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駆引
百三十二.教唆の家康
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家康は再び清洲の御殿を訪れ、案内された広間で数正とともに信雄を待つ。座したその前に置かれた膳の上には盃と小鉢一つが粗略に並べられている。数正の声が小さい。
「慌てて支度したのが見え見えですなぁ。今宵は御馳走とはいかないようでぇ・・・。」
「賭けに負けたからといって愚痴を申すなっ。信雄殿に御目見なくして帰りゃなならんところだったんじゃぁ・・・。それにしても玄関からここまで雄利の姿が見当たらんのぉ。夕食に立ち会わんつもりじゃな。相当主人に気を使っとるのぉ・・・。」
そうこうするうちに信雄が現れ、家康と数正は一礼する。
「これはこれは三河殿ぉっ。それに数正殿ぉっ。なかなか目通りできず、申し訳なかったぁ。明日出立と聞いて、このまま遭うことなく帰参させるわけにはいくまいと思い、粗末ながら夕食だけでも整えさせていただいたぁっ。ささっ、お顔を上げて今宵はゆっくりしていってくださいませぇ。」
「もったいない御言葉。忝く存じます。信雄様においては戦の支度にて御忙しいところ、斯様な有難い形で御目通りいただいたこと、心より感謝致す所存にございます。」
「然様な堅苦しい挨拶は抜きじゃ。ささっ、まずは一献っ・・・。」
家康と信雄が最初の盃を交わす。家康には信雄がいささかやつれ気味に見える。信雄は食事など摂る気分ではなく、早々と寝所へ下がりたがっていると家康は洞察する。
(早う話を持ちかけた方が良いなっ。)
「ところで雄利殿は如何されましたか。」
信雄は躊躇いながら、惚け顔の家康に酒を注ぐ。
「雄利は今、蔵の中の物の帳簿を付け直しておる。出陣まであまり刻がないのでな。」
「然様ですか。北畠の残党を一掃してまもなく御帰還され、此度は長島へ御出陣とのことっ。年明け早々にもかかわらず、御忙しいですなぁ。」
「北畠は呆気なかったようじゃ。雄利や叔父上が到着する前にほとんど片はついとったらしい。じゃが此度は一益じゃぁ。彼奴を最後まで信じとったのにぃ・・・。」
「聞くところによると具親の居場所は一益殿から報されたそうでぇ・・・。北畠は信雄様にとっての仇敵。彼奴らの追討は信雄様の念願。それを果たすまでは動かなかったのですから、一益殿の信雄様への忠心は消えてはおらぬのでしょう。」
「わしもそう思いたいが・・・。」
「しかし信雄様っ。もう一益殿は兵を挙げられたのです。一益殿も今更矛を収めることもできますまい。ならば意に反しても、一益殿と思い切り一戦交えるべきです。一益殿も全ての力を使い果たすまで暴れれば、その後は潔く降伏致しますでしょう。律儀な御人です。一益殿の苦しい思いを、戦でもって信雄様が受け止めたら如何でしょうか。」
「分かっておる。ここのところわしもずっと悩んできたが、結局そうするしかないとわしも踏ん切りをつけようとしておったところじゃぁ・・・。三河殿には御心配おかけしましたぁ。土産まで頂いての三河殿の御心遣い、感謝申し上げるぅっ・・・。」
「なになにっ、少しは元気になっていただければ幸いです。ささっ、もう一献っ。」
家康が信雄に酒を注ぎ、信雄が家康に酒を注ぐ。
(さてっ、本題といきますかな。)
「ところで一益殿は流石ですなぁ。年の暮れの伊勢では、北畠が伊賀から信包殿の安濃津の城を襲うという噂が流れておったのに、その噂を嘘の噂だと見抜き、多気の奥に具親の真の居場所があると突き止めたのですからなぁ・・・。」
「然様な噂が流れておったのですか。知り申さなんだぁ・・・。」
「えっ、雄利殿から聞き及んでございませんでしたか。」
「しばらく安土と京に居ったもんでなぁ・・・。」
「然様でしたなぁ。それにしても嘘とはいえその噂っ、実に奇妙ですなぁ。」
「どういうことでぇ・・・。」
「北畠が近場に潜んでおれば、一益殿が動かないことを知っていた者が流した噂であることは間違いございませんでしょうが、ではなぜ『伊賀から安濃津』なのでしょうか。」
「具親が一益の捜索を絞らせないようにしたかったのではないのかぁ。」
