生残の秀吉

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百二十一.支度の秀吉

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天正十年十二月九日 申の刻

小雨こさめ山崎やまざきを出陣した秀吉ひでよしの軍勢は淀川よどがわ沿いを北上し、琵琶湖岸びわこがん園城寺おんじょうじ坂本さかもとからの秀勝ひでかつ軍の合流を待つ。床板に敷いた地図をにらみながら干飯ほしいかじ秀吉ひでよしは、幾分何かにいらついている風である。そこへ佐吉さきちが入ってくる。

筑前様ちくぜんさまつかわした者が戻ってまいりました。どうやら筑前様ちくぜんさまがご懸念けねんされていたことが起こっているようで・・・。」

「そぉかぁっ、やはりいて山崎やまざきを出たのは正しかったのぉ・・・。」

秀吉ひでよしは左手で佐吉さきちを呼び寄せる。佐吉さきちは地図を挟んで秀吉ひでよしの対面に一旦座すが、秀吉ひでよしは更に大きく左手を振り、秀吉ひでよしそばに座らせる。

佐吉さきちぃっ、これからお主にはわしが他のもんには頼めん仕事をこなしてもらう。大きな声では云えんこつじゃから、其方そなたはわしが何も云わんでもわしの意をって動かにゃならん・・・、えぇかぁっ。」

うなず佐吉さきち秀吉ひでよしの小声が妙にうれしい。

「まだ朝廷の御許おゆるしは出ちょらんが、待ってられなくなってしもうたんで兵を動かした。まぁっ、大方おおかたの参議どもの了解は得ちょるからそれはえぇんじゃが、ここから先はわしらは素早く動かにゃならん。邪魔するもんは皆けにゃならん。これが権六ごんろく一益かずますじゃったら誰ぞに命じりゃえぇが、味方のこつとなるとそぉはいかん。そこんとこよぉ吟味ぎんみせぇよぉ。」

「ばれぬようにということでございますな。心得ております。でっ、如何いかが致しましょうか。どなたかと接触いたしましょうか。」

「いやっ、まだそないなこつはせんでえぇ。今は三七殿さんしちどの御家来衆ごけらいしゅうの切り崩しに専念してぇ。そんよりも三介殿さんすけどの出立しゅったつを二日ほど遅らすよぉ細工さいくいたせぇ。」

「二日でよろしいのですか。」

「あぁっ、そんで十分じゃぁ。とにかくわしらよりも三介殿さんすけどのの方が先に岐阜ぎふの城を囲んでもぉたら、三介殿さんすけどのはやって三七殿さんしちどのの首をねてしまいかねんからのぉ。そんだけは絶対に困るぅっ。」

信雄様のぶかつさま信孝様のぶたかさまが直接対峙たいじして、情に走らせぬようにするということでございますな。ですが信雄様のぶかつさまが先についたとしても、あの岐阜ぎふ山城やまじろがそう簡単に落ちるとは思いませんがぁ・・・。」

「念には念をじゃ。これから三七殿さんしちどのを見限るやからが大勢出てくる。堅強な城とはいえ、案外と簡単に落ちるやもしれん。」

れば美濃みの尾張おわり国境くにざかい信孝様方のぶたかさまがたの軍勢が待ち伏せしているうわさを流しましょう。」

「やり方はお主に任せるぅ。」

佐吉さきちは更に張り切る。

「他にも・・・、北畠具親きたばたけともちか伊勢いせに入り、今は安保直親殿あんぼなおちかどのかくまっておられます。安保殿あんぼどのにはひそかに多気たきの山中に城を構えさせ、ときが来れば伊勢いせを襲うよううながしておきました。」

「うむっ。でぇっ、兵は集まっとるんかぁ。」

「大軍とは申せるかどうかぁ・・・、ただ北畠きたばたけの旧臣たちが盛んに連絡を取り合っているようですので、そこそこにはなると存じますがぁ・・・。」

「うぅぅんっ、不安じゃのぉ。にわかの軍なら、一益かずますじゃったら容易たやすくけてまうぞぃ。あっさりと北畠きたばたけを片付けて、岐阜ぎふの城が落ちる前に北上してもろぉては困るっ・・・。よぉしぃっ、佐吉さきちぃっ、滝川たきがわ一党の眼を多気たきかららすんに、具親ともちか伊賀いがから信包殿のぶかねどの安濃津城あのつじょうを狙っちょると強めのうわさを流せぇっ。一益かずますにはもぉ少し長島ながしま居座いすわってもらうっ。」

