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駆引
百二十四.窮地の信孝
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天正十年十二月二十日 酉の刻
岐阜城の天守の広間に信孝は、武具をつけたままただ一人で座す。暗がりの中で手前に置かれた父からの脇差を睨みながら、信孝はただただ無念の気に浸っている。
(猿めぇっ、こんなに早く大軍を引き連れてくるとはぁ・・・。)
爪を噛みながら、信孝の怨念の回顧が続く。
(一益も一益じゃぁ。北畠なんぞに拘りおってぇ・・・、共に兵を挙げ、岐阜と長島の要害二つで猿らの軍勢を消耗させ、春になって権六が叩く手筈だったのにぃ・・・。)
今朝の今朝まで信孝の兵たちは秀吉・信雄連合軍に大いに抵抗していたのだが、水の手が絶たれたことが城内に知れ渡ると、たちまち士気は下がり、大半の兵が山を降りてしまった。信孝はやむを得ず降伏し、今秀吉の使いが来るのを待っている。
(こうなれば、奴らはわしの首を刎ねるじゃろぉ。その前に何とか一矢報いられんものかぁ・・・。)
信孝にとっては長く残酷な静けさが続いた。やがて燭台を持った小兵が現れ、秀吉からの使いが来たことを報せる。小兵が広間に二つの燭台を準備しているところへ堀秀政と稲葉良通が現れ、信孝の前に進み出る。信孝の対面に座し、深々と一礼する二人を見下しながら、信孝は悪態をつく。
「裏切り者二人が来よったかぁ・・・。」
良通が噛み付く。
「裏切り者とは何と無礼な云い様でございますかぁっ・・・。わしは最初から殿を御引き渡すよう諌言していたではございませんかぁ。殿に御怪我がなかったから良かったものの、斯様なことをして万一のことがござれば如何なさ・・・。」
秀政が制する。
「よせっ、良通殿っ。もう済んだことじゃ。われらはこれからのことを信孝様にお伝えしに来たのじゃ。今となっての恨み節は無用じゃ。」
秀政の雄才ぶりは、信孝の鼻につく。良通が謝罪の一礼をすると、秀政が報せる。
「此度、信孝様と修理亮様が清洲の評定の決議を反故にされたのを受け、他の執権の方達が新しい織田の体制を決め申し、まもなく朝廷の御許しも出されると思われまする。これより殿には安土に御入りいただき、続いて改めて殿の名代となっていただきます信雄様にも安土に御入り願うところであります。」
信孝が低い声で罵る。
「何が『反故にされた』じゃぁ。先に反故にしたのは猿の方でねぇかぁ。」
良通は再びかっとなるが、秀政が冷静に続ける。
「既に殿にはこの城より御出立していただいておりますが、信孝様の母君と姫君にも安土へ御移りいただきまする。道中、皆様に支障がないよう、わたくしが責任を持って御護りいたしまする。」
「このわしから人質を取るというのかぁ・・・。何と身の程知らずがぁ・・・。」
信孝の歯軋りの音が聞こえてくるが、秀政は動じない。
「さらに信孝様にはこれよりわれらが支度した麓の屋敷に入っていただき、しばらくの間、そこでお暮らしいただきます。屋敷の周りには良通殿の御家来をお付け致しますのでご安心くだされ。また、この城はしばらく西美濃衆に取り仕切っていただきまする。」
秀政と良通が深く一礼する。
「『ご安心くだされ』じゃとぉ、笑わせるなぁ、わしを閉じ込めて巷の笑い者にするつもりじゃろがぃ・・・。然様なみっともないことなぞせんとぉっ、さっさと首を刎ねれば良かろぉっ・・・。」
秀政は姿勢をただし、静かに発する。
「御言葉が過ぎますぞ・・・。」
秀政の冷静な言葉が余計に信孝の怒りを駆り立てる。
「其方らが首を刎ねんというならば、わしがここで腹を切って見せるぅっ。」