「そうでしょうかぁ。よくよく考えると不可解ではありませんか。先ずわたくしが北畠ならそんな奇妙な噂を流すようなことは致しません。下手に斯様な動きをすれば、何だかんだいって敵に気付かれてしまいますからなぁ。砦を築いて戦を成就させたいのなら、危険を犯さず、黙って、隠れて、密かに動くが何よりでございます。それでも一益殿を動きにくくさせたいのならば、『伊賀から安濃津』と道筋を搾らせずに、『伊賀か伊勢の何処かに隠れている』といった漠然とした話を広める方が良いではありませんかぁ。」
「たっ、確かにぃ・・・。」
「ところで北畠は多気の山奥に砦を築いている最中だったと聞いております。ならばこの噂、一益殿を伊勢に留めるだけでなく、一益殿の眼を多気から逸らし、その間に北畠に堅牢な砦を築かさせる狙いがあったのではないかと・・・。噂の主が具親を伊勢に引き入れ、戦支度を助け、今も何処かで敗れた具親を匿っておるとも考えられまするっ。砦の完成は春頃でしたでしょうから、噂の主の目的は『春までは噂でもって、それ以降は北畠の武でもって滝川一益を伊勢に封じる』ことだったのではないでしょうか。しかし砦が出来上がる前に、その目論見を見破ったのですから、一益殿やはり大した将であられまする。」
「ちょっ、ちょっと待てぇっ。それでは今もなお具親と密かに連んでおる者が居るというのかぁ。然様なことぉっ、具親以外の誰が講じるというのだぁ。」
「そうですなぁっ、あの折、一益殿に動いて欲しくなかった者といえばぁ・・・、思い付くのは筑前殿くらいですかのぉ・・・。筑前殿は商人に化けた間者を忍ばせるのが得意だそうですから、斯様な奇妙な噂を流すことなぞ御手のものでしょうなぁ。」
「ちっ、筑前がわが仇敵、北畠と誼を通じておるというのかぁ。」
「あくまでわたくしの邪推でございまする。ただ筑前殿には長らくお会いしておりませんが、わたくしが知る昔の筑前殿ならやりかねないなぁと思いましてぇ・・・。」
「みっ、三河殿。そっ、其方の推理は大いに間違っておるっ。筑前は信用たる将じゃぁ・・・。織田の忠臣のお手本じゃぁ・・・。北畠がわしの憎き仇と知りながら、黙って裏で連むような謀をするはずがないっ・・・。やはり噂は具親が流したに違いないっ。」
慌てた風で否定する信雄を見て、家康も数正も心中でにやつく。
「失礼仕りました。信雄様がそう仰るのなら、今のはわたくしの考えすぎでありましょう。酒の席です。どうか、お許しくだされ・・・。」
(よしっ、今後、信雄殿はますます筑前への疑いを深めていくじゃろうっ。)
「慌てて支度したのが見え見えですなぁ。今宵は御馳走とはいかないようでぇ・・・。」
「賭けに負けたからといって愚痴を申すなっ。信雄殿に御目見なくして帰りゃなならんところだったんじゃぁ・・・。それにしても玄関からここまで雄利の姿が見当たらんのぉ。夕食に立ち会わんつもりじゃな。相当主人に気を使っとるのぉ・・・。」
そうこうするうちに信雄が現れ、家康と数正は一礼する。
「これはこれは三河殿ぉっ。それに数正殿ぉっ。なかなか目通りできず、申し訳なかったぁ。明日出立と聞いて、このまま遭うことなく帰参させるわけにはいくまいと思い、粗末ながら夕食だけでも整えさせていただいたぁっ。ささっ、お顔を上げて今宵はゆっくりしていってくださいませぇ。」
「もったいない御言葉。忝く存じます。信雄様においては戦の支度にて御忙しいところ、斯様な有難い形で御目通りいただいたこと、心より感謝致す所存にございます。」
「然様な堅苦しい挨拶は抜きじゃ。ささっ、まずは一献っ・・・。」
家康と信雄が最初の盃を交わす。家康には信雄がいささかやつれ気味に見える。信雄は食事など摂る気分ではなく、早々と寝所へ下がりたがっていると家康は洞察する。
(早う話を持ちかけた方が良いなっ。)
「ところで雄利殿は如何されましたか。」
信雄は躊躇いながら、惚け顔の家康に酒を注ぐ。
「雄利は今、蔵の中の物の帳簿を付け直しておる。出陣まであまり刻がないのでな。」
「然様ですか。北畠の残党を一掃してまもなく御帰還され、此度は長島へ御出陣とのことっ。年明け早々にもかかわらず、御忙しいですなぁ。」
「北畠は呆気なかったようじゃ。雄利や叔父上が到着する前にほとんど片はついとったらしい。じゃが此度は一益じゃぁ。彼奴を最後まで信じとったのにぃ・・・。」
「聞くところによると具親の居場所は一益殿から報されたそうでぇ・・・。北畠は信雄様にとっての仇敵。彼奴らの追討は信雄様の念願。それを果たすまでは動かなかったのですから、一益殿の信雄様への忠心は消えてはおらぬのでしょう。」
