生残の秀吉

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百三十一.物見の家康

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家康いえやす清洲きよす御殿ごてんから宿としている東濠沿ひがしほりぞいの屋敷へ戻る前に、にぎわいの落ち着いた城下の街中を見て回った。家康いえやすはこの清洲きよすみやこさかいのようなにぎやかな街を訪れると、何故なぜか気分が高まり、市を徘徊はいかいしたがる。特に決まった好みはなく、野菜でも魚でも工芸品でも普段見られないものがあれば、ついぞその店に立ち止まり、主人あるじを困らせるほどの質問攻めをしてしまう。品への興味というよりか、博識はくしきをさらに深めたい欲求の方が強いようで、店に長居ながいしたわりには、さほどの額の買物はせずに立ち去ってしまう。しかしそれでも店の者たちにとっては、『あの三河みかわの殿様もご愛用の・・・・』と触れて売上をかせぐことができるので、まんざら嫌がってもいない。しかし一方で家臣たちは大変である。さかいから命からがら脱出した本能寺ほんのうじの事件以来、家康いえやすの警護にはかなり苦心している。当然護衛ごえいを少なくするわけにはいかないのだが、かといってたくさんつけたせいで市の品々を眺める家康いえやすの視界をさえぎってしまうと、『もっと頭を使えっ。』と後で主人あるじなじられる。だから家臣たちの護衛ごえいは、家康いえやすの気分に反していつも緊迫している。今日も家康いえやすの気まぐれな動きの裏で、常に脱出用の船までの道を確保するのに心血を注いでいた。

しかし家康いえやすは今日は珍しくも物見は半刻はんこくほどで済ませ、何事もなく屋敷に戻ったので、家臣たちは一息く。そして広間に入った家康いえやす石川数正いしかわかずまさとともに火鉢で暖を取る。

「さてぇっ、そろそろ雄利かつとしは来るかのぉ・・・。」

「まだまだでございましょう。先ほどの様子では、信雄様のぶかつさまへの目通りさえなかなか許されないようでしたからぁ・・・。」

「いやいやっ、さっきの雄利かつとしはかなり深刻じゃった。あの者はこうと決めれば動くのが早い。わしらの前から立ち去るときのあの眼は、まさに必死じゃぁ。わしはあと半刻はんこくしないうちにやってくると思うがのぉ・・・。数正かずまさっ、賭けるかぁ・・・。」

「ではわたくしめは本日の御目通おめどおりはかなわない方に賭けましょう。」

「よしっ、わしが負けたら、其方そなたがさっきうらめしそうに眺めておったあの藍染あいぞめ反物たんものうて、奥方おくがたの着物に仕立ててしんぜよう・・・。」

「なっ、眺めておったなど・・・、わたくしは殿の身を案じて周りに気を張っていたのでございまするっ。然様さようなものを欲しいとは一寸ちっとも考えておりませんっ・・・。」

「隠さんでもえぇっ、どうせ奥方おくがたが恋しくなったんじゃろう。」

「さっ、然様さよう煩悩ぼんのうなぞ・・・。」

「はっはっはっ、まぁえぇ。それでわしが勝ったらどうするぅっ・・・。」

れば今後、殿の物見の折には必ずわたくしめが付き添うことを御誓おちかい申し上げ、その度に殿に揶揄からかわれ、皆に笑われましょうぞっ。」

数正かずまさぁっ・・・、云いよるのぉっ・・・。」

二人は笑うが、そのうち鋼色はがねいろの静寂の中に身が置かれていることに気付く。真面目まじめ面持おももちで数正かずまさが声を小さくして尋ねる。

「それで殿っ、もし御目通おめどおりとなれば、雄利殿かつとしどのの願いをかなえてあげられるのですか。」

「うぅぅむっ、そうじゃのぉ、ここは雄利かつとしに恩を売っておきたいがのぉ・・・。」

「ならば、信雄様のぶかつさまには何と申されるおつもりでぇ・・・。」

「まぁったくぅ、信雄殿のぶかつどのは人が良すぎるぅっ。譜代ふだいの家臣が裏切ったくらいで落ち込むとはぁ・・・。わしなんぞ、もはや裏切られるのに慣れてきたぞっ。」

「とっ、殿ぉっ・・・、然様さよう御考おかんがえあそばれておられたのでぇ・・・。」

「お主は含まれておらんから案ずるな・・・。まぁっ、もう一益かずますは兵を挙げたんじゃ。今更いまさら何を云っても遅い。いくさをやり切るしかないじゃろう。信雄殿のぶかつどのに申し上げることなんぞ、特にあるわけではないんじゃがなぁ・・・。」

