干すのを断念した。
ここへ来たのは、如月が「売店寄って行こうよー!」と言い出したからである。彼女曰く、高校生になったら売店でジュースを買うというのは、全人類の夢らしい。そんなことなら三年間で好きなだけやればいいと思う、という僕の意見は華麗にスルーされ、半ば強制的にここへ連れてこられたわけだ。
入学初日だからか、僕たち以外には誰も座っていない。廊下からこの売店は丸見えなので、下校していく生徒が奇異の眼差しで僕らを見ていった。すごく恥ずかしいのは言うまでもないが、如月と一緒にいると、その辺は諦めがつくのが危険だ。
ぼんやりと思考を巡らせている僕の視界の片隅に、一人の女子が映った。とても背が小さく、制服を着ていなければ小学生にしか見えなかっただろう。後ろ姿だったが、すぐに、自己紹介で尾坂美奈と言っていた少女だとわかった。
彼女は自動販売機の前で立ち止まり、上の方を見上げている。一番下の段が彼女の頭の高さにあるので、最上段は絶対に届かないだろうな、なんて思いながら見ていると、彼女は背伸びをして果敢にも最上段に手を伸ばし始めた。しかし、ぎりぎりのところまでは行くものの、やはり届かないようだ。何度か挑戦していたが、諦めたように肩を落として、怒ったようにこちらを振り返った。
その瞬間、目が合ってしまった。慌てて目を逸らそうとしたのだが、遅すぎたらしい。
彼女はつかつかと僕の方に歩み寄り、いちごミルクを飲みながらきょとんとする如月の横を通り過ぎて、僕の真横に立った。腕を組んで、じっと僕の顔を見る。
「おい、お前。今の見てたか?」
あまりにその声が幼かったもんだから、思わず笑いそうになってしまったが、なぜか真剣な目の尾坂を前にして、そんなことをしたら殺されるぞ、という命令が脳から出され、僕は慌てて顔を強張らせた。確かに、目の前の少女はあからさまに不機嫌そうな表情をしている。
「いや、見てない。何のこと?」
僕は無意識に嘘を吐いていた。なぜだろう、彼女をこれ以上怒らせたらまずい気がする。いやそもそも、何でこいつは怒ってんだよ。
「まあ、んなことはどうでもいい。お前、ちょっと来い」
上から目線でそう命令してくる尾坂。見た目が見た目だけに、小学生に馬鹿にされているようでかなりいらっときたが、急かすようにじろりと僕を睨んでいたので、僕はわけもわからないまま席を立った。如月を見ると、何故か目を輝かせて尾坂を見ている。どうせまたサインを貰う機会でも窺っているのだろう。
尾坂が動き出したのでとりあえず着いていくと、先ほどの自販機の前で立ち止まった。彼女はこちらを振り向くと、僕を一度見上げてから、顎をくいっと自販機の上の方に向ける。何のジェスチャーだろう。
「何してんだ?」
「……お前、わかんねーのか? 相当鈍い奴だな。ったく」
そう毒づいて、彼女は舌打ちをする。ちょっと待て、なぜ会って数秒の奴からそんなこと言われなければならないんだ。大体お前は何がやりたいんだ。変なジェスチャー見せられて、わかんなかったら鈍いって酷くないかおい。
負の感情が頭をぐるぐると渦巻いて、何か文句でも言ってやろうと思った時、先に彼女が口を開いた。
「だから、えっとだな……ボ、ボタン押せっつってんだよ!」
言葉は乱暴だが、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめながらそう叫んで、自販機の最上段右端の飲み物を指差した。
何だ、つまり、あれが飲みたいけど、手が届かないから代わりに押してくださいってことか。まったく、素直に最初からそう言えばいいのに。
そう思いながらその目的の飲み物を見てみると『グングングルト』と書かれていたもんだから、僕はとうとう吹き出してしまった。
「笑ってんじゃねえよこの野郎! いいから早く押しやがれ!」
今にも襲いかからんばかりの剣幕でそう言ってくるので、僕は笑いを堪えながら、『グングングルト』のボタンを押した。それを取り出すと、彼女に手渡す。
「まあ、これって美味しいよな。僕も結構好きだよ」
笑ってしまったお返しとして、とりあえずフォローの言葉をかけておくことにする。尾坂は顔を真っ赤にしてしばらく目を怒らせていたが、何かを思いついたように、ぼそりと一言発した。
「……お前、名前は?」
「ん? ああ、須野優。ついでに言っとくけど、そこにいるのが如月由乃」
「そこ?」
僕は尾坂の後ろを指差す。彼女は振り向いて、すぐ後ろにいた如月の姿に高い悲鳴を上げて、腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