「わしもそう思いたいが・・・。」
「しかし信雄様っ。もう一益殿は兵を挙げられたのです。一益殿も今更矛を収めることもできますまい。ならば意に反しても、一益殿と思い切り一戦交えるべきです。一益殿も全ての力を使い果たすまで暴れれば、その後は潔く降伏致しますでしょう。律儀な御人です。一益殿の苦しい思いを、戦でもって信雄様が受け止めたら如何でしょうか。」
「分かっておる。ここのところわしもずっと悩んできたが、結局そうするしかないとわしも踏ん切りをつけようとしておったところじゃぁ・・・。三河殿には御心配おかけしましたぁ。土産まで頂いての三河殿の御心遣い、感謝申し上げるぅっ・・・。」
「なになにっ、少しは元気になっていただければ幸いです。ささっ、もう一献っ。」
家康が信雄に酒を注ぎ、信雄が家康に酒を注ぐ。
(さてっ、本題といきますかな。)
「ところで一益殿は流石ですなぁ。年の暮れの伊勢では、北畠が伊賀から信包殿の安濃津の城を襲うという噂が流れておったのに、その噂を嘘の噂だと見抜き、多気の奥に具親の真の居場所があると突き止めたのですからなぁ・・・。」
「然様な噂が流れておったのですか。知り申さなんだぁ・・・。」
「えっ、雄利殿から聞き及んでございませんでしたか。」
「しばらく安土と京に居ったもんでなぁ・・・。」
「然様でしたなぁ。それにしても嘘とはいえその噂っ、実に奇妙ですなぁ。」
「どういうことでぇ・・・。」
「北畠が近場に潜んでおれば、一益殿が動かないことを知っていた者が流した噂であることは間違いございませんでしょうが、ではなぜ『伊賀から安濃津』なのでしょうか。」
「具親が一益の捜索を絞らせないようにしたかったのではないのかぁ。」
「そうでしょうかぁ。よくよく考えると不可解ではありませんか。先ずわたくしが北畠ならそんな奇妙な噂を流すようなことは致しません。下手に斯様な動きをすれば、何だかんだいって敵に気付かれてしまいますからなぁ。砦を築いて戦を成就させたいのなら、危険を犯さず、黙って、隠れて、密かに動くが何よりでございます。それでも一益殿を動きにくくさせたいのならば、『伊賀から安濃津』と道筋を搾らせずに、『伊賀か伊勢の何処かに隠れている』といった漠然とした話を広める方が良いではありませんかぁ。」
「たっ、確かにぃ・・・。」
「ところで北畠は多気の山奥に砦を築いている最中だったと聞いております。ならばこの噂、一益殿を伊勢に留めるだけでなく、一益殿の眼を多気から逸らし、その間に北畠に堅牢な砦を築かさせる狙いがあったのではないかと・・・。噂の主が具親を伊勢に引き入れ、戦支度を助け、今も何処かで敗れた具親を匿っておるとも考えられまするっ。砦の完成は春頃でしたでしょうから、噂の主の目的は『春までは噂でもって、それ以降は北畠の武でもって滝川一益を伊勢に封じる』ことだったのではないでしょうか。しかし砦が出来上がる前に、その目論見を見破ったのですから、一益殿やはり大した将であられまする。」
「ちょっ、ちょっと待てぇっ。それでは今もなお具親と密かに連んでおる者が居るというのかぁ。然様なことぉっ、具親以外の誰が講じるというのだぁ。」
「そうですなぁっ、あの折、一益殿に動いて欲しくなかった者といえばぁ・・・、思い付くのは筑前殿くらいですかのぉ・・・。筑前殿は商人に化けた間者を忍ばせるのが得意だそうですから、斯様な奇妙な噂を流すことなぞ御手のものでしょうなぁ。」
「ちっ、筑前がわが仇敵、北畠と誼を通じておるというのかぁ。」
「あくまでわたくしの邪推でございまする。ただ筑前殿には長らくお会いしておりませんが、わたくしが知る昔の筑前殿ならやりかねないなぁと思いましてぇ・・・。」
「みっ、三河殿。そっ、其方の推理は大いに間違っておるっ。筑前は信用たる将じゃぁ・・・。織田の忠臣のお手本じゃぁ・・・。北畠がわしの憎き仇と知りながら、黙って裏で連むような謀をするはずがないっ・・・。やはり噂は具親が流したに違いないっ。」
慌てた風で否定する信雄を見て、家康も数正も心中でにやつく。
「失礼仕りました。信雄様がそう仰るのなら、今のはわたくしの考えすぎでありましょう。酒の席です。どうか、お許しくだされ・・・。」
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