「では雄利殿かつとしどのの期待には応えられんということですかな・・・。」

「『戦勝をお祈り致すっ。』で十分じゃぁ・・・。とはいえ、折角せっかくの機会じゃ。今後のことも考えて、何かしら手は打っておこうかのぉ・・・。」

「今後のこととは・・・。」

「今、織田おだは三つの力の集まりじゃぁ。一つは信雄殿のぶかつどの、一つは信孝殿のぶたかどの、そして最後は秀勝殿ひでかつどの。といっても核は筑前ちくぜんじゃがのぉっ。信長殿のぶながどの御存命ごぞんめいの折はこの三つの力が一つであったゆえ、われらはいもあまいも信長殿のぶながどの次第しだいであった。じゃがあの頃を思い出してみよ・・・。織田おだが強すぎると、隣のわしらはそれにおびえて、かえって安寧あんねいとはならん。かといって弱すぎても毎日が戦三昧いくさざんまいになってそれも困る。わしらにとっての織田おだは、今の兄弟喧嘩きょうだいげんかをしている状態が一番えぇんじゃがぁ・・・。」

「われらは織田おだ兄弟喧嘩きょうだいげんかを遠くから眺めているだけでいい、というわけですかぁ。」

「あぁっ、じゃがこの織田おだどもえっ、案外と早くくずれるかもしれん。そのときを見越して今のうちに信雄殿のぶかつどの手懐てなづけとくのが良いかもしれんなぁ・・・。」

「というとぉ・・・。」

信孝殿のぶたかどの修理之亮しゅりのすけ秀勝殿ひでかつどの筑前ちくぜんを討てば、信孝殿のぶたかどのらの次の矛先ほこさき信雄殿のぶかつどのじゃ。そうなったらわしらはすぐさま信雄殿のぶかつどのくみして信孝殿のぶたかどのらと対峙たいじし、織田おだの領を二分にぶんする形へ持っていく。これは分かりやすいっ」

「そうはならないでしょうがぁ、でっ、筑前殿ちくぜんどのが勝つことになれば如何いかがなりましょう。」

「こちらの方が厄介やっかいじゃ。筑前ちくぜん信雄殿のぶかつどのを討つ気などないであろうから、討伐の後は筑前ちくぜんが核となって織田おだを一つにまとめるであろう。つまり、わしらにとっては再び強大な力が出来上がってしまうことになる・・・。うぅぅむっ、それはよろしくないのぉっ・・・。ならば信雄殿のぶかつどの筑前ちくぜんの間をくようにはからねばのぉ・・・。」

「しかし信雄様のぶかつさま筑前殿ちくぜんどの大層たいそう買ってるそうでぇ・・・。然様さよう御二人おふたり仲違なかたがいさせられましょうかぁ・・・。」

「あのお人好ひとよしの信雄殿のぶかつどのじゃぁ。筑前ちくぜんの悪口を並べたところで、再び筑前ちくぜんを眼の前にして甘い言葉をかけられれば、全てころと忘れてしまうじゃろう。そうではなく、何か筑前ちくぜんに不信な動きをうかがわせる事実があればえぇんじゃがなぁ・・・。」

筑前殿ちくぜんどのあくどい動きかぁ・・・。あっ、それならこの城下で、一つ面白い話を耳にしたのですがぁ・・・。」

「面白い話ぃっ・・・。何じゃそれはぁっ・・・。」

一益殿かずますどのがどうやって北畠きたばたけ居場所いばしょを突き止めたのかということでございますがぁ・・・」

数正かずまさが云いかけたとき、板戸が開き、寒風が広間に吹き込む。家康いえやす小姓こしょうが告げる。

只今ただいま滝川雄利様たきがわかつとしさまの使いの者が参られまして、信雄様のぶかつさまが殿と夕食ゆうげを同じくしたいと申されておると・・・、如何いかが致しましょうか。」

家康いえやすはにやと苦笑する。

数正かずまさぁっ、賭けはわしの勝ちじゃぁ。死ぬまでわしの物見に付き合えよぉ・・・。」
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