生残の秀吉

Dr. CUTE

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駆引

百五十六.進撃の秀吉

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天正十一年四月二十日 戌の刻

木之本きのもと浄信寺じょうしんじはすっかり陽が暮れている。官兵衛かんべえは寺の庭に設けた陣所で秀吉ひでよしを迎えようとするが、じっとしていることができず、たまらず寺のそばの小高い丘に登って秀吉ひでよしの到着をびる。やがて南へ伸びる篝火かがりびの列の中央を上下に揺らぐ松明たいまつが近づいてくる。

「こうして見ると、すごい迫力じゃのぉ・・・。大垣おおがきからここまで十里以上あるというにぃ、取り残された兵はさほどおらんのじゃねぇけぇ・・・。」

官兵衛かんべえ松明たいまつの数から推測される実際の兵の数の多さに圧倒される。しばらくすると馬のひづめの轟音の中から甲高かんだかい声一つが耳に入ってくる。

「待たせたのぉっ、官兵衛かんべえっ・・・。」

間違いなく秀吉ひでよしの声である。

「しぃっ、声がでけぇわぃ・・・。」

敵に気付かれずに不意打ちに向かうことを想定していた官兵衛かんべえだったが、秀吉ひでよしとその周りはそんなことにはお構いなしで、やがて官兵衛かんべえ秀吉ひでよしを静まらせようと考えるのが馬鹿馬鹿ばかばかしくなる。丘の下で達成感の笑顔を秀吉ひでよしが馬を降りると、官兵衛かんべえが近寄り、にぎめしと竹筒を渡す。官兵衛かんべえ呆気あっけに取られながらも、肩で息をする秀吉ひでよしねぎらおうとする。

「何が『待たせたのぉ。』じゃぁ・・・。こんなにはよう戻ってくるとは思わなんだぞぃ。」

息の荒い秀吉ひでよしの表情に、不敵なみが続く。

大返おおがえしぃ、再びじゃぃ・・・。天にも恵まれたしっ、佐吉さきち首尾しゅびよぉ道を整えてくれておったわぃ。」

秀吉ひでよしにぎめしを大口で一気に頬張ほおばり、竹筒の水を飲み干してしまう。

「まさか、また大返おおがえしをやってのけるとはのぉ・・・。まだ皆そろっとらんがぁ、この調子じゃぁ、間も無く一万は支度したくできるじゃろぉ・・・。やれやれぇっ、わしは大返おおがえしは前のでりじゃがのぉ。」

「いやいやっ、ひっ、官兵衛かんべえっ。此度こたびは・・・ひっ、大雨にたたられんかったから・・・、ひっ、前よりはましじゃったぞぃ・・・ひっ。お主の御輿みこしでも・・・、ひっ、はよぉ着けたんじゃねぇかぁ・・・ひっ。」

「何じゃぃ、あわてて飯を飲み込んだせいで、吃逆しゃっくりかえぇ。んあぁっ、まずはあちらの陣所で落ち着かれよっ。」

官兵衛かんべえはやれやれという感じで、吃逆しゃっくりの止まらない秀吉ひでよしを寺まで案内する。他の家臣たちも馬を預けると、寺の周りに次々と倒れ込むように腰を下ろし、百姓ひゃくしょうが持ち込む水とにぎめし頬張ほおばり始める。寺に入り、庭の陣幕をくぐるとそこにはむしろが敷かれており、官兵衛かんべえはそこに秀吉ひでよしを座らせる。官兵衛かんべえ秀吉ひでよし対峙たいじして座すが、その汗まみれの滑稽こっけいな様相とは裏腹うらはらに、秀吉ひでよしの眼がぎらぎらと輝いているのに気付く。

「ひっ、瀬兵衛せひょうえんこつは・・・、ひっ、聞いたぁっ・・・。まさか・・・、ひっ、西から攻めてくるとは・・・、ひっ、わしも油断しちょっ・・・、ひっ、瀬兵衛せひょうえは責められ・・・、ひっ、んがぁ、敵の此度こたびの策は・・・、ひっ、不意討ふいうちするこつに必死になりすぎてぇ・・・、ひっ、結構兵に無理をさせちょるっ。」