かしこまりました。」

佐吉さきちが深く一礼すると、一人の伝令が走り込んでくる。佐吉さきちあわてて秀吉ひでよしとの間を開け、座し直す。

佐和山さわやま小一郎様こいちろうさまより、長浜ながはまの城から煙が上がったとのこと・・・。」

秀吉ひでよしは驚きもせず、大きな声を発する。

「よしっ、皆に伝えよ。秀勝殿ひでかつどのの到着如何いかんに関わらず、明朝出立しゅったつし、すみやかに長浜ながはまの城を囲むっ。支度したくおこたるなと・・・。」

伝令は一礼し、ささと立ち去る。秀吉ひでよしの動揺のなさを佐吉さきちが不思議がる。

「何が起きてるのでしょうか。」

秀吉ひでよしの唇が横にぐいぃっと広がる。

「にひひっ、わしが紀之介きのすけ勝豊かつとよの元へつかわし、城内から煙を立てるよぉ指示したんじゃ。権六ごんろく三七殿さんしちどの間者かんじゃ長浜ながはまを見張らせとるはずじゃ。其奴そやつらが城から煙が登るのを見たら、どぉ思うかのぉ・・・。いくさが始まったと見るかぁ、はたまた家来の誰かが寝返ったと見るかぁ・・・、まぁっ、どっちゃでもえぇわぃ。とにかく勝豊かつとよとわしとのぶつかり合いが始まったとに受けるじゃろぉのぉ。そしたら、間者かんじゃどもはそれぞれの主人あるじにこんこつをしらせに一斉いっせいに走るじゃろぉ・・・。それでえぇ。そしたら権六ごんろくあせるし、三七殿さんしちどのの取り巻きも動揺する。それが狙いじゃ。」

「もう既に勝豊殿かつとよどのは寝返っておられるというのに・・・、というわけですかぁ。」

「わしと勝豊かつとよが通じちょるこつは悟らせちゃならん。あくまで勝豊かつとよはわしにあらがっとると見せかけるぅっ。そんでこっからの動きが味噌みそじゃぁ・・・。明日、わしらの大軍が長浜ながはまを囲む。そしたら勝豊かつとよがさっさと降伏し、城を明け渡す。そんですぐにわしらの先鋒せんぽう岐阜ぎふに攻め入る。そして第二・第三の隊を送り込む。・・・これでわしらの軍勢が強ぉて速よぉてぎょうさんおるっちゅうんを敵に見せつけられる。そぉすりゃあ、三七殿さんしちどの与力よりきどもは三七殿さんしちどのに降参を迫らざるを得んじゃろぉ。」

佐吉さきちは眼を丸くする。

「そこまで筋書きを描かれてるとは・・・。恐れ入りましてございます。」

権六ごんろくは雪で動けん。後は三介殿さんすけどの一益かずますにわしらにとって余計な動きをしてもらわんよう仕向けるこっちゃぁ。そんが此度こたびのおめぇの仕事じゃぁ・・・。佐吉さきちぃ、よぉ覚えとけぇっ。いくさっちゅうんはただ勝てばえぇんとちゃう。『勝ち方』っちゅうんが大事じゃ。じゃから『勝ち方』の筋書きも必要じゃ。筋書き通りにことを運ぶにゃぁ、念には念を押すっちゅうこつを忘れたらいかん。そんがわしらが生き残る秘訣じゃ。」

「先程の信雄様のぶかつさまの足止めの案を我ながら良き案と自負じふしてしまいましたが、成し得なかったときを想定して二の案、三の案を支度したくせなんだわたくしめを恥ずかしゅう存じます。」

生真面目きまじめ佐吉さきちだが、その従順さに秀吉ひでよしうれしくなる。

「まぁっ、そないに自分を責めんでえぇ。これも修学よぉっ・・・。おめぇや紀之介きのすけは頭がえぇ。小一郎こいちろう官兵衛かんべえに比する聡明そうめいさを持っちょる。じゃから其方そなたらにはこれからも期待しちょるっ。ますます働いて、わしやおねを喜ばせてくんろっ。」
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