信孝が手前の脇差に手をかけると左右から信孝の家臣が一人ずつ槍を持って広間に侵入する。それと同時に秀政らの背後の戸板がばたばたと倒れ、十人ほどの良通の家臣が広間に押し入る。信孝は彼等に驚き、脇差を手にしたまま身体が固まる。ふと気づくと良通が間合いに入るまで信孝に近づいており、右手が刀の鍔を握りかけている。姿勢を保ったままの秀政が信孝を冷徹に叱る。
「清洲の決議は御上におかれましても御認可いただいたもの・・・。これを反故にするは、御上を蔑ろにされたのと同じであり、本来ならば極刑に値しますぞっ。それを筑前様をはじめ執権の方々は信孝様にお情けをかけ、蟄居で事を収めんとされておられるのです。それを不本意とされるは、どちらが身の程知らずであらせられますかぁっ・・・。」
信孝はぐうの音も出ない。信孝は歯軋りを立てたまま、ゆっくりと脇差を床に置く。その刹那、良通が両脇の信孝の家臣を睨んで槍先を下げさせると、良通は脇差をさっと取り上げ、自分の腰に差す。秀政が諌める。
「信孝様っ、ここは御辛抱くださいませ。御辛抱いただければ、この先良き様になることもありましょう。」
信孝は歯軋りを止めるが、秀政を睨み続ける。秀政は負けじと信孝を睨み返し、その視線を変えないまま良通に命ずる。
「良通殿ぉっ、信孝様を御屋敷まで無事に送り届けよっ。」
良通が頷くと、良通と家臣たちは信孝を取り囲む。
「さっ、参りましょう。」
信孝はゆっくりと立ち上がるが、いつの間にかその表情は苦笑の相になっている。信孝と良通らは恐る恐る歩き始めるが、秀政の側まで寄ったところで信孝が立ち止まる。
「良かろうっ、ここはお主の云う通り、辛抱しようではないかぁっ。じゃが天が斯様なことを許し続けることはあるまい。神の子であるわしに下賤の身の者らが逆らう事なぞ、この世にあってはならぬ不義じゃぁ。天はそれを見とるぅっ。お主らにはきっと天が罰を下すことになるわぃっ。それまでじゃぁ。それまで辛抱してやる。じゃが刻が来たら、わしは決してお主らを許さんからなぁっ。」
良通が咳払いで信孝の捨て台詞を止め、改めて広間から立ち退く。秀政が大きな一呼吸を吐いて独り言を呟く。
「薬の付けようもないのぉ・・・。」
岐阜城の天守の広間に信孝は、武具をつけたままただ一人で座す。暗がりの中で手前に置かれた父からの脇差を睨みながら、信孝はただただ無念の気に浸っている。
(猿めぇっ、こんなに早く大軍を引き連れてくるとはぁ・・・。)
爪を噛みながら、信孝の怨念の回顧が続く。
(一益も一益じゃぁ。北畠なんぞに拘りおってぇ・・・、共に兵を挙げ、岐阜と長島の要害二つで猿らの軍勢を消耗させ、春になって権六が叩く手筈だったのにぃ・・・。)
今朝の今朝まで信孝の兵たちは秀吉・信雄連合軍に大いに抵抗していたのだが、水の手が絶たれたことが城内に知れ渡ると、たちまち士気は下がり、大半の兵が山を降りてしまった。信孝はやむを得ず降伏し、今秀吉の使いが来るのを待っている。
(こうなれば、奴らはわしの首を刎ねるじゃろぉ。その前に何とか一矢報いられんものかぁ・・・。)
信孝にとっては長く残酷な静けさが続いた。やがて燭台を持った小兵が現れ、秀吉からの使いが来たことを報せる。小兵が広間に二つの燭台を準備しているところへ堀秀政と稲葉良通が現れ、信孝の前に進み出る。信孝の対面に座し、深々と一礼する二人を見下しながら、信孝は悪態をつく。
「裏切り者二人が来よったかぁ・・・。」
良通が噛み付く。
「裏切り者とは何と無礼な云い様でございますかぁっ・・・。わしは最初から殿を御引き渡すよう諌言していたではございませんかぁ。殿に御怪我がなかったから良かったものの、斯様なことをして万一のことがござれば如何なさ・・・。」
秀政が制する。
「よせっ、良通殿っ。もう済んだことじゃ。われらはこれからのことを信孝様にお伝えしに来たのじゃ。今となっての恨み節は無用じゃ。」
秀政の雄才ぶりは、信孝の鼻につく。良通が謝罪の一礼をすると、秀政が報せる。