「少し、黙って休まれよっ。」

「ひっ、そぉはいか・・・ひっ、でっ、賤ヶ岳しずがたけはどぉなっちょるぅっ・・・、ひっ。」

「ぉおっ、五郎左殿ごろうざどのの援軍が海津かいづから山を登って修理進殿しゅりのしんどのと合流できてのぉっ・・・。まだとりできたえとるわぃ。」

「そぉかぁっ・・・ひっ、官兵衛かんべえっ、絵図を持ってこいっ・・・、ひっ。」

官兵衛かんべえそばにあった絵地図をひろげ、秀吉ひでよしの前に置く。秀吉ひでよしはしばらく絵地図を睨む。官兵衛かんべえがもう一本竹筒を取り出して秀吉ひでよしに渡すと、秀吉ひでよしは今度はゆっくり喉越のどごしを感じながら水を飲む。秀吉ひでよしがげっぷ一つくと、吃逆しゃっくりおさまり、落ち着きを取り戻す。

「ぅううっ、よしっ、もぉ一刻いっこくほどしたらわしら本隊は黒田くろだ観音坂かんのんざかを登り進軍するっ。登りきったとこで兵を二手に分け、一隊は山を降りながら佐久間さくまを襲うっ。もう一隊は峰沿みねぞいにとりでに向かい、五郎左殿ごろうざどのと合流して山上から勝政かつまさを襲うっ。官兵衛かんべえ岩崎山いわさきやまに残っとる敵どもを東から西へ追いやれぃ。」

何度も訊いているはずなのに、官兵衛かんべえ秀吉ひでよしめいが新鮮に聞こえてうれしい。

「承知したっ。小一郎殿こいちろうどのには何と伝えるっ・・・。」

北国街道ほっこくかいどうを北上させ、久太郎きゅうたろうの兵と二手から権六ごんろくを攻めよと伝えよ・・・。んあぁっ、それと神明山しんめいやま隼人正はやとのしょうらにも兵を出す支度したくをしておけと伝えぃ。」

「えっ、神明山しんめいやまの西には又左殿またざどのひかえておるぞぃ。」

「おそらく又左またざは攻めてこん。じゃが又左またざらの動きは見張っとかんといかん。又左またざが攻めてこんと分かったら、一気に全ての兵を出させる心算こころづもりをさせとけっ・・・。」

「何か考えがあるようじゃなぁ。」

「まぁなっ・・・、とにかく今宵こよいが勝負じゃぁ。今敵勢てきぜいは陣形を崩しちょるっ。じゃがほっちょいたら、夜が明ける頃にゃぁ権六ごんろくは陣を立て直してまう。佐久間さくま勝政かつまさ易々やすやす行市山ぎょういちやまに戻しちゃぁならんっ。どっちかでも討ち取りゃぁ、権六ごんろく大痛手おおいたでじゃぁ。」

「よしっ、分かったっ。それまでここで休んでなされっ。」

そう強く云いきかせた官兵衛かんべえ浄信寺じょうしんじを後にする。休む間を惜しむ秀吉ひでよしは再び絵地図をにらす。そして何かに気付いたかのように、はっと立ち上がり陣幕をくぐる。秀吉ひでよし大岩山おおいわやまの方角を見つめる。大岩山おおいわやまの上空は黒煙こくえんで星が見えない。しかし秀吉ひでよしはその方角から盛政もりまさの眼光がこちらに向けられている感覚におちいる。

佐久間さくまはこっちもにらんどるはずじゃぁ。わしらがこっちゃに戻ってきたと分かったら、退却を急ぐじゃろぉっ。じゃが彼奴あやつらも今朝とりでを落としたばかりで、退どきを戸惑うはずっ・・・。素早すばよぉ追い討ちをかけりゃぁ・・・、)

秀吉ひでよしはふと逆方向に振り返り、しばらくして近くの小兵たちを呼びつける。

篝火かがりびをがんがん持ってこいっ・・・、ぎょうさんじゃぁ。そんでゆっくりでえぇからこんあたりへ兵も馬も集めよっ。にぎやかになって、敵に気付かれても構わんっ。」


そうして一刻いっこくも経たないうちに、まだ腰を下ろす兵が多いにもかかわらず、秀吉ひでよしは馬にまたがる。

「皆の者ぉっ、よぉ短い間にここまで辿り着いたぁっ。じゃがまこといくさはこっからじゃぁ。今敵は退却の支度したくをしちょる真っ最中じゃぁ。そんを襲えば疲れちょる御前おまんらでも容易たやすぅ敵の首を取れるわぃ。手柄を立ててぇもんはわしについてこいっ。もうちょい休みてぇもんは無理せんでえぇ。休みたいだけ休んでから来いっ。えぇかぁっ・・・。」

『おぉぉっ。』という怒声が辺りに響き渡り、疲れを忘れた兵たちが続々と立ち上がる。秀吉ひでよしの言葉を訊いて、休み続ける兵は誰一人としていなかった。
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