「お、お前、びびらせんじゃねえよ!」
泣きそうな声で如月に指を向ける尾坂。こいつ、口は悪いが、他の部分はとことん小学生らしいんだな。如月はといえば、両手を胸の前で合わせた状態で、うっとりとした表情で尾坂を見つめていた。なんとなくよからぬ予感がするのは僕だけだろうか。
「尾坂美奈ちゃん、だよね?」
「ああ、そうだけど……何だよ? なんか文句あんのかこら」
怯えた子犬のように縮こまる彼女の言葉には、全く威圧感が感じられない。
如月はゆっくりと尾坂に近づいていき、目の前でしゃがみこんだかと思うと、突然彼女に抱きついた。
「可愛い、可愛すぎるー! 反則的だよ、美奈ちゃん!」
「ちょっ、おい離れろこら! 聞いてんのか!」
顔を真っ赤にして叫ぶ尾坂の言葉が聞こえないかのように、如月は自分の頬を彼女に擦りつけている。秋谷の時と似たような状況だけど今回の姉は如月の方かな、とか場違いに考えていると、尾坂が焦ったように僕に顔を向けた。
「おいお前、ぼーっとしてないでこいつを早くどうにかしろ! 何なんだよこいつは!」
悲痛な表情でそう訴えかけてくる。あまりに切羽詰まってたもんだからそろそろ止めさせるかと近づいて、そういえば僕ってこいつの言いなりばっかになってるな、とふと思った。
初対面の、それもどう見ても自分より幼いようにしか見えない女子から命令ばかりされている現実に、今更ながら腹が立ってきたので、僕は尾坂の横にしゃがみこんで、指を一本立てた。
「よし、助けてほしいなら、『お願いします』って言うんだ」
「はあ? てめえ、何ふざけて――」
「それが嫌なら、自力で何とかすることだ。言っとくが、そいつはなかなかしつこいぞ」
多分、今僕の顔は相当な悪人面になっていることだろう。自動販売機ので前でじゃれあう女子二人を見ながらにやりと笑っている男の姿は、傍から見れば通報ものかもしれないが、この生意気な小娘に世の中の厳しさを思い知らせるためだ、仕方ない。
尾坂はそんな僕を無視して、自分の力だけで如月から逃れようとしていたが、ぴったりと身体同士が密着しているためか、まったく身動きが出来ないようである。如月の耳元で叫んでみても、どこか別の世界に旅立ったようにうっとりしている彼女は離れる気配がない。しばらく試行錯誤を繰り返して、最後には目に涙を浮かべて僕を見た。
「なあ、頼むからこいつどうかにかしてくれよ……意味わかんねえよ……」
その声があまりにも切実だったので、僕はなんだかすごい罪悪感を感じて慌てて頷いた。どうやら、僕も如月も少々彼女で遊びすぎたようだ。目の前の幼い少女から、中々離れようとしてくれない如月を無理やり引き剥がし、尾坂の前に座って彼女と視線の高さを合わせる。
「えっと、ごめん。ちょっとやりすぎたみたいだな、こいつも僕も」
「う、うるせえ! こっち見んな!」
ぐずぐずとしゃくりあげる彼女の姿は、どこからどう見ても高校生には見えない。街中でこんな少女がいたら、親切な人は交番に届けてあげたくなるくらいだろう。なんか、罪でも犯してしまったような気分である。
ことの原因である如月を見ると、驚いたことにもう彼女は紙とペンを持って待機していた。行動の早い奴だ、と感心する気持ちが半分、残りの半分は、今じゃなくちゃ駄目なのか? という疑問。
「ところで美奈ちゃん、ちょっといいかい?」
如月の弾んだ声に、尾坂はびくっと肩を震わせる。先ほどまでの威勢が嘘のようだ。トラウマにでもなったんじゃないだろうかと少し心配になる。
そんな尾坂の様子を気にも留めずに、如月はサインセットを突き出した。
「サイン、頂戴!」
すっかり意気消沈している尾坂は、うんざりとしたように如月をしばらく見つめて、何かを悟ったようにそれらを受け取った。目が死んでるとは、今の彼女のような状態を言うのだろうか。
彼女は機械的な手の動きで書き終えると、放り出すようにサインを如月に投げつけてからゆっくりと立ち上がって、最後の力を振り絞るかのように僕らを力強く睨んだ。
何かを口にしようとしていたが、結局言葉にならずに、そのままくるりと背を向けて去って行ってしまった。
「……今のは、お前のせい、だよな」
まったく反省の色が見られない如月に、そう呟く。彼女は今もらったばかりのサインを眺めながら、目を細めている。僕の話も聞いていないようだ。
一つため息を吐いて、まだ残っていたコーヒーを思い出し、一口飲んでみたけど、冷めていてさっきよりも数倍まずかった。
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