「此度、信孝様と修理亮様が清洲の評定の決議を反故にされたのを受け、他の執権の方達が新しい織田の体制を決め申し、まもなく朝廷の御許しも出されると思われまする。これより殿には安土に御入りいただき、続いて改めて殿の名代となっていただきます信雄様にも安土に御入り願うところであります。」
信孝が低い声で罵る。
「何が『反故にされた』じゃぁ。先に反故にしたのは猿の方でねぇかぁ。」
良通は再びかっとなるが、秀政が冷静に続ける。
「既に殿にはこの城より御出立していただいておりますが、信孝様の母君と姫君にも安土へ御移りいただきまする。道中、皆様に支障がないよう、わたくしが責任を持って御護りいたしまする。」
「このわしから人質を取るというのかぁ・・・。何と身の程知らずがぁ・・・。」
信孝の歯軋りの音が聞こえてくるが、秀政は動じない。
「さらに信孝様にはこれよりわれらが支度した麓の屋敷に入っていただき、しばらくの間、そこでお暮らしいただきます。屋敷の周りには良通殿の御家来をお付け致しますのでご安心くだされ。また、この城はしばらく西美濃衆に取り仕切っていただきまする。」
秀政と良通が深く一礼する。
「『ご安心くだされ』じゃとぉ、笑わせるなぁ、わしを閉じ込めて巷の笑い者にするつもりじゃろがぃ・・・。然様なみっともないことなぞせんとぉっ、さっさと首を刎ねれば良かろぉっ・・・。」
秀政は姿勢をただし、静かに発する。
「御言葉が過ぎますぞ・・・。」
秀政の冷静な言葉が余計に信孝の怒りを駆り立てる。
「其方らが首を刎ねんというならば、わしがここで腹を切って見せるぅっ。」
信孝が手前の脇差に手をかけると左右から信孝の家臣が一人ずつ槍を持って広間に侵入する。それと同時に秀政らの背後の戸板がばたばたと倒れ、十人ほどの良通の家臣が広間に押し入る。信孝は彼等に驚き、脇差を手にしたまま身体が固まる。ふと気づくと良通が間合いに入るまで信孝に近づいており、右手が刀の鍔を握りかけている。姿勢を保ったままの秀政が信孝を冷徹に叱る。
「清洲の決議は御上におかれましても御認可いただいたもの・・・。これを反故にするは、御上を蔑ろにされたのと同じであり、本来ならば極刑に値しますぞっ。それを筑前様をはじめ執権の方々は信孝様にお情けをかけ、蟄居で事を収めんとされておられるのです。それを不本意とされるは、どちらが身の程知らずであらせられますかぁっ・・・。」
信孝はぐうの音も出ない。信孝は歯軋りを立てたまま、ゆっくりと脇差を床に置く。その刹那、良通が両脇の信孝の家臣を睨んで槍先を下げさせると、良通は脇差をさっと取り上げ、自分の腰に差す。秀政が諌める。
「信孝様っ、ここは御辛抱くださいませ。御辛抱いただければ、この先良き様になることもありましょう。」
信孝は歯軋りを止めるが、秀政を睨み続ける。秀政は負けじと信孝を睨み返し、その視線を変えないまま良通に命ずる。
「良通殿ぉっ、信孝様を御屋敷まで無事に送り届けよっ。」
良通が頷くと、良通と家臣たちは信孝を取り囲む。
「さっ、参りましょう。」
信孝はゆっくりと立ち上がるが、いつの間にかその表情は苦笑の相になっている。信孝と良通らは恐る恐る歩き始めるが、秀政の側まで寄ったところで信孝が立ち止まる。
「良かろうっ、ここはお主の云う通り、辛抱しようではないかぁっ。じゃが天が斯様なことを許し続けることはあるまい。神の子であるわしに下賤の身の者らが逆らう事なぞ、この世にあってはならぬ不義じゃぁ。天はそれを見とるぅっ。お主らにはきっと天が罰を下すことになるわぃっ。それまでじゃぁ。それまで辛抱してやる。じゃが刻が来たら、わしは決してお主らを許さんからなぁっ。」
良通が咳払いで信孝の捨て台詞を止め、改めて広間から立ち退く。秀政が大きな一呼吸を吐いて独り言を呟く。
「薬の付けようもないのぉ・・・。」
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